和綺
2023-12-21 16:25:45
3962文字
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槍が降ろうが(五歌)

何が降っても事実は変わらない、っていうか事実なんだってさ。

通算何度目になるかはわからないが(嘘だ。本当は覚えているけど、最終的には頷かせるのだから、回数は問題ではないだけだ)、五条悟は庵歌姫を壁に追い込むと、その足を彼女の脚の間にめり込ませた。ぐぐ、と膝も腰も曲げて屈むように顔を近づけ、目隠しをめくる。身動きが取れなくなった歌姫は、それでも最後の抵抗とばかりに顔を背けている。そこに浮かぶのは、困惑であり、多少の疑いであり、だが、嫌悪ではなかった。
「もう一回言う?」
……いらない」
通算何度目になるかは問題ではない。その中身はいつだって一貫していて変化はない。たった四音だ。
「好きだよ」
「いらないって言ったでしょ」
うんざりとした表情を隠しもしない歌姫は、同じ色を声にまとわせて、ため息をついた。目が遠くに投げられている。文字通り投げやりである。
「聞いてよ」
「聞いたのよもう」
「じゃあ、答えてよ」
……なにを」
「この状況で何をって聞いちゃうの、さすがに枯れすぎじゃない?」
「うるっさいわね」
「ねぇ、応えてよ」
……今、意味変えなかった?」
「変えてない」
あー、と唸った歌姫は、手のひらでこめかみをぐりりと押すと、足邪魔、と一言言った。素直に下ろす。
「そもそもなんで私なのよ」
お、と五条の意識が弾む。これまでにない反応であり、通算何度目かのこの告白劇にも、ついに進展が生まれそうだ、とうきうきとした。もちろん、その程度の質問、答えられないわけがない。ふふんそれはね、と目隠しを引き下ろす。腕を組んだ歌姫が、五条の体の囲いのなかで、堂々と立っている。
そのとき、五条は自信満々に、確かに、おもしろいから、と答えようとしていた。この五条家当主、現代において最強の呪術師である五条悟に真っ向から立ち向かってくる人間などほとんど存在しない。それも呪術師としてではなく、だ。おかげでこの十年と少し、飽きることがなかった。いつだって気配を感じればそばに寄った。嫌そうにひきつる顔は五条にしか見せない。何を言っても、何か返ってくるのが、楽しく、おもしろく、興味深く、意識をされていることがわかるから、ずっと途切れなかった。だからこれからもそばにいてほしい。変わることなく、ずっとそうであってほしい。だから試してみようと思った。聞いてみようと思った。どうなってもきっと変わらないという信頼があったから。
じ、と歌姫の目が五条を見ている。五条の言葉を、考えを、意思を待っている。歌姫の意識が五条に向いているのがわかる。嬉しい。にやにやと口が緩んで、ひどく楽しい。
胡乱げな目で、五条を見上げていた歌姫の目が一瞬、ふ、と緩んだ。なに笑ってんのよ、と悪態をつく口が、五条の目には、優しい弧に見えた。
「か……
その瞬間、それまで確かに浮かんでいた回答という名の感覚がすべてすり替わった。ど、とつむじから足先までを流動的な何かが流れ落ちる気配がして、一切の身動きが取れない。思考が停止している。
え。
「え」
え。え。
「え?」
どこからどこまでが現実の声で、自分の声で、歌姫の声なのか、一瞬見失った。これがもし何らかの術式だったら、五条は何もできずに討たれてしまっていたかもしれない。
「ちょっと?」
意識を飛ばさせたのが歌姫なら、覚醒させたのも歌姫だった。
「なによ、急に。なんなの?」
急な復帰は、脈拍を荒くさせた。あ、死ぬかも。
「なんでもない。僕ちょっと急用」
は? と盛大な困惑を浮かべた歌姫を置いて、五条はそのまま後退する。瞬発力を鍛えに鍛えた己に感謝して、遠ざかる小さなシルエットをただ見つめた。こんな距離でも? と困惑した。


とんとんがらりすたすたどさ。
最初のとんとんで、硝子は既に違和感を覚えていた。この呪力の持ち主が、入室する際にノックをするなどおおよそ珍しい行動で、硝子は思わず窓から空を見上げた。雨か雪かはたまた槍でも降ってくるのだろうか。
「ねえ硝子」
「うん?」
苛立ち、とも違った。焦燥、困惑、疑念、辺りだろうか。またなにか厄介な案件でも、まで硝子が考えたところで、五条が言を紡ぐ。
「歌姫ってかわいい?」
「かわいい」
なんだそれ。硝子は呆れた。言うに事欠いてそれか。
「即答かよ。主観じゃなくて客観的に」
「かわいい。最高。大好き。すごい好み」
「えっ」
「友情だけどな」
「あ、なんだ、びっくりした。相手が硝子だったら色々やりにくいな、って思った」
「勝ち目がないから?」
「あるし」
ああ、戸惑いか。合わせた両手の先を顎に当て、背中を丸めて、何事か呟いている。
「君も知ってると思ってたけど」
それこそ客観的に。そう付け足すと、五条はもう立て直したのかあっさりと肩を竦めてみせた。
「僕、そういうのわかんないんだよね。女の子は皆かわいいしさ」
「クズめ」
「博愛って言ってよ」
へらへらとした笑いを睨んでもどこ吹く風の男に、硝子は振り返った姿勢で頬杖を突いた。
「それで? かわいい女の子の範疇に入ってるはずの先輩について、新たな発見でもあったか?」
……歌姫は女の子ってあれじゃないでしょ」
新たな発見を否定しない五条に、硝子は喉の奥で笑い声を立てる。
「でもきれいで優しくて、強くて、かわいいひとだよ」
「歌姫が強いわけないじゃん」
否定するのはそこだけかよ、とまた硝子が笑い声を上げる。ぶすっと不貞腐れたように唇を尖らせている五条に、もう一言二言言ってやろうと思っていたが、もう五条の意識は扉へと向いている。遅れて硝子もその呪力に気づいて、ほぼ同時に、ここんとノック音が鳴った。
「どうぞ」
硝子が応じると、からり、と扉が開き、鮮やかな緋袴が目を刺した。


思い出したことがあった。
歌姫が顔の傷を作って間もない頃だ。どこかのなにかの誰かが、歌姫に言ったのを聞いた。曰く、せっかくのかわいらしい顔がもったいない、と。記憶に引っかかる口調からして、歳かさのくそ親父だろう。それに対して歌姫がどう反応したのかはわからない。五条が割って入ったからだ。そんな言うほど変わんないでしょ。おっさんの目節穴? 多分そんなようなことを言ったのだと思う。男がその言を聞いたのかは覚えていないので、恐らく真意は伝わってもいないだろう。ただ五条の名前と力に引き下がっていっただけだ。
呆れたような歌姫の声がよみがえる。変わったに決まってんでしょ。
そこだけ、それだけ、そのときの声音と表情だけがくっきりと形を成す。
でもありがとう。気にはしてないんだけど、周りが煩わしくて。
六眼なのか、五条悟としての感覚なのかは分からなかったが、嘘をついたつもりも、庇ったつもりもなかった。ただ、あの男が、その物言いが気に食わなかっただけだ。
だって、君は何も損なわれていないじゃないか。
「えぇ……
困惑のうめき声は勝手に漏れて、それで五条の意識は覚醒した。
「あれ。歌姫は?」
「もうとっくに行ったよ」
机に向かっている硝子が振り向きもせずに言う。
「えー、僕を置いて?」
「知らないよ。約束でもしてたのか?」
「してないけど」
「じゃあ行くだろ」
「行くけど」
「追わないのか」
珍しい、と硝子が五条を見る。ソファに座っていた五条はずりり、とだらしなく腰をずらした。足を投げ出して、目隠しを額まで上げる。
「あー、なんか、いいかな、今日は」
ふーん? と硝子の語尾が上がる。
「なに」
物言いただけな様子に、五条が尋ねると、べつにー、と返事がある。
「今日は先輩と飲めなくて残念だなー」
わざとらしい物言いで、また机に向かってしまった硝子に五条が再び尋ねる。
「ねー、硝子」
「なに」
「客観的にどう?」
問われて、硝子は少し考えた。なるほど、確かに先ほどの硝子の回答は完全な主観だ。
「先輩と出かけると、大抵、見られてるなって思うんだけど」
「うん」
「大体は同情的な視線、ってやつかな」
「ふーん」
「だから目立つって意味ではそうなんだけど、それでもちらちら何度も見られたりはよくしてる」
……ふーん」
「ちなみに学生の頃はもっとやばかった」
……へー」
質問をしておきながら、気のない返答をする五条に、けれど、硝子は気分を害することなく、むしろ楽し気に笑っている。
「ナンパもそれなりにあるけど、先輩の場合、なんていうの、表情とか仕草とかそういうのがかわいいから、ちょっと話が弾んだら、まぁ盛り上がるよね、向こうが」
「つまり」
「対外的に、歌姫先輩はモテる。そしてかわいい」
「えーーーー」
「おい、なにが不満なんだよ」
ずりずりと腰を落として天井を仰いだ五条に、硝子が尖った声を出す。
それをアイマスクをずらした碧眼で一瞥した五条は、あーあ、とため息をついて立ち上がった。
「やっぱり行こ」
なんだ結局行くのか、と鼻で笑った硝子は、また机に向き直る。とっとと所見を入力してしまいたいのだ。
からりと扉が開く音がする。やけに大人しくなった同期の背を横目でなんとなく見送っていると、くるりと振り返る。その仕草もなんだか物静かで、硝子は少し戸惑った。
「あの、さ」
……うん?」
あーと逡巡した様子を見せたのは一瞬で、うん、とひとりで頷くと、もういつも通りの表情を浮かべている。切り替えが早いのは相変わらずだ。
「内緒にしててくんない?」
「なにを?」
「歌姫がかわいいってこと」
……は?」
かたん、と扉が閉まる。大きな黒づくめは、もう扉に貼り付いたガラス窓越しにしか見えない。その図体が向きを変えて廊下を歩みだすころ、硝子の腹筋は崩壊した。
世にも珍しい同期の大きな笑い声に、廊下の五条は槍でも降るのかと空を見上げていた。