みがきにしん
2022-06-19 00:10:31
14160文字
Public アラン君とラド君の話
 

ラド君、家出する

ラド君とアッシュ君とほとんど出てこないアラン君のお話。

「立て」
 平坦な声であいつは言った。
 言われなくても、と言い返す気力も薄い。俺は腕でどうにか体を地面から引き剥がす。幾度も打ち据えられてべちゃりと落ちた体はひどく重たい。どうにか片膝を立て、足に力を込めても力が入らず小刻みに震えているばかりで、体が縦にならない。生まれたての草食動物の方がまだまともに動けそうだ。
 取り落とした弓を手探りで引き寄せ、地面に突き立てるようにして漸く体を支える。弓幹の軋む音。歪んだかもしれないが、そもそも矢をつがえるどころか弓を構えることすらできそうにない。ふらつく体で、どうにか腰の短剣を引き抜いた。
 さっき吹っ飛ばされた時に口の中が切れたのか、血の味のする唾が溜まって気持ちが悪い。吐き捨てると、武器さえ持っていないあいつは「余裕があるな」と唇を動かす。その目も声も先ほどと同じようにひどく淡々としている。
――こいつのこの顔が嫌いだ。しんと刃のように冷え切って、それでも口元だけは微かな笑みを浮かべたかのように見えるから。
……余裕なんてねえよクソが」
 思わず愚痴がこぼれる。見ても分からないはずがない。こっちは散々ボコボコにされて立つのもやっと。たかだか十数分そこらで、複数の魔物からたこ殴りにされるよりやり込められた。それも、相手は素手で、こっちは弓を持たされているのに、だ。
 矢は当たらず地面に突き刺さったままで、弓も今捨てた。遠距離武器で、まともにやりあうことすら許されなかったのに、ちっぽけな短剣一つでどうすればいいというのか。
 あいつは片眉を上げ、それはよくないな、とため息をついた。
「なら、表に出すべきじゃない。それは、」
 相手にとってはただの好機だ。
 その言葉と同時に、踏み込みが見えた。今日何度も受けた、クソったれなただの突進。目で捉えられるようになったのがここ数回。だがまだ体は反応できない。
 飛び込んできた体が当たった瞬間は軽い。相手の方が体格も体重も上のはずなのに、だ。けれど手加減されているという事実に憤る暇はない。
 かろうじて構えていたナイフはあっさり手から落ち、相手の体に掬い上げられるように俺の体は簡単に浮く。散々叩き込まれた受け身を軋む体がどうにか形作るが、衝撃そのものは殺しきれない。
「ゔっぁ!」
 手を使ってどうにか強く叩きつけられるのを防いだが、意図せず呼気が肺から漏れる。吐き出された息の代わり、血混じりの唾液が喉に殺到してひどく咳き込んだ。
 無様に転がる俺に、しかしあいつは追撃をしてこない。無様にひっくり返り立ち上がれない様子を見て、ふうと一つため息をつく。
「ラド、今日はここまでだ。立てるか?」
 馬鹿にするなと言いたかった。けれどいつもあいつの見立ては気味が悪いほど正しい。疲れと全身の痛み、残った咳が残った体力を削りきっていて、俺にできることは睨みつけることくらいだった。どれくらい実力差があるのかなど、考えたくもない。
 手を貸そうと近付いてくるあいつに、それでも闘志は失っていないのだと言いたくて、背を丸めて蹴りを繰り出そうとする。が、力も入らずもたつく足はあっさり片手で止められた。
……今のは悪くないな」
 そうしてあいつは今日初めて優しく笑い、俺に回復魔法をかけたのだった。

「で、逃げてきたんだ」
 ぴこん、と白い毛に覆われた耳が揺れる。そうじゃないと否定したかったが、そういう気持ちがあったことは事実で、とっさに言い返せもしない。代わりに的にしていた木人に、矢がぱしんと跳ね返された。
 朝だとしても容赦の無い砂都の日差しが背中を突き刺す。この家の主は、肌色の通りアッシュと名乗るムーンキーパーだ。吟遊詩人かつ猟師として身を立てている冒険者で、曰く『森の中ならほとんど無敵なんじゃないか』『不意打ちは絶対されたくない』とあいつに言わしめる実力者だ。たまに弓術を教えてもらっている。
「別に、そういうわけじゃ
 本当にそういうわけじゃない、と心の中で言い訳する。生きていくためには冒険者になる必要があって、生き残るためには弓の腕を上げなければならないのだから。あいつとの組み手で勝つためにも、弓の扱いは上達したい。
 弓を引く。目を細めて木人の手に狙いを定めて矢を放つ。またも刺さらず、跳ねた矢は地面に落ちた。追い打ちを掛けるように、アッシュがあっけらかんと言う。
「でも、置き手紙して出てきちゃったんでしょ。『弓教えて貰ってきます、しばらく帰りません』って」
「う」
 弓弦の引きが甘かった。今度の矢は勢いもなく、木人の手前にぽとんと落ちる。動揺した拍子に、あいつが『弓を得物とするのなら、いつでも矢を当てられるように』と夕食を食べながら言ったことを思い出して、余計に腹が立った。だからこうしてここに来てるんだ。出てくるなバカ。
 頭に浮かんだ姿を、首を振って振り払う。
「そもそも『あいつとの組み手』なんて無茶ぶりなんだよ……俺は冒険者になるのであって、英雄になりたいわけじゃない」
 庭に出したテーブルに頬杖をついて、手土産代わりに渡したハニーマフィンに齧り付きながら、灰褐色のミコッテはうーんと首をひねる。
「まあ、やり過ぎなところはありそう。アランはちょっと正論過ぎるというか……言うことはすごく妥当なんだけどね」
 とりあえず、好きなだけうちに居れば良いんじゃない? たまにはリフレッシュが必要でしょとアッシュは続けてくれた。
「彼には俺から連絡しておくよ」
 ひどくホッとして、弓を握りしめたまま、頭を勢いよく下げる。
……助かる!」
 ゆっくりしていくといいよ~というのんびりした声を聞きながら、あいつは知り合いからしてもそういう評価なのか、と内心で思う。あの嘘笑い苛烈野郎め、やっぱり逃げ出してきてよかった。
 心の中でガッツポーズをしていれば、すっかりお土産を平らげたアッシュがぐっと伸びをして、木人とその手前の地面に目線を向けた。
「とはいえ、その状態だとあんまり練習にならないね」
 俺の方の仕事もあるし、良かったら手伝ってくれる? そう言って見上げてくるミコッテの申し出を断る理由もない。何せしばらく世話になる。
 すぐに頷いた。
 
 そうして気軽に手伝いを請け負った過去の俺をひたすら殴ってやりたいと強く思う。もう顔がわからなくなるくらいにボコボコにしたい。
「はぁ…………
 吐いた溜息は、アイアンインゴットよりも重たく足下に転がった。暮れなずむ空、梢の向こう側に太陽が落ちていく。夕陽を見るのも、これで四回目だ。
――アッシュの言う仕事とは、異常に増えてしまったアンテロープの群れを一部間引いてほしいという猟師ギルドからの依頼だった。それだけならば単純だったのだが、間が悪いことに数日前同じ依頼を受けた他の冒険者がヘマをしたせいで森の奥深くに逃げ込んでおり、足取りがわからなくなっているという。
「うーん、それならしょうがないね。探しに行こう」
 依頼の概要を聞いたミコッテが軽く言った言葉に、愚かにも『すぐ見つけられる手段があるのだろう』と思ってしまったのが運の尽きだった。何のことはない、手段とは道なき道をかき分け、目を皿のようにして僅かな痕跡を追う地道なものだったのだから。
 野生の獣を追いかける為には森の中に潜む必要があったが、黒衣森の奥深くに集落はない。わざわざ迂回してまで人家に寄ることはなく、ただひたすらに痕跡を探し、風向きを確認し、獣道を歩いた。
 虫除けと臭い消しの効果があるという草の汁を体中に塗るせいで鼻はツンツンするし、時に藪の中も通るために、名前も知らない葉っぱや木の実が服や髪にたっぷり付くのは当たり前。湿った地面ですっこけて、泥にべったり濡れたこともあった。
 夜中も辛かった。獣を追いかけているから、大きな火は焚けない。小川で水を確保し体を拭いたら保存食を齧って、木と布と枝で出来た簡素なテントで交代しながら仮眠した。
 帝国兵時代に訓練も行軍もしたが、輜重部隊が付いてリソース的にもカバーし合える行軍と、少人数で獲物を追って移動し続ける野追いとは全く勝手が違う。
 目的地も目標も終わりも分からない。道なき道を移動し、確認し、移動し、仮眠し、移動し……の繰り返し。体はあっと言う間に悲鳴を上げた。
 勿論、手伝うと言った手前、意地があった。だがその意地は、初日の夕方には小さく縮こまってくちゃくちゃになっている。早く帰りたい。早急に帰りたい。しかし帰ろうと思っても森深くにいるから帰り道も分からない。たかが獣の討伐依頼と侮っていたのが間違いだった。
 ところがアッシュはぴんぴんしている。むしろ街中にいるときより元気そうに見える。そんな相手に『辛いので帰りませんか』と言えるわけがない。
 決意した。なるべく早く群れを見つけて帰るしかない。

 そう思って二日経ち、三日経ち――
 今日こそ家に帰る、あいつに何を言われようがクガネに帰って風呂に入って一日寝る、そう決意したのが昨夜だった。
 けれどそういう時ほど事態は動くもので、群れはあっさりその姿を見せたのだった。
 
 すっかり日の落ちた森の中、獲った獣を必死に解体し続けた手が痛む。
「いてて……
 やっと帰れると胸をなで下ろしたのもつかの間、証拠の角だけを切っていくのをアッシュは許さなかったのだ。黒衣森育ちのミコッテは、命を獲ったからには美味しく食べられるようにすべきだと、その場で解体を始めた。半日掛けて、今はそれぞれ油紙に包まれて鞄の中に入っている。
 そうして結局今日も野営だ。体は血の臭いが染みついているし、ずっと弓とナイフと木の枝とを握り続けた手には幾つもの豆ができて潰れ、酷い有様になっていた。回復魔法を掛けるまでのことでもないので、ポーションを染みこませた布を巻いていたが、毎日のようにできては潰れるから気休めに過ぎない。
「疲れた……
 ついでに少し寒い。夜の森は空気が冷え始めていた。たき火からは少し離れていたが、腰に根が生えたように体が重く動けない。脂や泥や血で髪の毛が固まった部分があるのが頭を振ると分かる。ああ、心から風呂に入りたい。多分二回は入らないとダメだ。
「だいぶお疲れだね!」
 全く疲れを見せないアッシュに、何かを言う気力もない。のろのろと顔を上げると、湯気の立つ木のボウルを差し出してきた。
 どうやらスープを作ってくれたらしく、良い匂いがした。火を存分に使った暖かい食事は何日ぶりだろう、と少し心が浮上する。
 わくわくしながら覗き込んでみると、乾燥パンと肉片が少し浮いている中に、内臓らしきものが豪快に切られてたっぷり乗っかっていた。
「うわっ」
 思わずボウルごと取り落としそうになって、慌てて縁を掴み直す。と、半割りにしたアンテロープの頭と目が合う。内臓も、さっきまで解体していたので元の形が分かる。思わず耳が高く立ってブルブル震える。
「あんまり食べたことない? 脳と頬肉。ちゃんと処理したから美味しいよ」
 ジンジャーとガーリック、何かスッとするハーブの匂い。一日動き回った体は食べ物を欲しているのに、これを食べるのかと頭が反発している。
 アッシュの仕事を手伝うのが辛いと感じるのはこれが原因でもある。猟師で身を立てている青年は当然ながら狩りが上手く、分けて貰った保存食も美味しかった。けれど、それらの料理はワイルド過ぎるというか食材を無駄にしないというか、要するに食べつけないものがとても、多い。食べれば美味しいのは分かっている。ただ覚悟がいる。
……うう」
 とりあえず薄目で匂いだけ嗅ぎ、食欲を喚起して頭を麻痺させる。これはただのスープ、アンテロープの出汁のスープ。
 その間にもアッシュは全く気にせずスープを口に運び、味に納得したのか頷く。
「浮いてる葉っぱは捨てていいよ。乾燥させたマグワートを臭み消しに入れてるだけだから」
 ぎゅっと目をつぶったままじっとしていれば、それを見た記憶が僅かずつ薄れて腹が鳴る。なんとか行けそうだ。おそるおそるスープだけ先に口に含めば、複雑な香辛料と強い旨味が口の中に広がった。汗を掻いた体が喜ぶ塩気がありがたく、ゆっくり噛みしめるように啜る。
……美味しいです」
 見た目はすごいけど、という言葉を飲み込んで、ぷるぷるした何かをスプーンですくい取り、口に運ぶ。もったりしていて旨味があり、悔しいがとても美味しい。今何を食べたかははっきり見たくないが。
「これね、今日ラド君が獲ってくれた一番大きな獲物を使ったんだ」
「え」
 顔を上げると、アッシュが自分の分のスープをつつきながら教えてくれた。
「俺たち猟師はね、獲物の一番良いところを獲った人が食べるんだ。だからこのスープはラド君へのお祝い」
 この数日ですごく上達したね、このアンテロープもきっと苦しまずに逝けたよ。そう弓の師匠は続けて微笑んだ。
 無我夢中だったから気付けなかった。上達。本当に? 信じられなくて、目を瞬く。
「もう君は動く相手の頭にだって、矢を中てられる。自信を持っていい」
『いつでも矢を中てられるように』と厳しく言ったあいつの顔がちらつく。
 スープの水面が揺れる。何故か急に熱いものが目にこみ上げてきて、下を向く。連日のことで疲れてるからだと急いでスープを含むと、なぜかさっきよりしょっぱく感じて、ほた、と口から言葉がこぼれた。
「俺……なんであいつのところにいるのか、分からないんだ」
 ひどい疲れと、安心と、エオルゼアに来てからここ半年のやせ我慢。それらが急にタガを外して口をついた。一度決壊してしまった言葉は止まらず、ぽろぽろと口の端から、一人で抱え込んでいた本音が零れ落ちていく。
「助けてくれたことには……感謝してる。でも、エオルゼアで冒険者やっていく自信もないし、あいつが何考えてるのかもわからない。なのに毎日、戦う訓練ばっかだ」
 軍にいたころ、ひどい扱いを受けたことは何度もあった。戦場に出れば、いざとなったら捨て駒ともいえる配置。けがをすれば、治療のための薬が回ってくるのは一番最後。
 それに比べれば今の環境は天国だ。厳しい訓練にさえ目をつぶれば、食べるものにも暮らす家にも生活にも不足はない。
 けれど、なぜあいつが、俺に強くあれと求めるのかもわからない。そもそもなぜあいつが、俺に冒険者になれというのかもわからない。問いたくても、あいつが何を考えているのかわからない。
 見慣れぬ異国で、何もかもあいつの世話になっているのに、その相手が求めることを何一つ満たせないのが――そしてその相手が何よりあいつだということが――ひどく、みじめだった。
 せめて助けてくれたのがあいつでなければ、これほど自分を小さく感じることはないんだろうか。あいつが俺を助けた理由を知っているのなら、もっとその要求が分かりやすいのなら、もっと考えていることが分かるのなら、これほど後ろめたいことはなかったのだろうか。
 別に帝国に忠誠心はなかったし、未練もない。けれどエオルゼアに来てから、これまでの価値観はぐっちゃぐっちゃにかき乱され、どこに行けばいいのか、何をすればいいのか、どうやって生きていけばいいのかも分からないまま、毎日毎日霧の中を目印もなしで歩き回っているようだ。しかも、それを知っているらしいあいつのことは、将来よりもずっと分からない。
 それがむなしいし、つらい。
「なんなんだって……正直思ってる」
 ぼやける視界の向こう側、アッシュが立ち上がった。俺の頭を乱暴にわしゃわしゃと撫でる。さすがにうっとおしくて、首を振ってその手を振り払う。
……ね、アランの所に言って聞いてみなよ。『なんでこんなことするんだ』って」
 顔を上げると、灰肌の猟師はいたずらっぽく笑う。
「今のラド君に必要なのは、相手と話し合うことだよ」
 きっと今頃、アランも反省してる。なんたって俺、ラド君が家出してきた日に、らしくもなく怒っちゃったしね、とアッシュは木のスプーンを振る。
「話し合って、それでも本当に無理だ!ってなったらうちに来てもいいし、冒険者っていろいろあるからね。別にアランの求めることを十分にできなくたって、生きていけるすべはいくらでもあるよ」
 それにね~とミコッテは首を傾げ、呆れたようにやれやれと首を振った。
「アランは、教えるのが下手くそなんだよ。しかも何を考えてるのか人に伝えるのも、ものすごーく下手くそ。ついでにちょーっとズレてるから、相手がしてほしいこととちぐはぐなことをしちゃうところあるんだよねえ」
 でもさ、とアッシュは続ける。
「ラド君はさ、なんでかわかんないけど、期待されてるんだと思う。普通の人はこんなにすぐ弓上手にならないよ。戦っていける力が君にはあるって、アランは分かってるんじゃないかな」
 アッシュの尻尾がゆらゆら揺れる。それを目で追いながら、いつの間にか空っぽになった椀に目を落とす。
――本当にそうなのだろうか。
 期待がある? 何の期待を? そもそもあいつが?
 他者への『期待』という言葉と、あいつの姿が全然つながらなくて顔をしかめる。
「ま、わかんないなら聞くしかないよ。夜が明けたら街に向かうから、食べたら今日は早めに休も……
 優しい言葉が不自然に途切れる。優しげに寝ていたミコッテの耳が鋭く立ち上がり、傍らの弓を掴んだ。どうしたと問いかける前に、ぱん、と手元のボウルが吹っ飛ぶ。ひゅんひゅん、と空を切って何かが地面に突き刺さる。
 灰肌のミコッテが舌打ちをしながら、自分の持つスープボウルをたき火に突っ込んだ。ジュッと青白い煙を上げ、火が消える。
 途端にじとりとした闇が辺りを支配した。宵に潜んだアッシュが僅かずつ動く気配がするが、俺の目はまだ藍と黒しか写さない。
 ビリビリと肌に感じる敵意と害意。藪の向こうを動くいくつもの音。金属製の武器や鎧の擦れ合うそれ。どうして、誰が、と頭の中を疑問がよぎる。けれどこれだけは分かる。
――敵だ。

 背にどっと冷や汗が湧く。武器は? 弓も矢も地面に置いたままだ。場所も、くそ、見えない。相手はたき火でこっちが見えていた。火が消えた今は見えていないだろうが、すぐにでも動かないと良い的だ。なのに、クソ! 足が震えて動かない。
 意思とは関係なく座りっぱなしの俺の腕を誰かが強く引く。カクンと膝が折れて地面に倒れ込む途中で、やっと闇に慣れてきた目が、緋色に光る瞳孔とかち合う。アッシュだ。地面を這うようにしてこっちまで来てくれていた。
 先ほどまで座っていた場所に矢が突き立つ。相手も目が慣れてきているのだろう。
「ラド君、立てる? 立てるなら走って逃げて。後から見つけるから、どの方向でもいい。こいつらは俺が引きつけておくから」
 それは問いかけでも提案でもなく決定だった。すぐさま灰肌のミコッテが立ち上がり、藪の中に向かって幾本もの矢を放ちながら走り出す。向こう側から上がる小さな悲鳴。いくらかは当たったのだろう。
 そこまで言われて漸く足に意思が通った。ぶるぶると震えていたが立てる。一歩、二歩、不格好だが歩ける。落ちていた弓を掴む。逃げろと言われたけれど、ここで逃げることができるわけない。俺も、そう思って矢筒から矢を抜こうとするが、手も震えているのに気付いた。
 背後から聞こえる怒りに満ちた唸り声。潜んでいた藪を切り払い、剣と盾を構え鎧を着込んだ人間が三人走ってきていた。カン!矢が鎧に弾かれた音が高く鳴る。
 うそだろ、近接職もいるのかよ。 
……早く行って!」
 アッシュの鋭い声。鞭で叩かれたように足が走り出す。背を押す怒号と悲鳴、争う音。その中にアッシュらしきものはない。けれど恐ろしくて、振り返ることもできない。
 振り返ったとき、アッシュが倒れていたら。刃がもうすでに振りかぶられていたとしたら。
 嫌だ、そんなわけない。だって彼はベテランの冒険者で、だから強くて。
――不意打ちで、人数差があって、近接職も複数いたのに?
 行けと言ってくれた、だから後で追いかけてくる。
――そうやって味方を犠牲にして、何度も生き残ってきた?
「止めろ……
 やめろ、思い出すな。思い出させないでくれ。エオルゼアに来てやっと、あそこから逃れたんだ。
 いつの間にか足下は草木ではなく、鋼鉄のプレートと砂礫になっていた。静かな夜の闇は、どんよりとした雲がかかる月のない空になっていた。
 あの夜もそうだった。落ち着いていて警邏だけが主な仕事だったはずの属州は、けれどいくつかの属州の独立に伴い殺気立っていた。俺たちが詰めていたカステッルムにもその波は押し寄せて、「少数」の被害を出した。
『逃げて、ラドミール君……! ここはもう無理だ、応援を、』
 けれどそれは、俺にとっては全然、少数なんかじゃなかった。
 同じ属州出身のヒューラン。同い年で、近所に住んでた。あいつは頭が良くて、だからきっと将来は先生とか偉い人になるんだろうなと、ガキの頃は漠然と思ってた。
 徴兵されてからも、あいつは賢いから可愛がられてて、きっと出世するんだろうなって思ってた。帝国はそういう有用な人材には寛容だ。まあ俺は見た目も違うから無理だろうし、やる気もないけど。
 けど、出世していくのを見たいと思ってた。
『出世……? できるかなぁ。僕、すごく戦うのが怖いんだ。できたらずっと本を読んでいたいくらいだよ』
 だからその時も、あいつの胸に深々と矢が突き立ったのを馬鹿みたいに見ていたのかもしれなかった。口からこぼれる血も、崩れ落ちる体も、何もかも。
 襲撃に気付いたカスッテルム全体が反転攻勢に入れば、すぐに夜襲を掛けてきたレジスタンスは全滅した。ガレマール人の上官は「急な襲撃によく気づき、少数の犠牲でよく守り切った」と評価され出世した。 
 襲撃に最初に気付いたあいつは、レジスタンスの死体と一緒に、物みたいに転がされていたのに。
 転属になるたび、同僚だった人が死んでいくのを何度も見た。昨日挨拶したばかりの人が、ただの血だまりになるのを、燃えて縮こまった黒い塊になるのを、爆発に巻き込まれてどこに行ったのかも分からなくなるのを、何度も見た。けれどそれを顧みられることはない。末端の属州兵はただの備品だったから。
 俺もあいつも備品だったから。
 
 怖かった。見たくなかった。これ以上人が死ぬのを見たくなかった。戦場に駆り出され、誰かの恨みを買って、犠牲を出して戦い、怯えながら眠りたくなかった。
 いつからか、誰かと親しくなるのを止めた。積極的に武器を振るうことも嫌で、工兵としての仕事を覚えた。それでも戦場に出れば、毎日誰かが死んでいる。
 だからエオルゼアで、戦場なんて縁の無いところで暮らしていくつもりだった。
 仕事なんて荷物持ちでもいいし、遺跡掘りでもいい。猟師になって獣を追いかけるのも悪くない。小金を稼げて、人と人の争いに縁のない場所であれば何処でもいい。
――そう思ってたのに、どうして俺はまた逃げてるんだ。命を狙われ、アッシュに庇われ、怯えて走って。
 俺の後ろで、ザクザクと長い草を踏み分ける気配がする。湿った土の匂いが強く香る。金属鎧の音、足音も重い、ぼやく声はアッシュのそれじゃない。 一人こっちを追ってきたらしい。
 どうする、どうしたらいい? 足下も悪い中必死に逃げる俺より、その足跡を追うだけでいい相手の方が明らかに早い。進む先は月明かりが差し込んでいる。
 アーマーを着こんだ相手に矢は役に立たない。達人なら鎧の隙間を射抜けるらしいが、今の俺ができるとは思えない。ナイフも使えない。相手の得物の方が長いのに、どうやって懐に潜り込めばいいのか。
 ダメだ。どうやっても死ぬ。考えてる間も、どんどん気配は近づいてくる。このままだと背中から斬りかかられる。考えろ。どうしたらいい。
『いいか、ラドミール。これから生きていく時、』
 ふと、あの詐欺笑い野郎がいつか言っていた言葉が頭の奥で聞こえた気がした。今更なんなんだあんたは。こういうときどうしたらいいか教えてくれなかったくせに。クソ、師匠面するならもっと色々対処法を教えとけ。
 大きく息を吸って吐く。後ろから斬りかかられるのを避けるなら、この距離がギリギリだ。覚悟を決めて弓を手に取り、後ろを向いた。
 数ヤルム後ろにいたのは、思った通り鎧を着込んだ剣術士だった。足下の悪い中での追跡で若干息は上がっているが、ハイランダーらしいデカい体に、ムカつく位しっかり剣と盾を持っている。さぞかし筋力もあるんだろうな。
 キリリと弦を引いたまま、相手が完全に木々の陰から現れるのを待つ。実際に撃つつもりはない。少しでも気が引ければいい。
……何なんだよあんたらは。人がやっと飯食べてたってのに邪魔しやがって」
 怒りと自棄を込めて思いっきりにらみつけ、唯一鎧に覆われていない顔に矢を向ける。だが、相手は意にも介しておらず、フン、と鼻で笑った。それはそうだろう、俺だってそう思う。弓を持つ手はぶるぶると震えていて、まともに矢が飛びそうにない。
「お前らに手柄を横取りされた集団、と言ったら分かるか? うちのトップはお前らの前にこの依頼を受けてたんだとよ」
「へえ、群れをわざわざ森の奥に追いやった『有能な冒険者』ってあんたらだったのか。ダセえな、自分で出来ないからって他人にやらせて横からってわけだ」
 木々の隙間で男と向かい合う。バックラーで胸から顔の一部を覆いつつ、男がじりじりとこちらに近づいてくる。
「俺はここらに来たのが最近でね。詳しくないが、エオルゼアはあんたらみたいな根性なしばっかりなのか? 獲物と正面から対峙することも嫌がってりゃ、実力も知れたもんだな。きっと今頃、お仲間はみんなひっくり返ってるだろうよ」
 これにはピクリと男の眉が動いた。
「安い挑発だな。どうやったって勝てばこっちのもんだ。金さえあれば名誉も装備も買える。そうやって俺たちはやってきたんだ。お前の安っぽい弓じゃ、この鎧に傷一つ付けられまい。まあ、その前にそんなに震えてりゃ当たらないか」
 喉だけで笑う相手に、俺の頭にも血が上った。反射的に弦から指が離れる。カンッ!と高い音を立て、相手の鎧に矢が弾かれる。
「当たらねえなあ!」
 剣術士が地面を蹴り、一気に距離を詰める。切り払える間合いに入り込むつもりだろう。だけど、あの癪に障る英雄よりずっと。
「遅い!」
 急に距離を詰められて、しかも動いている人間に当てられるほど今の技量は高くない。けど、それでいい。思い切り放った矢は相手の足下に突き立ち、その勢いで俺は後ろに飛び退く。
「てめえ!」
 必殺の間合いから逃げられて、男はとうとう頭に血が上ったらしい。先ほどのおざなりな踏み込みではなく、盾を体の前に構え、そのまま突進してくる。
 もう一発矢を放つが、あっさり盾にはじき返される。だよな。バックラーってのはそう使うもんだ。攻撃を受け流す丸い盾で体を守りつつ、相手を押しつぶすように突進し、手に持った武器で相手を突き殺す。間違いなく、それを受けたら死ぬ。
 ふいに、あのムカつく英雄の声がぱっと頭の中で翻った。訓練をしようと提案してきたとき、弓を手渡しながらあいつは言った。
『いいか、ラドミール。これから生きていけば、色々なことがあるだろう。理不尽にも恨まれたり、命を狙われたりすることもあるかもしれない。それはどうしようもなく、お前がどう生きるかにかかわらずついて回る』
『そうして武器を持って戦うことになった時、頼りにできるのはその時持っているものしかない。いきなり能力が向上することはないし、都合よく第三者も飛び込んできたりすることはない。その時持っている手札だけが命の有無を左右する』
『だからまずは手札を多く持て。それから、その手札をなるべく強いものだと相手に思わせろ』
『そして最後まで諦めずに、よく観察するといい。自分の手札、相手の手札、周囲の状況、相手の考えそうなことを』
 人が死ぬのを見たくない? 人と人の争わない場所を探したい?
――そんなものはないなんて、自分が一番よくわかっていたはずじゃないか。
 なぜあんな訓練をするのか分からない? あいつが何を考えているのか分からない?
――一番最初に言っていた。生きるためだ。生きているだけでやってくる火の粉を払うためだ。冒険者じゃなくても、死はいつだってどこにだって転がっている。生きるための争いからは、戦いからは、誰も逃げられない。
 そして、『戦うのが怖い』と漏らした友人のような人間も、平和な場所で生きていたい自分のような人間も、守りたいなら、逃げたくないなら強くなるしかない。
 ああ。認めたくないけど、あんたは正しかった。
 悔しいけど、当たり前か。あんたはずば抜けて戦いの経験があるんだもんな。クソみたいな理由で命は狙われるし、俺はまだ十分に武器を扱えやしない。辛いからってあんたとの訓練、逃げ出さなきゃよかったよ。もっと真剣にやっていれば違ったかもしれないのにな。
……ラドミール。生きるために、強くなれ』
 耳によみがえる、冷えた声音。一番最初にあいつが突きつけてきた、馬鹿みたいに厳しくて冷たくて、どうしようもない真理。
 分かったよ、帰ればいいんだろあんたの所に。ちゃんと守って、逃げ出さず、生きていけるように。
 ここは森。足下は草で覆われ、その下は見えない。背後に飛んだとき、飛び越えたそこに何があるのか、相手は知るわけがない。
 ここ数日、散々黒衣森を彷徨って分かったことがある。真っ直ぐ歩きにくい長い草。それが生えている土地の特徴。湿った土と、水の匂い。
 ここは草の中に隠れてはいるが、ぬかるんだ水場だ。そこに体重を掛けて強く踏み込めば、草の中から泥が顔を出す。
「う、おおおおぁ?!」
 踏み込むほど、滑る。
 前傾姿勢で突っ込んできていたデカい体躯が、足下を取られて大きく揺らぐ。踏ん張ろうとした足下もまた取られてさらに滑る。分かるよ、ついこの間同じ目に遭った。ついでに両手には剣と盾。盾はともかく、剣を持つ手で落ちる体を支えることは難しい。
 すぐに弓を捨て、腰から短剣を引き抜く。大きな音を立てて前のめりに倒れ込んだ相手に跨がり、その首にナイフを当てる。
「動くな。俺は武器を扱うのが下手だからな、暴れたら適当なところがざっくり行くぞ」
 男は暴れるのを止めたが、もがもがと武器を手放して手足をばたつかせる。あ、しまった。倒れ込んだところを乗っかったせいで、顔を思い切り泥に突っ込んだらしい。鼻の穴も口も泥まみれで呼吸がしんどそうだ。さすがにこれで死なれたら困るが、また暴れられても困る。縛るものもないし。
……どうしたらいいんだこれ……
 あまり悩む時間はなさそうだったが、俺は男にナイフを押し当てたまま、しばし頭を抱えるはめになった。

 結局その後、他の冒険者を伸して追いついてきたアッシュが合流し、剣術士も縛り上げて鬼哭隊に突き出した。もちろん、猟師ギルドには経緯も含めて報告した。あの冒険者たちは登録抹消の上、罰を受ける形になるという。
 あのハイランダーの剣術士の発言からして余罪は沢山ありそうだが、判明するかは分からない。どこで仕事してきたのかも分からないし、もし同じ手を使ってきていたのなら、きっと証人は帰らぬ人になっているだろう。
 なるはずの冒険者、という職業の闇をなる前から見せつけられた気がしているが、あいつの言葉を借りるなら『生きていくなら色々なことがある』ってことなのかもしれない。結局、戦場にいてもそうでなくても、人間同士の争いはあって、何かに巻き込まれることはあるってことだ。やっぱりエオルゼアも帝国属州も全部まとめてクソだ。けどまあ、この地域では備品の人間はいない。少なくともいないことになっているから、きちんと捜査され、明らかになれば罰されるはずだ。それだけは救いかも知れない。
 あと、いいこともあった。まず、元々の依頼に対する報酬に加え、たっぷり報奨金が出た。更に、アッシュは元の依頼の報酬も(ついでに加工した肉も)山分けしてくれたから、多少懐が温かくなった。ついでに、猟師ギルドから新しい弓を貰った。実はあの馬鹿英雄とやり合ったときに、本当に弓幹が僅かに歪んでいたらしい。「この状態でよく獲物に当てられましたね……」と唖然とされた。新しい弓にしたら、これがまた驚くほどよく当たる。良い物を譲ってくれたらしい。
 それから、家に帰ったらあの考えなし野郎も少し反省したらしい。これまでよりも多少、ほんの多少だが手加減と訓練ごとの理由や目的、どうすれば上達するかなんかも教えてくれるようになった。最初からそうしろとは思ったが、土壇場であいつの教えに助けられたことは事実だから、今のところは我慢している。
 それにまた嫌になったら家出するつもりだ。その時はどこに行こうか。またアッシュのところでも良いし、最近はエルヴィオにも誘われているし。
 けどまあ、とりあえず今のところは、あいつの所に居座ることにしている。
 

……アランはさ、どうしてラド君を厳しく指導するの?」
「どういう意味だ? 生きていくにはなるべく実力があったほうがいいだろう」
「俺の質問の意味、分かってるんでしょ」
 厳しい声音の詰問のあと、張り詰めた沈黙が落ちた。ややして、リンクパール越しに長い、老人のようなため息が聞こえてくる。
……あいつと戦う自分の姿を見た」
 青年は諦めたのか、あっけにとられたアッシュをよそに、ぽつぽつと語りだす。
「助けた日に、あいつと武器を抜いて対峙する俺を見たんだ。白昼夢にしては鮮明すぎ、未来視というには前例がない。俺の超える力で見えるのは過去視だけだと思っているし、実際あれより後に見たことはない」
 だが、と疲れたような声音。
「実際にそうだった場合、何らかの理由で、あいつと袂を分かった結果だろう」
 そうすれば、俺は殺すつもりであいつの前に立つよ、と言葉を伝えてリンクパールはちかちか光った。たとえ嫌でも、助けた相手を殺すつもりだ、と。
「俺はあいつには生きていてほしい。せっかく拾った命なんだ。むざむざ散らすなんてもったいない」
 だが戦うことになった場合、俺は容赦しない。自分が生き残るために、相手を殺すことも辞さない。
 青年の声は落ち着いているのに、どこか悲嘆のようだった。
「だからもしそうなった時、俺を殺しても生き残れるようにしたいんだ」