眼下に広がる花畑は美しく、いつまでもいつまでも見ていられそうだと思う。そのなかに、いくつか目立つ花々があって、ああ、あれらをまとめて持ち帰って花瓶にでも生けたらすてきなんだろうと思う。
けれど、しない。手折ったら、そこで花の命は終わり、腐って枯れて、粉々になって風に散ってしまう。
大事だから、丁寧に優しくそのまま。弱いから、強すぎる力は時に害悪だ。触れず、寄らず、ただ水を注いで、優しい風を靡かせて、何度も生まれ変わって、そうしてこうして咲いてくれれば、ずっと、ずっと寂しくない。
時々に目を惹かれる花を、ぎりぎりまで引き寄せて、物言わぬそれに指を沈めて、だから、それがきっと愛だと思った。だから死にたい。いつか死ぬなら、愛して愛して愛してそうして死にたい。
「恋をしてみたい」
安い居酒屋の若干べとついたテーブルに両肘を付いて、頬杖をついた身長190センチオーバーの筋骨隆々とした男はその童顔を駆使した表情で、こてん、と小首を傾げてみせた。
対して、ビールジョッキを右手に、焼き鳥(ネギま塩)を左手にした顔に傷持つ女は、崩した正座で、半眼の顔を男に向けた。
「すれば?」
「冷たっ!」
「いや、私に関係ないし、興味もないし」
ぐびりと喉を鳴らしてビールを飲んだ歌姫は、次はどれにしようかな、と焼き鳥の皿に手を伸ばしている。
「自分が枯れてるからって、その言い方はなくなーい?」
「枯れてねーよ!」
「えー、だって歌姫、もうだいぶ彼氏いないよね?」
「……うるさい」
「何年前だっけ? あの、あれ、えーと、まーくん!」
「その名を出すんじゃねぇぇぇぇぇ!」
歌姫が鷲づかんだおしぼりが、五条に向けて飛んでいく。それをぺちりとたたき落として、五条はにっこり笑った。
「ごめんごめん、黒歴史なんだっけ、うーちゃん」
「……殺す。絶対殺す」
「歌姫ぇ、この世には絶対不可能なことがあるんだよ」
うきうきと楽しげにそんなことを言った五条は、焼き鳥の皿からレバーを取り上げた。
「あ、私のレバー!」
「名前書いてないからだめでーす」
「お前わざとだろ!」
先程、皮とレバーで迷っていた指先を見ていたことを知っている歌姫が吠えるも、五条は素知らぬ顔で、レバーを引き抜いて咀嚼する。
「ヒスのうえに言いがかりとか、そりゃあモテない訳だね」
「うるせー! 今更モテとかいらねーんだわ!」
「え、もう諦めたの?」
「違う!」
「じゃあなに?」
本当にわからない、という顔をする五条に歌姫の苛立ちが少し鎮火する。今一度腰を落ち着けると、ごくごくと、少し温くなったビールを飲み干した。とん、と置くと、指先で唇を、次いでグラスの縁を拭った。たたき落とされたままのおしぼりに軽く指先を擦り付けて、はぁ、とため息をついた。
「別に。その辺の有象無象に好かれたって嬉しくないだけ」
「ふーん?」
からかう口調ではなく、純粋に理解していないような相槌に、歌姫の口が苦笑いを刻む。
「あんたは?」
「んむ?」
レバーの最後のひとつを口に含んでいた五条の視線を繋ぐように、歌姫の目が店内を巡る。
「ほら、あっちやこっちにいるじゃない、かわいい子たちが」
「あーーね?」
それでおおよそを察したのか、今度は五条が苦笑いを浮かべた。
「ま、でも、ただ恋をしたいってだけなら、いいんじゃない? そういう有象無象でも。まず出会わないと何も始まらないし」
「んーー」
五条の視線が宙を浮く。なにかを考えているようだが、歌姫にはそこまでは推し量れず、また突く気もない。えーい、仕方ねぇ、皮だ、と再び焼き鳥の皿に手を伸ばす。
「歌姫はさぁ」
「うん」
びろびろと伸びる皮を無理やり歯でちぎって、咀嚼する。ぐちゅと油が口の中に溢れた。
「恋したことあるんでしょ?」
「まぁ……」
「ずるい」
「いや……意味わかんない」
ごくりと飲み込んでから答えると、五条はおかしなしかめっ面をした。
「どうだった?」
「……恋が?」
「そう」
「えー……ちょっと待って、酒追加する」
「まだ飲むの?」
「こんなことあんた相手に素面で話せるか」
ビール、はもういいか、焼酎……水割り……ロック……梅酒……あー、レモンサワーでもいいかも、なんてったって青春だ。端末をスワイプしながら熟考して、結局薄黄色のグラス写真をタップした。
「あんたは?」
「歌姫は何にしたの?」
「レモンサワー」
歌姫が答えると、五条はふ、と笑みをこぼして、端末を受け取る。
「青春の味だ」
「……悪い?」
「いんや? じゃあ、僕は、はちみつレモンにしよー」
「なんでもあるわね、この店……」
「僕のお気に入りだもん」
「あそ」
注文を終えた五条が端末を充電器に戻すのを横目に、歌姫は、またぐるりと店内を見渡した。会社員らしきグループやカップル、おひとり様、と様々な客層がわいわいがやがやと夜を楽しんでいる。皆それぞれが、出会いと別れを繰り返しているんだな、となんとなくしみじみとした。
「誰かをさぁ、好きになってみたくて」
五条のつぶやきに、視線を戻す。頬杖をついた五条は今までの歌姫と同じように、店の客を見ている。ゆるりと笑んだ口元は柔らかく、その顔は照明の下できらきらと輝いて見えた。ぱちぱちと瞬きをして、歌姫は、少し離れたところにあった水のグラスを持ち上げる。氷が解けて、結露でびしょぬれのそれをぐっと煽った。は、と吐いた息が冷えている。
「あんた、私たちのこと大好きじゃない」
「……あは。知ってた?」
「バレバレ」
「好きだよ、歌姫」
「そういうのはいいから」
「えー、こんなに愛しているのに」
にやにやと目で笑いながら、唇を尖らせるという器用なことをした五条に目もくれず、歌姫は空いたグラスを寄せる。カウンターの奥に並べられたレモンサワーとはちみつレモンが見えたのだ。
「恋ってね、五条」
手にしたトレーにジョッキを二つ並べている店員を見ながら、歌姫は呟く。
「すごく、苦しいのよ」
「……でも楽しいんでしょ」
「そうね、楽しいわ。どきどきして、浮かれて、そのひとがそばにいるだけでそわそわして、見られてるって思ったら落ち着かなくて、話ができて、笑ってくれたりしたら、空も飛べそう! って思ったわね」
黒いエプロンに茶色い髪をした店員が、お待たせしましたーと朗らかに二つのジョッキを運んできた。歌姫も笑顔を浮かべて、それらを受け取ると、ひとつを五条に渡す。空のトレーに空いたグラスと皿を手際よく重ねた店員が、また明るくごゆっくりーと遠ざかっていく。カウンターへの帰り道でまた別の客から声がかかり、はーい、と流れるように進路変更を行っていた。
「はい、乾杯」
本日何度目になるのかは不明だが、歌姫はごつんと五条のジョッキに、自分のものを合わせた。口に含むと、レモンの酸っぱさとほろ苦さが、ぱちぱちっと炭酸に弾けて、自分のセレクトに満足する。
「それがなんで苦しくなるのさ」
心なしか、五条の声が拗ねているように聞こえて、歌姫は目を上げた。案の定、と言うべきかどうか、むうっと眉間も唇も寄せている顔に、歌姫は笑う。
「なんでかしらねぇ……難しいわねぇ……」
「ちょっと、仮にも先生でしょ。ちゃんと教えてよ」
「仮じゃねーんだわ。なんでかしらね、疑っちゃうのよね」
「疑う?」
「そう。私でいいんだろうか、とか、本当に私のことを好きでいてくれてるんだろうか、とか、この先もずっと一緒にいられるんだろうか、いてくれるんだろうか、とか?」
「信頼してないってことじゃん、それ」
「身も蓋もねーわね、あんた……」
「だってそうじゃん」
「そうだけど、そうじゃないのよ。結局さ、欲深くなるのよね、恋をすると。自分だけ見ててほしいとか、自分のことをわかってほしいとか、もちろん、私だけが理解していたいとかさ」
「あー……」
五条が呻く。おや、と思った歌姫が、まじまじとその顔を見ると、サングラスの奥の碧眼が少し揺れていた。相変わらず蒼く透き通るような、ひどく美しい呪力の塊は、清冽な光を放って、そこに鎮座している。
「愛と恋の違いはそこじゃない? きっと」
目を惹かれるのだ。特に目に付く花というのは、そう数が多くなくて、それですら、引き寄せる力にも、指を沈める深さにも、変化をつけなかった。一方的な、同じ愛を注ぐ。美しく、たくましく咲き続けてくれることが、その愛への答えだと満足していた。ずっと満たされていた。自分は世界に特別に愛されていて、その愛はあらゆるところを、あらゆる命を巡って、還って、生まれていく。大きな循環のなかで、その中心で、たくさんの愛を注いで、囲まれていた。いたいと思っている。同じ風に吹かれて、等しく揺れて、濡れる雨に輝いて、散って枯れてまた咲いて、何度でもそばにいて、一緒に生きていこうと思った。
思った、けど。
理解を得られた。理解ができた。そういう存在がこの世にいることを、その愛を知る前に知った。出会って、別れて、でもずっと忘れられない。この世界に息づいている。
ああ、そうか、これが欲か。
愛は持っている。だから、恋をしてみたいと思ったのだ。
「でも、恋って落ちるものらしいわよ。楽しみね?」
に、と目の前の、顔に傷持つ女の笑顔に、愛に溢れた男は、ああ、それじゃあだめだと落ち込んだ。自分は、このひとから得られることはない。だけど、それでも無理だと諦めた。
きっと、最初の一言から、五条悟は、特別な庵歌姫を、選んでいた。
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