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和綺
2023-09-15 22:35:58
15472文字
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優しい夜。(五+歌+硝/少しだけ五→歌)
だらだらと長い。捏造たくさん。硝子ぽんこつにしちゃってごめん。
「うまい! なんで?!」
ひとくち入れて絶叫した五条に、歌姫はふふんと勝ち誇った顔をした。テーブルの一升瓶に体重を預けて、片手には並々とその瓶の中身で満たされたグラスを持って、にやにやと笑っている様はキッチンドランカーもしくは飲んだくれのおっさんである。
五条悟は料理が得意だ。というよりできる。一度レシピを見れば、いや見なくても、口にさえ入れれば、材料、調理法、調味料、火加減や蒸らし時間まで把握することができるし、それをそのまま再現することも、なんなら上位互換のひと皿を提供することもできる。
対して歌姫の料理の腕は、まぁ悪くない。悪くないが、家庭料理の範囲だ。銀座の一等地で今すぐにでも自分の店を構えられる五条とはジャンルが違う(余談だが、五条は既に銀座の一等地に自分の好きなものしか出さない、作らない店を持っている)。
「なんで大まかにチューブおろしニンニク塗って、厚さばらばらに切って、雑に塩コショウして、適当にフライパンで焼いただけのスーパーでグラム158円の豚肩ロースがこんなにうまいの?!」
「いちいち修飾語がうざいんだよっ! そんなの勘よ、勘。あんただって、そうでしょーが」
「僕と歌姫じゃ、勘の精度が違うじゃん」
「あ?! 表出ろや!」
ごいんっ! とグラスをテーブルに叩きつけた歌姫に、出ませーんぴっぴろぴー、と煽っている五条の隣で、硝子はもぐもぐと肉を口に含んでいる。
「先輩、おいしーです」
「そう? よかった。いっぱい食べなさいね」
「はい」
一転して、にこにこと嬉しそうに硝子に笑いかける歌姫の顔を盗み見ながら、五条は豚肉をもうひと切れ口に入れる。少し焦がされた表面がかりっとした歯ごたえを与えてくる。身にさくりと歯を入れて咀嚼すると、ニンニクとシンプルな塩味のあとにじゅうじゅうとした脂の甘味が広がった。うーん、うまい。
「この前のベーコンアスパラもおいしかったです」
ごくりと肉の脂を焼酎で洗い流した硝子が、歌姫を見上げる。
「あーあれねー、さすが北海道のアスパラよね~~太くてしっかりしててめちゃめちゃ甘くておいしかったわ。ふるさと納税様様よね」
「え、それ僕食べてない!」
「呼んでないもの」
「呼んでよ!」
「いや、キミそもそも日本にいなかったし」
「待っててよ!」
「やーよ。味落ちるじゃない」
「あ、そこ?」
「? なによ」
「いーや、別に」
急に失速した五条は、笑顔を浮かべながら、また肉の皿に箸を伸ばしている。隣に座っている硝子は、それを横目に眺めて、はいはい、よかったな、とため息をついた。
「なに急ににやにやしてんのよきもちわる」
「このご尊顔になんてこと言うの!」
「次は何が届くんです?」
ぽりぽりときゅうりスティックを咀嚼しながら、硝子が歌姫に尋ねる。着席していない歌姫は、グラスを手にだらりとテーブルに体重を預けながら、んー、と考えるように宙を見つめた。
「そろそろ玉ねぎかな。淡路の」
「あー、あれも甘くておいしいですよね」
「そうねぇ
……
冷凍ストックがなくなってきたから補充しつつ
……
何にしようかな」
手元のグラスを回して、焼酎の渦を見つめながら思案している姿を、後輩ふたりは、もぐもぐと見つめた。ごくりと飲み込む。
「僕串揚げがいい」
「またあんたは手間がかかるものを」
「私はオニオンリングがいいです」
「ふたりとも揚げ物かよ」
「歌姫と違って若いからね」
「三歳しか! 違わないんだよ! あ、あんた、あれ作りなさいよ、オニオンスープ」
「ん? いーよー。グラタンにする?」
「そうね。もうちょっと涼しくなったら」
「じゃあ、歌姫も大量玉ねぎのクリームシチュー作ってね」
「玉ねぎ刻むのはあんたがやりなさいよ」
「硝子やってよ」
「メス以外の刃物はちょっと」
「いいかげん混ぜる以外の料理もしなー」
五条の言葉に瞬いた硝子は、口元まで持っていっていたグラスを置くと、すっくと立ち上がった。
「硝子
……
?」
「なに」
「待ってろ」
一言言い置いた硝子が、キッチンへと消えていく。その背を見送った五条と歌姫が顔を見合せていると、がちゃん、かち、と何やらコンロを使っているような物音がする。はっ! と再び五条と目を合わせた歌姫が、硝子
……
! とキッチンへ足を踏み出した。
「歌姫」
ふらり、とひらめいた歌姫の腕を引き止めたのは、五条だ。
「
……
待とう」
その言葉に、先ほど硝子が残していった言葉を思い出し、唇を噛み締めた歌姫は、自らを落ち着かせるように静かに椅子に座った。
ふたりが懸念するよりも物音は小さく、また異臭なども漂ってこない。それどころか、香ばしい香りが立ち込めて、ちらちらとキッチンを気にしながら、歌姫は焼酎を、五条はコーラを舐めるように口にした。
「できた」
やがてキッチンから現れた硝子の手には、大きな皿が乗せられていた。流れるような仕草でテーブルにサーブされたそれは、ところどころ焼け焦げが付いた枝豆で、食欲をそそるニンニクの香りが立ち上り、散らされた唐辛子の赤みが緑に映えている。
「硝子
……
あなた
……
!」
がたり、と椅子が大きな音を立てる。感極まった歌姫が大きな動作で立ち上がったのだ。たたっ、と短い距離を駆けた歌姫が、硝子の華奢な体を抱きしめた。
「えらいっ
……
えらいわ、硝子
……
! あなた、とうとう
……
!」
ぐすぐすと鼻を鳴らして硝子の肩に顔を埋める歌姫の頭を、ぎゅうっと抱きしめ返した硝子が撫でる。
「まだだよ」
そこに、五条の静かな声が響いて、歌姫はすんすんと鼻をすすりながら顔を上げた。
「歌姫は、すぐ硝子を甘やかすんだから。まず食べてみないと」
「そう、そうね
……
」
体を離した歌姫が、名残を惜しむようにして硝子の頬を撫でる。
「先輩
……
大丈夫です。私を信じて」
「硝子
……
」
もう一度歌姫が、硝子に抱き着いた。ぎゅっと存在を確かめるように体を寄せているのを見ながら、五条は枝豆をひと房摘まみ上げた。ごくりと鳴った喉は、五条と歌姫どちらのものだろう。五条の指から指へと橋のように渡った枝豆が、リビングの明かりを受けて妖しく光っている。房が口元に運ばれ、さやに圧力がかかった。艶々とした緑の豆が、五条の開いた口の中へと飛び込んでいく。
「
……
うま」
「っ!」
その瞬間、硝子の口角が上がり、ふふんと声が漏れる。勢いよく硝子を振り返った歌姫が飛びついたのを抱き留めながら、硝子はその両手を掲げて見せた。ブイサインである。ダブルピースである。歌姫の体の脇から生えたそれに、はいはいと頷きながら、五条は次の枝豆へと手を伸ばしている。
「ニンニクとー、唐辛子とー、オリーブオイル? 焼いてんの?」
「そう。ペペロンチーノ風とかなんとか」
「へー。香ばしくてうまいね。歌姫ー、食べないの? 食べちゃうよ?」
「食べるわよ!」
ぎゅうぎゅうと硝子に抱き着いていた歌姫が、テーブルへ手を伸ばす。その瞳はまだ潤んでおり、きらきらと光っている。
「おいしい!」
「よかったです」
「え、ほんとにおいしい。初めて食べたわ。塩茹で以外もあんのねー」
もぐもぐと歌姫が食べている横で、五条がひょいぱくと次から次に消費していく。取り皿にあっという間に空のさやが積まれていった。
「硝子の手料理を食べられる日が来るなんて
……
生きててよかったわ
……
」
しみじみと呟く歌姫に、五条がうんうんと頷く。
「ほんとにねぇ
……
歌姫は弱いから、いつ死んでもおかしくないもんねぇ」
「うるっせんだよ! あー、私の最後の晩餐これでいいわ。ビールと硝子の枝豆ね。墓前にもよろしく」
「樽で置いたげる」
「頼むわ。あんたは? 何がいい?」
「あー、そうだねぇ
……
」
「喜久福か?」
「角砂糖で十分じゃない?」
「いや、蟻たかりそうじゃん」
「硝子は? 何にする?」
「そうですね
……
タバコでも置いておいてください」
「無視はやめてよぉっ!」
よよよ、と嘆く五条をそのまま無視して、歌姫はグラスを傾ける。
「そういえば、硝子の好きな食べ物ってぱっと浮かばないわね」
「そもそも食にあんま興味ないよね、昔から」
「そうなのよねぇ
……
ほっとくとなんかサプリとかコーヒーで済ませようとしてたしね」
「歌姫が硝子にキレる唯一の案件だもんね」
「だって、青白い顔して、ふらふらしてるんだもの。最低でもたんぱく質と水分は取るべきよ」
「糖分もね」
「やっぱり反転術式の方が負荷が大きいのかしら」
「どうだろうね。僕と比べるのは意味ないからなぁ。そもそも硝子の場合は、そういう仕組み、というか脳が慣れてる気もするし」
「ああ、それも含めて適性かぁ」
「そだね」
ふたりの会話を聞きながら、もくもくと杯を進めていた硝子に歌姫が尋ねる。
「じゃあ、最近食べておいしかったものは?」
「うーん、そうですねぇ
……
あ、卵焼き」
ぱちぱちと瞬いてからの返答に、歌姫が首を傾げた。
「卵焼き? この前の居酒屋?」
「それじゃなくて、先輩が作ってくれたやつです」
「あ、だし巻き? 僕も好き」
「それじゃない」
「えっじゃあ、あのめっっっっったに作ってくれない幻の甘い卵焼き?!」
「それでもない。先輩あれ何が入ってたんです?」
「醤油」
あー、と以前の硝子との家飲みを思い出していた歌姫は、硝子の質問にあっさりと答える。
「え」
「だから醤油」
「それだけです?」
「それだけ」
「え、それでなんであんなおいしいんです?」
「なんでかしらねー、卵が持つポテンシャルかしら」
くっくっくっとさもおかしそうに笑って、グラスを覗き込んでいる歌姫のつむじを、五条がむーっと見つめている。と、おもむろにその口を開いた。
「食べる」
「は?」
「僕も食べたい! 作って!」
「えぇ
……
めんどう
……
」
「やだ絶対食べる!」
「はいはい、わかったわよ。っていうか、卵あるの?」
「ある」
「もう
……
」
せっかく座ったのに、などとぶつぶつ言いながらキッチンへと向かう歌姫の背を見送って、五条がいえいとピースをするのに、今度は硝子がはいはい、といなす。
「キミだって十分甘やかされてるだろ」
ピースがもう一本増えた。
「ごじょー」
「なーにー」
「菜箸ー」
「引き出しー」
んー、あ、あった、とガタガタとした物音のあとに、卵を割る音がする。
「ごじょー」
「はーい」
「醤油、新しいの開けていー?」
「いーよー」
卵をかき混ぜる小気味よい音を聞きながら、五条がテーブルを見回した。
「あれ、歌姫、グラス持ってってんの?」
「そうだな」
「うわぁ、ほんとにキッチンドランカーみたいじゃん」
「今日はそんな飲んでないだろ」
「そうなの? なんで?」
「来週健康診断だから」
こともなげに言い放った言葉に、五条が噴き出した。
「え、今更気にしてんの? 肝臓を?」
「大事なことだろ。それに歌姫先輩はそれほど無茶な飲み方はしないよ」
「あー、あーー? そうだっけー?」
こてんと傾げた首が、疑問を提示してぐっと深く下がっていく。虚空を見上げる五条に、硝子が苦笑いを浮かべた。
「派手に暴れるけどな。休肝日だって設けてるし、許容量超えたら寝ちゃうし」
「あー、前、空の一升瓶抱えて寝てたね」
「かわいいだろ」
「いや、かわいくはないっしょ。やだよ、管巻いて座敷で一升瓶と同衾する女」
「かわいいじゃないか」
「いやだから」
「かわいいだろう?」
「
……
認めねー」
「なにを?」
「僕の美意識が! それをかわいいと判定することはありません! ってこと!」
「うるさ」
「ひどっ!」
「なによ、もう、うるさいわね」
「歌姫までっ!」
戻ってきた歌姫にまで文句を言われて、五条はエアハンカチを噛み締めて泣いた。
「はい」
ことりと置かれた皿の上には、黄色くて、艶々でこんもりと巻かれた卵が鎮座していた。少しくすんだ色味なのは、醤油のせいだろう。
「おお
……
え、これ卵何個?」
「二個」
「のわりに、なんかおっきくない? めっちゃふわふわしてる!」
「コツはね」
「コツは
……
?」
「油を惜しまない」
「
……
つまり」
「カロリーがやばい」
ごくり
……
と五条と硝子の喉が鳴る。てかてかと光り、ほかほかと湯気をあげるそれを、特級呪物でもこれほどの視線は向けないであろう強さで、じっと見つめる。
「冷めるとしぼむからとっと食べなさい」
「はいっ! いただきやす!」
すちゃっと箸を構えた五条が、ゆっくりとひと切れ分を切り分けた。
「うわ、ふわふわ
……
」
ふるふると箸先で震えるそれを、はふり、と口に入れた。熱い。はふはふ、と咀嚼すると卵の甘みとかすかな香ばしさと塩味、それから。
「うまい! けど、めっちゃ油! 油を感じる!」
じわりと舌の上にはなるほど油が広がって、その上を更に卵の風味がさらっていく。あまりの油にテンションが上がった五条はげらげらと笑った。
「そうでしょう。罪の味よ」
したり顔で頷く歌姫の顔を見ながら、硝子もはふ、とひと切れを口に含む。
「おいしい
……
ほんとに醤油だけなんですね」
「ほんとよ。出汁も入れてない。ちょっと薄かったかしら。濃いめでもおいしいわよ」
「いえ、ちょうどいいです」
「いやぁ、すごいね。うまいけど、なんかこう、クるね!」
「あんたもあと十年もしたら食べられなくなるわよ」
「え、アラサーかわいそう
……
もう食べられないの
……
」
「十年っつったろーが! まだいけるに決まってんでしょ!」
自らの箸を突っ込んだ歌姫がふた切れ分ほどをかっさらっていく。
「あ! ずるい!」
「うるへー! 自分が作ったもんなんだからいいでしょ!」
「僕のリクエストなのに!」
「あー
……
でも私はもういいわ」
食道辺りを押さえた歌姫が顔をしかめているのを、後輩ふたりはもぐもぐと見つめて、ごくりと飲み込んだ。
「歳?」
「胃薬出しましょうか?」
「五条うるさい。硝子ありがと。さすがに今日はちょっと食べすぎたわ」
さすさすと胸をさすった歌姫は、それでもぐびりと焼酎を飲んでいる。
「まね。あと全部僕が食べちゃっていい?」
「いいわよ」
「あ、待て。これだけ」
硝子が、五条が手にしていた皿から卵焼きをひと切れさらった。
「えー、珍しい。ほんとにそれ気に入ったんだね」
「ああ」
もぐもぐと頬を膨らませて卵焼きを味わっている硝子に、歌姫は破顔した。
「また作るわね」
「嬉しいです」
にこにこ笑い合うふたりを横目に、五条は中途半端に残っているつまみを次から次に平らげていく。積み上げられていく皿に、回転寿司か、と独りごちて、歌姫はまたグラスを傾ける。
「ほんと食べるの早いわね」
「ちゃんと噛んでるよ」
見る? と自らの口元を指さした五条を、見るか、と歌姫が切って捨てた。
「昔からよく食べるし、ほんと、作り甲斐のあるやつよ、あんたは」
「ごちでーす」
ぺこりと頭を下げた五条に、歌姫はくすくすと機嫌よく笑う。
「あんたと夏油は、ほんとよく食べるし、硝子は全然食べないし、あんたたちのバランスなんかおかしいのよね」
かさぶたのような名前が、歌姫の優しい声で紡がれて、五条も笑う。
「育ち盛りだもん、そりゃあ食うよ」
「あの時点で、十分でかかったのに、まだ育つ気? って思ってたわ」
「あそこからまだ伸びたし、筋肉も付けたし、そもそも頭も使うし、食っても食っても腹減るんだよ」
「燃費が悪いんじゃないの?」
「歌姫と違って、ここ使うからさ、エネルギー消費が半端ないの」
五条が、とんとんと指先でこめかみを叩いてみせると、歌姫の顔がわかりやすく気色ばんだ。
「あんたたちはほんといつもいつもひとのことを馬鹿にして
……
! 自分たち以外の人間を弱いだのなんだの見下すのやめなさいよね!」
「僕たち以外の皆じゃなくて、歌姫と比べてだってばぁ」
「ピンポイントに寄せてんじゃねーよ!」
ほんと腹立つ、とぶつぶつ呟いた歌姫は、五条を相手にすることをやめ、硝子へと向き直る。
「ねぇ、ほんと、硝子もさぁ
……
あら」
「ん」
にやにやと箸を咥えていた五条も、隣の硝子へと目を向けた。
「あらら、寝ちゃった?」
かくりと硝子の頭が揺れ落ちる。
「昨日も徹夜だって言ってたものね」
「んー、確か三徹くらいしてた気がする」
「ほんともう、人使いが荒いんだから」
業界全体へ憤ると、歌姫はテーブルを回りこんだ。硝子の肩に手を置いて、そっと揺らす。
「硝子、硝子。大丈夫? 帰る?」
「んん
……
ねむい
……
」
子どものようにむずがる硝子に微笑んだ歌姫は、伺うように五条を見た。毎度毎度律儀なことだな、と五条は呆れ半分、感心半分で肩をすくめて頷く。今更遠慮する付き合いでもあるまいに。
「どーぞ。一晩のお宿を提供しますよ」
「ありがと」
そうと決まれば歌姫の行動は早く、硝子を立たせると勝手知ったる客室へと向かっていく。その背に五条は声をかけた。
「歌姫も泊まってけば?」
明日の予定は三人とも高専である。同じ時間に起きて、同じ時間に出発すればいいのだから、一緒の方がなにかとスムーズだろう。歌姫もそう判断したのか、考えたのは一瞬で、すぐに頷いた。
「じゃ、お言葉に甘えて」
今更、と五条は笑って、その背を見送ると、食事、というより、処理を再開する。京都からやってきた歌姫は、キャリーバッグを持参しているため、着替えなどは問題ない。硝子のものは何もないが、仮眠に慣れているので、恐らくそのまま寝るだろう。そうなると、明日の朝は早めに硝子を送り出さないといけないのか、と今更気づくがもう遅い。
「あ、高専に一式置いてあるか」
ゆるゆるした思考がそこに行きついて、五条はよし、とひとり頷くと、最後の白菜の浅漬けを飲み込んだ。だいぶ炭酸が抜けたコーラを飲み干して、テーブルの片づけを開始する。皿や小鉢を重ねて、ふと見た歌姫のグラスには、まだ半分ほど酒が残っていた為、それは一旦保留だ。硝子のグラスはもういいよな、と他のものとまとめて摘まんで、キッチンへと運んだ。
三人が使用したシンクはそれなりに散らかっていると思っていたが、菜箸やボウル、フライパンなどは粗方洗われていて、先ほど卵を焼いたときにでも片づけたに違いない先輩に、五条は苦笑いした。
皿やグラスを食器洗浄機に入れ込んで、テーブルに戻ると、歌姫も戻っていた。
「それ、まだ飲む?」
ぽつんと残されていたグラスを指さすと、歌姫は一瞬きょとんとしてから、ああ、とそれを手に取った。
「飲んじゃうわ」
ごくり、と立ったまま呷った歌姫から空のグラスを受け取って、五条はキッチンに戻る。パズルのように食器洗浄機にグラスをはめ込んで閉めると洗浄を開始した。布巾を手に取り、テーブルを拭いていると、歌姫が廊下から客室へと向かっている姿が見えた。ついでに目を動かせば、リビングの片隅に、歌姫のキャリーバッグがある。
「硝子、寝たの?」
「うん。化粧落としてあげようと思って」
歌姫が手にしているのは、恐らくクレンジングシートで、五条は女は大変だな、と浅いことをぼんやりと思った。単純に生活に工数が多いのだ。
「もう、一式置いておけば?」
毎回ではないが、結構な頻度で発生するこの事象に、五条が何度目かの提案をする。そして、それに毎回、歌姫も硝子も、首を横に振るのだ。
「いいわよ。何かのときにあんたが困るでしょ」
「何かって?」
「彼女が来たときとか」
にやりと笑って、歌姫が客室へと消えていく。歌姫の理由は毎回これで、その度に、五条は、ここに連れてくるわけなくない、とため息をつく。ちなみに硝子の理由は、置きたいのは私の分じゃないだろ、だ。はい、そうですね。
とはいえ、五条にも言い分はあって、今日は珍しく硝子が潰れたが、歌姫の方が回数も可能性も多い。こうして三人で過ごすことは今後も続くのだから、そう決めてしまえば効率がいいのに、と思うのだ。勝手にそろえておこうか、とこれも幾度も考えたことをまた思って、でもやはり二人に了承してもらいたいと同じ道筋をたどる。ひどく青臭く、子どもじみた考えだとわかっているから、五条はまたひとりでそれを呑み込んだ。
布巾を洗って干して、一通り片付けを済ませた五条は、客室へ向かう。半開きの扉を覗くと、部屋の真ん中に配置されたベッドの上に、歌姫が腰を掛けているのが見えた。手にしたクレンジングシートで、目を閉じている硝子の顔を丁寧に拭っている。硝子の体が身じろぐ。起きた? と囁く声がした。横顔が優しく微笑んでいる。起きてないです、という甘えた声を聞きながら、五条は腕を組んで、とんと壁に体を預けた。歌姫は、起きてないの? とくすくす笑いながら、硝子の顔をくまなく拭って、素手でその肌を確かめている。はい、いいわ、もう寝なさい、という声が夜に溶けていく。上掛けをかけて、よしよしと髪を撫でて寝かしつけている様を、五条はのんびりとただ眺めている。世話焼きである歌姫のこういう様子は見慣れていて、けれど、見飽きることはないもんだな、と不思議な感慨を噛みしめる。
特殊な業界であるし、また寮生活を共にした人間というものは、時に家族よりも近しい存在となる。朝の寝起きも、夜の寝顔もお互いに良く知っているのだ。
「歌姫」
「んー?」
いまだ硝子の寝顔を眺めながら、歌姫が応答する。
「僕、シャワー行ってくる」
「うん、わかった」
「歌姫も浴びる?」
そう尋ねて、やっと歌姫が五条を見た。首を傾げるようにして、浴びる、と答える姿に、ん、と頷いて、五条は浴室へと向かう。そのあとから、歌姫が客室を出る気配がして、廊下で二手に別れた。
男の家でシャワーを浴びるというのに色気も何もあったものではない、と五条は笑いながら、衣服を脱ぎ捨てる。浴室の扉を押し開けて、コックを回した。身長ゆえ、シャワーを脳天から浴びることは叶わないから、少し屈んで、後頭部に熱い湯を当てる。あーーという声が湯に流れていく。そういえば、歌姫と硝子がここに二人で入っていたこともあったな、と栓無きことを思い出した。
シャンプーを泡立てながら、長くなってきた髪に美容院に行く算段を付ける。時間あるかな、作らせればいっか、伊地知に、とがしがしと洗い流して、シャワージェルを手にする。それとは別にボディーソープも置いてあって、これは許されたのにな、とおもしろく思う。女子二人の線引きはよくわからない。
がたりと扉を開けると、こもっていた湯気が逃げ出して、洗面台の鏡が一瞬曇った。あ、着替え忘れた。ま、いいや、と腰にタオルを巻いて、ぺたぺたを廊下を進む。リビングに顔を出すと、ソファーに座った歌姫は、ぼんやりと高専支給の端末を眺めていた。
「シャワーいいよ」
「あ、うん
……
ってちょっとあんた」
「なに」
振り返った歌姫が、応答の途中で眉をしかめた。
「そんな恰好で出てくるんじゃないわよ」
「着替え忘れたんだもん。いいでしょ、僕の家なんだし」
「客がいるんだから気を遣いなさいよ」
「客ー? どこにー?」
「あんたね
……
」
嘆息した歌姫は、それ以上何も言わず、端末を操作した。画面が暗転する。
「なにか気になること?」
「ん?」
「それ」
歌姫の手元の端末を示すと、ああ、とそれを持ち上げる。
「明日の連絡事項の確認」
「まっじめー」
「当然でしょ」
つんと顎を挙げた歌姫に、昔の面影が見えて、五条は笑ってしまう。酒が飲めるようになっただとか、当然のように化粧をしているだとか、生活サイクルが合わなくなっているだとか、作れる料理の種類が増えただとか、消えない傷だとか、たくさんの変わったものが目に付く中で、時々こうして変わらないものが転がり込んでくる。
「シャワー借りるわ」
「どーぞー」
廊下を譲ると、肩あたりを歌姫の頭が通過する。それは五条の身長が伸びたことによって少し変わって、けれど、感覚的には大差がない。下ろされた髪を、長いな、と思って、五条は冷蔵庫へと足を向ける。
遠くで浴室の扉が開く音を聞きながら、冷蔵庫から水を取り出した。きんきんに冷たい水が、食道を下って、胃に落ちる。それを持ったまま、寝室へ向かって、着替えを取り出した。下着とスエットとTシャツを身に着けて廊下に出ると、硝子がふらふらと客室から現れた。
「どうした?」
「トイレ
……
」
よろよろと廊下を進む硝子が、トイレの扉を開けるのを見届けて、五条もリビングへと戻る。ソファーに腰を落ち着けると、水音のあとで、扉の開閉音が二回鳴って、よしよしとちゃんとベッドに戻ったことを確認する。
しんとした家の中で、もうひとつの水音が続いている。特にどうとも思わないけれど、生活音ってやつ、と五条はまた水を飲んだ。もう、ひとりの生活の方が長くなってしまった。それは三人ともがそうで、あの騒がしく、煩わしく、懐かしい寮の生活は随分と遠い。遠くに、在る、ただそれだけだ。
ぶおーっという風音がする。歌姫がドライヤーを使っている音で、だから本当に線引きとはなんぞや、である。
かちゃりと扉の音がして、すりすりという足音が、廊下の奥へと去っていく。客室へ向かうそれをぼんやりと知覚していると、あれ? という声が聞こえた。んん、と首を巡らせても、当然ここからでは歌姫の姿は見えない。よっせと立ち上がり、冷蔵庫へペットボトルをしまうと、客室へと向かった。
「歌姫ー?」
先ほどとは違い全開にされた扉から覗くと、歌姫は案外近くにいた。
「硝子がいない」
「え?」
振り返りざまの言葉に、五条も歌姫の体越しにベッドを覗く。確かにそこはもぬけの空だった。
「あー」
五条は唸ると、そのまま踵を返す。こっち、と促すと、心配そうな顔をしたままの歌姫が付いてくる。少しの廊下を進み、リビングの手前、五条が普段使っている寝室を開けると、客室よりも大きなベッドのど真ん中で、硝子が横たわっていた。
「あれ?」
二度目の疑問の声に、五条は背後の扉の先を示す。そこにはトイレがある。
「さっきトイレに起きたから、そのままこっちに入っちゃったっぽい」
なるほどね、と頷いた歌姫が笑う。
「じゃあ、このままここに寝かせてあげる?」
「そうだね」
「ベッド広いし、一緒に寝れば?」
「あー
……
」
確かに客室のベッドは適当に買ったので、五条にはいささか短い。こちらは特注のキングサイズで、硝子ひとり増えたところで、特に問題はない。そしてそれは、もうひとり増えたところで同じだ。
「じゃあ、歌姫も一緒に寝よ」
「えぇ
……
」
五条の軽い提案に、歌姫の顔がいやそうに歪む。
特殊な業界である。五条はもちろん、歌姫も男女問わずの雑魚寝の経験など十分にあって、そうでなくとも寮生活時に、深夜まで遊んでは全員で潰れたことだってある。
「いいじゃん。どうせいつも寂しく一人寝なんでしょ」
「それはあんたもでしょーが」
ま、いいわ、と頷くと、歌姫が一度寝室を出た。
「水もらっていい?」
「いいよー。僕、歯磨きしてくる。歌姫は?」
「さっきした」
「早」
洗面所を開けると、まだ少し湿気が残っていて、扉を開け放ったままにする。かすかなボディーソープの香りに、だから線引き、と五条はくくくと喉を鳴らして、歯ブラシを取り出した。歯磨き粉はアップルミントである。しゃかしゃかと磨いていると、ごじょー、と小さく呼ばれた。洗面所から顔を出して、なーにーと返事をすると、水、開いてるのもらっていーい? と返る。一瞬考えて、五条はいーよーと答えて、鏡の前に戻った。線引き、まじでよくわかんないね、と目の前の自分に問うように首を傾げた。
ぺっと吐き出して、口をすすいで、タオルで拭いて、寝室へと戻ると、ちょうどリビングから戻ってきた歌姫と出くわした。なんとなく、その唇を見てしまう、と、それが動いた。
「電気、どこだっけ」
「いいよ、消してくる」
ソファーのそばのガラステーブルに置いてあるリモコンを手に取り、照明を落とした。暗くなったところで、五条の目には特に支障はなく、そのまま寝室へと向かう。
ベッドの上では膝をついた歌姫が、また硝子の髪を撫でている。今度は身じろぐ気配はなく、ぐっすりと寝入っているようだった。
「歌姫、奥行って」
その背中に小さく声をかけると、ふるりと震えた背が五条を振り返った。落ちた髪を耳にかけて、ん、と承諾が返ってきた。もぞもぞと膝で移動している歌姫は、最終的に手をついて、硝子の体を乗り越えている。薄いピンク色のスエットの体が、ベッドの奥でぺたりと座った。
五条が乗り上げると、ぎ、とかすかにスプリングが鳴って、普段とは違い、ベッド上の存在に少し気を向けるが、硝子は目覚める気配はなく、歌姫もぽんぽんと枕の位置を調整している。下の方で固まっている上掛けを引っ張り上げて広げると、端を歌姫の方に放り投げた。はずみで硝子の顔が埋まる。わわ、と少し慌てた歌姫が、それをずり下げた。すうすうとあどけない寝顔がまた覗く。
五条がごろりと転がると、歌姫も横になった。上掛けを調整して、五条は立てた肘に頭を乗せて、歌姫たちの方へと顔を向けた。
「眠い?」
アルコールが入っている歌姫の目は、ずっととろんと緩んでいて、五条の言葉に、ん-、と少しむずがった。眠そうだ。
「少し」
「今日は、べっろべろじゃないんだね」
「いつもそんなことないでしょ」
「そんなことありすぎるひとが何言ってんの」
「
……
うるさい」
「健康診断だって? 気にしてんの?」
「硝子か
……
そりゃまぁ多少は」
「長生きしたい?」
「
……
」
薄闇で、歌姫の目が、五条を見上げる。
「そりゃあね」
あっさりと当たり前のように言い切られて、五条は微笑んだ。
「いいね」
「かわいいおばあちゃんになるのよ」
「かわいい
……
?」
「いちいちうるさい」
じろりと睨まれて、五条の笑いがますます深まる。
「年取ったら、もうぜーんぶ若い子に任せて、硝子とゆっくり温泉でも行きたいわね」
「へー、いいじゃん。ってか僕は?」
「え、来るの?」
「行くよ」
「えー、来るのぉ?」
「僕が行くとグレード上がるよ」
「あんたがいるストレスと、それを天秤にかけても、どうもバランスがね」
「ひっどいんだけど。いいじゃん、きっと絶対楽しいよ」
「どっちよ」
「じゃあ、絶対」
「わかったわかった」
くくっと笑った歌姫が、あやすように手を振っている。そのしぐさが、その了承が、なんだかやたら嬉しくて、五条も腹の底からこみ上げてくる笑いを、そのまま放出する。後から後から湧き出してくる衝動を堪えるべく、枕に被さるように上体を倒して、枕に顔を埋める。硝子を起こさないように、と声を堪えるせいで、腹筋のあちこちが痛い。
「ふ、ははっ、ふっふふ、う、歌姫はどこ行きたい?」
「めちゃめちゃ笑うじゃない。そんなに行きたかったの?」
「無難に箱根? 熱海? 草津もいいけど、下呂とか行く?」
「んー、そうねぇ
……
どこでもいいけど、雪見酒とかいいかもね」
「出たよ飲兵衛」
そう揶揄しながらも、五条の脳内ではこれまでに行った日本全校津々浦々の温泉一覧がリスト化されている。だてに特級伐徐おひとり様ツアーを行っている訳ではない。
「あ、一個、確認」
「なによ」
「混浴あり?」
「はぁ?!」
思わず、だろう、上がった大きな声に、しっ! と人差し指を立て、慌てて手で口を塞いだ歌姫に、再度確認する。
「いやだってさぁ、せっかく一緒に行くのに、僕だけ男風呂とかつまんないじゃん。普通の混浴はあれだけど、部屋付き露天とかならいいかなぁ、って思って」
「あ、ああ、そういう
……
」
そう呟いた歌姫は、少し考えているようで、五条は、お、と目線を上げる。考える余地があるらしいことに、口が緩む。
「硝子がいいならいいんじゃない」
「え、じゃあ、歌姫はオッケーってこと?」
「え、あ、まぁ
……
」
曖昧ながらも頷いた姿をばっちり目と脳に焼き付けて、再度脳内を検索する。
「どこがいいかなぁ
……
あ、別に一箇所じゃなくても、何回も行けばいいよね?」
「そうだけど、あんたそんなに温泉好きだったっけ?」
「嫌いじゃないよ」
「浮かれすぎじゃない?」
「いいじゃん。全然休暇取れてない特級様のささやかな楽しみだよ」
「はいはい、お疲れ様」
歌姫がごろりと仰向けに転がる。
「私たちは酒だけど、あんたは何飲むのよ。メロンソーダ?」
「それもいいけど、アイス食べたいな~」
そう言うと、くすりという笑いが天井に放たれた。ふふふ、と柔らかい笑いのあとに、いいわね、と楽しそうな声が夜の部屋のベッドを震わせる。
「歌姫も食べる?」
「五条、知ってる? 日本酒のシャーベットがあるの。みぞれ酒ってやつ」
「ああ、はいはい。おまかせください」
くふふ、と幼い子どものような笑い声を上げた現ほろ酔いアラサーは、それでも浮かれた声音で、楽しみね、と囁いた。
それに、うん、と返して、もういいんじゃないかな、と再び尋ねる。
「ねぇ、歌姫」
「んー?」
「硝子とお揃いでもいいよね?」
「なにが?」
「なんか、一通り」
この返答で、何についての質問か分かったらしい。歌姫は、少し呆れた顔を五条に向けると、仕方ないわね、と息をついた。
「硝子がいいなら」
「じゃあオッケーだ」
「ちゃんと確認しなさいよ」
窘める声音に、五条は自信満々に大丈夫、と胸を張った。
「なんでよ」
「だって、硝子は歌姫に甘いもん」
ぱちりと、暗がりでも歌姫が大きく瞬いたのがわかる。ゆっくりと首が起き上がるように傾けられて、その口から声が漏れる前だった。
「お前もな」
少しくぐもったかすれ声が夜気を震わせた。
「ん?」
「ごめん、硝子。起こしちゃった?」
「歌姫が大きい声出すからぁ」
「あんたの声だってでかいのよっ!」
「五条の馬鹿笑いで起きた」
ごろりと転がりながら、硝子は髪をかきあげると、歌姫を見やり、いいですよ、と微笑んだ。
「なにが?」
尋ねる歌姫に、硝子は更に笑みを深くした。
「混浴も、お揃いも」
「ああ、それ。そう、うん、そうね、いいわね」
「だってさ」
「ん?」
ちろりと、今度は五条に硝子の目線が移る。
「感謝しろよ」
「
……
は? 意味わかんねー」
「っていうか、硝子ずっと起きてたのね」
「いえ、寝てましたよ。一緒に温泉に行けることになって、嬉しくて嬉しくて仕方ないどっかの馬鹿が笑うまでは」
「そこまで言うことなくない」
思わず拗ねた声を出した五条に、二人が声を揃えて笑った。
「もういいや。寝よ」
本格的に体を横たえた五条を越えるようにして、硝子がベッドを下りる。
「どこ行くの?」
「歯磨きしてきます」
「持ってるの?」
「携帯用を」
ああ、と納得した声を出した歌姫が、同じように再度体を横たえているのが、硝子という遮蔽物がなくなった状態では、五条からよく見えた。
「あ」
いきなり上がった五条の声に、歌姫の体がびくりと揺れる。
「っ、なに」
「あ、いや、硝子硝子」
「なに」
既に体半分が廊下に出ていた硝子が、五条の呼びかけに振り返る。
「僕も、ってなに?」
端的な質問に、硝子は一瞬考えて、ああ、と首肯した。
「君だって十分甘いだろ、って話」
「どこが」
そこで珍しく硝子が、んー、と首を傾げた。いつもは、ばつばつと身も蓋もない結論を紋切り型に放つ硝子が、少し考える素振りをしている。
「全部」
にぃ、と化粧が落とされた素のままの唇がにんまりと上がる。
「
……
答えになってなくない」
「なくなくない」
「うわ、めんどくさ」
「っていうか」
硝子が、廊下に踏み出す。
「否定しないんだな」
ひらひらと振る手だけを、扉のこちら側に残して、サービス堪能しろよ、とその指先が消えた。
「サービス?」
疑問を独りごちて、硝子の指が示した方を見ると、そこでは目を閉じた歌姫がすやすやと寝息を立てていた。
「静かだと思ったら」
そういえば、先程から眠そうではあったのだ。硝子分空いているスペースを埋めるようににじり寄る。柔らかそうな髪がたわんで、顔に掛かっている様を、近くから見つめる。すうすうという寝息に合わせて、細い肩が上下して、その骨の細さを思う。
じわじわとシーツ越しに体温が沁みて、五条の力も抜けてくる。ぺたりと顔を沈ませて、少しだけ見上げるようにすれば、まつ毛と鼻先と唇が、そこに鎮座している。やっと、五条がその指を伸ばして、髪を耳にかけてやると、頬にある傷跡が見えた。親指でそっと触れると、そこの皮膚だけが生新しい。周りの皮膚との境目を何度も撫でて、くすぐっても、歌姫は起きなかった。
「お触りはなしだろ」
「おっ、と」
戻ってきた硝子の声に、五条は両手を上げる。
「そういうことは本人の許可を得てからだろ」
ほら、どけ、とまた端に追いやられた家主はそれでも大人しくずれると、天井に向けて、笑い声を漏らした。
「まぁ、大丈夫っしょ」
「根拠は」
「歌姫は、甘ちゃんだから」
節づけて答えた五条に、はぁ、と硝子のため息が漏れる。
「寝る」
「僕も寝るー」
「甘えため」
「それは心外」
「おやすみ」
「おやすみ」
挨拶を交わし、硝子が目を閉じ、五条もまた目を閉じた。そして、寝室に訪れた静寂は一瞬で破かれる。
「
……
おやすみ」
歌姫の小さな挨拶に、目を開けた二人の視線が絡む。五条の目がにんまりと細まり、硝子の眉間がいやそうに歪む。
「歌姫、おやすみぃ」
調子に乗った五条の腕が伸ばされ、歌姫の髪を撫でる。
「
……
手がここまで届くのがむかつくわね」
「まったくです」
頭上を通っている五条の腕を、硝子がぴしりと叩く。
「僕ってば、腕も足も長いグッドルッキングガイだからぁ」
「寝ましょ。おやすみ、硝子」
「おやすみなさい、先輩」
「あ、僕も寝るって。おやすみぃ」
それを最後に、今度こそ寝室は静かになった。うとうとと微睡みながら、三人の一日は、ゆっくりと閉じていった。
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