一言で言って、最悪の目覚めだった。右腕がしびれて重い。人工的な光が目に痛い。俺の右半身に抱き着くようにして、薄い髪色の男が眠っている。
「(……なんだこの状況)」
だんだんと意識がはっきりするに従って、目の前の景色に馴染みがないことに気づいた。寝転がっているベッドは家の倍近く大きい。ベッドのすぐ横の壁に、これも大きなテレビが設置されている。天井には見慣れない照明が吊り下がり、俺を煌々と照らしていた。ここは、実家でもゾエの部屋でも、ボーダーの作戦室でもなかった。
「んん……」
男が苦しそうに寝返りを打ち、仰向けになってまた眠る。その顔には見覚えがあった。
「(あー……、これ、犬飼か……)」
やっと景色と記憶が繋がって、状況が飲み込めてきた。ここはラブホテルで、俺にしがみついて眠っている男は犬飼だ。それが分かれば、コイツのことは叩き起こしたほうがいい。
「おい、起きろボケ」
乱暴に肩を掴んで揺さぶると、ゆっくり犬飼のまぶたが開いていく。天井をぼんやり眺め、それから俺の顔をじっくり見つめ、舌足らずな声で呟いた。
「……なにこれ、夢?」
「現実だバカ」
昨日は前期の試験期間の最終日だった。出来がどうあれ、苦しかった試験期間が終わったという解放感は何にも代えがたい。俺はなかなかに浮かれていた。それは俺と同じく進級が危うい当真も同じで、俺たちの面倒を半ばつきっきりで見ていた荒船やゾエも同じだった。
浮かれた大学生がすることといえば、飲み会しかない。何回か世話になっている居酒屋の個室を予約して、夕方の早い時間から宴会が始まった。
酒を飲むとサイドエフェクトが鈍くなることに気づいたのは、成人してすぐだった。アルコールで意識がぼんやりすると、肌も同じようにぼんやりして感情が掴みにくくなるのだ。俺にとっては幸運なことだった。酔っぱらってしまえば、他人の感情を気にせず美味い酒と料理に集中できる。
茹だるような暑さのせいか、昨日のビールと焼き鳥は特に美味かった。誰が声をかけたのか、任務終わりだという鋼と犬飼がやって来ても、俺の上機嫌は続いた。昔から犬飼のことは苦手だったが、テーブルの対角線上、端と端に座ってやり過ごせるくらいには大人になっていた。
荒船が日本酒を頼みだしたのは、二人が合流した少し後だった。日本酒はダメだ。徳利とお猪口で飲むのが余計にダメだ。どんなペースでどれくらい飲んだのか分からなくなって、あっという間にベロベロになる。分かっているはずなのに何度も同じ失敗を繰り返す。
宴会はさらにうるさくなり、店員がラストオーダーを聞いてくる頃になっても終わらなかった。試験のせいか酒のせいか、体が浮かんでいるみたいに楽しくて、気絶するまで飲み続けたい気分だった。店を出ても帰りたくなくて、少し歩いた路上でたむろする。誰も帰ろうとしないでうだうだと話し続けていたあたり、全員同じような気持ちだったのかもしれない。
「ラブホで二次会しようぜ」
そう言いだしたのは、当真だったと思う。曰く、国近に聞いたが、最近はラブホで飲み会ができる。酒は持ち込み放題だし、部屋は綺麗だし、風呂とベッドはデカいし、眠くなったらすぐ眠れる。最高の宴会場らしい。
反対する奴は誰もいなかった。提案が魅力的だったのもあるが、ラブホテルという場所に対する好奇心と下心があったのは否定できない。『青春』と呼ばれるような十代の頃をほとんど全てボーダーに注いだ俺たちには、浮いた話が全然なかった。そういうことに興味がないわけじゃないが、きっかけも時間もなさすぎるのだ。タイミングがあるなら、一度くらい行ってみたかった。
ゲームのようにぞろぞろ歩く隊列の先頭で、なんとなく俺と犬飼は並んで歩きだした。夜になっても夏の空気は蒸し暑かったけれど、たまに首筋を撫でる風は心地よかった。アルコールのせいでサイドエフェクトはうつらうつらしていて、隣の男からは何も刺さらない。もっとも、犬飼相手ではこれが日常だ。
俺が犬飼を毛嫌いしていた理由の一つが、コイツからほとんど何の感情も刺さらないことだった。戦闘中に殺意や敵意が刺さることはある。けれど、普段の関わりの中で、嬉しさ、悲しみ、怒りといった心の動きを感じたことはなかった。表情も声の調子も楽しげなのに、肌の感覚は平坦で、そのちぐはぐさが苦手だった。
「カゲって、お兄ちゃんがいるんだっけ?何歳差?」
「……五コ上」
「マジで!おれも五歳上の姉ちゃんがいるんだ」
けれど、昨日の夜は違った。ふいに投げられた質問に素直に答えると、鈍感になった肌を喜びが撫でていった。驚いて横を歩く顔を見ると、真っ赤な顔で無邪気に笑っている。オープンカラーのシャツから覗く首筋も赤い。どこからどう見ても酔っぱらいだった。
「もしかして、同じ高校の同級生だったりして」
「あー……、○○高だった」
「さすがにそこは違うか~」
他愛もない会話を交わす間、ずっと犬飼から柔らかいものが向けられていた。何が楽しいのかよく分からないが、声を上げてケラケラと笑っている。どうやら、アルコールのせいで感情の起伏が大きくなっているらしい。
「男兄弟がいるのって羨ましいなあ」
「ゲームとか漫画とか教えてもらったし、まあ良かったかもな」
全身で楽しそうにしている犬飼を邪険にはできなかった。それにたぶん、俺も楽しかった。兄弟の話、昔やりこんだゲームの話、最近食べた美味しいものの話。犬飼との会話が喧嘩腰じゃないことすら滅多になかったのに、話題は尽きなかった。お互いのことを何も知らなかったせいかもしれない。銃の構え方も胸を貫かれる顔も知っているのに、誕生日も好きな音楽も知らないのだ。
だから、後ろに続く隊列からだんだん人が減っていることを気にしていなかった。最初に鋼が「そういえば明日早朝から買い出しだった」と離脱し、はしゃいで走り出した途端グロッキーになった荒船とそれを介護するゾエが脱落し、当真が「そういえばDVD延滞してた」と帰っていった。
なぜだか犬飼と二人でラブホに泊まることになったと気づくのは、この部屋に続くエレベーターの中だった。
思い返してみたら、言い出しっぺの当真が帰ってるじゃねえか。だいたい今どきDVD借りて延滞してんじゃねえ。イラつきながら浴室から出ると、ベッドの上で犬飼が膝を抱えてぼんやりしていた。
「おめーもシャワー浴びたら?」
「……あー、そうしよう、かな」
声をかけると、ぎこちない動きで犬飼が部屋を出て行った。昨日あんなに浮かれていたのが夢みたいだ。もしかして二日酔いなんだろうか。
ふかふかのベッドに腰かけて、思いっきり背を伸ばす。まだ疲れと眠気とアルコールの残りかすが体に貼りついているが、熱いシャワーを浴びたら少しはマシになった。聞いていたとおり、風呂はデカかった。下手したら俺の部屋と同じくらいの広さかもしれない。
壁にかかったテレビをつけ、適当にチャンネルを回していく。情報番組の左上に表示された時間は六時前だ。眠いのも当たり前だ。いつもはまだまだ眠りの中にいる時間だった。当てずっぽうにボタンを押していくと、大画面に裸の男女が映った。
「(マジでラブホにいるんだな……)」
一緒にいるのが犬飼だったせいもあって、風呂とベッドが妙に広いホテルにいるくらいの気分だったが、改めて実感した。ここは、そういうことをするための場所なのだ。
わざとらしい女の喘ぎ声と肌のぶつかる音が響く。画質が悪くて古臭い映像だ。興奮できるような代物じゃない。また適当にボタンを押して、動物園の赤ちゃん映像を見ながら時間を潰すことにした。
浴室から出てきた犬飼と、「ここに長居してもしょうがない」と意見が一致した。見たことのないレトロな精算機で支払いを済ませ、ホテルを出る。目に飛び込んでくる光が眩しい。窓のない部屋では実感がなかったが、もうすっかり太陽は昇っていた。
じゃあ、俺、こっちだから。そう言って別れようとするよりも早く、犬飼が大通りの向かい側を指さした。
「カゲ、お腹空いていない?朝飯食べてから帰ろうよ」
突然の提案に驚いたけれど、断る理由はなかった。言われてみると空腹だったし、今日の任務は午後からだし、腹を満たしてから二度寝したほうがよく眠れそうだ。黙って頷き、数時間ぶりに二人で連れ立って歩いた。朝の空気は爽やかだけれど、今日もきっと暑くなるんだろう。
犬飼が指さしたのは、昔からあるような喫茶店だった。入り口のドアを開けると、カラコロとベルが鳴る。花柄のエプロンを着たおばさんに、犬飼が「二人です」とピースサイン付きで伝えた。
「お好きな席にどうぞ」
窓際のボックス席に座り、モーニングメニューから選んで注文した。店主の趣味か、小さなボリュームでジャズが鳴っている。通路を挟んだ隣のテーブルでは、常連客らしいおっさんが競馬新聞を睨みながらコーヒーを飲んでいる。さっきまでいた部屋と違って、落ち着く空間だ。
「こういうとこにはよく来んのか」
向かいに座った犬飼に話しかけると、驚いたように目を見開いて、笑った。喜びが肌を掠る。
「姉ちゃんが一時期こういうとこにハマってて、モーニング食べに来てたんだ」
レトロでかわいいんだって、ここに来るのは初めてだけどね、と話すのは、昨日話題に上った五歳上の姉だろうか。
「カゲ、昨日のこと、覚えてる?」
「まあ、大体は」
「眠る前のこととか」
向かいから刺さる不安で皮膚がざわめいた。微かな違和感に首をひねりながら、さっき掘り起こした記憶の続きを辿っていく。
犬飼と二人きりだと気づいた瞬間、すぐに帰るつもりだった。けれど、手にはコンビニで買い込んだ缶酎ハイの詰まった袋があって、これを持って帰るのもバカらしくなった。コイツと二人で酒盛りする気にはなれないが、普通に風呂に入って眠ってから帰ればいいか。
路上では喧しく話し続けていた犬飼は、エレベーターに乗り込んでから黙りこくっていた。廊下にはカーペットが敷かれていて、足音は響かない。もしかして今になって気持ち悪くなったのだろうか。
フロントで手渡された鍵で部屋のドアを開け、玄関で靴を脱ぐ。ありふれたマンションの一室のようだった。正面に続く扉を開けると、まずベッドが目に飛び込んだ。デカい。家のやつの倍はある。
「マジでデカいな!」
思わずテンションが上がってしまい、ベッドに上って意味もなく枕を殴った。柔らかくて気持ちがいい。後ろを歩いていた男を笑顔で振り返ると、急に視界が反転した。抱きしめられて押し倒されたと気づくのに少し時間がかかった。ベッドに二人の体が沈んでいく。
「……っ、オイ、何しやがる!」
下敷きの状態でもがいてみるが、腕ごと体をしっかり包み込まれていて動きづらい。酒とタバコ、その向こうに香水と汗の匂いが微かにして、きっとこれが犬飼の匂いなんだろう。
「ねむい……」
うっとり呟いて、俺の肩口に顔を埋める。犬飼の体は温かくて、少し固くて、嫌悪感がないのが危ないと思った。呼吸の度に犬飼の背中が膨らんでは萎むのが見えた。そのペースが穏やかで、つられて俺の呼吸も遅くなって、はっとする。
「てめー、寝ようとすんな!」
「んー……」
半分眠っている人間は重たい。肩を思いっきり押しても動かない。タチの悪いことに、柔らかなベッドと温かい体温、ゆったりとした呼吸に合わせて、急激に睡魔が襲ってきた。酒で誤魔化していた疲労が全身に広がっていく。まぶたが重い。このまま身を任せてしまいたい。
「……くそ……」
「ふふ……」
犬飼がとろけた笑い声を漏らすが、何がおかしいのだろう。ふわふわとした感情が肌に触れては消えていく。何という感情なのか分からないけれど、心地よい感触だった。ずっと浴びていてもいい。包まれて眠ってしまってもいい。それが最後の一押しになって、意識が落ちていった。
「あー……」
思い出した。昨日はコイツに抱きしめられて眠ったのだった。右腕が妙に痛いのはそのせいか。じとりと睨みつけると、気まずそうに目線を逸らす。
「てめーのせいで腕が痛ぇ」
「……ごめんね」
文句をつけると、素直に謝られた。珍しい。色々と屁理屈をつけてかわされるかと思った。
「ねえ、昨日の夜、どんな感情が刺さってた?」
さらに珍しい。コイツが自分の感情のことを俺に聞くなんて、初めてのことだった。窓から差し込む朝日の中で、頬杖をついていつものように微笑んでいる。ちりちりと微かに肌を刺激するのは、期待や不安といった感情だろう。
さっきから感じていた違和感の正体に、ふと気づく。今まで戦いの中でしか感じられなかったコイツの感情が、鋼やゾエより弱いけれど、感じられるようになっていた。昨日の夜、アルコールで増幅された感情を浴びたからだろうか。笑顔の裏にある感情がなんとなく分かる。
首の後ろを手で撫でながら、もう一度思い出す。嬉しい。楽しい。それなら俺にも説明できる。けれど、眠りに落ちる直前に感じた、あの柔らかな感情は何だったのだろう。
「お待たせしました」
なんと答えようか迷っているうちに、注文した食事が運ばれてきた。サンドイッチが盛られた皿が二つと、アイスコーヒーと、アイスティーが机の上に並べられていく。パンとコーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐった。
「とりあえず食おうぜ」
「……うん」
まだ何か気にかけているようだったが、ひとまずアイスコーヒーに口をつける。澄んだ苦みが喉を滑っていく。小さくカットされたハムときゅうりのシンプルなサンドイッチは、二口で胃に収まった。
「うまい」
「うまいね」
感想をそのまま口にすると、犬飼から同意の言葉と泡のような感情が返ってきた。ふわふわと柔らかくて、肌に触れるとすぐに消えていく。数時間前よりずっと微かだが、覚えのある感触だった。
「それ」
「ん?」
「昨日の夜、おめーから刺さったのと同じのが、今刺さってる」
「え」
みるみるうちに犬飼の顔が真っ赤に染まっていく。見たことのない表情がおかしくて、じっと見つめた。セットされていない髪の毛がラフに額を覆っていて、いつもより幼く見える。着替えもせずに眠ったせいで、シャツはしわくちゃだ。いつもは隙のない整った男が今はヨレヨレで、俺はこっちのほうが好きだ。
いや、好きってなんだ。いけ好かないのがマシになったってだけだ。
「……バレてるんなら仕方ないよね」
はあ、と大きなため息が聞こえた。犬飼が腕を伸ばし、グラスの水滴をなぞっていた俺の手を握る。
「付き合おうか」
こちらの会話が聞こえていたらしい隣のおっさんから好奇心が突き刺さる。それ以上の大きさで、向かいに座った男からとろけそうな感情がかたまりになって降りかかってくる。
付き合う。付き合うって言ったか、コイツ。この感触はもしかして好意か。コイツ、俺のことが好きなのか。本気か。
頬が一気に熱を持っていく。サイドエフェクトで感じられるものに小細工がきかないことはよく知っている。そして、コイツの好意を好ましく感じてしまった俺の気持ちに、嘘や誤魔化しがきかないことも知っていた。
犬飼の瞳は今日の青空のように透き通っている。頬はまだ赤く染まっている。やけっぱちなのか勝算があるのか、唇は三日月を描いている。
隣のおっさんが固唾を飲んで見守っているのを意識の外へ追い出す。
夏の日差しの中で、犬飼の笑顔がきらめいて見えた。俺は、昨日の夜の高揚感や安心感を信じてもいいような気がして、頷くために深く息を吸った。
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