和綺
2023-07-27 20:42:51
2388文字
Public
 

車内点検一体取り逃し(モブ+歌/五歌)

モブと歌。歌の術式というか呪術に夢を見てしまう。

金曜日、下り線最終電車は、混み混みの混み乗車率百パーセントを超えているだろう混み具合だった。この時間だとがっつり残業組のぐったりした顔か、ご機嫌な赤ら顔かに分かれてて、自分は前者で、目の前でこっくりこっくり舟を漕いでいるお姉さんは後者であろうと思われた。天井からの吊革に届いているので、きっと背が高めで、真っ赤な顔には大きな傷跡があって、けれどいやな感じがしないのは、その表情のせいかもしれない。楽しい酒席だったのか、目も口もずっと弧を描いていて、時折ふふふと小さく笑っている。人と人の隙間を縫うように斜めになった体勢のせいで、その声が拾えるくらい近くに顔がある。
がたんと電車が揺れた。いつものポイントなので慣れているけれど、お姉さんの体はがくりと大きく揺れた。ぎゅうぎゅうの車内なので腕を抜き出すこともままならず、自分が動かなければ大事にはならないだろうと、意識して少し力を入れた。壁ですよー、壁壁、と内心で唱えてみる。意外なことにお姉さんの体はぶれることなく、相変わらず斜めの体勢を維持していた。体幹が強いのかもしれない。長めの黒髪がさらさらと揺れて、いい香りがした。
目を閉じているけれど、眠っているわけではないようで、よく耳を澄ますと、小さな鼻歌が聞こえた。あまりのご機嫌ぶりについ笑ってしまうと、それに気づいたのか、お姉さんの目がぱちりと開いた。とろんと少し眠そうな目と合って、にこりと微笑まれた。かわいい。笑い返すと満足したのか、また目を閉じてちいさなハミングを続けている。聞いたことのない歌だけど、きれいな曲だなと思った。
耳を澄まして聞き入っていると、ざわざわとした話し声や電車の音が遠くなる気がする。じっとりとした周りの空気が軽く、なんだか呼吸がしやすくなった。いつの間にか閉じていた目を開けると、文字通り目に「視えて」周りに変化が起きていた。なんとなく「視える」人である自分は、こういった人混みでは必ずと言っていいほど黒いもやめいた何かを感じてしまう。誰かの肩に、腰に、顔に、膜のような、コールタールのような、多分触れたらべったりとこちらが黒く染まってしまうような、何かだ。「視える」だけで実害はないからそのままにしているし、そもそもどうにかする手段もわからないそれは、すっかりと視界に馴染んでいるせいで、ただの風景と化していた。
ぱちぱちと瞬いて、ぐるりと首が動く範囲で見渡した視界に一切黒いものがない。人工の明かりがまるで宝石を散りばめたように、きらきらと車内を照らしている。世界ってこんなにきれいだったのか、と恥ずかしいことを思った。
歌はまだ続いている。近くにあるお姉さんの体から体温が漂ってきて、熱いのかななんて思う。
そのとき、あら、と澄んだ声が聞こえた。歌が途切れる。吊革に預けきっていたお姉さんの体が起きる。直立になって、一度目を閉じたお姉さんが次にその目を開けたときには、とろりとした熱が消えていた。顔色までもが、ほのかな赤みを残しつつも落ち着いて、ふ、という息遣いを感じた。そこから現れたのが、歌だということはなぜかわかった。だけど、それはどこかここにはない音のようだった。多分はっきりと発声している。それなのに聞こえない。ただ熱のような、圧のような、空気の奔流のようなそれが顔の近くを過ぎて、耳を掠めて、背後で何かが弾けたような感覚があった。その瞬間、ざっと、清浄な水がすべてを洗い流すような音を聞いた。なんとなく常日頃感じていた背中の重みが消える。心做しか、周りの乗客もほっと息をついた気がした。
お姉さんは、また吊革に凭れるようにして目を閉じており、その唇は弧を描いている。ひどくきれいだった。お姉さんの周りが、祝福を受けて光り輝いているように見える。
見とれていると、電車がホームに入り、がったんと揺れて停車した。扉が開いて、お姉さんの顔がぼんやり上がった。むわっとした外気が流れ込んで、人の移動に合わせて頼りない体がふらふらと揺れている。あ、と手を伸ばしかけたそのとき、頭上を黒くて大きい何かが横切った。

「歌姫」

吊革に縋っていた腕をするりと絡めとったのは同じく腕だった。自分より遥かに高い位置にあるそれがお姉さんの手を吊革から優しく外して、くいと扉に向けて誘導する。
「降りるよ」
「んん、ごじょ……降りるの?」
半分眠ったような声は、それでもやはり澄んでいて耳に優しい。降りるよ、とこちらも優しい声で答えた太い腕の持ち主である男性がすたすたと先導するあとを、お姉さんがふらふらと着いていく。すれ違いざま、あぁ、と舌足らずな声を上げたお姉さんが、自分を見て、にこぉと笑う。やっぱりかわいい。思わずへらりと笑い返して、なんだかわからないけど、ありがとうございました、と自然と口を付いた。ふふふ、と笑うお姉さんは、けれど歩みを止めることは許されず、半ば引きずられるようにして、ホームに降りた。こちらを見てひらひらと手を振るお姉さんを見送っていると、その背後にいる男性が振り返る。黒い、真っ黒なサングラスをかけたその人は、きれいな銀髪か白髪で、かなり背が高かった。
瞬間、ばちりとした気配を感じる。
男性がかけているサングラスは、多分一切の光を通さないくらいの濃いもので、その奥にある目は何も見えない。けれど、わかる。見られている。じっと強い視線が当てられている。
男性の腕がお姉さんの腰に回って、形の良い唇が持ち上がって、そうして扉は閉まった。
動き出す窓越しに、お姉さんが別の女性に抱きついているのが見えた。腰に回った腕はそのままで、男性の口は、今度は優しく綻んでいて、スピードを上げた電車はそれらをすべて置き去りにした。ふと見上げた天井から下がる吊革が、スピードに似合わない激しさで、ぶらんぶらんと揺れていた。