黒竹
2022-05-30 22:48:52
17077文字
Public プロセカ
 

#5 YOU MAKE MY DAY

【プロセカ】【司えむ】【MAKE IT REAL】

 日が落ちるころの、低い太陽が放つ金色と、水平線に滲むあかがね色が苦手だった。
 人いきれと笑い声がポツポツと減っていくその光景。それが嫌で祖父のたっぷりとした着物の裾にもぐって顔を隠した。見えなければ悲しくなくなるなんてことは、なかったのだけれど。
 祖父は鷹揚に笑いながら節くれ立った指でやさしく髪を梳いてくれて、そうされるのは好きだった。
 祖父がいなくなり、大切なステージは古びて、人々の笑い声も遠くなった。
 夕焼けの金とあかがねはずっと苦手なままで、いつだってあの悲しい光に照らされると泣きたくなった。
 寂しさが消えないまま、兄たちとの関係もひび割れたまま、それでも家族と笑い会えるように未来を夢見て過ごす日々。
 ある時、夕焼けと同じ泣きたくなるような哀切の髪色を持った、けれどそんな寂寥など髪の毛ひとすじほども持たない少年が現れた。
 しばらくして夕日は意味を変える。ぐるぐる回り続けて、けれど悲しくはない毎日に。



 親交の深い後輩に声をかけられ、天馬司は廊下で決めていたかっこいいポーズを解いて振り返った。
「どうした冬弥! この世界に羽ばたく大スター、天馬司の魅力を讃えたいというなら好きなだけ讃えるがいい!」
 新たにかっこいいポーズを取ると、後輩の青柳冬弥が「さすがです、司先輩」感動を表しているのか胸に手を当てて応じた。そうだろうそうだろう、と司が深くうなずく。冬弥の隣でもうひとりの後輩がげんなりした顔をそむけているが気にしない。
「ですが用件はそうではないんです。実はまたゲームセンターでぬいぐるみを取りすぎてしまって」
 良かったら咲希さんにどうぞ、と冬弥が手にしていたバッグから片手でつかめるくらいの大きさのぬいぐるみを取り出す。二頭身くらいの女の子のキャラクターだった。目が大きくて髪が長い。司はそれがなんの作品のキャラクターなのかは知らないが、一瞥してふむとひとつうなずく。
「少しネネロボに似ているな。咲希よりえむか寧々のほうが喜ぶかもしれん。いや、寧々はこういうのでは喜ばんか」
 どうせ今日はワンダーステージの仕事があるし、いったん聞いてみようとぬいぐるみを受け取る。いらないと言われたら咲希に聞いてみたらいい。
「えむはまあ、ぬいぐるみが好きだからな。おそらく喜ぶんじゃないか」
「誰っすかそれ。寧々ってのは、冬弥とたまに話してるやつっすよね」
 今まで黙っていた東雲彰人が口を挟んできた。下手に会話に混ざると面倒なことになるからと静観していたが好奇心に負けたらしい。
 司は彰人に目を向けると、「我らがワンダーランズ×ショウタイムの仲間だ」無意味に胸を張りながら答える。
 引き継ぐように冬弥が彰人に話しかけた。
「たしか、小豆沢の友人だったはずだ。臨海学校の写真にいっしょに写っていた子を『えむちゃん』と呼んでいた」
「へえ、じゃあ宮女ってことか。お嬢様じゃん」
「まあ実際、フェニックスグループの令嬢ではあるが」
 言いながら自分でも違和感が拭いきれない司。事実なのにえむ本人を思い浮かべると言葉とのギャップが激しすぎてひどく据わりが悪い。
 冬弥がふと何かに気づいて眉を下げる。司と彰人がうん? というように首を傾げた。
「司先輩とお付き合いされているんですよね。俺なんかが取ったぬいぐるみを渡してしまっていいんでしょうか……
 それは差し出がましいのでは、と遠慮する冬弥の隣で、彰人が目を瞠る。
「おつっ……!? えっ、司センパイと付き合える女とかいんのかよ」
「どういう意味だ!」
 あらゆる方面に失礼な言葉に司が食ってかかる。彰人もさすがに口を滑らせたと思ったのか、自身の口を手のひらでふさぎながら目を逸らした。
 別に隠しているわけでもないし、えむのほうだってそうだろう。なんだったら宮益坂女子学園では言いふらされているかもしれない。咲希もこちらからは伝えていないのにいつの間にか知っていたし。第一、そもそも隠すようなことではない。健全な高校生として健全なお付き合いをしているだけだ。なにも後ろめたいものなどない。
 冬弥は澄んだ瞳で彰人を見やり、ふたりのやり取りの意味をなにひとつ分かっていない顔で笑っていた。
「可愛らしい子だったし、司先輩を選ぶくらいだ、きっと人を見る目も素晴らしい」
「うむうむ、さすが冬弥はよく分かっているな」
「ま、オレには関係ねえしどうでもいいけど……。こはねが見せてきた写真ってけっこう色んな子が写ってただろ。どの子だよ」
 そこだけは気になるらしく彰人が食い下がる。司はポケットからスマートフォンを取り出すと、写真フォルダから適当に一枚選んで彰人に差し出した。ちょうどフォルダの一番上にあった、学校の昼休みに友人と撮ったらしい一枚。
「これがえむだ」
 彰人が画面を覗き込む。
…………
「一応言っておくが、お前と同い年だからな」
 視線の意味を読み取って先回りする司。彰人は言える言葉が見つからなかったようでしばし沈黙し、それから焦点を司の斜め後ろにずらした。



 フェニックスワンダーランドのスタッフルームで高校の制服を脱ぎながら、司はナイトショーの活気を思い出していた。それから隣で大輪の花みたいな笑顔になっていた女の子のことを。
──いやまあ、オレも告白されるとは思わなかったが。
 思い返すと未だに少々くすぐったい。

 宣伝大使に任命されてからいくらも経たない日のことだった。ショーを終えて反省会も済ませ、帰ろうとかというところでえむに呼び止められた。
『司くん! お話があります!』
『どうしたえむ? なにか今日のショーで気になることでもあったか?』
 類と寧々は少し離れたところに並んでいて、ふたりとも口を開かなかった。それに妙な違和感をおぼえつつ、えむと向き合って話を聞く体勢を取る。
 えむはぎゅっと眉根を寄せてこちらをまっすぐに見据えていた。それはいつもの彼女の視線だった。鳳えむはいつだって天馬司をまっすぐに見る。天馬司はいつだってその視線を真正面から受け止めた。そういうふたりだった。ぶつかり合っていたと言ってもいい。お互いにいつでも全力だった。相手を笑顔にするために。
 えむの瞳は揺れてもいなかったし潤んでもいなかった。
 しゅた、とえむの右腕が宣誓みたいに空へ向かって伸ばされた。
『あたしとお付き合いしてください!』
『ん? これからか? 構わないが、いったいどこに行くんだ?』
 時間もやや遅いしボディガードとして頼られたのかと思い、司は「任せろ」と目で語りながらうなずく。いつもなら着ぐるみがついていくんだろうが、今日はなにか都合が悪いのかもしれない。
 後方から呆れ返ったため息が聞こえた。
『馬鹿……
『寧々、聞こえているぞ』
 誰が馬鹿だ、誰が。腕組みをしながら軽く睨むと、数倍の鋭さで睨み返された。うっと思わず怯む。
『えむが言ってるのはそういう意味じゃないって』
『ん?』
 えむの瞳が妙にキラキラしている。その視線になぜか圧力を感じ取る司だった。ああこれは、この煌めきは。
 こちらを驚かせたくて堪らない時の、あの光だ。
 宣誓の右腕はまだまっすぐに伸ばされたままだった。
『あたしね、司くんと王子様とお姫様みたいになりたい!』
『は……は?』
『司くんが好きです!!』
 にひーっと満面の笑みになった彼女の、それでも隠しきれない照れくささが右手の角度に現れている。
 正面に立つ司の顔が、半分くらい隠れる手のひらの位置。
 司は呆気にとられながら、無意識にえむに向かって敬礼していた。

 後から聞いたところ、寧々は以前から相談に乗っていたらしい。例によって擬音ばかりの表現に理解が追いつかず困っていたら、類が首を突っ込んで通訳を始め、結局、知らぬは本人ばかりなり、という状況がしばらく続いていた。
 仲間はずれにするとはひどいやつらだと半ば冗談のように思う。しかし、えむは相変わらず穴から飛び出したりみぞおちに突撃してきたりするし、特に前となにかが変わったということもない。
 キャスト衣装に着替えて通路に出ると、ちょうどえむがこちらへ駆けてきた。まあ同じショーに出るキャストなのでここで鉢合わせることは珍しくない。
「あ、司くーん!」
「こらえむ! ここを走るんじゃないと何度言えば分かる!」
 ロケットばりの勢いで飛び込んできたえむの身体を受け止めて、すとんとその小さな身体を地面に下ろす。それからまた走り出さないように手を捕まえて歩き出した。
「前にスタッフにぶつかりそうになっただろう。着ぐるみがついているとはいえ、確実に間に合うとは限らんし、怪我でもしたらどうするんだ。危ないからここは絶対に歩いていけ」
「はあーい」
「真面目に聞いてるのか!」
「はい!」
 ぐっと眉根を寄せて真剣にうなずくえむ。が、一瞬後にはにへらと相好を崩してブンブン腕を振り回し始める。つながっている司の手も引っ張られて、ブランコみたいに前後に大きく揺れた。
 そういえば、と思い出す。ここのキャストになったばかりの頃は、えむへの態度について着ぐるみに低音ボイスでよく釘を刺されていた。告白の時だって、見えないだけであの近くにいただろう。何も言ってこないのはえむに遠慮しているのか、話題が話題のせいか。まあ司としてもあまり突っ込まれたくはない。
 前方からスタッフが歩いてきて、咄嗟に腕を引いてえむの手を離した。これは単にえむの暴走を止めるために捕まえていただけで、別にそんな、そういうのではないという顔をする。スタッフは見たことがない顔だった。最近入った新人なのかもしれない。自分たちと同じくらいの年頃で、こちらを無遠慮にジロジロ見てくる。なんだ、と司はやや口元を強張らせながらスタッフを見返した。
「──がババーン! って出てきたらね、穂波ちゃんがうひゃーってびっくりしちゃって持ってたアップルパイがドーン! ワシャシャシャー!! ってなっちゃって」
 ひとりでずっと喋っていたらしいえむの声に遅ればせながら気づく。ハッとして、急いで意識を彼女のほうに向けた。
「ん? あ、ああ、そうか、大変だったな」
「え? 楽しかったねってお話だよ?」
「そ、そうか。楽しかったなら良かったではないか! 穂波もお前と仲良くなってさぞ楽しい高校生活を過ごしているだろう!」
 話を聞いていなかったことに気づかれそうで慌ててごまかした。えむはちょっと不思議そうに小首をかしげたが、司が話を理解しないのはいつものことなのでそのまま流すことにしたようだ。
「でね、パフェがおいしかったからえむちゃんも一緒にどう? って誘ってくれたんだけど、あたしショーがあるから行けなくって」
「どこにだ?」
「だから咲希ちゃんがバイトしてるカフェだってばー」
「あ、ああ。そういえばオレもまだ行ったことがないな。咲希のやつ、照れくさいのか『お兄ちゃんは絶対に来ないで』なんて言ってきていてな……。咲希の頑張ってる姿を見たいのは山々だが、止められているのにノコノコ行くわけにも……
 はあ、とため息をつくと、えむが小さく唇をすぼめて一瞬だけ思案顔になった。
 軽く手を引っ張られる。
「じゃあ、あたしと一緒に行こうよ」
「む?」
「あたしが司くんを連れてきたって言ったら、きっと咲希ちゃんも怒んないよ」
 なるほど。それならこちらはえむの我がままに付き合わされただけで、自分の意思ではないのだと大義名分が立つ。どうも話を聞くと女の子向けというか、可愛らしい店らしいから男ひとりで行くのも気が引けていたが、えむと一緒ならその気まずさも軽減されるしいい事尽くめだ。
「ナイスアイデアだ、えむ!」
「えへへー」
「少し先だが、来週末はショーも休みだし、確か咲希もシフトに入っていたはずだ」
 スマートフォンで予定を確認しつつ司が言う。「そうだな、昼くらいでいいか?」「オッケー!」スケジュールアプリで自分とえむの予定を登録すると、えむが嬉しそうに飛び跳ねた。
「わーい! 司くんとデートだ!」
「デ……っ、いや、まあ、そうとも言えんこともないかもしれんが……
 んん、と軽く咳払いをしながらもごもご答える。咲希の仕事ぶりを見られる喜びが大きくて気づかなかったが、確かに、お付き合いしている相手とふたりでカフェに出かけるというシチュエーション、そういう言い方ができなくもない。というかそれ以外にどう言えばいいか分からないくらいだ。
 天馬司。
 はじめてのお付き合い。
 急に恥ずかしくなってきた。
 考えてみれば、今までふたりきりで出かけても、ショーで使う小道具を買いに行ったり、宣伝大使の仕事で遠方に向かう前の準備を話し合ったりするばかりで、こんなふうに事務的な目的なしに遊ぶ約束をしたことはないかもしれない。
「へへ、嬉しいな」
 無邪気に笑うえむに、可愛いではないかとかうっかり思ってしまって、司はまたしても咳払いでごまかした。
 調子が狂う。
 けれど思い返せば、彼女と出会ってからこっち、一緒にいて調子が狂わないことなんてなかったのだった。



 相変わらずナイトショーは人気だ。ひところよりは落ち着いたとはいえ、まだまだチケットは完売続きだしネットでの評判も良い。えむが、そして司が見たかった光景は今も褪せない。
 その日のナイトショーを終えて汗だくのままスタッフルームに戻る。「今日も大成功だったな!」「うん、トラブルもないしお客さんの反応も上々。良いショーだったね」隣の類も満足そうだ。司を大砲で飛ばせたときくらい笑顔である。
 上機嫌で通路を歩いていると、陰からなにか話し声が聞こえてきた。うん、と片眉を上げつつ、ふたりとも足は止めない。
「へえ、ナイトショーを見てうちに?」
「そうなんですよ、ネットで見て感動しちゃって。すぐにバイトに応募したんです」
 漏れ聞こえてくる会話に類と顔を見合わせ、にやりと笑う。集客だけではなく、人材集めにも一役買っていたらしい。
「でもすごいですよね、ワンダーステージのキャストが企画したって聞きましたけど」
「そうそう、あそこの神代くんが演出したんだって。まだ高校生なのにすごいよね」
「あそこ、ここの社長の妹さんもいるんですよね」
 なにか含んだような笑い声が小さく聞こえた。類の手が肩にかかって司を引き止める。
「そりゃそうですよね、あんな大掛かりな演出、社長にコネがないと通らないですよ、絶対。しかも座長の人、その妹さんと付き合ってるらしいじゃないですか。もしかしたらそのために近づいてたりして」
…………
 司くん、と呼び止める声が聞こえた。類のものだ。相手にしなくていいという忠告の呼び声だった。斜めに彼の顔を見据える。眼差しが類の眉間を突き刺して、それでもひとつ肩をすくめただけで類は諦めの吐息をついた。
 肩から手が離れた。軽くなった身体を司は自らの意思で動かしている。
「おい」
 柱の陰で見えなかったふたりの目の前まで進んで腕組みをする。司に気づいたふたりはぎょっとしたように目を瞠って、気まずそうに顔を背けた。
「──なにか勘違いをしているようだが。オレがえむに近づいたんじゃない。えむがオレを見つけたんだ。
 未来の大スターたるこの天馬司を! 未だ原石として埋もれていたこのオレを! 世界中を笑顔にするスターになる男だと! あいつが一番に見つけたんだ! それを履き違えるな!!」
 「声が大きいよ、司くん」やれやれという顔で類が一応咎めてくるが、もはや誰も聞いていなかったし、類自身、その言葉が誰かに届くとは思っていなかった。とりあえず僕は止めましたよ、というポーズだと隠そうともしない。しかも司の言葉自体は否定しないのだ。結局、類だって怒っている。
 司は仁王立ちのまま、宝玉みたいな視線でふたりを見据えた。
「えむを……オレの大切な仲間を、愚弄しないでもらおうか」
「いや、あの……す、すいませんでした……
 もごもご言いながら頭を下げ、司が一歩引いたことで空いた隙間からそそくさと足早にその場を去る。
 ふたりの背中をしばらく見送ってから司が大きく息をついた。
「なにがコネだ。そんなものがあったらワンダーステージは最初からもっと目立っていただろう」
 憤懣やるかたないという表情で眉を逆立て、苦々しげに吐き捨てる。類は目をすがめながらもう誰もいない通路の先を見やった。
「ナイトショーで話題になるまでは、フェニランにも興味がなかった、という感じかな」
 以前のワンダーステージを知っていたら、そこでえむが孤軍奮闘していたと知っていたなら、あんな発想にはならないはずだ。社長の妹だから、経営者一族の娘だから贔屓されていると、あんな派手なショーをやらせてもらえるのだと。
 司は高ぶった気を鎮めるように鼻を鳴らしてスタッフルームに向かい始める。自分を甘く見られたことも腹立たしいが、なによりえむを見損なわれたのが業腹だ。あいつがどれだけ頑張っていたかも知らないくせに。
 「それにしても」類がやや気安い口調で司に話しかける。
「せっかくあれだけ啖呵を切るなら、えむくんは世界で一番大事なお姫様だとでも言ってあげたら良かったじゃないか」
 くつくつと喉を鳴らす類の横顔を、司がやや呆れた顔で見上げた。「バカもの」
「そんな、思ってもいないことを言えるか」
「おや」
 少し意外そうな表情になる類。手のひらで口元を隠して司の様子をこっそり観察する。
 司は類の視線には気づかず、到着したスタッフルームのドアを開けた。



 草薙寧々は友達が少ない。というか未だまともに話せる相手が幼なじみとその他ふたりしかいない。
 文化祭をきっかけにして少しだけ話すようになった、というか、向こうから話しかけてくるようになった相手はいるが、お互い口下手すぎて大して話も盛り上がらず、いつも寧々が逃げ出して終わる。
 だから寧々にとって鳳えむは非常に貴重な、得がたい友人だった。それに相応な友情と親愛を持っている。そんな草薙寧々だから、えむが数日前からなんだか元気がないことにも気づけた。
 ちょっと見にはいつもと変わらない。いつもどおり声が大きいし、類が作った道具で遊んではしゃいでいるし、ショーもちゃんとこなして、アクロバットだって危なげない。
 今日は一部のアトラクションがアニメとのコラボで特別公演に使われている。だからフェニックスワンダーランド全体を使うナイトショーは休演だ。ワンダーステージも昼公演だけで終了である。
 今がチャンスと寧々は意を決してえむに声をかけた。
「あの、えむ」
「ん? どうしたの?」
 お互い私服に着替えて帰り支度を済ませたところだ。寧々は少々口ごもりながら唇に人差し指を当てて思案する。いきなり「元気がないけどなにかあったの?」と聞いてもえむは教えてくれないだろう。そういうところがある子なのはもう知っている。どうしよう、と悩んでいると、えむがバッグにつけているぬいぐるみが目に入った。
「あ、それ」
 寧々の視線を追ったえむがぬいぐるみを持ち上げる。
「これ? こないだ司くんにもらったんだぁ! 可愛いでしょ〜」
「クレーンゲームの景品だよね。そのキャラ、向こうのステージでコラボしてるアニメのキャラだよ。舞台になってる王国のお姫様で、婚約者でもある隣国の王子と協力して主人公を助けるって役割で」
 アニメのサイトを表示し、スマートフォンで姫と王子が並んで描かれている画像を検索して見せてあげると、えむは「ふむぅ」と難しい顔で唸った。
「そうなんだ。それじゃ、王子様がいなくてひとりじゃ寂しいかもしれないね」
「良かったら、これからゲーセン行かない? せっかく早めに上がれたし、王子もぬいぐるみがあったはずだから、欲しかったら取ってあげる」
 対戦ゲームほど得意ではないが、クレーンゲームだって多少は覚えがある。どうかなと誘ったらえむが嬉しそうにうなずいた。
 寧々は内心ほっとする。ゲーセンまではある程度距離があるから、到着するまでおしゃべりができるし、クレーンゲームだってボタンを押したらあとは待つしかない。そこで元気がない理由を聞き出せるかもしれない。問題はこちらが度し難いほど口下手だということだが。会話の流れなんて作れる気がしない。今からネネロボの処理速度なみに頭を回転させてシミュレーションするか、ええいままよとノープランでいくか。
 あるいは。
「やあふたりともお疲れさま。今日も素晴らしいショーだったよ」
 男性更衣室から出てきた、この幼なじみで変人で錬金術師で自分とは正反対にやたらと口が回る演出家に頼るか。
 じっと類を見つめる。視線に気づいた類が小さく片眉を上げた。どうしたんだい、と彼の瞳が問いかけてきたので、えむがちょっと元気ないからどうにかしたいと視線で返事をした。伊達に草薙寧々の幼なじみを続けていない神代類は、しっかり読み取って目を細めた。
 リラックスした姿勢で人好きしそうな笑みを浮かべ、えむに向き合いながらやや背中を丸める。背の高い彼はえむと話す時にいつもそうしていて、目線を合わせながら口元をほころばせるのもいつもどおりだった。
「これからどこかにお出かけかい?」
「うん! 寧々ちゃんがこの子の王子様を取ってくれるんだって!」
「まあ、必ず取れるとは限らないけど……
 えむが突き出してきたぬいぐるみを目だけで観察して、プライズタグを見つけると得心したようにうなずいた。
「そうか、クレーンゲームのぬいぐるみなんだね。良ければ僕もついていっていいかな? クレーンゲームのアームの機構を、今度作る仕掛けの参考にしたいと思っていたんだ」
「もっちろん! 類くんも一緒にいこ!」
 「ありがとう、えむくん」いかにも人畜無害そうな笑顔の類に後ろで寧々がため息をついた。別にわたしたちしかいないんだから、もっと素になってもいいと思うけど。
 えむに怪しまれないようにという意識が出ているのか、普段より過剰な笑顔になっている類を、寧々は呆れ顔で見やった。気づいたのか類がこちらを見てきて、それから少しだけ照れくさそうに微笑する。わたしたちはもうそんなこと ﹅﹅﹅﹅﹅をしなくていいんだと、他ならぬ寧々が伝えてきたことに思うものがあったらしい。
 ふと表情を肩の力が抜けた笑顔に変えた類が、なにもなかったようにえむに向き直る。
「司くんもそろそろ帰り支度が終わるはずだよ。今日はなんの予定もないと言っていたし、誘ってみようか」
「あ……
 一瞬だけ、本当にまばたきひとつ分より短い時間、えむの表情が曇った。
 しかしもう、類も寧々もそれを見逃しはしない。
「司くんが一緒じゃ嫌かい?」
「そ、そんなことないよ! みんなで遊びに行けるの嬉しい!」
「じゃあ呼んでこよう。ふたりとも、少し待っていて」
 明らかに落ち着きがなくなるえむ。いや彼女に落ち着きがないのはいつものことだが、背中の動揺がすごい。どうしたのだろう、ショーでは司との息も合っていたし、魔法使いと弟子のコンビも健在だった。
 寧々が顎に手を当てて目を伏せる。思い返せば、司とめでたくお付き合いが始まってからずっと浮かれ調子だったのに、数日前からなんとなく司への態度がおかしかったかもしれない。
「えむ、あの、やっぱり」
 ふたりで行こっか、と言いかけたところで類が司を連れて戻ってきてしまった。「あ……」生来の気の弱さが手を伸ばして寧々の口をふさぐ。
「あ、司くん! わんだほーい!」
「おお、わんだほいだ」
 えむがいつものポーズと一緒に叫ぶと、司も笑いながら同じポーズを取った。最初は恥ずかしいから嫌だと言っていたのに、すっかり挨拶代わりになっていて、大の大人であるえむの長兄にまでやらせる始末。司ももう何も気にしていない様子でポーズを解く。「今日も良いショーだったな。昼だけなのは惜しいが、その分、一公演に全力で挑めた」
「えむの演技も良かった。オレも座長として誇らしいぞ」
 柔らかく目を細める司に、えむが「えへへー」と笑った。
 やっぱりいつもよりえむがおとなしい。公演で疲れているということは彼女に限ってありえないし、具合が悪いわけでもなさそう。
「ゲーセンに行くんだろう? それでは出発といこうではないか!」
 雄々しく握り拳を上げる司。「おー!」えむと類が倣って、寧々は「ゲーセンくらいではしゃがないでよ」と呆れる。いつもの光景だ。気にしすぎだったかな、と寧々がこわばっていた肩を下ろした。
 類と並んで前方を歩いている司の隣に、えむがひょこんと飛び出る。司の顔を伺うように斜めから見上げて、少しだけ手をさまよわせた。
「ねえねえ司くん」
「どうした?」
「手、つないでいい?」
「え?」
 一瞬、司の表情がぎょっとしたようにこわばって、それから咄嗟にこちらを見てきた。その瞳の色は読めない。
「──なーんちゃって!!」
 冗談冗談! えむがみんなより前に出て言う。「あ、えむ!」また暴走したのかと腕を伸ばした司をひらりと避けて、えむがこちらを振り返った。
 司の手が止まる。喉が詰まって、声は表に出ないまま彼の中に溜まった。
 えむがどんな気持ちの時にこういう顔をするか、みんな知ってる。
「来週のカフェ、やっぱりやめよ? 類くんと寧々ちゃんも一緒に行こうよ。みんなで行ったほうが楽しいもん」
「な、なんだ藪から棒に。お前、楽しみにしていたじゃないか……
 もご、と司の語尾が濁ったが、不明瞭ながら「デート」という単語は聞き取れた。知らなかったけれど、デートの約束をしていたらしい。
 えむはずっと笑っていて、けれど本当は全然笑っていなかった。
「だって、だって司くん」
 小さな手がぎゅっとかたく握られる。
「あたしが一番じゃないもんね」
「──え? っ、あっ」
 司と、なぜか類もなにか触れてはいけないものに触れたみたいな表情で目を見開いた。「えむ、あの時聞いて──」「あたしと!」えむがうつむいて叫ぶ。
「あたしと並んで歩くの、やなんだよね、司くん」
 寧々は瞬時に焦燥感をいだく。これは自分自身の失敗でもある。当たり前のように類と歩き出した司。そうだ、今まではそうだった。決まっていたわけではない。ただ、司と類は、脚本と演出について話し合うことが多くて、えむと寧々は歌や演技のことを話すことが多かったから。自然とそうなっていた。
 でも今はもう違うのだ。自然というなら、もうすでに四人は不自然だった。それは悪い不自然さではない。無邪気さと引き換えに、思いやりとか、丁度いい距離感とか、そういうものを自分たちで獲得するようになっただけだ。考えて、考えて、考えて、そこから導き出される答えを積み上げていく関係性。
 失敗したというなら鳳えむ以外の三人が失敗していた。
 考えて、考えて、考えていたのは彼女だけだった。
 ここにいる誰も、彼女に手をつなぎたいなんて言わせてはいけなかったのに。
「ばびゅーーーーん!!!」
「あ、えむ!!」
 一目散に駆け出したえむはまたたく間に廊下の先へ消えてしまって、司の咄嗟に伸ばした手は所在なくその場に佇んでいる。
 「あいつ、あの時あそこにいたのか……」司が大きくうなだれる。独り言の意味はわからなかったが、まあどう見ても司が悪いので寧々は遠慮なく怒った。
「もう! いいから早く追いかけなよ」
「あ、ああ。しかし、あいついったいどこに行ったんだ」
「これは僕にも責任があるからね。園内に仕掛けておいたカメラをチェックするから、司くんはひとまずえむくんが走っていた方に向かってくれ」
「お前、バレたら何を言われるか分からんぞ、それは」
 類が「簡単にバレるような仕掛け方はしていないよ」と屈託なく笑った。
 ため息ひとつ、司がうなずく。今ばかりは類のそれがありがたい。「えむー!! どこだー!!」大声で呼びかけながら走り去っていく司の背中を、寧々は呆れがちに見送っていた。
 けれどその必死な姿には悪くない感情をいだいている。



 三十分ほど園内を駆け回っていたがえむを見つけることはできず、スマートフォンに類から電話が入ってすぐに受ける。
「いたか!?」
「見つけたよ。あのエリアに大きな樹があるだろう?」
「ああ。そこにいるのか?」
「その樹の半ばまで登っているようだよ」
「なにぃ!?」
 思わず叫ぶ。類が言っている樹のことは司も知っているが、幹も太く一番下の枝までだってかなりの高さがある。簡単に登れるようなものではない。が、えむなら登るだろうなと思えてしまうから怖い。
 道理で見つからないはずだ。どこかに隠れているだろうからと植え込みの陰や建物の裏側とかを探していたが、上とは盲点だった。
 とにかく急いでそこへ向かい、遠くに見えるえむの姿を視認する。類と寧々も合流して一緒にえむが座っている枝を見上げた。軽く建物三階分くらいはありそうだ。ただでさえ小柄なえむが今はさらに豆粒のようである。
「えむ! 降りてこい!!」
「やだ!!」
「ぐぬぬ……
 即答されて歯ぎしりする司。自分のせいなのでいつもみたいに叱りつけるわけにもいかない。
 こんなふうにしていても埒が明かない。細長く息を吐いて平常心を取り戻す。自分自身のコントロールは得意だ。伊達にほぼ毎日ステージに立っていない。
「とにかくオレの話を聞いてくれ。こうして騒いでいては客にも不審がられてしまう」
 えむからの返答はない。それどころか枝の裏側に隠れて姿すら見えなくなってしまった。司は深々とため息をつく。
「なあ、頼むから降りてきてくれ」
……やだ」
「えむ」
……怖いから降りたくない」
「嘘をつくんじゃない。前にそこより高いクリスマスツリーから飛び降りて平気だったじゃないか」
 あれには肝をつぶしたものだが、おかげで今は落ち着いていられる。命綱もなにもない状況でも、えむならあそこから一気に飛び降りたところで怪我ひとつするまい。
 だから司はまあまあ油断していて、後ろからの寧々のチョップを無防備に受けてしまった。
「あだっ! なにをする!」
 後ろからとは卑怯な、とチョップされた脳天を押さえながら振り返ると、寧々が柳眉を逆立てていた。その剣幕に思わず一歩下がる。
「馬鹿、鈍感」
「司くん、今のは僕もフォローできないな」
「な、なんだ類まで」
「ちゃんとえむの言ってること聞いて。えむは、『怖いから降りれない ﹅﹅﹅﹅﹅』なんて言ってない」
 寧々は出来の悪い弟に対する姉みたいな態度で司に言い聞かせる。
 言われて、司は改めてえむの言葉を反芻した。
 降りれないのではなく、降りたくないと言った彼女。
 なら、怖いのは高さではない。
 彼女が恐れているのは。
「っ、だから、その誤解を解くために降りてこいと言っているのに」
「ははっ」
 不意に類の口から気抜けた笑いが洩れて、司が訝しげに眉を上げる。
「そうじゃないよ司くん。お姫様が逃げ出したのなら、王子様は迎えに行ってあげないと」
「樹の上に登って逃げるお姫様がいてたまるか」
「実際にいたんだからしょうがない。さて、ここにちょうど、人がひとり入れるくらい大きな大砲があるね?」
「ああ実は気づいていた。なぜこんなところにこんなものがあるのかとお前たちと合流してからずっと思っていた。だが見ないことにしていたんだ、理由はわかるな?」
 可愛い我が子を撫でるような手つきで大砲の表面をすべる類の手。そこからあえて視線を外しつつ司は言う。
 そうなのだ、言及したらまずいことになる予感しかしなかったから、類が引っ張ってきたそれがあたかも存在しないかのような態度を取り続けていた。見覚えがあるどころの話じゃない。中の狭さとか発射の瞬間の衝撃とか押し出された時にかかるGの度合いだとか、聞かれたらすべて答えられる。発射されたことがあるからだ。そしてだからこそできることなら二度と関わりたくない。
 類は司の言葉を無視してウキウキと砲台の角度を計算し始めた。
「待て! 樹の上に登るだけならもっと他にも方法があるはずだ!」
「僕の計算ではこれが一番速くて安全なんだよ。大丈夫、僕を信じて、司くん」
「お前、絶対に楽しんでいるだろう……!」
 大砲の角度を調整し、ぽんと乗り込み口を叩きながら、類はどこか嬉しそうに笑った。
「そこで『信じられない』と言わないところ、君の美点だよねえ」
「そんなことで褒められても嬉しくないぞ」
 渋々砲台の中に入り、覚悟を決める。誰かに見られても、これならアトラクションとかなにかのサプライズ演出だと思ってもらえるかもしれない、と自分を慰めた。
 寧々は「まあえむのためだししょうがないよね」みたいな顔をしている。もう少しその友情をこちらにも分けてほしい。
「軌道に問題はないはずだけど、着地だけ気をつけてほしい。万が一にもえむくんにぶつからないようにね」
「分かっている! いいからさっさとやれ!」
 類ののんびりした声を聞いていると、せっかく決めた覚悟が萎えそうだ。急かされた類は急ぐでもなく、いそいそとセッティングして手元のスイッチに親指を当てた。
「では──発射 ファイア
 カチ、とスイッチの押し込まれる音が小さく聞こえて、直後、足元に強い衝撃。
 類お手製の機構で砲台から押し出された司の身体が見事に宙を舞う。
「うおおおおおおおおおお!!」
 何度か受けている衝撃ではあるが、だからといって平気になるわけではない。大砲から発射されたからって兵器になるわけでもない。ただの少年であり、あるいはスターである天馬司は、誰も傷つけないために空を飛んだ。
──樹の上に逃げるお姫様も、大砲で飛ばされて説得に行く王子もいてたまるか!
 そうは思うが、そんなめちゃくちゃな物語は考えてみれば自分たちの得意分野なのだった。そうだ、王子が百人いる物語に比べれば、大砲で吹っ飛ばされるくらいではまだまだ面白さが足りない。
 小さなえむの姿がぐんぐん近づいてくる。正確には近づいているのはこちらのほうだ。えむもさすがに驚いているのか、普段から大きな目がさらに大きく見開かれている。その瞳が濡れているのが見えて、司はぐっと唇を噛んだ。
 類の計算は寸分の狂いもなく司をえむのもとへ届ける。「ふん!」手前に迫った枝を掴み、鉄棒の要領でブレーキをかけて見事に着地する。さすがにぶっつけ本番ではかっこいいポーズで着地というわけにはいかなかったが。
「はあぁ……何度やっても慣れんな、やはり……
 樹の幹に背中を預けてどっかりと座り込んだ司は、やや気まずい思いを持て余しながら、目の前に腰を下ろしているえむを見つめた。
 幼いオーバーオールの私服姿。木登りのせいか髪はぐしゃぐしゃになっていて、途中でついたらしい葉っぱが絡まっていた。司はそれを一枚ずつ取ってやる。ジャケットの内ポケットから携帯用の櫛を取り出して、少し乱れていた髪を梳いた。えむは唇をへの字にしたまま何も言わなかった。
「よし、きれいになったな」
…………
「まったく、お転婆がすぎるだろう。オレでなければ諦めるところだぞ」
 えむの唇はますます尖って不満そう。なんだなんだ、と司が眉をひそめる。彼女の視線はさっきからずっと下を向いたままで、いつもみたいにまっすぐに司に届けられることはなかった。
「えむ」
……お、怒るの……?」
「怒るわけがないだろう」
 「そもそも悪いのはオレと類だからな」勘違いさせてしまったのはこちらだ。謝りこそすれ、怒る気なんて最初からない。
「あの時、あそこにいたのか」
……寧々ちゃんがゲームの発売日だからって先に帰って、あたしも帰るところで、そしたら司くんたちがスタッフさんと話してて」
「ああ」
……つ、司くん、あたしのこと一番じゃないって。それ、他に好きな人がいるってことでしょ? なのになんで、って……あたし、分かんなくなっちゃって……
「それは」
 思わず顔を手のひらで覆った。あれは、照れ隠しというか、相手が類だったからちょっとした軽口みたいなものだったというか。
 発声練習みたいに、ああ、と小さく呻いて、指の隙間からえむの顔を覗き見る。
……咲希だ」
「え?」
「あれは、咲希が一番だという意味だ。だってそうだろう、もう入院の心配がないくらい丈夫になったとはいえ、昔はすぐに体調を崩して寝込んでいたし、あいつのそばにずっといてやれるのはオレしかいなかったんだぞ。去年までずっとそうして過ごしていたんだ。今だって少し無理をすると熱を出したりするくらいだ。心配になるのはしかたないだろう。それをすぐに、なかったことになどできるか」
 枝の上であぐらをかき、わしわしと自身の髪の毛をかき回す。「つ、つまりだな」
「だから……なんというか。咲希 家族を除けば、お前が一番だということで……
 格好悪い。発声に覇気はなく、不明瞭で、背中は丸まっているし、第一相手の目を見てすらいない。セリフは冗長で要領を得ず、伝えたいことの半分も込められてはいない。
 こんなことで未来の大スターが務まるか、と自己を鼓舞しつつ、天馬司はやっとのことで顔を上げた。
「咲希、ちゃん?」
「そうだ。だ、だからな、他に好きなやつがいるとか、そういうことでは」
「そっかあ!」
 パッとえむの顔が輝く。「なあんだ、咲希ちゃんのことだったんだ!」満面の笑顔でえむが言うのに、司は内心で胸をなでおろした。良かった、さすがえむだ、話せば分かってくれる。
 あっさり誤解が解けてこれで解決、と思った瞬間だった。
「良かったあ! あたしてっきり司くんまで……
 えむの瞳がゆらゆら揺れて、中にいる司の像がゆがむ。
「──司くんまで、いなくなっちゃうかと思った」
 こぼれ落ちる涙が直前でえむの着ている上着の袖に吸い込まれていった。それでも彼女の唇は笑みを作ったままだ。それだってきっと本心で、けれどなかったことにしたがった涙だってほんとうだ。
 心臓が痛い。さっきから失敗してばかりだ。オレはスターにならなければいけないのに。
 最初は妹のためだった。妹を笑顔にしたくて、みんなを笑顔にしたくて、世界中の人を楽しませたくて。今だってそうだ。その夢は今も天馬司の心臓だった。
 けれど、今痛いのは、それとは別の心臓だ。
 無意識に彼女の頬を両手で包んだ。袖に吸われることのなくなった涙は阻むものなく司の指と手の甲を濡らしていく。涙の跡が焼けるように熱い。これは罰だ。天馬司が間違えたことへの。
「いなくならない」
「ほんとに?」
「オレは世界中を笑顔にするスターになる男だが、それと同時に、お前が笑顔でいられるようにお前と共にいる男だ。お前が寂しくないように、オレはずっとお前のそばにいる」
 えむはきっと、言えなかっただけでずっと心細かった。大好きな祖父を失って、父や兄とは心が離れて、仲の良い姉は一緒に夢を見てはくれなかった。
 鳳えむは夕焼けが嫌いで、天馬司は夕焼けに魔法をかけた。
 鳳えむには夢があって、天馬司にも夢があった。
 鳳えむはひとりが嫌で、天馬司は誰もひとりにしたくなかった。
 そして、天馬司は。
「えむが好きだ」
 伝えたことがなかったのだと、今さらになって気づいた。
 鳳えむが天馬司を選んだことから始まった物語だけれど、天馬司だって鳳えむを選んでいた。
 結末はまだ遠い。
 けれどこれはふたりの物語だ。四人の、あるいは世界の物語と同時に紡がれる少年と少女の物語。
 王子様でもお姫様でもない、少年と少女の、どこにでもある恋のおはなしだった。
「うん」
 頬を包む司の手に、柔らかくて小さな手が添えられる。
「あたしも、司くんが大好きだよ」
「両想いだな」
「えへへ、両想いだ」
 司の夕焼け色の髪が風に揺れる。そのグラデーションに寂しさはなく、ただ可愛らしい幸福だけがあった。
 えむが手を離してぐしぐしと袖で涙を拭った。赤い目元を見ないふりすれば、もう前までのえむと一緒の表情だ。
 なにも心配はいらない。鳳えむはただ、天馬司にYOU MAKE MY DAY 楽しませてねと焚きつければいいし、天馬司はそれに応え続ければいい。
 そんな毎日の先にきっと、みんなが笑顔の世界がある。
 大丈夫。自信があった。
 セカイならすでに一度作っている。
「よーし! じゃあ仲直りのしるしに、あれやろっか!」
「む? そうだな。ではいくぞ、わんわん──」
 わんだほい、の声が司の口から出ることはなく、数瞬後、代わりというように落下物が枝にぶつかって立てる大きな音が響いた。



 寧々の肩ほどまでは厚みがあろうかという巨大なマットに衝撃がふたつ。ひとつは軽やかに、もうひとつは鈍重な音だった。マットに落ちた直後、くるりと前転して勢いを殺した鳳えむは華麗に着地を決め、背中から落ちた天馬司はマットの弾力で深く沈んでから反作用でちょっと飛んだのち、べちゃりと受け身も取れずに着地した。
「えむ!」
 寧々がえむに駆け寄る。「あ、寧々ちゃーん!」えむが寧々に飛びついてぎゅっとかたく抱き合った。
「もう、心配したんだよ」
「ごめんね。でももう大丈夫だよ!」
 少女たちが友情を高め合っている横で、神代類はいまだマットに沈んだまま天を仰いでいる司を見下ろし、腕組みをしながらニヤニヤ笑っている。
「司くん、どうだった?」
…………
 司は大の字になって目を閉じた。
……死ぬかと思った」
 さっきから心臓が痛くて治まらない。
 この甘い痛みはしばらく忘れられそうになかった。