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みがきにしん
2023-08-30 23:43:49
9243文字
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アラン君のお話
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隣人の子
自機の出自と、捨てられた理由について。
※直接的ではありませんが強姦表現と胸糞表現が多数出てきます。
――
妻が行方不明になった。
いつものように薬草を摘みに行くと言って出かけ、もう三日帰らない。皆に聞けば、他にも帰らない者が複数人いるらしい。きっとグリダニアの山狩りにあったのだと言うのが同胞達の見立てで、私もそれに反論は無かった。彼女や他の者が拐かされたと思われる場所には例に漏れず多数の足跡があったからだ。
グリダニアの者たちは、たまにこうして同胞を狩ってゆく。まるで肉にする獣のように追い立て捕らえるのだ。シェーダーは盗人だ、精霊様に逆らっている! そう奴らは叫ぶ。積み重ねてきた歴史も己の行為の意味も分からないというのに、誇りを忘れた人間は、他者を悪辣だと決めつけることばかり上手かった。
未だ地下に住む同胞達はみな怒りに燃えた。私もそうだ。夜が来る度に武器を取り、フォレスターどもが灯す松明を目印にして、通りがかろうとする者を捕らえ、駐屯所を襲い情報を求めた。捕らえた者どもの言い分によれば、数人は捕らえて鬼哭隊が預かっているらしい。だがいくつかの駐屯所を襲撃しても、他の者はともかく、妻は居なかった。
繰り返していれば、邪魔する鬼哭隊の巡回も多くなる。一か月経ち、二か月が経ち、襲撃で怪我をする同胞たちも増えた。腰が引ける者も多くなり、その頃には捜索を続けているのは私だけになった。それでも夜陰にまぎれ妻を探し続けたが、行方は杳として知れなかった。
一人きりで探し続けて数か月が経った頃のこと、突然妻が帰ってきた。泥にまみれ、いくつも擦り傷や切り傷を負い、身体を引きずるようにしながらも
――
膨らんだ腹を抱えて。
妻は、一見以前の彼女とは分からないほどに憔悴し痩せ細っていた。看病する中、ぽつりぽつりと語ってくれたところによれば、グリダニアの名士だと名乗る男が彼女を気に入り、無理矢理屋敷に連れ込んだのだという。屋敷の地下に閉じ込めて、何度も何度も無理矢理行為を迫り、孕んだとみるや街の外にうち捨てたのだ、と。
『ごめんなさい』貞操を守れなかったと彼女は泣いた。『君は何も悪くない』と私は答えた。だが、妻の手を握る手は震え、声はひどく怒りを含んでいただろう。彼女は青ざめ、譫言のように謝罪を繰り返すばかり。私はともすれば叫びだしそうになるのを堪えるのに必死で、彼女を抱きしめてやることもできなかった。行き場のない激情に任せて握りしめた掌には、いつの間にか爪が食い込んで血が滲んでいた。
彼女の身体は徐々に良くなっていったが、心ここにあらずといった様子は変わらなかった。時折ベッドの上で声もなく涙を零す。毎日を暮らしていても、ふとした瞬間過呼吸になり、そのまま倒れてしまうこともあった。けれどそんな彼女を余所に腹の中の子どもは育っていく。最早堕ろすにも遅かった。
彼女が帰ってきた時、腹はすでにかなり大きかった。強い毒薬を使えば流すことができたかもしれないが、弱った彼女の心身はそれに耐えられるとは思えなかった。
何より、私自身怖かったのだ。妻を失うことが。腹の中に憎い男の欠片がいるとして、それを殺すために彼女が犠牲になったとしたら。想像するだけで心が折れた。到底耐えられそうになかった。
看病の傍ら、せめてとその名士だという男を探し回ったが、当然そんな男は森に一人で出てくるわけもない。変装して都市に入っても、名士街に入ることは難しかった。その区画は常に厳しく監視され、中にいる者の手引きでもなければ入れないことが分かるばかりだった。
看病も復讐も、己の無力さを突きつけられるような日々。私が迷いに沈んでいても、妻の腹は日に日に大きくなっていき、手を当てれば腹を蹴る振動を感じることができる。私はこれをどうすればよいのか。あるいはどうしたいのだろうかと時折自問する。
妻に罪がないように、これにも罪はないのだろうか? これは、妻を傷つけた憎い男の一部が形になったものだというのに。私の血脈は一滴すらも継いでいないのに。そう考えれば、流すことを諦めたというのに、まだ私は腹の中のそれを受け入れきれなかった。
迷い惑うばかりの私に、ある日妻は言った。
「もう決めたの」
彼女は目を揺らしながらもそっと腹を撫でる。その様子を見るだけで分かる。彼女は、己を傷つけた男の子どもだったとしても、自分自身で育てるつもりなのだ。
「ごめんなさい。でもやっぱり私、この子を捨てたり、誰かに託したりできないわ」
どうか許してね、と苦しそうに笑う妻は、以前の彼女よりずっと細く脆く、今にも壊れてしまいそうなほどなのに、その視線ばかりは強く私を射貫いていた。
それを見て、私もまた覚悟を決めた。この子を私の子として育てよう。誇りある古くからの暮らしを守っていけるような、立派な同胞になるまで。
種々の心配の中ではあったが、お産に大きな問題は起こらなかった。体重が戻りきらない妻の身体はそれでもどうにか耐え抜いてくれ、代わりに産後しばらく臥せった。代わりのように、生まれた子どもは大きくも小さくもなくすぐに元気に鳴き、五体満足で健康だった。
終わってみれば問題は少ない方だったように思う。赤ん坊の肌の色が、どう見てもフォレスター族であること以外は、だが。
かつての暮らしを捨て日の光のもとで生きる奴らの肌は、生まれついて暖色の肌をしている。妻を拐かした男もまた、少し日に焼けてオレンジがかった肌色の若い男だったという。
「やっぱり、まだ早いと思うわ」
「いいや、これは必ず必要になる。早ければ早いほうがいいんだ」
子どもは三歳になった。大病もせず元気に育っている。今朝はムントゥイ豆入りの粥が食べたくないと駄々をこね、妻を困らせた。昨夜は私の語る昔話をせがみ、一緒に横になるまで寝なかった。
愛おしい、と心から思う。その思いの底では、妻を傷つけた男のことがじわりと滲むが、それでもその子は私と妻の大切な子だ。妻もこの子を産んでから苦しむことが少なくなった。日々平和に暮らせていると心から思う。
だからこそ、この子の容姿については早めに対策をしなければと思っていた。大きくなればこの子もいつか私たちの元を離れ、一人のシェーダー族として生きていく。だが、フォレスター族に近い容姿を持っていれば、どうやっても後ろ指を指されることは明らかだった。
焦っていた。今も私たちのように、地下生活をしている同胞は徐々に少なくなってきており、みなほぼ顔なじみだった。この子もまた同じ暮らしをするのならば、まず確実に陰口に悩まされるだろう。
その未来は避けねばならない。この子は私たちの子どもなのだ。だから、それを示すものを普通よりもずっと早めにこの子に贈ろうと決めた。誇り高きシェーダー族の末と、誰にでも分かるように。
けれど妻は最後まで迷っていた。眠る子のベッドの前で、私は妻を抱きしめる。
「薬で眠らせているから、針を刺しても起きたりはしないよ」
「でも
……
」
「時間が経てば、薬の効果は薄れる。そうすれば苦しむのはこの子だ。手早くやろう」
「ええ、そうね
……
」
妻は震える手で私たちの子の頬を撫でた。シェーダー族らしからぬ、血の色を透かす肌。そんな肌でも目立つように染料は赤を選んだ。できあがればきっと、遠目からでもよく分かる。
眠る幼子の顔に一刺し一刺し、妻と染料を入れた。薬で意識のない子どもの身体は、それでも差し込まれる異物を拒むように時折跳ねて脂汗が滲んでいた。
本来であれば成人かそれ近くになった者が、一族の成員となった証として親から受ける儀式だ。意識がないとはいえ、そしてこのあとしばらくは酷く痛むだろうと思いながらも、止めるわけにはいかなかった。
何をしたところで、人の口に戸は立てられない。幼い今は私と妻で守ってやれるだろうが、遠からずこの子は他のシェーダー族と生きていくことになる。妻が行方不明になったことはかなり多くの同胞に知られている。そしてこの子を一見すれば、私に似ていないことも分かるのだ。きっと将来、苦しい目に会うだろう。
そういった好奇の目線から全てを守ることはできずとも、私たちがこの入れ墨を施したことは、少しばかりこの子を守ってくれると信じたい。入れ墨は、その人物が立派な同胞の一員だと示すもの。あればきっと口さがない噂や扱いは減るだろう。そう祈るしかない。
数時間を掛けて、入れ墨は幼子の顔の半ばを覆うように広がった。針を入れた顔の右側は赤く痛々しく腫れ、しかしそれよりも入れた染料は赤々としている。これならば大きくなっても、同胞だとはっきり分かる。
「ごめんね
……
」
妻が顔をくしゃくしゃにして眠る子どもを撫でた。薬はもう少しで切れる。そうすれば痛みでこの子は起きるだろう。火が付いたように泣くだろう。
それでもこれが、未来のお前を救ってくれると信じている。私は妻に寄り添い、その手を強く握った。それ以外できることは、なかった。
妻が居なくなった日から、時折私の心には影がよぎる。
これは我々を恨む精霊の呪いなのかと。地を守る神ノフィカは、どうして私たち夫婦にこのような試練をお与えになったのかと。先祖の暮らしを守り誇り高く生きることが、あるいは過ちなのだろうか、と。
入れ墨が定着した頃、私は再び問いたくなった。やはりこの子は許されないのか、と。
昼前まで元気に跳ね回っていた子どもが、夜になって急に高い熱を出した。触らないようにと注意していたコウモリの糞に触れたからだ。
だが、チゴーで毒気を吸い出しても、魔土器で生命力を強化しても、一向に熱が下がる気配はない。それどころかどんどん熱は上がり、意識もほとんどない。
だがそもそも、コウモリや地下に住む動物の運ぶ病は、シェーダー族にはあまり脅威にならない。これらの病に掛かるのは余所者だけ。
やはり、という思いがよぎるのを止められなかった。私と妻がいくら心を砕いたとしても、この子どもは憎き男の血を引いている。本当のシェーダー族と言えない
――
。
熱を下げる薬湯を妻と交代で夜通し作っては飲ませた。その合間を縫って、魔土器をいくつも消費して癒やしの魔法をかけた。
だが私たち夫婦の奮闘もむなしく、子どもの熱は高いまま数日続いた。妻は夜ごと泣きながら十二神に祈っている。どうかあの子を奪わないで、と。
一方私は、ただ無心で看護を続けながら『奪うなら早く奪ってくれ』と思っていた。こんなことを思ってはならない。そう分かっていても、もう疲れ果てていたのだ。あの日から、まるで醒めない悪夢の中にいるようだ。妻が居なくなった日から続く、闘争と看病と祈り。怒りと絶望、つかの間の平穏の後、大きな落胆が繰り返し襲ってくる。
この子どもの命を持って行くならば、さっさと持って行ってくれ。私はもう妻と二人、平穏に暮らしていければいい。その平穏が来るならばこんな子どもなんて。いや、違う、そんなことを思ってはいけない。この子は、私の、私たちの
……
。
千々に乱れる私の心とは裏腹に、普通なら罹らない病は、それでもゆっくりと数日をかけ、子どもの身体から退いていった。
「
……
かあさま?」
意識が戻ったといえど、僅かに熱の残った身体は未だ紅潮したままだ。弱々しく妻を呼ぶ子に、彼女は泣きじゃくりながら縋り付く。
――
妻には、どうあっても腹を痛めて産んだ子だ。
――
では、私には?
私も心の底から安堵しながら、今も薄暗く腹の底に蟠る思いに、そっと蓋をした。
「とうさま、ここで遊んでてもいい?」
「ああ、いいよ」
最近子どもは、あまりやんちゃをしなくなった。洞窟内でめいっぱい跳ね回っていたのが嘘のようだ。何をするにも、どこにいくにも慎重で、知らない場所には行かないようにしているし、遊ぶにしても私か、妻の傍でないと不安そうだった。そもそも遊びまわる中で怪我することの多い子ではあったが、幼くとも病気はずいぶん手痛い思い出になったのかもしれなかった。
看病のため、かなり消費してしまった魔土器を作る作業の傍らで、子どもは失敗した土器の欠片をいくつも積み上げて遊んでいる。だが、形も重さもまばらな土器片だ。高く積み上げようとしても時折転がり落ちて、からんからんと洞窟に高い音を響かせている。
「少し音が大きいよ。大きいものは使わないで欲しいな」
「
……
?」
子どもは首を傾げ、言ったそばからまた大きい土器片を積み上げている。ぐらりと傾いだその山が、半ばあたりからまとめて崩れた。
がらがらと欠片の崩れて割れる酷い音が辺り一面に響き渡り、洞窟内に反響する。わんわんと響くそれに思わず首をすくめる。子どもも驚いたのか目をまん丸にし、ややして泣き出した。
私は深い溜息を吐く。だから言ったのに。呆れと苛立ちを深呼吸でどうにか押さえ込んで、子どもを抱き上げ、その背をやさしく叩く。
「言っただろう、大きな音が出るよと」
未だ大きな声で泣いている子に伝わったかは分からないが、子どもはぶんぶんと首を振り、何かを喋ろうとしたようだった。しかし、それはしゃくり上げたと同時に発せられたので、全く聞き取れない。よく分からないままひとまず、うん、うんと頷きつつ、あやした。
背を叩く手が疲れる頃、漸く子どもは泣き止んで、泣き疲れたのかそのまま眠ってしまった。ああ、まだ耳がキンキンする。
洞窟内の僅かな反響音も聞き取れるようにできている耳からすれば余計に辛く、目尻を赤くしたまま眠る子どもを抱いたまま、もう一度深い溜息を吐いた。
――
後から考えてみれば、あれは兆候だったのだ。気付いたところできっと、どうしようもなかったけれど。
ある日のことだ。妻の発案で、病気が癒えたお祝いをすることになった。
妻は私の心が僅かずつ子どもから離れているのを察しているようで、この頃は率先して世話を引き受け、くるくるとよく働いていた。けれど私は、その彼女の行動さえも子ども由来であると思えば疎ましく、その気持ちが暴れないようにしておくのに必死だった。
子ども自身も私の様子がおかしいのを分かっているのか、あまり近づかない。時折以前のようにじゃれついては、短時間でぱっと離れていく。
理性では分かっているのだ。この子が私の血を引いていないとしても、妻の子には違いないことを。まして子ども自身には一切の非はない。肌の色が私と妻に似ていないことも、病気に罹ったことも、この子が悪いわけではない。ただ、純粋なシェーダー族ではないというだけだ。
けれど心の底では、ではどうすれば良かったのかと叫ぶ私がいる。この子は私の、私たちの子だと理性が言い聞かせる度、憔悴しきった身重の妻を思い出す。子どもの肌を炙るように覆う入れ墨を見る度、これほどしてもなおシェーダーらしからぬ容姿に、時に頭を抱えたくなり、時に幼い子どもの胸ぐらを掴み上げて放り投げたい気持ちになる。これらの気持ちはかねてよりあったが、最近は行動に移さないようにするのが精一杯になっていた。
情はある。愛しくもある。可愛らしく思う。その気持ちを支えに数年暮らしてきた。だが共に暮らすほどに、やはりこの子どもは私の子ではないのだと突きつけられることばかり。だがどうしたらいいのか己自身ですら分からず、喚きたいような感情は毎日膨らむ。
小さな明かりを持つ妻の後を子どもはぽてぽてと覚束ない足取りで、洞窟の中を歩いて行っていた。その足がかつんと小石を蹴飛ばし、暗闇の中に音を反響させる。ただついて行くのがつまらないのか、その足はしばしば小石を蹴とばし、そのたび賑やかな音を立てた。このあたりの遺跡にしか生えないキノコが生えているのはまだしばらく先だ。
私も子も好きなそれを、妻はお祝いの席にと望んだ。どうにかして私と子の溝を埋めたいのだろう。そんな妻の気持ちがいじらしく、また少しばかり憎かった。好きなものが同じだからと言って、血のつながりの証明にはならない。
ふと気付くと、妻が乗り越えた岩に子どもが足を引っ掛けていた。ぐらりと傾ぐ身体に慌てて手を伸ばそうとしたが、それより体勢が崩れる方が早かった。
どしん、ごん、がりがり
…
岩から子どもの身体が滑り落ちる。その大きな音に驚いたネズミが数匹、キイキイと文句の声を上げながら去っていった。
子どもは膝から転んだために頭は打たなかったようだ。だが膝は岩を滑り落ちながら強く擦ったらしく、小さなそこは大きく破れて真っ赤な血が滲んでいる。子どもはしばし呆然とその傷を眺め、ややしてぽろぽろと涙を零した。
「大丈夫? ああ、これは痛いね
……
お父さんがすぐ治してくれるからね、我慢ね」
妻は傷に触れないように子どもを抱き上げ、痛がる子の頭や背中を撫でてあやす。子どもは泣きながらも、すがるような目を向けてきた。私は背嚢から癒しの効果を持つ魔土器を取り出し、治療を始めようとしてふと思う。
なぜこの子は、こんな大きな岩に引っかかったのだろう? 妻は普通に乗り越えていたから、その音を聞いていれば位置も大きさも分かったはずだというのに。
「
……
どうして岩から落ちたんだ?」
もしや実はまだ体調が悪いのか。それなら出かけるべきではなかったか。魔法を展開しながら、面倒だと思う気持ちが頭をもたげる。
じわじわと治ってゆく怪我に、子どもがしゃくりあげながら謝罪の言葉らしきものをこぼす。その目からは今も涙の粒が滴り落ちていたが、哀れだという感情さえ湧いてこなかった。
「謝らなくてもいい。岩から落ちた理由を聞いている」
「あなた、そんな言い方をしなくても」
妻がとがめる声を上げ、子どもが怖がって首をすくめる。
「だって、だって、よくみえなかったんだもん」
確かにあの時、明かりは先を行く妻が持っていたから、岩の全容は見える状態になかった。だが、そんなことで困りはしない。私たちには素晴らしい聴力がある。反響音でどこに何があるかなど、手に取るように分かる。まして先ほどは、妻が先に乗り越えた音が岩の存在を教えていたはずなのだ。
「岩が? 何も見えていなくとも分かるだろう」
「わか、んない」
ぞわりと寒気がした。はっきりとした予感だった。この話は聞いてはいけない。けれど子どもは小さな声で続ける。
「とうさまは、なんでわかるの
……
?」
役割を終えた土器片が滑り落ちた。こおんと高い音を立て、地面にそれが跳ね返り、洞窟内に反響する。その音は私の数歩先に岩があり、その端がわずかに角ばっていることも、向かって左に大きな凹みがあることも伝えてきた。
なぜ分かるのか。シェーダー族の耳は、明かりの乏しい地下で暮らすためのものだからだ。蝙蝠のように僅かな反響音を拾い、生まれついて視覚に頼らずとも困らぬよう、先祖がすばらしい耳を賜ったからだ。
「なぜ、分からないんだ?」
知らず掴みかかるようにして、私は子どもの前に立っていた。妻は呆然と口を開け、けれども子をしっかりと抱きしめている。
「聞こえないのか? お前には」
震える手で予備の魔土器を取り出して地面に叩きつける。ひどい反響音に妻がぎゅっと目をつぶる。大きな音はそれだけ量のある情報をこちらに伝えてくる。この洞窟がずっと先まで続いていることも、どこに分かれ道があるのかも。
子どもはひくりと喉を動かし、顔をそむける。
「何も分からないのか? お前には」
そむけた顔を掴んだ。子どもはぶるぶると震え、一度は止まりかかった涙がまた盛り上がってきていた。
「なに、が? こわいよ、とうさま」
妻が力尽きるように膝を折った。それでも子どもを庇うように強く胸に抱き込み、首を何度も振った。
「やめて! あなた、やめてぇ
……
!」
「うるさい! お前も分かっているんだろう!」
聞こえるはずのものが聞こえていない。分かるはずのものが分からない。ああ、この子どもには、ないのだ。私たちシェーダーだけが持つ、素晴らしい耳が。
――
まるで、太陽の下で暮らすフォレスター共のように。
私は子どもの腕を掴み、引きずるようにして移動していた。妻は縋りついて泣いている。だが、怒りとも絶望ともつかない衝動は、抵抗する人間をまとめて二人運ぶのにあまりあった。
「
……
やはり私たちはもっと早くこうするべきだった!」
「違う、こんなことは何かの間違いよ
……
ねえ、お願い
……
」
荒げる声に、力ない涙声で妻が否定する。子どもは泣きわめき、必死に手から逃れようとしていた。その姿にさえ怒りを覚える。
ここまで育ててやったのだ。入れ墨も入れてやり、心を砕き、看病をし、将来を心配していた。だが、やはりこれはあの男の欠片でしかなかった。肌色も聴力も、この子どもはシェーダーのそれではない。血にはべったりと濃いフォレスター共の性質が現れている。
「何が間違いだというんだ! この子ども自身がはっきり言っただろう、聞こえないと! だいたい、聞こえないままでこれからどうやって暮らすというんだ、この土地で!」
「わた、私が守ります、ずっと!」
引きずられながらも妻が悲鳴を上げた。母となった彼女は必死に空を掻いて子どもに触れようとしている。そんな妻の頬を、私は強く張った。
「いつまでだ?」
妻は身も世もなく泣いていた。そんなことはできないと妻も分かっている。それでも彼女の中の愛情が、血を分けた子という楔が、諦めを許していなかった。
「それとも、侮蔑を受けながら都市に移り住むか?」
私は妻を振り払い「いやだ」と泣きわめく子どもを、ずた袋のように引きずった。背後から、ひいぃ
…
と涙にくれる妻の声が追いかけてくるが、後ろは振り向かなかった。
思えば最初からこうすべきだった。生まれてすぐ都市にでも置いてくるべきだった。
本当はずっと分かっていた。この子は私の子どもではない。あの忌まわしい出来事で宿ったものなのだ。
だから幾夜を過ごし共に眠ろうが、一緒に食卓を囲もうが、いくら心を寄せようが、この子どもは地下で生きられる姿形はしていない。
――
この子どもは、フォレスターの子なのだ。
洞窟の出口。黒衣森へと続く道を上り、疲れ切って小さく泣くだけになった子どもを、私は渾身の力で放り出した。どさり、小さな身体が物のように投げ出される音が聞こえ、胸が張り裂けそうになる。けれどもそれを堪えて魔土器を取り出し、地下へと続く道を閉じた。
術式を終わらせて、暗い洞窟の中、ずるずると座り込んだ。もう聞こえるのは私自身の荒い息遣いと、頬を伝った滴がぼたぼたと落ちる音だけ。
これが何の涙なのかは、もはや分からなかった。
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