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ゆい
2024-01-09 19:56:29
3154文字
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蜂蜜とジェラシー
【宗みか】しゅうくんが嫉妬する話。
「ただいまぁ」
お師さんが帰国中の仮の宿として選ぶホテルは、いつも毛足の長い絨毯が敷いてある。どれだけ強く踏み締めても足音は容易に奥深くまで飲み込まれて、自分の耳にすら鮮明には届かない。何歩進んでも覚束無い靴裏の感触に急かされるように、帰宅の挨拶は今日も自然と声が大きくなる。勿論、お師さんがおれの一挙手一投足を聞き逃すことなんて無いから、他愛無い焦燥は毎回おれの杞憂で終わった。現に今だって殆ど無音で顔を覗かせたにも関わらず、半日ぶりのお師さんの瞳は寸分狂わずにおれを捉えている。
「おかえり。案外早かったね」
「おしゃべりしてきただけやもん。でも、お土産あるよ」
「明日いただこう。夕食は済ませた?」
「オムライス食べてきた。新しく出来たお店らしいんやけど、隠れ家みたいで雰囲気あったわ」
「そう‥誰と食べたの?」
「‥ジュンくんとこはくくん、やけど」
一瞬、微かな躊躇いが吐息に混ざって聞こえた気がしてこちらの返事も一拍遅れてしまった。慎重に同じ事務所の仲良しの名前を挙げたけれど、お師さんの表情は何故か晴れない。帰宅早々、おれは何をやらかしてしまったのだろう。読み掛けの本を膝に開きっぱなしで置いたまま、こちらを無言で見上げる顔の険しさに思わず息を呑む。二人掛けのソファーはきっちり一人分空いているのに、流石のおれも今は頑として座れない。伏せられてお師さんの隣に置かれた携帯電話が、おれの怯えに呼応するかのように一度短く震える。珍しく持ち歩いていたらしいそれに帰宅の連絡をした時は、簡潔だけどいつも通りのお師さんだったのに。お師さんが好きそうな蜂蜜味のスコーンを差し出した格好で固まりながら、予想外の沈黙に必死で頭を働かせる。二人とごはんに行くことはあらかじめ伝えていたし、お店だってホームページを見せたら「良い店だね」って褒めてくれた。みんな明日も仕事だから食事だけですぐに解散して、二人の夜もまだまだ始まったばかりだし。これ以上の落ち度は思い付けない、こうなれば直接聞いてしまえ。せっかくの余韻が台無しになる前にと覚悟を決めて大きく息を吸い込めば、ふわりと苦い風がよぎる。
「あっ。‥そういえば、天城先輩がこはくくんお迎えに来て。最後に‥ちょっとだけ、一緒にお茶したわ」
「‥道理で。煙草臭いと思ったよ」
「えっ、おれ匂う!?全然気付かんかった!!」
眉間に皺を深く刻みながらそう低く呟かれて、慌てて自分のコートや上着に顔を寄せた。嗅ぎ馴れた柔軟剤の匂いに紛れて、よくよく集中すれば薄くだけど確かに騒がしいあの人の残り香がある。うぎゃ、と自然に漏れた悲鳴と一緒に急いでコートを脱ぎ捨て、身体中を思い切り叩く。苦手な人と匂いをこれからの二人に持ち込みたくない一心で手を動かすけれど、一度気付いた違和感は肌に纏わりついてなかなか取れない。本人に似て名残までしつこいなんて勘弁して欲しい、今でも出来れば避けたいのにこれじゃあもっと遠ざけたくなる。
ちょっと泣きそうになりながら転がるおれに、お師さんは更に渋く顔を顰めてから億劫そうに立ち上がる。呆れられる、と一瞬胃が縮むけれど表情とは対照的に床のコートとスコーンを拾う手つきはいつも通りに優雅だ。そのまま音も無く距離を詰めて目の前に立ったお師さんは、おれの頭の先から足元まで隈無く見渡してから溜め息を吐く。
「‥少し落ち着きなさい。明日にでもクリーニングに出せば、衣類の匂いなんてすぐに取れるよ」
「天城先輩のせいや‥ごはんはすごい楽しかったのに、最後でテンション下がってもうた」
「ちょっとだけ、と言う割にはしっかり匂いがついていたね」
「んん‥きっと、個室だったからやと思うで」
躓いて溢れた答えに眼光がまた少し鋭くなったけれど、一生懸命笑い掛け続ければそれ以上の追求は無かった。別に、嘘をついた訳じゃ無い。個室は本当だし天城先輩が同席したのも十分くらいの話だ。ただ、必要以上に隣に座られて写真を撮られたり肩や頭を強めに抱かれたのは、無理に伝えなくても良いかなって思っただけで。久しぶりの逢瀬中にわざわざ火種を引っ張り出してお師さんを不機嫌にさせるのも藪蛇だし。
後ろめたいことなんてこれっぽっちも無いといくら頬を緩めても、お師さんはこちらを見つめて黙ったまま。小言でも皮肉でも良いからそろそろ何か言葉が欲しいなと思うのは欲張りだろうか。一度運良く受け止めて貰えた心は際限無く次を望んでしまい、もっともっととお師さんの全てを欲しがってしまう。そんな心の在り方をはしたないなと咎める自分と、人間みたいだと薄ら笑う自分が確かにいる。それでも良いじゃんと笑い飛ばして開き直るには、きっと想像以上の時間と覚悟が必要で。お師さんに本音を打ち明けるより、自分と折り合いをつける方が何倍も無粋で面倒だ。
笑顔の裏で刹那の煩いに気を取られていたら、突然手を取られて思わず肩が跳ねた。先程よりちょっとだけ近付いたお師さんは、まだまだ不満を溜めた苦々しい顔をしている。だけど、手首を掴んだ指はこちらが狼狽える程に優しくて、交わった分だけ勝手にこちらの熱が上がった。戸惑うばかりのおれに結局また溜め息を漏らしながら、お師さんは不機嫌を装ったままくるりと踵を返して歩き出す。
「話とお土産は後で。先にお風呂だよ」
「‥せめてオムライスの匂いがするとかなら良かったのに」
「オムライスより天城の方が君の近くにいたせいかもね」
「えっ」
冗談にしてはあまりに遊びの無い声に継ぐ筈の二の句がぐっと詰まる。言い訳を並べる間も無く脱衣所まで大股に引き摺られて、足も呼吸も縺れそうになるけれど何とか耐えた。小気味良い音で開いた扉の中へ有無を言わさずに押し込められると、足元の温度差に息が止まる。手首を離れて両肩に移った掌が抵抗出来ないギリギリの強さでおれを抑えて、振り向きたくても正しい表情が分からない。
「あのぉ‥本当に天城先輩とはちょっとだけの関係で‥」
「着替えは持ってきてあげるから、ゆっくり温まってから出てくること。良いね?」
「‥おん。お師さん、お風呂入ったら匂いって落ちる?」
「君の努力次第じゃないかな。‥まぁ、もし難しいようなら、早く上がっておいで。僕で上書きしてあげるから」
不意に耳元で囁かれた言葉が脳の最深部に届くより早く、柔く肩を押されて次の瞬間ぴしゃりと背後で扉が閉まった。意味を理解するまで五秒、理解した後の反芻にまた五秒費やして、おれは突き刺すような冷たさの上に為す術も無く崩れ落ちる。ぺたりと座り込んだ脚に沁み入る寒さなんて目じゃないくらいに頬が熱い。ドラムロールみたいにがんがん打ち鳴らす心臓が煩くて、自分の呼吸音さえもろくに聞こえなかった。落ち着こうと火照る顔を強く覆った掌すら万遍無く熱を帯びてしまうから、今は頭を冷やすことすら出来ない。なんて狡いおひと。こちらの言い分は全て先回りで封じておいて、最後に主導権もおれの心も根こそぎ攫っていくなんて信じられない。自分の言葉や仕草がどんな効果を持つか全て理解した上で、お師さんはおれを掌上に誘って楽しんでいる。
熱のせいか恥のせいかとうとう滲み出した視界で、きっとしてやったりと満足気であろう背中の幻を見る。折り込み済みでもやられっぱなしはやっぱり癪だ。掌を拳に変えて一発逆転の唇を噛めば、再度苦味が鼻先を掠めてますます腹も気も立った。いくら惚れた弱みのおれだって、羞恥が過ぎれば一矢報いたい時くらいあるのだ。
「‥っ、のんびりするのと急ぐの、どっちが正解やねん!」
ぐるりとおれを包んだ反響の向こうで、おれより何枚も上手なおひとの愉しそうな声がようやく上がった。
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