黒竹
2023-09-01 19:58:12
12975文字
Public プロセカ
 

夢知らずの夜

【みのはる】

 広く遊歩道が取られたガーデンテラスは自然な花の芳香に包まれている。やや肌寒さを感じるものの冬の寒気はそこまで厳しくもなく、風もさほどないので空気は穏やかだ。
 ダウンコートを羽織った遥は、遊歩道の周りに植えられた花々を眺めながらみのりと並んで歩いている。彼女たちの暮らす街から電車で二時間以上かかるこのフラワーパークに誘ったのはみのりのほうだった。今、フェニランとコラボしてて、パークに特別なフェニーくんが飾られてるんだって。同じクラスの志歩から聞いたという話を嬉々として教えてくれた。志歩は先週バンドのみんなと遊びに来たらしい。すごく楽しかったって言ってたから、良かったらどうかな。みのりがやや遠慮がちな、しかし甘えた気配も漂わせた視線を送ってきて、そんな眼で見られては遥に断る道理はなかった。
「日が暮れてから、イルミネーションもあるんだって。見てたら遅くなっちゃうかな」
 園内の看板を眺めてみのりが言う。「えっと」スマートフォンで公式サイトを見てみると、イルミネーションは十八時からと書かれていた。全部は無理でも、ある程度を軽く散策するくらいはできそうだ。
「イルミネーションはバラ園と特設デッキでやるみたいだから、時間に合わせて行ってみようか。一時間くらいは見られるんじゃないかな」
「うん。ありがとう、遥ちゃん」
「コラボフェニーくんも特設デッキでライトアップされるんだね。ふふ、どんなふうになってるのかな」
 パークとコラボしているフェニーくんは、ところどころでイラストや看板が使われており、頭にバラの花冠を乗せて花束を持っている。ここでしか売られていない限定マスコットはもちろん購入済みだった。
 コラボのおかげか、フラワーパークはけっこうな盛況で、家族連れの姿も多い。「ふにゃっ」よそ見していた子どもに背後からぶつかられたみのりが妙な悲鳴を上げた。「あ、ごめんなさい」「大丈夫だよ。お花きれいだけど、周りも見て歩こうね」母親に引っ張られる子どもに手を振りながら笑いかける。遥は緩めた口元から細く息を吐いて、みのりがかけているショルダーバッグのバンドを掴んだ。
「ひょえ、遥ちゃん?」
「転んだりしたら大変だよ。気をつけてね」
「はぁいっ」
 びしっと敬礼するみのり。かっこよく決めたつもりだったのに、言ってるそばから遊歩道の段差につまずいて転びかけた。その様子に遥が苦笑する。まあ、今のはご愛嬌といったところか。
 パークにはアクティビティもあって、周辺にはサイクリングコースやキャンプ施設なども併設されていた。さすがにそれらで遊べはしないけれど、かなり広い会場だから、いつかファンイベントとかを企画できるかもしれない。そんな話をみのりとしながら歩く。
「へへ、嬉しいな」
「ん?」
「イベントとか、最初の頃は遥ちゃんたちがしてるのを見て勉強するばっかりだったけど、最近は自分でも考えられるようになってきたっていうか」
「そうだね。ライブでもみのりのアイディアがかなり参考になってるし、事務方のことも検討できるようになってる」
「うん! ちゃんとみんなと一緒にイベント作りができてるみたいで嬉しいんだ」
 言葉通り感情をめいっぱい表情に乗せるみのり。「みたい、じゃなくて、一緒に作ってるんだよ?」くすぐるように頬を撫でると途端にみのりの耳が赤くなった。軽いスキンシップをとるようになって久しいが、まだまだ不意打ちには慣れないらしい。
 あわあわして落ち着かないみのりに苦笑しながら遊歩道を進んでいく。園内はかなりの広さがあり、遊歩道にはところどころ案内板が設けられていた。その中のひとつに遥が目を留めた。
「みのり。ハーバリウム体験教室だって。愛莉と雫のお土産にどうかな」
「わ、面白そう。やってみたい」
 じゃあ行こう、とみのりの腕を取って自身の腕を絡める。「ひょえっ」本日二回目の悲鳴だった。遥は聞こえないふりをして、そのまま彼女と腕を組んで進む。遥のほうが背が高いから、少しみのりが引っ張られるようなかたちになっていた。歩きにくいかな、とみのりの顔を伺うと、彼女はそれどころではなく、取られた腕をどうしたらいいか分からず固まっていた。
 ダウンコートの分厚い袖があってもこうなるのか。遥は内心でため息をつく。むしろ手をつなぐほうがハードルは低かった? 自分たちの成り立ちが作り上げた距離感が悩ましい。
 己の中に生まれたほのかな想いを自覚してしばらく経つ。
 それをどうするかはまだ決めあぐねていた。グループとして目指すもののために、やるべきことはまだまだたくさんあるし、その妨げにならないよう、いたずらに和を乱す真似はしたくない。
 というわけで現状、ふたりきりでデートをしようとも、できることといったら口実をつけて腕を取るくらいのもので。それだけでも彼女は動転して真っ赤になってしまう。お互い、想い想われの関係ではあるのだけれど、それぞれ意味が違うから難しい。
 中途半端に腕を取られたまま、ハーバリウム体験教室の説明看板を読むみのり。離れたくはないけれどこのままくっついているのも畏れ多い、という雰囲気の右腕だった。遥は掴んでいた手をしかたなく離す。泳いでいたみのりの目がやや落ち着いて、やっとのことで文章を追えるようになる。
「あ、ひとり二本まで作れるんだ。あのあのっ、良かったら遥ちゃん、わたしが作ったのもらってくれませんか?」
「ありがとう、みのり。それじゃ、お互い交換こしようか? 私もみのりにあげるのを作るから」
「えっ、いいの? ありがとうごじゃいます!」
 噛んだ。遥はもう慣れきって反応もしない。
 体験教室では道具類はすべて事前に用意されていて手ぶらでも参加できるようだ。受付を済ませてガラスボトルや花材が置かれたテーブルに並んで座る。
「いろんなお花があるね」
「ありすぎて迷っちゃうくらいだね。あ、これとか愛莉に似合いそう」
「こっちのは雫ちゃんっぽいかも。えっと、お花をカットして、ピンセットでゆっくり中に……
 講師の手本を見ながら、みのりが慎重にボトルへ花材を入れていく。集中しすぎたせいか、ボトルと鼻先がくっつきそうだった。
……ぅ、ふぇ、ふぇっ」
 オイルの匂いに刺激されたか肩を震わせる。あ、まずい。遥が咄嗟にみのりの両手をつかんだ。「ふぇっくしゅん!」我慢しきれなかったくしゃみが盛大に飛び出る。アイドルとしてどうかというラインではあるが、緊急事態だったので仕方がない。
 遥が腕を押さえ込んだおかげでボトルの中身はこぼれずに済んだ。みのりもそれに気づいたようで、眉を下げながら遥のほうへ視線を移す。
「あ、ありがとう遥ちゃん……。なんだか今日はいつも以上にドジかも……遥ちゃんとお出かけだから浮かれちゃってるのかなあ」
「そんな、偶然だよ」
 遥の言葉を証明するように、それからは特にトラブルもなくハーバリウム作りは進み、ふたりとも自分たちのものとお土産の分を無事に作り終えることができた。
「わ、遥ちゃんのバランス良くて可愛い」
 大ぶりだが柔らかい印象のある花を中心にして、周辺にクローバーをあしらったハーバリウムを手に取りながら、みのりが「わたしってこんな感じ?」と照れくさそうに聞いてくる。遥は穏やかに目を細めてうなずいた。
「みのりは太陽みたいな子だなって思ったから。みんなを照らしてくれるイメージで作ってみたんだ」
「そ、そっかぁ……
 光栄でしゅ、とまたしても噛みながらみのりが頭を下げる。密閉されたガラス瓶の首にはライトブルーのリボンがかけられていて、その意味はあえて言わなかった。
 みのりが作ったほうは二本の花が使われていた。華やかなものと、もう少しおとなしめの印象の一本。きれいだけれど、遥をイメージしたもの、というわけではなさそうだった。
「これは?」
……あのですね、願掛けというか、願望と言いますかですね……
「うん?」
「こんなふうに、は、遥ちゃんの隣にずっといられるように、って……
 目を合わせられなくて俯くみのり。彼女がおずおずと差し出しているボトルを思わず手に取る。オイルの中で寄り添うようにたゆたう二輪。使われているのは保存加工されたプリザーブドフラワーなので、この中で朽ちることなく、ずっと隣同士で居続けることになる。そういうのがいいと花里みのりはもごもご言った。
 直接、言われたことがないわけではない。それは彼女の夢でもあるのでとっくのとうに知っていた。ずっと隣にいさせてください。そうまっすぐな瞳で言われた時、自分はなんて答えたのだっけ。
「じゃあこれは、私とみのりなんだ。葉っぱがちょっと触れ合ってて、手をつないでるみたいだね」
 偶然だろうけれど、クスクス笑いながらからかい口調で言ってみる。みのりはますます赤くなって、その様子がなんとも可愛らしかったから、思わずボトルを持っていないほうの手で彼女の手を取ってしまった。
「ありがとう、みのり。大事にするね」
「は、はい……わたしも、ずっとずっとずーっと大切にするからねっ」
 ぎゅっと握られたガラス瓶の中で、花たちが静かに佇んでいた。


 そんな、と力なくつぶやいたみのりがその場に立ち尽くす。薄暮の園内で、イルミネーションエリアの入り口に立てられた看板前に人だかりができている。
「緊急点検……
「確か、お昼にここを通った時にはまだなかったよね。あのあとで立てられたのかな」
 急遽作られたであろう看板には、園内の機器に故障が見つかり、安全確保が保証できないためすべての機器の点検を行うと味気ないゴシック体で書かれていた。明日は予定通りイルミネーションが行われるらしいが、今日はすべてのライトアップが中止されるようである。
 三度、同じ文章を読み返して、なんべん読もうと文言が変わることはないと確認したみのりが大きく肩を落とす。
「ごめんね遥ちゃん、わたしの運が悪いせいでこんなことになっちゃって……
「まさか。みのりのせいじゃないよ」
 さすがにただの偶然に決まっている。遥はみのりの肩を優しく叩いて慰める。ひょう、と冷たい風が吹いた。日が暮れてからの風は昼間に比べてずいぶんと冷たい。みのりの心に吹いている隙間風もこれくらい冷たいのかもしれない。
 時刻を確認する。このままイルミネーションを諦めて帰っても物足りないほど早くはないが、なんとなく尻切れトンボな感じがするというか、もったいないような気分になる。ライトアップされたフェニーくんも見たかったし。
 時刻表示させていたスマートフォンを操作して、フラワーパークの公式サイトを調べ始めた。みのりはぺしょっと落ち込んだまままだ看板を眺めている。
……みのり、明日、なにか予定とかある?」
「え? ううん、特に何もないよ。歌の練習にカラオケでも行こうかなって思ってたくらいで」
「そう。……良かったら、ここの敷地内にホテルがあるみたいだから、このまま泊まっていかない? それなら明日、このままイルミネーションを見られるよ」
 公式サイトの予約状況を見ると今日は三室空いているようだ。当日でも空きがあれば泊まれると説明書きがあるし、親の許可さえもらえたら問題ないと思う。
 みのりが呆気にとられた様子で口を開ける。待っていてもそこから音が発せられることはなかった。さすがに急すぎたかなと遥が気落ちしていると、不意にみのりの両手が激しく上下に暴れだした。
「ああああのっ、う、嬉しいですけどっ、万が一なにかの間違いが起きたら大変だしっ」
 間違いってなんだろう。
「今日はいつも以上に抜けてるし、もし遥ちゃんに粗相を働いてしまったら切腹してお詫びするしか……!」
「切腹は困るかなあ」
 コートがいらないくらい汗だくになっているみのりに、軽く首を傾げながら視線をそそぐ。
「みのりになら何をされてもいいよ?」
…………
 ぷしゅう、と、頭のてっぺんから蒸気が抜ける音がした。爆発を防ぐ安全弁が働いたのかもしれない。みのりは落ち着かない仕草で自身の両手の指を絡めたり外したりしていたが、やがて静止し、ポケットからスマートフォンを取り出してメッセージを打ち込み始めた。
 何度かやり取りが往復された後で、上目遣いの視線が届く。
……えと、お母さん、大丈夫だそうです」
「ん、うちもオーケーだって。それじゃホテルの受付に行こうか」
「ひゃ、ひゃい」
 受付では未成年のみということで難色を示されたが、遥の母親に電話で対応してもらってことなきを得た。イルミネーションのことを説明したり、フェニーくんのファンだという話をしているうちに、受付の人も態度が軟化していく。まあどう見ても仲良しの友達同士で遊びに来ているだけだし、大して警戒もされてはいないのだろう。
「部屋はこちらになります。アメニティは部屋に用意されているので、ご自由にお使い下さい」
 ホテルの鍵を渡されて、遥が軽く頭を下げる。みのりも同じようにするとにこやかに送り出してくれた。
 フラワーパークからは少し離れているせいか人の声が遠い。ツインベッドの中央に備えられたテーブルに今日作ったハーバリウムの瓶を並べて飾る。愛莉と雫の分も喜んでくれるといいけど、と遥はとりとめもなく考えている。みのりはコートを脱いで備え付けのハンガーにかけると、その場で深く息を吸い込んでいた。
「どうしたの?」
「精神統一をしています……。遥ちゃんに粗相がないように」
 慌てたりして何かしてしまわないように心を落ち着けている、ということらしい。合宿とかで一緒に泊まったこともあるのに。あの時は愛莉たちもいたから頼りにしていた部分があったのかもしれない。
「顔、真っ赤だね」
 目を細めながらみのりの額にかかる前髪を指先で払ってやり、こめかみにかけて輪郭をなぞるようにゆっくりと撫でる。「はわわ」みのりが目を回しそうになっているけれど、遥は穏やかに笑ったまま触れ続けた。
「ホテルの奥にある敷地に、バーベキュー場もあるみたいだよ。バーベキュー配信なんていうのも楽しそうでいいかもね。鍋パーティーは前にやったし」
「う、うん。いいと思う……。あの……遥ちゃん……
「ん?」
……なんだか、他に人がいないと、ファンサが特大になるような気が……
「そうかな?」
 とぼけたけれどそのとおりだった。これくらいは許してほしい。まあ、彼女はあくまでファンサービスなのだと思っているようだけれど。
 溶けた鉄みたいな赤銅をしているみのりの耳を軽くつまむ。「ふたりっきりだね?」唇を寄せてささやくとみのりがシャツの胸のあたりを強く掴んだ。心臓が止まりそうだったのかもしれない。
「うう、めったに聞けない推しのウイスパーボイス、プライスレス……
 様々な感情が混じり合って泣きそうになっているみのりが小動物じみていて、このまま見ていたら歯止めが利かなくなりそうだったから、意識的に肩の力を抜いて彼女の耳に触れていた手を離した。
「ふふ。ごめんねみのり。今日はたくさん歩いて疲れただろうし、ゆっくり休もうか。明日はイルミネーション見ようね」
「あ、せっかくだから温室のほうにも行ってみようよ。時間がなくてあっちまで見に行けなかったから」
「トンネルの向こうにある温室? そうだね、先にそっちを見に行こうか」
 ずっと花に囲まれていたせいか、みのりのシャツからほのかに花の香りがする。名前に花の字があるから、というわけでもないのだけれど、彼女にはその香りがよく似合った。明日には消えてしまうだろうからもっと楽しみたいと思うものの、まさか抱きしめて嗅ぐわけにもいかない。
 一休みしてから、ホテルの中にある食堂で夕飯をとり(期間限定フェニーくんオムライスがあったので遥はとても喜んだし、その様子を堪能できたみのりも大満足だった)、シャワーを浴びてアメニティのパジャマに着替える。
 ベッドにそれぞれ寝転がると、示し合わせたように気持ち良く息を吐いた。
「えへへ、旅行みたいでちょっとワクワクするね」
「うん」
 実際には電車で二時間だからそんなに大したものではないけれど、朝からずっとふたりで遊んで、こんなふうに並んで寝転がっていると確かに旅行気分になれた。グループで合宿はしたことがあるものの、さすがにふたりきりで旅行をしたことはない。それに、遥のほうは芸能界にいる間は目の回る忙しさで、一日休みを取ることも難しいくらいだったから、旅行そのものもプライベートでは経験がほとんどなかった。
 はしゃぎすぎないようにしよう。心の中で自制する。好きなものを目の前にした時の己がどうなるかよく分かっているので、気をつけなければならない。ペンギンのぬいぐるみとは違うのだから。
 そう思っていたのに。


 これはどういうことだろう、と全身を硬直させながら桐谷遥は考えている。鼻先に触れてきた柔らかい感触と、たまたま伸ばしていた腕に乗っかってきた重みと、腹部に伝わる体温。
 それらを順繰りに組み合わせていき、総合的に結論を出す。
──みのり……
 目を開けてみるとホテル特有の間接照明がほのかに灯っていて、なんとか腕の中にいる相手の姿が見てとれた。やはり花里みのりである。うーんむにゃむにゃ、みたいな小さい寝言も聞こえてきた。
 眠っている間に、なにやらゴソゴソ音が聞こえて、それから妙な温かい感触を覚えたと思ったらこれだ。
──たぶん、トイレかなにかで起きて、戻る時にベッドを間違えたんだろうな……
 もしかしたら自宅のベッドの位置がこっちだったのかもしれない。暗いし寝ぼけていたから、癖でいつもの方向に来てしまったとか。
 まあなんにせよ状況が変わるわけでもなかった。たとえどんな理由があろうとも、今まさに温かくて柔らかくて可愛い女の子が腕の中ですよすよ寝息を立てていることに変わりはない。
 気分的には拷問だった。
…………
 どうしよう。
 正しい判断をするなら、みのりを起こして向こうのベッドに戻ってもらうのがいいんだろう。あるいは、疲れて眠っているみのりを起こさないようにそっとベッドを抜けて、自分があちらに移ればいい。
 それでいいんだろうけれど。
 悩ましく眉を寄せて、遥はそっとため息をつく。
 柔らかい生地のパジャマ越しに、穏やかに呼吸するみのりの肩が上下する。花の香りはどこかへ行ってしまっていた。掛け布団の下でそおっと動き、無防備な彼女の脇腹に手のひらを乗せる。みのりの首に下敷きになっている左腕は朝には痺れていそう。このままだと寝返りが打てないけど大丈夫かな。なにせ経験したことのない体勢なのでどうなるのかよく分からない。
 抱きしめてみても、いいだろうか。
 不埒なことを考えた途端、早鐘のように心臓が高鳴った。いけない、眠っている相手にそんなことをするのはいくらなんでも失礼だ。
「むにゃ……あれ、サモちゃん……?」
 あんなに毛むくじゃらではない。やっぱり寝ぼけてる、と思わず小さな苦笑が洩れた。
 ころんと身体ごとこちらを向いたみのりのぼんやりした目が、ややあって何度かのまばたきと共に冴えてきた。
「は、は……はりゅかちゃん!?」
「はい……
 どう反応したらいいか分からず、遥は曖昧にうなずいた。「ひょええっ!」みのりが大慌てで遥から離れ、両手で自身の顔を隠す。
「ごごご、ごめんね! さっきちょっと起きてお水飲んだあと、ベッド間違えちゃったみたい……
「気にしないで。ちょっとびっくりしたけど」
「ほんとにごめんなさい、狭かったよね、すぐに戻るのでっ。お、おじゃましました」
 足元の間接照明だけの薄暗い明かりしかないので、みのりの顔色までは伺えない。けれど見えなくても容易に想像はできた。よく見たことのある表情だったから。
 それを少しさみしいと思うのは筋違いだ。遥は彼女のその表情を見た時に覚える傷みはまるきり隠して、ほほえみながら離れかけた手を取った。
「あのね」
「は、はい?」
「ホテルの空調、ちょっと寒いなって思ってたんだ。みのり、ポカポカしててあったかかったから、いてくれると助かるんだけど」
…………あのー、つまり、それは……
「だめ?」
 子猫の鳴き声みたいな音がみのりの喉から絞り出された。声にならない声は拒絶の意味を持っていなかった。
 遠慮しいしい、みのりが抜け出ようとしていた掛け布団の下に戻ってくる。遥は遥で両腕を広げて待ち構えるわけにもいかず、なんとなく中途半端な、みのりのパジャマの袖を指先でつまむくらいの距離感で迎え入れた。
 さっきはみのりの意識がなかったからまだ冷静さを保てていたけれど、こうなってみると緊張感がすごい。心臓が爆発しそうで、それをどうしたら悟られずに済むかさっきからずっと考えている。
「あぁ〜やっぱり無理です。この距離で遥ちゃんのお顔を見続けるのは無理ぃ〜」
「じゃあ、背中向けててもいいよ」
……こう?」
 みのりが寝ぼけていた時と同じように、こちらに背を向けた体勢に切り替える。左腕が邪魔だったから彼女の首の下をくぐらせた。「おっ、推しの腕枕……!」気を失いそうになるみのりだったが、これ以上の醜態を晒すわけにはいかないと唇を噛み締めて耐えていた。
 してみて分かったが、向き合っているより今のほうが密着できて、なんというか、より恥ずかしい。背中越しに鼓動が伝わらないといいなと思う。
「ど、どう? 遥ちゃん」
「ん?」
 すごく幸せだけど? うっかり正直に答えそうになって、しかし質問の意味はたぶんそういうことじゃないから聞き返すことで誤魔化した。
「あったかいですか?」
「ふふ。うん。あったかいよ、ありがとう」
「良かった。今年の冬は寒いもんね。遥ちゃんが風邪引いちゃったりしたら大変だもん。遥ちゃんのためなら、不肖花里みのり、喜んで湯たんぽになりますっ」
 羞恥のせいか、もともとなのか、言葉通りみのりはずっと温かい。じわりと滲みる温かさだった。その温度に溶かされたのか、遥も次第に安らいできて、軽く息をついて目を閉じる。
「みのりがなりたいのはコタツじゃなかった?」
「アイドル界のコタツにはなりたいけど、今は遥ちゃん専用の湯たんぽですっ」
 顔が見えないせいか、思ったよりみのりも落ち着いていた。といっても両手を縮こまらせて固まってはいるのだけれど。
「それにしても、間違いが起きちゃいけないって気をつけてたのにこんなことになるなんて。遥ちゃん、わたし、寝ぼけて遥ちゃんに変なことしてない? 大丈夫?」
「心配しなくていいよ。みのり、お布団に入ってすぐ寝ちゃったし」
 むしろ間違いを起こしそうになったのはこちらのほうだし。
「間違いなんて、あるわけないよ」
 胸の前で握られているみのりの手を取って軽く撫でると、彼女の身体が震えたのが分かった。緊張を持って固められていた手がほぐれてシーツに置かれる。そっと掴んで、手のひらを指先でくすぐって、重ね合わせる。
 儀式みたいな手遊びに意味なんてなくて、だから始まりと同じように終わりもあっさり訪れた。
 ただの気まぐれだと思ってくれるといい。
「家族ともこういうことしたことなかったからちょっと嬉しい、かな」
「そ、そっかあ。うちは、弟と小さい頃は一緒に寝てたし、サモちゃんとお昼寝したりすることもあるんだ。だからけっこう慣れてるかも」
「楽しそうだね。私はきょうだいもいないし、犬も飼ったことないから、そういうのちょっと体験できて楽しいよ。ありがとう、みのり」
「ひゃ、ひゃい……喜んでもらえたなら本望でごじゃいます」
 みのりの手が惜しがるように遥の手を追いかけてきた。「といっても、遥ちゃんに添い寝させていただくのが平気になるわけじゃないけど……
 戸惑いがちな右手を、同じ右手で受け止める。自分でも驚いていそうな右手だった。遥はそっと息をついてから、こぼれ落ちてしまうほど弱くもなく、痛みが生まれるほど強くもない力加減でみのりの手を握った。
「握手会?」
「っ、あ、そうかもっ。えへへ、遥ちゃんと握手会だ」
 嬉しそうに声をはずませるみのり。以前、参加するはずの握手会がトラブルで中止になってしまったのだと話してくれたことがある。そのリベンジかなとふたりで喉を鳴らした。
 そんなわけがないのにお互いに誤魔化して、知らないふりで右手と右手だけで交流する。
「きょうだいってこんな感じ?」
「う、うーん、うちは弟だし、一緒に寝てたのだってすごく小さい頃だから、ちょっと比べられないかも。それになにより相手が遥ちゃんなんだもん、冷静に考えられないよ」
「そっかぁ。ちょっと甘えてみたかったんだけどな、みのりお姉ちゃん」
 からかい口調でささやくと、みのりの全身の骨が溶けた。軟体動物みたいになった身体を苦笑とともに包み込むと、蒸発して消えてしまうんじゃないかというくらい湯気が上がる。
 喜んでくれるからついこういうことをしてしまう遥だったが、あまりすると自制がきかなくなりそうなので、頃合いを見て腕を緩めた。
「明日はイルミネーション見られるといいなあ」
「きっと大丈夫だよ。明日はきっといい日になる、でしょ?」
「そうだよね」
 緊急点検はすでに終わって問題はないとアナウンスが出ていたし、いくらなんでも二日連続でトラブルになる可能性は低いだろう。それを引き当てるほどの不運だったらおそらく彼女とは出会えていない。
 大事な大事な幸運を、手のひらにひとつ。それだけは逃さない花里みのりだ。
「それに」
 悪戯に淡くみのりを抱きしめながら遥が喉を鳴らす。
「今日もすごくいい日だったよ、私は」
 ずっとふたりきりで、彼女がずっと楽しそうで、今、こうして触れていられて。
 ああでも友達同士の距離感としては行き過ぎているだろうか。どうだろう。アイドルをしていたせいもあって気のおけない友人は多くなく、唯一親友と呼べる相手とはベタベタした関係ではなかった。
 困らせちゃうかな、と思いつつも、腕は解けない。
「う、うん。コラボフェニーくん可愛かったよね。カフェのご飯もおいしかったし、ハーバリウム作りも面白かったし、すっごくいい思い出になったよ」
 彼女が出した話題はどれもこれも外れてはいないけれどピントが合っていない。けれど遥はただ「そうだね」と頷いた。それらだって確かに良い経験だったのだ。みのりとの楽しい思い出になったことに違いはない。
 いつか、たとえばもっと大人になった頃に今この時を思い出したら、それはどんな意味を持っているんだろう。甘いのか苦いのか、淡いのか克明なのか、痛みはあるのかないのか。
 おそらくはどうなるかなんて自分次第で……
「ハーバリウム、きれいにできて良かったね。また今度、愛莉と雫も誘って来てみようか? 体験教室は他にも色々あるみたいだったし、企画のヒントになるかもしれないよ」
 うん、と、みのりが小さく小さくうなずく。しかし、それからおずおずとサイドテーブルに手を伸ばし、遥に贈ったハーバリウムのガラス瓶を手に取って、指先で表面を軽く撫でた。
「でも今は、これがいいかなぁ……
 さっきから彼女の表情は見えない。
 手をつないでるみたいだねと笑った二輪の花は、今も寄り添って並んでいる。
 それって、どういう意味?
 確かめたいのをぐっと堪えた。
 どうしてか彼女に答えを求めてはいけない気がした。
 ラインを超えてしまったのはたぶん自分のほうなんだと思う。
 冬の夜だというのに風の音すらなくて耳が痛いほど静かだ。そんな中でつぶやかれた彼女の言葉が聞こえないはずがないのに、「ふわぁ……」遥はあくびのふりをして、みのりの言葉を曖昧に受け流す。
「あ、遥ちゃん眠いよね? ごめんねわたしのせいで遅い時間なのに起こしちゃって」
「ううん、平気」
……あ、あの……
「ん?」
「このままじゃ狭いし、遥ちゃん寝にくいと思うので、そろそろ自分のベッドに戻ろうかと……
 両腕でくるまれた内側で、みのりはそわそわと落ち着かない様子を見せ始めている。たぶん、触れている遥の指先がほんのり動いたり、吐息が耳にかかったりしているせいだ。真っ白なベッドの中で遥が目を閉じる。白は、きれいだけれど味気ない。
 色とりどりの夢は今はなかった。
「どうしようかな」
「ど、どう、というと……?」
 遥は答えず、みのりが持ったままでいたガラス瓶を密やかに撫でた。一番美しい姿で時が止まっていて、それを閉じ込めただけで、なんの役に立つでもない。ただきれいなだけの囚われの花は、けれどその一点において愛される。
 そうだね、それがいい。さっき答えなかった返事を胸元だけでつぶやいて、みのりの身体を引き寄せる。
「もう少し起きててもいい? 友達と旅行なんてめったになかったから、眠っちゃうのがもったいなくて。もちろん、明日に響かないように、あと少しだけ」
「う、うん」
 あえて『友達』という言葉を使ったのだと彼女に気づかれただろうか。
 それからふたりでとりとめもない話をした。グループの今後の話もせず、アイドルのあり方について話しもせず、目指すものの話もせず。
 ただ学校で起こったちょっとした出来事とか、それぞれの家族のエピソードとか、この前食べた新作スイーツがおいしかったとか、そんな話ばかりをしていた。
 そうしているうちに、いつしかみのりの身体からは緊張が解けて、どこか甘えるように背中を預けてくれるようになっていた。おそらく彼女自身は無意識だ。顔が見えないのが良かったのかもしれない。遥は何も言わずに胸に感じる重みを受け止めている。
 冬のしじまの中、そこには温かなふたりの少女の身体だけがあった。
 心は、どこにあるだろうか。
 その問いはどんな物知りに尋ねてもきっと答えは返ってこなくて、いつか、どこかの未来で分かる日が来るのだろう。
「そういえばこの前、朝のランニングをしてたら散歩中の犬がね」
「うん……
 ふにゃりと芯のない相槌に遥が話そうとしていた話題を止める。左腕にかかる重みが増してきた。「みのり、眠い?」あと少しだけと言っていたくせに気づけばけっこうな時間が過ぎていた。遥は口を閉じて優しくみのりの腹部を撫でる。しばらくそうしていると、榛色の髪の向こうからすうすうと安らかな寝息が聞こえてきた。
「おやすみ、みのり」
 遅くまで付き合わせてしまって申し訳ない。明日は少しゆっくりしよう。ホテルのそばにモーニングをしているカフェがあった。チェックアウトしたらそこでのんびりしてもいいかな。そんなことを考える。
 グループの今後とか、アイドルとしてのあり方とか、そういう話が出なかったのはきっと、今のふたりが仲間の領分をほんの少し越えてしまったからだ。
 明日になったら。明日になったら、またいつものふたりに戻ろう。桐谷遥として、あるべき姿になろう。
 花里みのりが隣にいたいと思ってくれている桐谷遥になろう。
 いつだって花里みのりと桐谷遥の間に間違いなんてありはしなくて、それは太陽のような正しさで存在している。
──それでも。
 それでも、いつか。
 いつになったっていい。ガラス瓶に閉じ込めた花が永遠に褪せないみたいに、この想いが限りなく続く自信はあった。
 いつの日にか、遠い遠い未来にでも、あなたが好きだと言えたらいい。
 寄り添う二輪の花の意味が変わったらきっと素敵だけれど、そうならなくても追いかける夢はなくなりはしない。それでいいと思う。
 痺れてきた左腕に幸福を感じながら、遥がゆるりとまぶたを下ろす。
 夢は、今は見なかった。