天啓! という訳ではなかった。言うなれば、これまでの積み重ねのような、蓄積されていたものが弾け飛んだような、積読していた本をやっと開いたような、つまりはずっと歌姫のなかにあったものに、やっと光が当たっただけのことだった。
えぇ、やだなぁ、と思うのは、相手が相手だからで、これまでの関係やらやり取りやら、この歳になると、周りへ及ぼす影響、が、更に自分に与える影響を先回りして考えてしまうからだ。自分の気持ちだけでひた走れた昔がもう遥か遠い。
それはつまり成就などしなくても、世界も人生も、これまで築き上げてきた信頼と実績も、何もかもが消えてなくなりはい終わり、となることはないと知っているということでもある。
そう、成就はしない。だけど世界は終わらないし、ふたりの関係は変わらない。離れない。消えていかない。
ならば、と歌姫の腹は至極簡単にあっさり括れた。
性格上のこともあるが、ただでさえこんな生業だ。すぐ死ぬさぁ死ぬ今死ぬ、まではいかないが、あちらはともかくこちらは明日をもしれない身だと常々覚悟をもって生きている。身軽に、未練なく、望むことはなるべく先延ばしにはしない。
それがモットーであるが故に、庵歌姫は携帯電話を取り出すと、すぐさまその名前をタップした。
いち、に、さんで、コールが途切れると、さすがに手に力が入った。いつの間にか手汗をひどくかいている。
『はいはーい、五条さんちの悟くんだよー』
「お疲れ。今いい?」
『いーよー。珍しいね、歌姫が僕に電話なんて』
ここで迷った。勢いのまま電話で告げる気でいたのだが、欲が出た。
「あー……話が、あって、近いうちにこっちに来る予定ある?」
尋ねながら、別に自分が行ってもいいのか、と同時に脳内でスケジュールを確認する。
『ちょい待ち』
遠くなった声が、伊地知ーと呼んでいる。歌姫の就業時間はとっくに終わっていたが、伊地知と一緒ということは、任務中だろうか、と歌姫は少し焦った。
「伊地知と一緒なの? ごめん、まだ仕事中だった?」
『いや、ちょうど高専着いて、伊地知と別れたところ。今日も働いたー』
ぼやく声の背後で、伊地知の声が聞こえた。そういえば、彼とは随分会っていないな、と少し感傷を抱く。歌姫ばかりが遠い地にいるのだ。
はは、と声を出さずに笑う。気持ちに気づいたせいなのか、箍が外れている、というか、少し暴走気味だ。落ち着いた方がいいかもしれない。あー、一杯引っ掛けておけばよかった。
酒の代わりに空気を吸って吸って吸って、吐いて、吸って、としているうちに、耳に五条の声が戻ってくる。
『しばらくそっち方面はなさそう。急ぎ?』
急ぎ? 急務である。責務である。だがそれは歌姫だけの話で、五条には関係がない。仕事ですらない。呪霊どころか、呪術の呪の字も、いや、それに近いものはあるのか。この、歌姫の胸に巣食う、どろりとした、けれど、さらさらもした、苦しくてもがいて、足掻いて、それでもきらきらと眩しく見せびらかしたいような、ひどく禍々しく美しく思う塊は、紛うことなき感情と心が凝り固まった何かしらの力に溢れている。
「急ぎ、では、ない」
『ほんとに?』
「ほんと」
は、と息が零れる。五条が懸念するような、呪術師としての急務ではない。
「けど」
『うん?』
「できたら、早めに」
す、と息を吸う。かくん、と足の力が抜けそうで、歌姫は壁に縋った。
会いたい。
告げてしまった直後、ひえーーーー! と歌姫の脳内が悲鳴で埋め尽くされる。くわんくわんと耳鳴りまでしているようで、べたりと縋っていた壁に全身で寄りかかる。
呪術師として生きると決めたときから、いやそれよりもっと前から、歌姫には自分のやりたいことが明確にあって、それを叶える為の生き方をしてきた。感情や欲望を抑圧しない、我慢はしない、自分勝手に生きるわけじゃないけど、いつだって自分に許してきた。
だって、いつかきっと、すぐに、あっという間に死んでしまうのだから、とそれは言い訳だろうか。
死が突然なのは、誰しもがそうだ。死を恐れるのも、きっと、誰しも同じだ。
だけど、惨たらしい死の顎をいつも見ている。そばに感じている。片足を突っ込んでいる。
その恐ろしさを振り払えず、欲望を縁に震える足に力を込めている。
『今から行くよ』
だから、心做しか、優しく聞こえてしまった声を、歌姫は拒否できなかった。
冷静になった。カフェインは偉大だ。
京都駅構内のカフェチェーン店で歌姫はひとり、ブラックコーヒー(デカンタ)をちびちびと飲みながら、窓の外を行き交う人混みを眺めていた。
ぶ、と携帯電話が震える。メッセージアプリを開いたままの画面には、かの人物から、メリーさんよろしく実況中継が流れてきている。はい、静岡。富士山なんざ見えねーよ時間考えろ。内心でついた悪態はそのままブーメランとして己に刺さった。ぶっさり。
うん、と惚けた頭で承諾したあと、ふつりと電話が切れて、暗転した画面に映った自分の顔を見て、慌ててかけ直した。おい、おいバカやめろ来るな帰れ待て待て待て伊地知を呼び戻すな帰らせてやれ悪かった私が悪かったからおいバカお、と喚いたあたりで通話は切られた。ぶっつり。
少々の音信不通のあとで、ぶ、と震えた携帯電話のメッセージアプリに送信されてきた駅弁の写真に、歌姫はタクシーの中で脱力した。ぐったり。
ああいつもありがとうJRの皆様、歌姫とて立派な呪術師、北から南まで全国津々浦々移動の際にはいつもお世話になっております今日だけは運行中止でもよかったたまには休んでくれ。あとごめん伊地知。
しかし。しかしだ。不本意ながら、歌姫は自分の高揚も自覚していた。会えるのだ、会いに来てくれるのだ、と考えることは、胸の芯を震わせて、ふるふると唇が揺れる。カウンターに乗せたデカンタカップを両手で包み込んで、上からかぶさって、あーーと小さな声で吠えた。
じわじわとコーヒーの熱が手のひらに移ってくるのに、指先はひどく冷えている。腹の奥底から叫びたいような、泣きたいような、大きな衝動がじたばたと足を落ち着かなくさせた。早く早く、この塊を豪速球で投げつけたい。
どうしようもなく、やっぱり、恋をしていた。
ここん、と軽く跳ねた音に顔を上げた歌姫は、ふ、と顔の力を抜いた。ガラス一枚隔てた向こうで、大きな口が笑っている。ガラスを叩いた指先が店内を指さすのに首を振って、デカンタカップに残った最後の一口を飲み干し、歌姫は席を立った。
狭い店内を回り込むようにカップを捨て、自動扉の前に立つと、背後から店員のありがとうございましたーが聞こえて、開いて、閉まった。
黒ずくめの大男は、両ポケットに手を入れたまま、おもしろそうに歌姫を見下ろしている。
「あー、ごめん」
「ん、なにが?」
「こっちに来させちゃって」
「いーよ、別に」
会いたかったんでしょ? と首を傾げられても、依然見下ろされているので、歌姫はたっのしそうに持ち上がっている唇を睨みあげることしかできない。
そのまま視線を上げていけば、目隠しに隠された鼻と目があって、見えないのに、完全ににやついているのがわかる。
ふむ、と歌姫は腕を組んで、こめかみを揉んだ。自覚したからといっても、五条の言いざまには腹が立つし、礼儀を弁えろ、とは思う。
思うが、そんな牽制球を投げる前に、歌姫は持ち玉内角直球ストレートを放ってしまいたいのだ。もう肩は十分に温まっている。
「五条」
「とりあえずどっか入らない? 腹減った」
くるりと向けられた背が、歌姫の視界を塞ぐ。振りかぶっていた投球モーションの行き場を失い、歌姫は出遅れた。今まで入っていたカフェチェーン店に戻ることもできたが、落ち着かないのも確かだし、単純に窮屈だろうと、やたら育った大きな図体を思った。
「歌姫、飲んでないの? 珍しいね~せっかくの花金なのに」
慎重に踏みしめた足で隣に並んだ歌姫に、五条が笑う。
「あー、うん、まぁね。っていうかあんた新幹線で駅弁食べたんじゃないの?」
「まね。でももうちょっと食べたい。デザート的な」
片手の携帯電話に目を落とし、五条は店を検索しているようだった。歌姫の脳内データベースには、飲み屋は入っていてもスイーツ店は入っていない。
「あ、あそこのホテルでデザートビュッフェやってる。さすがにこの時間じゃ無理かなぁ」
「五条」
「ディナープランあるな……ねじ込めないかな」
「五条」
「アルコールもあるって~よかったねぇ。今からでもオーケーか聞いてみる」
「五条、私、告白したいんだけど」
かつん、かつん、という硬質な音が途切れて、五条が歌姫を振り返る。
西の観光地の要であるこの駅では、この時間でもひとの行き来は絶えず、静けさとは無縁の明るい公共の場だ。
「え、自首?」
「なんでよ」
「懺悔?」
「んなわけあるか」
「告解? 許しを与えたもうか?」
「ちげーっての」
うんざりと否定をして、だが、待てよ、と思考が舵を取る。確かに許しを得られたらいいかもしれない。成就はしない。ならば、伝えることもないのではないか、と理解しながら、言いたくて、わかってほしくて、放りたくてうずうずしている歌姫の未練という名の遺言めいた豪速球を、ぶつけてしまう罪悪感はある。歌姫ひとりごときの感情を重く感じるような繊細さはないだろうし、そんな柔でもないし、優しくもないことは知っているけれど、きちんと背負ってくれることも知っているのだ。
「そうね。許してくれたら助かるかも」
首を傾げた五条が、歌姫に向き直る。
「ほんとどうしたの? なんかあった?」
アイマスクを浮かせて覗き込んでくる顔に笑ってしまう。その美しさに周りの空気がざわめいて、まるで舞台に立っているみたいだ、なんて、思考がぐずぐずすぎる。
「五条」
「ん?」
「私、あんたが好きよ」
「は……? いや、僕だって、好き、だけ、ど……」
「そうなの?」
「え? うん」
「そうなの。嬉しいわ」
そうか、よかった。口うるさい自覚はあったから、きっと鬱陶しがられていると思っていた。同僚としての信頼と人としての好感は別物だ。
「ありがとう。これからもよろしくね。お互い頑張りましょう」
投げてみれば、それは豪速というほどの勢いは付けられなかった。ふわふわと軽いしゃぼん玉のように漂って、ぱちんと消えた。けれど、きちんと見てもらえた。十分満足だ。
「さて。あんたはそのビュッフェに行くの? 私今日は飲むつもりがないから、付き合えないと思うわ」
コーヒーは先程デカンタで摂取してしまったので、さすがにちょっと厳しく、とはいえ、仕事終わりにわざわざ京都まで来させてしまった後輩を、このままほっぽり出すのも気が引けた。
「普通にご飯くらいなら付き合ってもいいんだけど……」
デザートがメインというなら、やはりホテルが手っ取り早いだろうか。いっそファミレスでも、と携帯電話で検索している歌姫の視界に、にゅっと大きな手が差し込まれる。わっ、と驚いた拍子に歌姫の体がよろめいた。操り人形の糸が切れたように、かくかくかくん、と下半身の力が抜けて、踏ん張りが効かない体を、五条の片腕が支える。
「あっ、ぐっ……」
ぐいっと持ち上げるようにされて、歌姫の口からうめき声が漏れる。一瞬だけびくりとした五条の腕は、すぐにするりと力が抜けて、手のひらが添えられるだけになった。
「……あばら、何本」
「……二本」
「と?」
「……腹部の打撲」
「それから」
「……太ももの裂傷?」
五条が纏う雰囲気が剣呑なものになり、距離を取りたくなるが、大きな手はそれを許さない。半身に男の温もりがあって、楽といえば楽だったし、嬉しかった。
「今日は?」
「……退院日」
「本当は?」
「……ら、来週」
昔から、この後輩は歌姫の怪我に厳しかった。いや、正確には、怪我の無申告に、だ。更に正確を期するなら、この後輩ともうひとりのかわいい後輩がもうずっと厳しい。
はぁ、という重いため息に、歌姫の肩が竦む。
「今日来てよかったよ。送るから帰ろう」
手にしていた入院セットのボストンバッグが奪われて、腰を支えられたまま歩みが開始された。
「いや、ちょっと、待って」
「抵抗するなら抱っこね」
「脅迫……!」
五条の手が腰から下に下がる。これはセクハラではなく、片手で抱えあげる、という警告だ。五条はやると言ったらやるし、できないことは言わない。
歩幅を合わせたゆっくりとした歩みに、けれど体力が戻りきっていない歌姫の息が上がる。
「さっきの」
「……うん?」
ぽつりと零された声に歌姫が見上げると、五条の尖った顎が見える。前を向いたままで、歌姫の頭を胸に寄せた五条は、更に歩みの速度を落とした。
「告白、ってなに」
「なにって、そのままだけど」
「そのまま……」
声が困惑に塗れていて、こんなに察しが悪い男だったろうかと歌姫は首を捻る。もしくは歌姫があまりにも対象外すぎて、認識がそこに至らないのかもしれない。悪いことをしたな、と歌姫は苦笑いをした。
「ごめん、いきなりで驚いたわよね」
「え、あ、うん」
思考に沈んでいるだろう五条の生返事を気にせず、歌姫はとうとうと語りかける。
「私も急だなとは思ったんだけど、そうとわかったら言いたくなっちゃったというか、病院でね、ああ、痛いなぁってぼんやり思ってて、このまま寝て目覚めないことだってあるんだよなぁって考えて、まぁ、それは今に始まったことじゃないんだけど、未練みたいなものを順番に一個ずつ取り出していったら、なんか、ね」
麻酔の効きがよかったのか、麻酔の切れ目が悪かったのか、多分そんなようなことだろうと歌姫は思っている。いろんな要素が重なって、蓄積されていたものに光が当たったのが、今だったということだ。
「結構勝手に自由に生きてきたつもりだけど、すごいやり残したことあるじゃん、って思って、そうしたら、どうしても言いたくなっちゃったのね。ほんとごめん」
正面からやってきた男性を避けるように、五条の腕が歌姫を囲う。わ、とその胸に手をつくと、思ったより硬くて厚く、単純にときめいてしまった。思わずすりすりと撫でて、我に返る。ごまかす様にとんとんと叩いて、少し体を離した。すると五条の腕に力が入り、ぐっと体が寄せられる。
「五条?」
ぎゅうっと歌姫の肩を抱いている五条は、もうすっかりと足を止めてしまった。人の流れの邪魔になりそうで、くいくいと服を引くと、おとなしく端へと移動する。
「どうかした?」
「告白って、愛の……!?」
「うわっ、びっくりした」
至近距離での大声に、歌姫の体がのけ反る。巻かれた包帯の下にあるあちこちの傷がひきつって痛んだ。
「いたたたたたた……まぁ、そうだけど、改めて言わないでよ」
「え、なに、歌姫って僕のこと好きなの?」
「だからそうだって」
そう何度も繰り返されると気恥しい。今となってはこうだが、これでも若い頃は自分から告白などできないタイプだったのだ。
「ま、気にしないでいいわよ。言いたかっただけだし。いつか死ぬときに未練たらしく引きずりたくなかったの。忘れていいから」
ね、と見上げると、ちょうど五条も見下ろしているところで、多分視線が噛み合った。
「え、僕も好きだよ、って言わなかったっけ」
「言ってたわよ。だから、ありがとう、って返事したじゃない」
「それはどういうありがとう?」
「えーと、だから、嫌わないでくれてありがとう……?」
言葉にすると随分と卑屈な響きになってしまい、疑問を示すように語尾が上がった。なんか回りくどい会話になっているな、と歌姫は若干めんどくさくなってきた。先程はあまりに唐突で、いまいち通じていなかったのかもしれない。ならば、一回も二回も同じことである、と歌姫は一度五条の腕から抜け出すと、姿勢を正した。
「五条悟」
呼びかけると、歌姫を抱いていた形のままで腕を留めていた五条が、顔を向けた。そこに向かって、歌姫は今度こそ豪速球を投げつけるべく、息を吸った。
「私、あんたのことが、すごく、すごく好きよ。それだけ、今だけ、聞いてほしかったの」
告白への許しのついでに、と歌姫はその頬に手を伸ばす。薄い皮膚は硬さを伝えてきて、すべすべとやたら温かい肌だな、と嬉しく思った。触れることを許された喜びに、歌姫はただ笑った。ごめん、と優しく笑った。
「歌姫、死ぬの……?」
ぽつりと五条が尋ねた。歌姫は一瞬理解が及ばない。
「いや……死なないけど」
「余命でも宣告された……?」
「されてないけど」
「じゃあ、結婚でもするの……?」
「いや意味わかんない」
歌姫は確かに告白をしたはずだ。しかも二回。私はあなたに好意を持っています恋慕っております成就なんて露ほども考えてないけどただ知ってほしくて教えたくて触れられるのが嬉しくて触れてくることに喜びを感じてあわよくばそうだあわよくばあんただってそうだったらいいな奥の奥まで触れて触れられてずっと一緒にいられたらいいなという下心込み込みの豪速球を投げたのだ。
「あんたねぇ! 振るにしてももっと言い方ってもんがあるでしょう! なにしれっと他をおすすめしようとしてるのよ!」
「歌姫」
「なによっ!」
「キスしていい?」
「はっ?!」
これで完全に歌姫の思考は停止してしまった。目の前に高く聳える壁があると思ったら、それは人肌の温もりを保持していて、硬く厚く、なのに心地よい弾力がある。
五条の胸だ。
「おい! ちょ、待ておいバカ待て」
「いいよね。するよ」
歌姫の顎に指が触れる。みしりと骨が鳴ったのではないかと思うくらいの強さで掴まれて、身動きが取れない。
「急にクズに全振りするんじゃない! ちょ、バカ、だから待ってって……!」
「今キスできなかったら世界滅ぼしちゃいそう」
「そんな大層なもんを天秤に乗せるんじゃない!」
五条の薄い唇が緩く開いて、歌姫のそれに肉薄する。
「歌姫、好きだよ」
「はっ……んんっ」
五条との初めてのキスは、ずるーー!と脳内で絶叫する羽目になった。
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