黒竹
2022-05-30 22:49:58
14519文字
Public プロセカ
 

#6 BACK OF ONE'S MIND

【プロセカ】【小豆沢こはね】【MAKE IT REAL】
作中、””記号で囲んでいる箇所は青空文庫「銀河鉄道の夜」からの引用です。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html

 十五歳で攫われた私の心臓は星に形を変えられてもう戻らない。



 店内に入った途端、聞き覚えのある声が聞こえてきて、おやと眉を上げた。
 そちらに目をやれば、いつもはステージの上から高らかに歌や台詞を届けているお兄さんがテーブルに頬杖をついた姿勢で座っており、対面の少女がパフェを食べる様子を眺めている。
「司くん、チョコケーキひとくちちょうだい」
「ああ、かまわんが。……おいっ、それはひとくちとは言わん! 半分近く取るんじゃない!」
「ひとくちだよぉ」
 ピースの半分は切り取ったであろう大きさのケーキを、あむ、と本当にひと口で食べているのは同級生の鳳えむだ。もぐもぐしながら満面の笑みになっている。
「おいしーいっ」
「く……まあいい……。しかし、残念だったな。季節限定パフェが昨日で終わっていたとは。すまなかった、事前に確認しておくべきだった」
 咲希に聞けば簡単な話だったのだが、と肩を落とす司に、えむはケーキを飲み込んでから「んーん」と首を横に振った。
「いいの。来月からまた季節限定のが出るんだって。そしたらまた来ようね」
 えむの言葉に司がふと頬を緩める。
「ああ、そうだな」
 それとなく眺めていた小豆沢こはねは、なんとなく声をかけにくくて、気づかれる前に待ち合わせ相手のいる席にそそくさと向かった。
「お、店員さん、お冷のおかわりをもらえるだろうか!」
「はーいただいま。……まだ残ってるじゃない。むやみに呼ばないでもらえますか、お客様」
「そう言うな、兄としてお前の仕事ぶりを見ていたいという気持ちをだな」
「アタシをダシにしてデートしてるくせに」
「なっ、ち、違うぞ、逆……いや……その、な?」
「な? じゃないの」
 聞こえてくる会話に思わず苦笑する。見れば、席で待っていた相手も同じような表情をしていた。こはねを見つけて片手を上げてくるのに軽くうなずき返して、正面の椅子に腰を下ろす。
「おまたせ、遥ちゃん。遅くなってごめんね」
「そんなに待ってないから平気だよ」
 シンプルな白いカップで紅茶を飲んでいる彼女は、見ているこっちがドギマギするようなきれいな笑顔で応えてきた。やましいものはないけれどちょっと心拍が上がる。
 お互いに私服姿だからだろうか、なんだか照れくさい。みのりと杏と一緒に四人で遊んだときの高揚とはまた違った緊張感だった。相棒の隣にいることへの決意はこはねを成長させたけれど、もともとの引っ込み思案な性格が消えたわけではない。
 なんとはいっても国民的アイドルグループの中心にいた子だ。目の前に来られたら輝きに圧倒されもする。
「こはねもなにか頼む? もしおなか空いてたら、私に遠慮しないで好きに頼んで」
「うん、ありがとう」
 うなずいたが、こはねはカフェオレだけ注文した。今日は彰人のバイトと杏の用事の関係でチームの練習はなくて、セカイでミクと一緒に練習してからメイコにホットサンドを作ってもらったので空腹は覚えていない。
「お待たせしました、カフェオレのお客様」
 榛色の髪を揺らしながら、顔なじみの店員がカフェオレのカップをこはねの前に置く。顔なじみどころか友人である。これもまた、やや照れくさい。
 その頃レジでは司とえむが会計レジの前で笑い合っている。「おいしかったね!」「うむ、コーヒーも俺好みの味だったな」満足そうにうなずき合うふたり。レジの奥にいる咲希はなんとも言えない顔をしている。少なくとも苦味はないので剣呑な雰囲気にはなっていない。
「咲希、オレたちはこれで帰るが、もしこのあとなにか嫌なことがあったらすぐに連絡するんだぞ。ああそれから、バイト中に体調を崩したら無理せず休んでいろ、すぐに迎えに来るからな」
「お客様っ、プライベートなお話はご遠慮ください」
「そうだよ司くん、咲希ちゃんはお仕事中なんだよ?」
「むっ……
 えむにまでたしなめられて司の眉が少々情けなく歪んだ。自分自身もショーキャストとして仕事をしている関係上、そういうプロ意識みたいなものは持ち合わせている。はあ、とひとつ嘆息して、「そうだな」視線を落としながらうなずいた。
「咲希もずっとバイトを頑張っているのだから、オレが口出しすることではなかったな。すまん」
……大丈夫。今日はバイト上がる時間になったらいっちゃんとほなちゃんが来て一緒に帰る約束してるし、ここのお客さん、みんないい人ばっかりだから」
 ふと眼差しをゆるめて咲希が言う。
「ああ」
「分かればよろしいのだよ、司くん」
 横からえむがふんぞり返って口を挟んできた。
「なんでお前が偉そうにするんだ」
 苦笑しながら司が片手を差し出して、えむがそれを取った。指を絡めたりするわけでもなく、すがるように握るわけでもなく、ただそっと触れ合わせるだけのつなぎ方だった。
 手をつないだまま店を出ていった後、咲希がまったくもう、と肩をすくめる。
 一連の光景を横目に眺めていた遥がぼそりとつぶやいた。
「──いいなあ」
 こはね、思わず斜め横を見やる。カフェオレを持ってきてくれた店員の頬がわずかに赤らんでいた。
 さすがというべきか、遥はアイドルらしい笑顔だけでなく、憂い顔もまた麗しい。我慢しきれなかったのか店員がトレイで顔を隠しながらブルブル震えている。こはねもたまに配信を見たりするけれど、そこで弾けている笑顔とはまた違った魅力が溢れたアンニュイな佇まい。「みのりちゃん、大丈夫?」咲希と同様、彼女もバイトとはいえ仕事中なのだから邪魔しないように、と思っていたのに堪えきれず尋ねてしまった。「ひゃい……」消え入りそうな返答がトレイの向こうから聞こえる。明らかに全然大丈夫ではない。
 色々と間が悪かった。たまたま司たちと居合わせて、たまたま彼らの会計に咲希が対応して、たまたまこの時間にこはねがカフェオレを注文し、たまたまみのりが配膳してきて、たまたまそんな花里みのりに片思いしている桐谷遥がこはねの対面に座っていた。
 これも、彼女の運の悪さが引き起こしたものなんだろうか。だとしたら同情を禁じえない。
 遥は組んだ両手に顎をあずけて、やや上目遣いにみのりを見上げた。
「店員さん、今日はシフト何時までですか?」
……十八時、です」
 さっきから遥はニコニコしていて、それがかえって無関係なはずのこはねの内心をざわつかせる。
 ちらりとスマートフォンで時刻を確認すると十七時を二十分ほどすぎたところだった。意地悪な質問だ。そもそも、最初からみのりのバイトが終わってから三人でショッピングモールへ買い物に行く約束をしていて、遥だって知っているはずなのに。
「もしよかったら、終わってから遊びに行きません?」
……遥ちゃん、もう勘弁してくだひゃい……
 憧れのアイドルからお忍びデートの誘いを受けて、みのりはもう息も絶え絶えだ。こんなお遊びですら破壊力は絶大で、こはねは少しだけみのりに憐憫の情をいだく。
 遥は、みのりといる時だけ雰囲気が違う。
 相棒の杏が言うところの芸能人オーラはよく分からないが、たしかに普段から煌めいていて、黙って佇んでいるだけで衆目を集めるような魅力がある子だ。小さい頃から人前に出る仕事をしていたせいか、思慮深くて物事を明確に考えるきらいがある。
 それらがなくなるわけではないけれど、みのりの前ではわずかに稚気が出るというか、いたずらっ子みたいな顔をすることが多くなる。
 華やかで活発で、それによりやや軽薄な部分も持ち合わせている杏とはタイプが違うようで、どこかしらが似ているのかもしれない。だから気が合うのかも。信念のようなものはお互い似ていると本人たちも言っていたし。
「お客様ー、店内でのナンパはご遠慮くださーい」
 横からラミネート加工されたメニュー表を眼前に差し込まれ、驚いたのか遥が目を丸くした。
 顔を上げると咲希が呆れ顔でこちらを見下ろしている。
「はるかちゃん。みのりちゃんいじめないの」
「ごめん。みのりが可愛くてつい」
「だーかーらー」
 ごほんとわざとらしい咳払いで誤魔化す遥。
「もう邪魔しないから」
「ならいいけど。みのりちゃんも戻ろ」
「う、うん。遥ちゃんこはねちゃん、また後でね」
 フラフラした足取りでバックに消えていくみのりと、空いたテーブルを片付けに行った咲希を目で追い、こはねはぬるくなったカフェオレを口に運ぶ。
「みのりちゃん大丈夫かな……。買い物してる途中で倒れないといいけど……
「さすがにそこまでじゃないと思うよ。あ、こはねは今日、何時くらいまで平気?」
「あんまり遅くならないなら大丈夫。最近はライブイベントもあるから、お父さんもあんまり厳しいこと言わなくなってきたんだ」
「そっか」
 さすがに深夜になったらまずいだろうが、ただショッピングモールで買い物をするだけでそんな時間になるはずもない。遥やみのりの性格も鑑みれば常識的な時間帯に帰宅できるだろう。
 遥もカップを傾けてから小さくうなずく。
「杏は、お店の用事かなにか?」
「あ、そうじゃないみたい。詳しくは聞いてないけど、今日は先約があるからって言ってたよ」
 杏の口ぶりから察するに、WEEKEND GARAGEの手伝いとかではなさそうだった。先約というからには誰か人と会う約束があったのだろう。
「友達とか?」
「そうなのかな? 杏ちゃん、お店でもイベントでも色んな人と知り合ってるから私もよく分からないんだ」
 友達の友達は友達、なんてマインドの持ち主ではないし、相棒の知り合いだから全員顔見知りなんてこともない。
「まあ、杏は誰とでも仲良くなるしね」
「知らない間にお友達が増えてたりするんだよ。私はまだイベントとかでも遠慮しちゃうから、杏ちゃんのすぐにみんなと仲良くなれるところ、羨ましいな」
「でも、こはねも私とは仲良くなれたよ?」
 ふふ、と小さな含み笑いをしながら遥が言ってきて、その表情と声音に軽く心臓が跳ねる。「こはねと仲良くなれて嬉しい」追い打ちのように優しい声で伝えてくるから思わず目をそらした。微笑みが眩しい。
 無意識なのかな、と口の中だけでつぶやく。そういえばみのりが遥ちゃんは神対応だと何かにつけて熱弁していた。いまいち理解できていなかったが、もしかしたらこれが神対応というやつなのかもしれない。
「私も遥ちゃんと仲良くなれたの、すごく嬉しいよ」
「うん、ありがと」
 なんだか不思議な感じがする。四人で遊んだ時に感じたもやもやとはまた違う、柔らかい羽毛で首筋を撫でられているような感覚。少し逃げ出したいような、けれどけして嫌なものではない。
「杏にはちょっと妬かれそうだけどね。私の相棒なのにーって」
 からかうでもなく言われて、こはねが苦笑を浮かべる。
「それ、は……あるかな」
 うぬぼれているつもりはないけれど、大切にされている実感はある。何よりも優先してくるわけではない。今回のように先約があればそちらを選ぶし、同じ夢を追いかける仲間としてのストイックな向上心だって鈍らない。けれどそれ以外の部分、小豆沢こはねの一番奥にあるものを、彼女は掴んで離さないのだ。
 たぶんそれがなければ息ができなくなるくらいのもの。
 それは彼女がいつもつけているピアスが反射する光に似ている。
「杏ちゃん、なんだか最近キラキラしてるし、私も置いてかれないように頑張らないと」
 彼女の相棒の名に恥じないように。歌っている時だけではない。華美なところは変わらないが、最近の杏はなんだか以前よりずっと煌めいていて、隣に立っているだけで光り輝くなにかが視界で跳ねる。
 その光景はひどく魅力的だ。
 あれはいったいなんなんだろう。



「恋じゃない?」
 さらっと巡音ルカが言う。「え?」一瞬なにを言われたのか分からなくて呆気にとられてしまった。
 ルカはつややかな仕草でスツールに腰かけ、なぜか流し目でカウンターの向こうにいる初音ミクを見やった。
「恋は女を磨くものだから、ね?」
「いや意味分かんないし勝手に決めつけるようなこと言うのもどうかと思うよ」
 一息で、かつ平坦な口調でミクが応じる。
 ルカは不満そうに尖らせた唇をコーヒーカップにつけて眉を寄せた。ミクが乗ってこなかったから気に入らないらしい。
 久しぶりにカフェに顔を見せたルカと、こはねのオーダーを受けてから買い出しに行ってしまったメイコの代わりに留守番を任されたミクに、世間話のつもりで最近の杏の様子を話したら返ってきたのがルカの言葉だった。
「だって杏ちゃんが近頃ますますかわいくなって、こないだはこはねちゃんも知らない人と二人でお出かけしたんでしょ?」
「あ、二人なのかは聞いてないんですけど」
「まあここはひとまず二人ってことにしとこうよ」
「なんで?」
 ミクが当然として首を傾げた。ルカは無視した。
「どう考えてもデートじゃん」
「ルカ、いい加減にしなよ」
「えー、つまんないの。じゃあミクが私とデートしてくれるならやめる」
「なんで?」
 さっきより冷たい声でミクが言った。ルカは黙った。
 こはねはカフェモカホイップチョコチップ乗せクリームマシマシを口に運びながら意識をここではない場所に飛ばす。
 デート、か。
 以前、杏がほんの悪戯でこはねと出かけることをデートだと周囲に触れ回ったことがある。近しい人たちは誰も騙されなかったらしいけれど、逆をいえばそれくらい、誰も彼女にそういう存在のイメージを持っていないということだ。
 白石杏の隣にいるのは小豆沢こはねで、それが当たり前で。
 けれど本当にそうなのだろうか。
 それこそルカの言ったように、この頃の彼女が輝いている理由が小豆沢こはね以外の誰かだったとしたら。
「で、でも、杏ちゃんからそんな話を聞いたこともないし」
「そりゃまあ、みんなで伝説の夜を越えようって一致団結してる時に、いきなり恋人ができましたーなんて言いにくいんじゃない?」
 サラリとルカが答える。「う……」こはねは思わず声を詰まらせた。自分や冬弥はともかく、彰人が聞いたらきっといい顔はしない。また覚悟がどうこうと言われてしまうかもしれない。
 ミクが出してきたオレンジジュースのストローを咥えながら、ルカは何かを振り払うみたいに手を振った。
「相棒とかチームとか、それはもちろんあの子の中で重要な部分を占めてるとは思うけど。人ってそれだけじゃないじゃん? いくら相棒でもチームメイトでも、何もかも隠し事なしで話さなきゃいけないなんてことはないよ」
 「私もミクに色々隠し事されてるしね!」なぜか自信満々に親指で自身を指す。「相棒でも恋人でもないのにそんなこと言われる筋合いないと思うけど」氷点下ギリギリくらいの声でミクが割り込んだ。
 ルカがキョトンとする。
「相棒じゃないの?」
「相棒だと思ってたの?」
「思ってたよ?」
「滅多に来ないのに?」
「一緒に歌った回数が大事?」
 薄桃色の髪を揺らして笑う彼女の、その半分くらい隠れた目は、たっぷりの砂糖で煮詰めたいちごジャムみたいな目だった。赤くて甘くて、ツヤツヤと煌めいていて、可愛らしいけれどそれだけを口いっぱいに頬張ったら胸焼けしてしまうような。
 頬杖をついたルカの右手の小指が自らの唇をゆっくりと撫でて、それに合わせて口端が上がっていく。
 ミクはもう空っぽだったはずのカップを持ち上げて、口をつける直前で止まってまたソーサーに戻した。見間違いかと思ったけれど、やっぱり空だったらしい。自分でも気づいていなかったのか、なんだかちょっとムッとしたような顔になるミク。
 ふとルカがおどけるように身体を起こし、スツールの上で軽く跳ねた。「ま、確かに杏ちゃんとこはねちゃんみたいな相棒ではないね」
「だからそもそも相棒じゃないってば」
「ここはちょっと話を合わせてよー」
 ミクの意地悪、と頬を膨らませるルカはこの場の最年長にはどうしても見えなくて、こはねはミクと顔を見合わせて苦笑する。彼女たちはチームのみんなの想いから生まれたという話なのに、どうにも掴みどころがなくてふわふわしていて、一体自分たちの想いのどこにこんなふわふわした部分があったのだろうと不思議なくらいだ。
 ルカは無邪気に笑いながらこちらを見つめている。そこには大人の啓蒙も忠告も心配もなかった。
「大事で。大切でって。言葉でどんなに結びつけても、どうにもならないものってあるじゃん?」
…………
 どうにもならないもの。
 それがないと息もできないのに。



 WEEKEND GARAGEには珍しく青柳冬弥しかいなくて、広いテーブルをひとりで使って文庫本を読んでいる。カウンターの向こうではマスターの謙が手持ち無沙汰にカップを拭いていた。
 ドアに取り付けられたベルと足音で気づいた二人が同時にこちらを見遣ってくる。
「小豆沢か。タイミングが悪かったな、白石は今出かけているそうだ」
「ああ、昼前に誰かから連絡が来たと思ったら、えらくめかしこんで飛び出して行ってな」
「いえあの、大丈夫です、杏ちゃんと特に約束していたわけじゃないので」
 気にしないでください、と両手を振って見せる。こちらもたまたま近くで買い物をしていて、予定より早く終わったからちょっと寄ってみただけだった。
「今日は東雲くんは一緒じゃないの?」
「彰人はまだバイトの時間だからな。終わってから合流して練習をするつもりで、ここで待たせてもらっている」
 言われて時間を確認すると、確かに彰人がよくシフトに入っている時間だった。わざわざ別の席に座るのもなんなので、断りを入れてからテーブルの逆側に腰を下ろす。
「銀河鉄道の夜?」
 冬弥が持っている文庫の表紙が目に入って、半ば無意識に題名を読み上げた。活字が苦手な杏や彰人と違い、彼が読書好きなことは知っている。だからこそ逆に不思議だった。冬弥くらいならとっくに読んだことがあるだろう有名作を、今になって読んでいるのはどうしてだろう。
 残り三割くらいのページを残して冬弥が本に栞を挟む。閉じてテーブルに置いたそれの表面を指先で軽く撫でてから、「ああ」と話し始めた。
「この前、父さんがイーハトーヴォをモチーフにしたコンサートを開いたんだ。まあ、俺は聴きには行っていないんだが」
 やや苦笑気味に目を細めながら言う。
「イーハトーヴォ……あ、宮沢賢治の?」
「ああ。小さい頃に読んだのを思い出して懐かしくなった」
「あ、それで読み返してたんだね」
 父親との確執がなくなった訳ではないが、そんなふうに少しだけ影響するような、そういう距離感なんだろう。
「懐かしいな、私も小学生の頃に読んだよ。子供向けに読みやすくされたものだったけど」
「原文だと空白もあるし、子供には少しむずかしいだろうな」
 成り行きで話の概要を思い出す。二人の少年の別れの物語だ。どこまでも行ける銀河鉄道に乗っていった少年と、降りなければならなかった少年。
 ああそうだ、彼は、願っていたのに。
 ほんとうのさいわいは。
……杏ちゃん、は」
「ん?」
「杏ちゃんは、いつも私と一緒に歌いたいって言ってくれるけど、きっとそれだけじゃないんだよね」
 意味がわからなかったのか、冬弥が小さく首を傾げた。こはねもテーブルに視線を落として両手を遊ばせる。
「あ、杏ちゃんがね、最近ちょっと違うの」
「そうか? 俺にはいつもどおりに見えるが」
「ううん。なんていうか、前よりもキラキラしてて、可愛くなった、っていうか」
「俺はそういうのに疎いからな。いつも白石の隣りにいる小豆沢が言うならきっとそうなんだろうな」
 屈託なくうなずく冬弥に、そこはかとない申し訳無さを感じる。相棒の自分たちを信じて疑わないその純粋性が今はなんだか居た堪れない。
 謙が持ってきてくれたココアと、冬弥のおかわりのコーヒーがテーブルに置かれる。
「どうした、杏のことでなにか心配事か?」
 気遣うように問いかけられてこはねは慌てて首を振った。
「い、いえ、そういうわけじゃないです。杏ちゃんとずっと相棒でいようって、もう決めてて、そこは変わらないから」
 けど、とやや弱くなった声音で続ける。
「それが、杏ちゃんのほんとうのさいわいじゃないのかも、と、思ったりもして」
 一緒に歌いたいと願うのは本当だとしても、もしかしたらそれが別の願いの邪魔をする日が来るのかもしれない。
「杏ちゃんに、もっと大切なものができたとしたら」
 いや、もしかしたら、もう来ている可能性だって、なくはないのだ。
 だってこの頃の彼女は前にも増して綺麗だから。あのまばゆい光を放つ根幹が、もし己のせいで歪んでしまったら。
 それが怖いし、きっとそうなったら自分はどこにも行けずに消えてしまう。
 銀河鉄道を降りて、けれど家に帰ることすらできずに。
「──『おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか』」
 長い指が文庫を開いたかと思ったら、不意に低く通る声でつぶやくのが聞こえた。
「え?」
「というのは銀河鉄道の夜にある一節なんだが。この話の中で、カムパネルラがどうなるかは知っているか?」
「あ、うん。川に落ちた子を助けて、自分はそのまま流されちゃうんだよね。それで……
「カムパネルラは、母親が悲しむことを分かっていて、それでもザネリを助けた。それはカムパネルラにとって、母親よりザネリのほうが大事だったからか?」
……違うと思う」
「俺もそう思う。きっと咄嗟にそうしてしまったんだ。自分にとって何が一番大切なのか、揺るぎないものがたとえあったとしても、違うものを選ぶ瞬間というのは確かにあるだろう。きっとそれ 想いだけじゃないんだ。何かを掴む理由なんて」
 大事とか、大事じゃないとか。
 たぶんそういうものの前に、掴まなければいけない瞬間が訪れて拒むことはできない。
「白石が小豆沢以外を選ぶ瞬間があったとしても心配いらない。俺たちは伝説の夜を作るんだから、白石はすぐに戻ってくる」
……うん。そうだね」
 けれど、けれどいつか、あの伝説を超える日が訪れたら。
 そうしたら、彼女の逆隣には別のなにかが……誰かが現れて。
 それを止めることができるだろうか。彼女に手を引かれるばかりの自分が、彼女の隣にいたいと願うだけの自分が、どこかへ行こうとする彼女を引き止めて、無理やり列車から引きずり下ろすような真似をなし得るんだろうか。
 冬弥は表情が晴れないままのこはねに眉を下げて、自分の口下手に嫌気が差したのかそれ以上は口を開かず、ポケットやバッグを漁り始めた。
「──小豆沢、良かったら、これ」
「え? ガム?」
 差し出されたのは安っぽいデザインのチューイングガムだった。今となっては珍しい極彩色のポップな包み紙がストリートの落書きみたいでかえって目に馴染む。
「ガムを噛むのはストレス解消にいいんだそうだ。歯を噛み締めないから顎の力が適度に抜けてリラックスできるらしい」
 なんとかこはねを元気にしようと奮闘する冬弥に思わず笑いがこみ上げる。そうだ、こはねと杏、冬弥と彰人が相棒であるのと同時に自分たちは四人のチームで、誰かになにかがあったら他のみんなで助け合うのがチームだ。
 少し肩が軽くなった気がして、それに合わせて頬もゆるむ。
「ありがとう、青柳くん」
「大したことはできていないが、少しでも気が楽になってくれたら──ん、彰人が来たようだ」
 冬弥の視線を追いかけて入り口を振り向くと、彼の言葉通りに東雲彰人がドアを押して入ってきたところだった。
「こんちは──お、冬弥と、こはねも来てたのか」
「こんにちは、東雲くん」
「ああ、こはねもいるならちょうどいいな。前に歌ったので、こはねメインでオレたちがハモるところあったろ、あそこの練習しようぜ」
 冬弥の隣に腰を下ろしながらされた提案に、こはねはけれんみなくうなずいた。その後の見せ場である、杏のソロパートに続く起爆剤になる重要なパートだ。こはねもしっかり練習してもっと杏が引き立つように歌いたい。
 それからいくつか練習内容を打ち合わせして、彰人のカフェオレが空になったタイミングで店を出る。
 いつも練習に使っている公園を目指して三人で歩いていると、「あ?」彰人が妙に間の抜けた声を上げた。
「どうした?」
「いや、あれ、杏じゃねえか?」
「どこ?」
「ほらあの、帽子かぶったやつと一緒に歩いてる……
 彰人が指差す先には、見慣れたブルーブラックの艶めく髪を揺らして歩く少女と、彼女より拳ひとつ分ほど背の高い人が並んで歩いていた。話しかけられたのか、彼女の横顔が見える。よく見る顔だ。隣で、時に挑戦的な笑みで歌い、時にマシュマロみたいなふわふわした甘い笑顔で抱きついてきて、いつだって小豆沢こはねを求めている彼女の横顔。
 それが、今は、違うものになっている。
 ひやりと、手のひらの皮一枚だけを冷たい風が通った。

 ”けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながらまるであんな女の子とばかり はなしているんだもの。僕はほんとうにつらい。”

「初めて見る人だな。彰人、知り合いか?」
「いや、オレも見覚えはないな。イベントに出てるやつじゃなさそうだ」
 高いところで彰人と冬弥が話しているけれどこはねの耳には入っていない。
「なんかいい雰囲気じゃねえ? 邪魔しないほうがいいかもな……って、おい、こはね!」
 気が急いているのだろうか、景色の動きがずいぶん遅い。ひやりとした手のひら。隠す気になれなくて握らないでいるから体温がどんどんそこから逃げていく。水の中に飛び込んだ気分だけれど頬だけは火照って熱い。冷たくて熱い曖昧な感覚に包まれたまま、小豆沢こはねはひとり固いアスファルトを踏んで歩く。
 ふたりに近づくと次第に会話の声が聞き取れるようになってきた。早足のせいなのか別に原因があるのか、こはねはふっふと小刻みに呼吸を乱す。
「けどいいの? チームの子たちと約束とかあったんじゃない?」
「大丈夫。それに今日はどうしても会いたかったし」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど」
 自分たちよりいくらか大人に見えるその人は、そう言いながら肩をすくめて笑う。
 その余裕のある態度に胃の中のものが逆流しそうで思わず唇を噛みしめる。
 杏ちゃん。
 杏ちゃん。
 二度、声が出なくて、喉からひゅうと乾いた音が鳴った。
 喉が締まっているのはきっと泣きたくなる気持ちのせいだ。
「──杏ちゃん!」
 三度目で声になった。杏がこちらを振り返る。「こはね?」少し驚いたような表情。さして時間も経たず気まずげに目をそらす。
 どうして、いつもは、ひたむきな眼差しでこっちを見てくれるのに。
……杏、ちゃん」
「あ、あー、偶然だねー。っと、彰人たちも一緒なんだ、そっか、これから練習? ごめんね行けなくて、ちょっと野暮用でさあ」
 我慢できなくて杏の左手を掴んでぎゅっと握った。杏はほどこうとも握り返そうともしてこなかった。
 喉の奥からせり上がってくるものを堪えながら、顔を上げて真っ直ぐに杏を見つめる。
「──私は。杏ちゃんとずっと一緒に歌っていたい」
「え? うん、もちろん私もそうだよ」
「たとえ杏ちゃんに大切な人ができても、杏ちゃんに違う夢ができても、杏ちゃんが私をいらないって言っても。私は杏ちゃんと一緒に歌うことを諦めないから」
 掴んだ手を離したくない。どこまでもどこまでも、ほんとうのさいわいなんてなくてもいいから、いくつもの星を捕まえて、光り輝くなにかを探し続けて、夜を越えて。

 ”「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの さいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」”

 そうできないのなら小豆沢こはねの心臓はもう動いていないのとおんなじだ。
 杏は薄く唇を開いたまま、表情をなくしている。
「えっと、なんの話?」
「え、だ、だから、こっちの人、の……
 杏の隣を目線だけで示すと、帽子のつばの下で居心地悪そうな瞳が泳いでいた。その目が杏と合わさる。ふたりとも同時に首を傾げた。
「よく分かんないけど、この人は私が通ってる美容院で担当してくれてる美容師さん。見てみて、今日最上級トリートメントしてもらったんだ。ツルッツルでしょ?」
「え?」
「三回トリートメントを浸透させるんだけど、二回目は先週のイベントの前にやってもらってて。見てこの仕上がり、今までのと全然ちがうよね。イベントでもお客さんから『いつもよりキラキラしてたね』って言われたんだよ。どう?」
……え?」
 ということは、隣で歌う彼女がなんだか煌めいていたのは、比喩とか内側からにじみ出るオーラとかではなくて、単にそのきれいなロングヘアがトリートメントの力で輝いていただけだった、のだろうか。
 杏が自身の髪を一房すくって毛先をふにふに揺らして遊ぶ。
「自分でもケアはしてるけど、この長さでしょ? やっぱりプロにやってもらわないと、どうしても枝毛ができちゃうんだよね」
「そ……そっ、かあ」
 イメージチェンジのために自分で髪を切ってそのままにするくらいの小豆沢こはね、その発想はなかったと膝から力が抜ける。
 ルカの適当な言葉が蘇る。あれを信じるんじゃなかった。
「でも、それなら最初から教えてくれればいいのに。美容院に行くだけなら内緒にすることないよね?」
「あー……えーと」
 どうにかごまかそうとしていた杏だったが、もごもごと口の中でなにか言いかけて、結局、困ったような顔で首筋を撫でながら眉を下げた。
「美容師さんの友達で調香師の人が、オーダーメイド専門のフレグランスショップやっててさ。作って欲しい香水のイメージを伝えると、香りを調合して作ってくれるんだよね。そこ、一見さんお断りで紹介がないと注文できないから、トリートメント終わってから紹介してもらうためにお店に一緒に行こうって話になって」
「杏ちゃん、それだけじゃ説明になってないと思うよ」
 クスクス笑いながら隣の美容師が言ってきて、杏が喉の奥で小さく唸る。こはねは杏の言葉を待つしかない。
 白旗を揚げた杏の顔が情けなく歪んだ。
私とこはね Vividsのイメージで作ってもらって、こはねに贈ろうと思ってたの」
 杏の手が伸びてきて、親指で優しく頬を撫でられる。
「こはね、最近は大河おじさんと一日練習することも多いしさ、こはねの相棒は私なんだぞーって、忘れないでほしいっていうか」
「わ、忘れるわけないよ!」
「うん。そうだよね」
 へへ、と、どこか稚気のある笑みで杏はうなずき、こはねの頬から指を離した。
 「あーあ、せっかくサプライズでプレゼントしてびっくりさせようと思ってたのに」見つかっちゃったなら仕方ないと目を細める。
 天を仰ぎたい気分だった。
 まるっきりの独り相撲だ。別に杏は自分をおいて遠くへ行くつもりもなかったし、こはね以外の大事なものをつかもうとしていたわけでもなかったし、咄嗟の判断で川へ飛び込んだわけでもなかった。
 寒風がこはねの首元を切るように通り過ぎる。
「せっかくだからこはねも一緒に行く? やっぱり私たちのイメージだからさー、こはねの意見も聞いたほうが絶対にいいよね」
「そういうことなら相棒ちゃんも紹介するよ」
「おっ、さすが話が分かる大人!」
「杏ちゃんはお得意様だし、それくらいはね」
 なんだ、よくよく見てみれば、二人の間にそんな甘ったるいなにかなんて少しもない。杏の眼差しはつるりと乾いているし、美容師の笑顔も気心の知れた相手へ向けるものではあるが、あくまでお客さん相手の無味なものだ。本当にお得意様でしかないんだろう。
 うん、とうなずくと、「やったぁ!」杏が両腕を広げて飛びついてくる。
 きつく抱きしめてくる腕の中、困り笑顔で首を伸ばす。
「杏ちゃん、苦しいよぅ」
 何度そう彼女に訴えただろう。もう数え切れない。
 苦しくて、こはねはぽこんとあぶくみたいな息を吐いた。



 フレグランスショップの帰り道、杏と並んで歩きながら、すっかり暗くなった空を見上げる。
 あいにくと空は薄曇りで、星も月も、もちろん空を渡る天の川も見えはしない。
 杏は上機嫌だ。オーダーを伝えた香水は数週間後にはできあがるということだった。こはねだけに贈るつもりだった香水は、こはねの提案で同じものをお揃いで持つことにした。Vividsの香水だから、どちらかひとりだけが持つのでは足りない気がしたのだ。
「楽しみだなー。早くできないかな」
「気が早いよ、杏ちゃん」
「だってさ、それがあったらいつでも一緒にいられるよ」
 世界にひとつだけの、白石杏と小豆沢こはねだけが持つチームの名前を冠した香水だ。
 いつでも、一緒に。
 そうして歌っていこうと約束したのは確かだったのに。
 どうして不安になってしまったんだろう。
 羽織っているジャケットのポケットに両手を入れて、杏が一歩前に進み出る。
「そういえばさ」
 こはねを追い越した杏がくるりと反転してこはねの前に立ちはだかった。
「こはねが言ってたことなんだけど」
「え、なに?」
「私に大切な人ができたりとか、違う夢ができたりとかっていうやつ」
 声が詰まる。まったくの勘違いだったので、あまり蒸し返さないでほしいのだけれど。とはいえ、彼女がそれをネタにからかったりしてくるわけがないというのも分かっているので、こはねは小さくうなずいて続きを促した。
「そういうのはしばらくこはねだけでいいかなー」
……そういうの、って?」
「だから、大切な人とか夢とか。全部ひっくるめて、今はこはねだけでいいよ」
 こはねの足が止まる。杏は夜道の中で無邪気に笑っていて、なにかを含んでいるようには見えなかった。それが薄暗くて表情を読みきれないせいなのか、本当に彼女が裏表なく笑っているだけなのか、判断はつかない。
 こはねは無意識に一度唇をへの字に曲げた。
「しばらくって、いつまで?」
「いつまでかなあ」
「RAD WEEKENDを超えるまで?」
「RAD WEEKENDを超えても」
「今よりずっと大人になるまで?」
「今よりずっと大人になっても」
「じゃあ……一生?」
「一生が終わっても」
 博愛のような、執着のような、玉虫色の笑顔を杏はこはねに向けている。
「お星さまになっても、一緒に歌っていようよ」
 それは閃光として小豆沢こはねの心臓を貫き、空いた穴からは煌めく小さななにかの欠片がとめどなく溢れて空に昇っていった。
 彼女の歌に祈りはない。あるのはただ鮮やか ビビッドな信念と強烈な生命 ビビッドである。
 はじめに彼女の歌を流し込まれた小豆沢こはねの心臓は、きっと永遠に止まることはない。
 いつしか空は清浄に晴れ、いくつもの星がまたたいていた。

 ”「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」”

「うん。ずっと、杏ちゃんと」
 小豆沢こはねの心臓は星に姿を変えられて、白石杏の左耳で輝いている。
 その星は時々、誰にも聞こえない天上の音を奏でるのだった。