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黒竹
2022-05-30 22:47:16
10826文字
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プロセカ
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#3 MY (UNKN)OWN HIDEAWAY
【プロセカ】【宵崎奏】【朝比奈まふゆ】【MAKE IT REAL】
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遠くから空気清浄機の音が静かに響いてくる。フィルターを掃除する必要すら知らなかったそれは、今では定期的に掃除がされて、閉め切りの部屋をいくらか浄化してくれている。
久しぶりに部屋が広い。ベッドと作業場とそこまでの導線しか足を着ける場所のなかった床は、見違えるほど広々としていた。昨日までが狭すぎたという部分はあるにしても。
仕上げとばかりに淹れてくれた紅茶のカップに口をつけて、宵崎奏はゆったりと微笑む。
「今日もありがとう、望月さん」
「いえ、お仕事ですから」
それにしてもやや申し訳ない。掃除ひとつ、料理ひとつまともにできず、できることと言えばカップ麺に入れるお湯を沸かすくらい。祖母のアドバイスをしみじみとありがたがる奏だったが、それにしたって足の踏み場もないような部屋をひとりで片付けてもらうのは心苦しい。いくら仕事だからってさすがに限度があるだろう。
しかも、今日はそれに加えてさらにお願い事をしなければならない。気が重くもなるというものだ。
「あの、望月さん。今日はもう少し時間あるよね」
「そうですね、宵崎さんがお昼を済ませてらっしゃったので、その分空いてますよ」
「う、うん。昨日徹夜してたから起きるのが遅くなって、朝昼兼用みたいになったから
……
」
語尾を濁し、ごほんごほんとわざとらしい咳払いでごまかす。根っから世話焼きな彼女、こういうことを言うとけっこうな割合で眉根が寄り、遠慮がちながらお小言が来ることもある。できればそれは避けたい。叱られるのは慣れていないのだ。
それでね、と、奏は穏やかな笑みを浮かべている望月穂波に向けていた話の矛先を変えた。
「明日、友達が来るんだ。その、わたしはおもてなしとか、そういうの分からなくて。できればお茶とかの用意をお願いしたいんだけど
……
」
「音楽サークルの人たちですか? えっと、宵崎さんを入れて四人でしたっけ」
「あ、明日はひとりだけ」
穂波がうなずき、「それじゃあ簡単にお茶とお菓子を用意しておきますね」ダイニングテーブルを立ち、水冷ポットに水出しのハーブティーを仕込み始めた。なるほど、あれならカップを温めたり作法を気にする必要もない。それから買い置きのお茶菓子を菓子皿へきれいに並べてキッチンの棚にしまう。「ここにありますから、このまま出してください」「ありがとう」行き届いた気配りに奏は心底感謝する。
穂波が準備をしている間、奏がそういえば、という風情で彼女の後ろ姿に声をかけた。
「さっき、掃除してる時に歌ってた曲、きれいなメロディだったね」
振り返った穂波が一瞬きょとんとして、それからやや焦ったような表情を浮かべる。
「え? あっ、こ、声出てました
……
? すみません
……
」
「別に気にしないで。知らない曲だったけど、誰の曲なの?」
仕事中なのに、と恐縮する穂波に首を振り、それから小さく首をかしげる。参考にするためにわりと多彩なジャンルの曲を聴いているつもりだけれど、穂波が小声で歌っていたポップなバンドサウンドっぽい曲に聞き覚えはなかった。
穂波が少々照れくさそうに笑った。
「実は、わたしたちのオリジナル曲でして
……
」
「バンドの?」
「はい。初めて自分たちで作った曲なんです。まだ一度ライブハウスの前座で歌っただけなので、宵崎さんが知らないのも無理ないですよ」
さもありなん、聞き覚えがないはずだ。「そうなんだ」自然と口元がゆるんだ。きっと彼女にとって大切な曲に違いない。ネットにアップしていつでも聴いてもらえる自分たちとは違い、ライブハウスでの生演奏となれば観客の反応もダイレクトだし、その場限りの一発勝負だ。どんな反応だったかは分からないけれど、あんなふうに赤子をあやすような歌い方をするのなら、出来栄えがどうあれそれだけ想いの深まる体験だったのだろう。
柔らかなまん丸い光の塊みたいなその音楽を、奏は視線でそっと撫でる。
「いい曲だね」
「ふふ、ありがとうございます」
控えめでおとなしい性格の彼女は、それでも謙遜しなかった。奏にとってそれは好ましい。
「でも珍しいね。望月さんが鼻歌なんて」
「うぅ、すみません
……
。ちょっと
……
あの
……
」
なぜか顔を赤らめてうつむく穂波。なんだろう、と不思議がっていたが、穂波は顔を両手で覆ったまま動かない。
奏はぬるくなった紅茶を飲み干すと、話したくないことなら話題を変えたほうがいいかな、と内心で思う。
ちょうどそのタイミングで穂波の唇が弱々しく震えた。
「
…………
とても
……
嬉しいことがありまして
……
」
「ふぅん?」
なにか説明が続くのかと待っていたが穂波の口からそれ以上の言葉は出てこない。
「バンドのこと?」
「いえ、もうちょっとプライベートなこと、ですかね
……
。バンドも、関係なくはないんですけど
……
」
全然分からなかった。
なんにせよ、嬉しいことがあったなら喜ばしい。初めはただのアルバイトと雇い主の関係だったけれど、お互いに音楽に関わっているという共通項があったり、いつしか穂波が花を飾ってくれるようになって、それについて話すようになったり、一緒にお茶をするようになったりして、ふたりの間は居心地の良い距離まで縮まっている。
元々、べったりくっついて離れないような関係は苦手だし、これくらいがちょうど良い。
ダイニングテーブルの向かいだとか、作業デスクの前で聞く掃除機の音だとか。そういう距離が宵崎奏には心地良かった。
穂波は熱を持った頬を冷ましたいのか、何度も手のひらを自らの頬に当てて落ち着こうとした。
「えっと
……
好きな人が優しかった、っていう話です」
「そう。良かったね。普段は冷たい人なの?」
「いえ! ちょっと厳しいというか、不器用というか、そういうところはありますけど、普段だってすごく優しいんですよ? でもその、いつもより、なんていうか
……
」
かっこよくて。消え入りそうな声で言われたが、やっぱり奏には全然分からなかった。
ラブソングを聴くことはよくある。サークルで作る楽曲にそういうテーマのものはないけれど、誰かを好きになる気持ちや、誰かに愛される実感が救いになることだってあるのだろう。だからみんな恋の歌を作って、歌って、聞き惚れる。
とはいえ、さしあたって奏が救いたい相手にそんなものが通用するとも思えない。それ以前の問題なのだ。
好きとか、嫌いとか。
そんなものすら彼女にはもうない。
だから宵崎奏にも、それは必要ない。救う手立てはきっと別のところにある。
しかし、それはそれとして、穂波がこんなふうに幸せそうに笑っているのを見るのはもちろん嬉しい。人付き合いが得意なほうではないけれど、こんな表情をしている彼女の幸福に水を指すほど野暮ではない。
「その人のこと、本当に好きなんだね」
「
……
はい」
穂波はそれを疑いもしない、という顔でうなずいた。それが相手の本当にほしいものだと知らないままに。
インターフォンが鳴らされたのでドアを開けると蝋人形みたいな友人が立っていた。
色も表情もないその顔面を奏は少しの間だけ見つめて、それから「いらっしゃい」とかすかに笑う。
「お邪魔します」
その声にもやはり色や表情はなくて、平坦な無色の声だった。奏は気にもせず客人を中へと招いた。そこに色や表情をつけたいと願っているのに、今のその無色と無表情もまた、彼女であると認めている。
「今日は片付いてるんだね」
リビングに入るなり、朝比奈まふゆがぼんやりと呟いた。そこに嫌味たらしい気配はなかったが、奏は思わずうう、と小さく呻く。
「昨日は望月さんが来てくれる日だったから。前はちょっと、タイミングが悪くて」
「分かってる。新曲の最終調整してた頃だし」
前回彼女がここを訪れた時は右のものを左に寄せるような具合で通り道を確保したり、終いにはまふゆに手伝ってもらって片付けをしたり、けっこう散々なありさまだった。彼女の言葉通り、新曲の最終的な調整をしていた時期だったので奏のリソースがすべてそちらに割り振られていたせいである。であると思いたい。もっと時間があればちゃんともてなせたのかと言われればかなり怪しいが、それでもあれよりはマシだったのではないだろうか。
朝比奈まふゆがこの家を訪れるのはこれで五度目だった。一度目は偶然の事故というか、倒れたまふゆを見つけて運び込んだのだけれど。二度目は必然の理由があった。
それから時々、彼女はここにやって来る。三度目からの理由はよく分からない。
何をするでもない。少し一緒にお茶をして、それが済めば大抵は持ってきた参考書で勉強をしているだけだった。奏も初めのうちはあれこれと話しかけたり楽曲について話し合おうとしたりしてみたが、まふゆがあまり乗り気ではなさそうだったのでやめた。以来、奏の部屋でそれぞれ、静かに過ごすようになっている。
「今日は予備校じゃないの?」
ダイニングテーブルでふたり、冷たいハーブティーを飲みながら奏が問いかける。生活が乱れに乱れているせいで曜日感覚が定かではないが、パソコンの日付表示を見る限り今日は休日である。時刻もいつもなら予備校に通っている時間だ。よく絵名が遊びに誘ってその理由で断られている。
まふゆが受け取ったコップに口をつけて喉を鳴らした。表情は変わらなかった。
「学校の都合で休校になったから。今週中に進めておきたかったところ、勉強したくて」
「図書館は?」
「うるさくてあまり好きじゃない」
図書館がうるさいなんて重症だな、と奏は内心で嘆く。子どもの頃に両親に連れられて行った記憶しかないけれど、その時はむしろ自分が「静かにしなさい」と怒られていた。
「ああ、それならセカイは? 絵名もたまにあそこで絵を描いてるみたいだし、静かでいいと思う」
「セカイにも時々行ってる」
「そう」
彼女の中で、セカイがいい時と、この部屋が落ち着く時があるのだろう。どう違うのか尋ねてみたら、よく分からないと返された。
まあ最近はセカイもなんだかんだと住人が増えて、ミクしかいなかった頃よりはずいぶん賑やかしくなった。それでもまだ、図書館より静寂だろうけれど。そんな中に絵名と瑞希が加われば、もう『静か』なんて言葉とは無縁になって、それを、宵崎奏は好ましく思っている。
朝比奈まふゆはそうではないのかもしれない。初めのうちの、あの初音ミクしかいない広大な空間をこそ、求めていたのかも。
まふゆはハーブティーを半分ほど飲んでコップを置いた。
「邪魔なら帰るけど」
「え? あ、ごめん、そういう意味で聞いたわけじゃなくて。わたしはまふゆが来てくれて嬉しいよ」
「どうして?」
「え?」
「どうして、私がここに来ると嬉しいの」
問われて奏は自分の内側を探る。友人だから会えて嬉しいとか、そういうのはもちろんある。絵名や瑞希に対して抱く友情と同じものだ。ひとりぼっちで寂しかったからという理由はない。ひとりでいることは苦ではない。だからまふゆの存在を己の欠落に当てはめたりはしない。
たぶん友情とか親愛とかではなくて、もっと俗な、
子ども
ヒーロー
じみた満足感だ。
「
……
少なくとも、ここにまふゆがいてくれる間は、まふゆが消えてないことが分かる」
彼女がここにいてくれれば、自分がまだ間に合うことを確認できる。
消えてしまいたい朝比奈まふゆ。救われ方が分からない朝比奈まふゆ。消えたいけれど消えてしまいたくはない宵崎奏。彼女を救いたいけれど救い方が分からない宵崎奏。
それは十代の少女としてあるいは真っ当であり、あるいはいびつだ。
ふたりは全然似ていないのに、ひとつだけまったく同じで、同じだけ真っ当で同じだけいびつである。
宵崎奏と朝比奈まふゆは。
誰かのために生きている
﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
。
だから心地良い。もしかしたらまふゆのほうも。
穂波が用意してくれていたクッキーを一枚、口に入れる。まふゆも真似をするようにクッキーをかじった。
「おいしい?」
「よく分からない」
「甘くておいしいよ」
「
……
そうなんだ」
欠けたクッキーの残りをさらにかじり取ったまふゆは、ゆっくりと咀嚼して、「やっぱりよく分からない」と独り言のように呟いた。奏はその様子に苦笑する。
ハーブティーの香りとか、クッキーの甘さとか。
そういうのを彼女が感じられるようになる音楽ってなんだろう。
それは幸せな音だろうか。逆に、とことんまで突き詰めた哀しい音だろうか。柔らかい音だろうか硬い音だろうか甘い音だろうか苦い音だろうか芳醇な音だろうか淡麗な音だろうか高い音だろうか低い音だろうか濡れた音だろうか乾いた音だろうか温かい音だろうか冷たい音だろうか優しい音だろうか厳しい音だろうか強い音だろうか弱い音だろうか。
宵崎奏の音だろうか。宵崎奏以外の音だろうか。
誰にも見えない朝比奈まふゆの無色透明。
それを彩るのは。
奏の指先から小さな音が鳴る。音は単調だ。たまに止まったり、かと思えば調子よく軽快に鳴ったりもする。さっきからしばらく止まっていて、奏は少し背を椅子に預ける。
穂波が昨日のうちに片付けてくれていたからテーブルにカップ麺の空き容器はないし天板は綺麗に拭かれている。まふゆはそこに参考書とノートを広げて問題を解いている。カリカリと手元で鳴る音にためらいはない。
打ち込みのストリングスをどうするか奏は悩んでいる。もっと激しくして感情を揺さぶるようにしようか、それともあえて抑えて次のメロディを引き立たせようか。前回の曲はああだったから少し変化をつけるためにこうしたほうがいいかもしれない。いっそアプローチを正反対にしてみるという手も。
「詰まってるの?」
いつの間にかまふゆの手元から音が消えていた。奏は椅子ごと身体を彼女へ向ける。
「少しね。ここのメロなんだけど、弦をどうするかちょっと迷ってて」
ヘッドフォンジャックを外してスピーカーからできかけの音楽を再生する。「まふゆはどう思う?」首を傾げて意見を求めると、彼女はわずかに目を細めた。
「今は言いたくない」
「どうして?」
「絵名も瑞希もいないし、ここはナイトコードじゃない」
「うん
……
?」
「今の私が答えたら、それは『OWN』の音楽になる」
ヒヤリとする単語だった。胸の真ん中あたり、肺と肺の間を吹き抜けていく冷たい風を感じる。あともう少しだけずれていたら心臓に直撃する、そういうギリギリの風だった。
OWN。もういないはずの彼女。不意に現れて不意に消えてしまった、もうネットのどこにもいないその音楽家を、奏は瞳の中に映す。
目を閉じてその姿を隠した。OWN。口の中だけで呼びかける。わたしはあなただって救いたかった。
それでも彼女が答えたくないと言ってくれたことには希望を見出す。彼女が宵崎奏の、『25時、ナイトコードで』の音楽を求めてくれているのだと、そう思えたから。
「そうだね。じゃあもう少し練って、今日のナイトコードでみんなにも聞いてみるよ」
それに、まふゆに先に意見をもらったなんて言ったら絵名が怒るかもしれない。楽曲自体は奏とまふゆが主体になって作っているものの、やけにまふゆにライバル心を燃やしているらしい絵名は、こういったことですぐにやきもちを焼くから。
いたずらにサークル内に火種を持ち込むこともないだろうと、奏はおとなしく引き下がる。
ストリングスを仮当てしておき、全体の調整を始めようとしたところで、カタンと小さな音がした。振り返ってみるとまふゆがテーブルの下に落ちたシャーペンを拾い上げている。手が滑ったのだろうか。珍しいなと思ったけれど、まふゆだってペンを取り落とすことくらいあるだろう。そう思ったものの、顔を上げたまふゆの様子に考えを改めた。
「まふゆ、ちょっと調子が悪そうだけど、大丈夫?」
無表情なので実に分かりにくいが、やや顔色が白く、目線も定まっていない。さっきまではそれほど具合が悪そうにも見えなかったし、熱もなさそうなので、前のように風邪を引いているわけでもなさそうだが。
まふゆはペンを握ったまま小さく首をかしげた。
「そうかな
……
よく分からない」
奏が椅子から立ち上がってまふゆの隣に腰を下ろす。テーブルのノートに書かれた数字は、ページが進むにつれてごくわずかに乱れていた。
ううん、と唸り、まふゆの額に手を当てる。
「熱はないか。疲れが溜まってるのかな、まふゆ、昨日は何時間くらい寝たの?」
「昨日は
……
委員会の資料作りと部活の活動記録をまとめてたから、二時間くらいだと思う」
「なるほど。寝不足だね」
ふと思い出したが穂波が作ってくれたハーブティー、あれにはリラックス効果があると言っていた。味は分からなくても何かしら成分が作用したのかもしれない。あるいは、万にひとつの可能性だけれど、この部屋に彼女が安心感を得た、とか。
やって来た当初は普段どおりだったから、張り詰めていた糸がふと切れたのかもしれない。
部屋が片付いていてよかった。まふゆをベッドに寝かせられる。
「ちょっと仮眠していきなよ。その調子じゃ予備校の予習を続けても進まないと思うし」
「
……
分かった」
「何時に起こせばいい?」
確か、彼女の家には門限があると聞いたことがある。あまり遅くなるようでは困るだろう。
カーディガンを脱いでもぞもぞとベッドに潜ったまふゆが、光のない目で天井を見上げた。
「二十五時」
「わたしもまふゆにはゆっくり休んでほしいけど、それじゃ遅すぎるよ」
「
……
十六時」
「了解。それじゃあ、おやすみ」
まふゆが冗談を言うなんて驚きだった。絵名に皮肉めいたことを言う時はあっても、冗談なんてまったく聞いたことがない。
もしかしたら良い傾向なのかも、と口元を緩ませる。まだ瞳に光はないし相変わらず消えたがりだし表情も変わらないけれど、なにか小さな変化が彼女に起こっているのかもしれない。
それが奏の求める音楽のヒントになるかもしれないから、さっきのはどんな気持ちで言ったのだろうと、目を閉じるまふゆの顔を静かに見下ろした。
本心だったという可能性には思い至らなかった。
いつだったか、ナイトコードでまふゆとふたりきりになったことがある。
『Kは、神様になりたいの?』
不意に囁かれた言葉に息が詰まる。いつもどおりの無機質な声だった。責める様子もない、問い詰める気配もない、単なる疑問として投げかけられた言葉。
『そんな大それたことは考えてないよ。ただ誰かを救いたい、それだけ』
『誰か、が不特定多数なら、それは神様のすることじゃないの?』
そうだろうか、そうなるのだろうか。宗教観なんてものは持ち合わせていないが、世界中のどこの宗教も、神様は人を救っている。それと同じことをしているのだろうか。
『この世のあらゆる衆生を救う千手観音みたいだね』
辞書を読み上げるようにまふゆが言う。
宵崎奏に千本もの腕はない。あるのはたった二本だ。けれど、その手に持つ音楽は、世界中に伸びるケーブルによってどこかにいる誰かの救いとなる。
千本どころではなく、幾千幾万、あるいは幾億の
線
手
。
ここから動かないまま、その手で人を救う所業。
神か仏のごときと言われれば、たしかに近いような気もするが
……
。
『ううん。やっぱりそういうのとは違うよ。わたしは──』
無意識にヘッドフォンのコードを指先でなぞる。
両のまぶたを下ろす。椅子にもたれて呼吸を整えれば、まぶたの裏側に浮かぶのはオルゴールだ。
おこがましいとは我ながら思う。
『ひとりの人として、雪を救いたい』
彼女からの返答はなかった。
銀色の幻燈が視界を埋める。「おはよう。っていうのも変かな」こちらを覗き込んでいる奏が淡く笑った。スマートフォンで時刻を確認するまでもない。彼女は律儀だから。
なぜだか起き上がるのが億劫で、しばらくぼんやりと天井を見上げていた。奏はベッドの縁に腰かけてただ黙ってこちらを見下ろしている。伸ばしっぱなしの銀色の髪がわずかに揺れる。お気に入りというか、選択の余地を入れない効率で選ばれたジャージの袖はやや長い。長い袖につつまれた手の、その指先が額にそっと触れてくる。
「顔色がずいぶん良くなった。やっぱり睡眠不足だったみたいだね」
「
……
そう」
「わたしも人のことは言えないけど、あんまり根を詰めるとまた絵名に怒られるよ」
「それはわりとどうでもいい」
「じゃあわたしも怒る」
「怒るの?」
「ええと
……
が、がんばってみる
……
」
甚だ自信がなさそうに拳を握ってみせる奏。すぐに怒ったり喚いたりする絵名とも、普段から騒がしい瑞希とも違って、彼女はひどく静かだ。
心音すらなさそう。
少し、セカイのミクに似ている。
あのセカイが自身の望む景色で、その象徴が初音ミクなのだとしたら。
ミクに似ている彼女は、己にとってどんな存在だというのだろう。
あまり考えたくなくて目を閉じる。
「まふゆ、まだ眠い?」
「大丈夫。もう起きるよ」
今日は貰い物の食材があるから夕飯が豪華だと母親が言っていた。なんの食材だったっけ。聞いたはずなのにまったく思い出せない。早めに帰って、食卓に出る前に確認しておかないと。楽しみだなあ、お母さんの作るナントカ。頭の中で練習する。
自室に置いてあるからっぽの水槽を連想しながら、なんとなく今は違うことを考えたいなと思って、けれど何も思いつかなくて、ほんの少し息苦しい。
奏の指先が目に落ちた前髪を払ってくれる。そうだ、奏。奏のあの曲を頭の中で鳴らす。どうしてか分からないまま呼吸が楽になる。銀色の幻燈に、まふゆの口から出た無色の泡玉が照らされてキラキラしている。幸せそうな光景だった。ここにいるふたりとも、幸せではないのに。誰にもすがれない朝比奈まふゆと宵崎奏は、銀色と無色の部屋でそれでも心を安らがせる。
「まふゆ、ぐっすり寝てたよ。けっこう疲れてたのかもしれない」
「よく分からない」
「うん」
「
……
奏、嬉しそう」
「まふゆが少しでも元気になってくれたら嬉しいよ」
たぶんそれは友人としての言葉だった。セカイの関わりもなく、ナイトコードを介してもいない、朝比奈まふゆの友人の宵崎奏としての。
上半身を起こすと、奏が手に乗せていた小さな包みを差し出してきた。
「望月さんが良かったらお土産にってクッキーを包んでくれてたんだ。持っていく?」
「今日は
……
図書館で勉強してることになってるから」
「あ、そうか。そうだね」
「どうせ、食べても味は分からないし」
「それはそうだけど」奏が軽く困ったように笑う。家事代行の子にはあまり詳しい説明をしていないのかもしれない。まあ説明しろと言われても難しいのだろう。自分自身がどこにもない、なんて、一言で説明できるものではないし、他人のバックグラウンドをペラペラと喋る趣味を宵崎奏は持ち合わせていない。
せっかくだからと奏が包みを開けて中からひとつクッキーを取り出した。親指と人差し指でつまんだそれをまふゆの口元に持ってくる。
「ひとつくらい食べていきなよ。望月さんの手作りなんだ」
「
…………
」
口を開けると奏の指が近づいて、クッキーがそっと口の中に差し入れられた。
はぐ、とくわえてクッキーを受け取る。いくら噛んでも味はしなかった。腑抜けた砂のような生地がどろどろになるまで咀嚼して嚥下する。
「どう?」
「よく分からない」
「でも望月さんの気持ちは受け取ってくれた。ありがとう」
そんなつもりもなかった。奏が食べろと言ったから食べただけで、食べたかったわけでもないし、手作りなのだから感謝しなければという気持ちもない。
奏の言葉は自己満足だ。おそらくそれを自分でも分かっている。
クッキーを食べさせたかったのは宵崎奏で、それによって何かが起こることを期待した。実際には何も起こっていない。いつものことだ。いつだって宵崎奏は期待して、いつだって朝比奈まふゆは期待を裏切る。
読み聞かせてほしいと絵本を持ってやって来た子どもの目の前で、その本を真っ二つに破くような、破いた本のインクで子どもの身体中を黒く汚すような、そういう残酷さだ。
けれど宵崎奏は屈しない。その残酷にはすでに触れている。
彼女の目に曇りはない。
「
……
まだ残ってる」
「え?」
奏が中途半端に上げたままにしていた右手。その親指と人差し指についたクッキーのかけら。
舌を伸ばして粉状のかけらを舐め取った。
「ひゃあっ」
予想外の行動に驚いたらしい奏が飛び上がる。「うわわ、なんかぞわぞわする」奏の人差し指を咥えたままちらりと彼女の表情を伺うと、いつもとあまり変わらない困ったような薄い顔だった。
宵崎奏の小さな手。弱々しく頼りないその指を、もごもごと舐め回す。奏はうひゃああと情けない悲鳴を上げながら、その妙な感触に耐えていた。
「えっと
……
わたしの指、おいしいの?」
「
……
味はしない」
「ふぅん
……
」
ぬるりと指を解放して、「でも、少しだけ、何かがある気がする」茫洋とした瞳のまま告げると、奏の眼差しに光が差した。
自身の右手をじっと見て、先ほどのまふゆを真似するように濡れた人差し指をぱくりと咥える。
まふゆの唾液にまみれていたのにそれを気にする素振りもなく、しかし戸惑いがちに、そこに何があるのかと探っていく奏。
銀色だ。
赤くもなければ青くもなく、ましてや、金や黒でもない。
それは亡霊に似た色だった。たぶん銀色だけがある。ここには、この部屋には、この薄暗い部屋の中でひとつだけ銀色。
流し込まれたら死ぬ色だ。消えてしまいたい朝比奈まふゆを消さないくせに同じような意味を持つ色。セカイの初音ミクの持つものと同じ色。誰かもわからない
亡霊
UNKNOWN
の色。
だから安寧がある。なんでもない自分が転がっていても問題のない隠れ家として。
「
……
おいしいの?」
まふゆがさっきの奏と同じ問いをかけると、奏は指を離して、いつもみたいに安穏とした顔で笑った。
「よく分からない」
その幻燈は、どことなく、懐かしい。
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