黒竹
2022-05-30 22:45:46
4400文字
Public プロセカ
 

#1.5 THE ONE

【プロセカ】【みのはる】【MAKE IT REAL】

 過去の体育祭資料片手に体育倉庫の扉を開ける。鉄製の扉は重い。それに合わせてかこちらも重厚な鍵を指先に引っかけて鳴らしながら中に入る。喧騒が少し遠くなる。静けさと高い位置にある小窓から差し込む光が桐谷遥を外界から隔絶する。ソフトボールがひとつ落ちていて、踏んづけて転びでもしたら危ないと、脇に置かれたバスケットにそれを入れる。
 昼休みにグラウンドの端っこにある倉庫へ来る生徒などいない。うっすらとした非日常感。それは遥をわずかに高揚させた。
 誘われて引き受けた実行委員だったけれど、始まってみるとずいぶん楽しい。こういった学校行事に参加するのが久しぶりだというのもあるし、今みたいな備品チェックとか事務仕事もしてみると面白いものだった。なにか体育祭の種目に使えそうなものはないかな、と倉庫の奥を探索する。折りたたまれた状態で立てかけられたマットの向こうに古びた箱が見えた。なんだろう。見える範囲には品名などは書かれていない。かなり年季の入った様子で、蓋にもホコリが積もっているようだからしばらく使われていなさそうだった。何か、昔の催しで使った道具かもしれない。
…………
 人の気配はないけれど、念のため周囲を見回してからマットを乗り越えた。さすがに、制服なので。
「よ……っと」
 危なげなく向こう側に着地して、衝撃で舞う埃に顔をしかめながら箱に手をかける。
 箱の中身は古いスターターピストルやハンドマイク、あとは何に使うのかも分からない部品ばかりだった。おそらく壊れたり代替わりで不要になったものを入れていたのだろう。後で処分するはずだったのが忘れられてしまったのかもしれない。これはさすがに、今度開催する体育祭の参考にはならなそうだ。
 ただ、箱の裏側に貼り付けられていたシールに書かれた日付で、このあたりにあるものがいつの時代のものか推測できた。倉庫のかなり奥まった位置だけに年代もかなり古い。過去の大会便覧を開いてみても、その時期は一般的な種目ばかりだった。
 もう少し手前のほうを探すのが良いかも知れない。マットに手をかけて戻ろうとしたら、入り口付近で人の動く音がした。
「あ、いたいた、遥ちゃん」
 ややはずんだ呼び声に思わず手が止まる。「みのり?」首を伸ばして入り口を見れば、体操服姿の花里みのりがこちらに向けて軽く手を振っていた。
 マットを越えてみのりとの距離を二メートルまで縮めた。残りは彼女のほうから埋めてくる。
「どうしたの? あ、みのりのクラス、次体育なんだ」
「うん。体育祭のメンバー決めの参考にするからって、今日は短距離走と持久走なんだ。わたし日直だから」
 グラウンドに白線を引くためのラインカーが倉庫にあるので、鍵を借りに職員室へ行ったらすでに貸し出し中だった。しかも借りていったのが遥だと聞いて急いでこっちに来たそうだ。
「遥ちゃんは体育祭の準備?」
「準備っていうか、まだ何をやるか全部は決まってなくて。アイデア出しのために昔の種目とか道具を探してみてるの」
「そっか。わたし、体育祭って毎年同じことをしてるんだと思ってたけど、こんなふうに頑張ってるんだね。遥ちゃんはすごいなあ」
 遥がそっと目を細める。「頑張ってるのは私だけじゃないけどね」実行委員のみんながそれぞれ奮闘しているのだと目線で語る。うん、とみのりが小さくうなずいた。
「けど、もうすぐ誕生日配信もあるし、練習だって休まず来てるのはすごいと思う」
 「ちょっと心配になっちゃう」唇を尖らせるみのりに思わず苦笑した。時間のやりくりはできているし、練習も無理のない程度に抑えている。実行委員の作業は今みたいに空いた時間を使っているから睡眠時間を削ったりもしていない。
 というようなことをつらつらと説明したら、「分かってるけど」とさらに唇が尖った。
「心配してくれるのは嬉しいよ。ありがとう、みのり」
 ふわりと笑いながら言ったら、途端にみのりの耳が赤ペンキを塗りたくったみたいになって、まぶたが閉じると同時に喉から唸り声が洩れた。
 心臓を押さえつけるように拳を胸に押し当てるみのりを眺めながら、遥は気づかれないようにため息をつく。
──これで私のことが好きか分からないってどういうことなんだろ。
 別に焦ってはいないし不安も覚えてはいない。ただ単純に不思議だ。もうそれ、そういうことでいいんじゃないかなと日に三回くらい思っている。朝練の時と、放課後の練習の時と、一緒に帰る道すがらで。
 それでも今でも、桐谷遥は花里みのりの神域のままで、右手の握手が精一杯の関係だ。
「は、遥ちゃん……
「なに?」
「今の笑い方は、ずるいです……
 意識しての笑みではなかったけれど、どうやら彼女の何かしらに刺さったらしい。
「なにもしてないけど?」
 軽く屈んでみのりの目を覗き込む。これは意識的。みのりが慌てふためいて両手で顔をガードした。
「あ、今はちょっとだめだね」
「え?」
「さっき、奥の方に入ってたから、汚れちゃった」
 光の差すところまで出てきてみれば、制服のあちこちに埃がついているし、マットも乾いた泥がついていたようで、手のひら全体が薄く汚れている。
 髪を撫でたり手をつないだりしたいのに、これでは彼女を汚してしまう。
「残念。せっかく誰もいないのに」
「えっ、ああああの、誰もいないって、え」
 言われてようやく気づいたのか、みのりが咄嗟に扉を見やった。人ひとりが通れるくらいに開いたままの扉。重い内開きのそれは勝手に閉まることなんてないが、みのりが一瞬だけ不安そうな顔をする。
 とん、と、遥が軽やかに一歩下がった。便覧を後ろ手に持ちながら小首をかしげる。
「今はちょっとだけ遠いね」
 まるで軽口だという風情で言ってみたけれど、予想したより湿った声になった。
 それに気づいたわけでもないくせに、花里みのりは無自覚な不満を見せる。
 いつも近い近いと騒ぐくせに、遠くなるのが嫌なのだ。
 ずるいというならそっちこそずるい。
「と、遠くないよ」
「そう?」
「そうだよ。だってこうやってお話できるもん」
 二人の間にある空間はせいぜい一メートル程度のもので、そんなの全然遠くないとみのりが言う。
 遥にしてみれば一メートルでも一センチでも一ミリでも、隙間があるならそれは無限大と同じことだったけれど、それは言わずに「うん」とだけ応えた。肯定ではなくただの相槌として。
「でも、みのりと話せて元気出たよ。ありがとう」
「そ、そう? お話ならいつでも付き合うよ! どんなことでもいいからね!」
 遥の役に立てて嬉しいという思いを隠しもせずにみのりが胸を張った。遥はふむ、と拳を唇に当てて、探るようにみのりの鼻先を見据えた。
「話したいことというか、言ってほしいことならあるかな」
「言ってほしいこと?」
……ちょっと早いけど、誕生日プレゼントもらっていい?」
「え?」
 それくらい、特別な言葉。
 彼女からしかもらえなくて、こんなお願いでもしなければきっと聞けない言葉を。
「前に杏が校門に来た時に言ってくれたの、もう一度聞きたい」
 みのりはどこかポカンとして、何を言ったっけと記憶をたどり始めた。そんなに特別なことを言った覚えはないけど。
 触れられない距離にいる遥は視線だけで彼女の頬を撫でる。
「杏が帰ってから、みのりが私を呼んでくれた言葉」
…………
 それで思い出したらしく、みのりが固まった。
 本心だったのかそうではなかったのか分からない、どんな意味だったのかたぶん本人さえも掴んでいないあの言葉。
 みのりはさっきから体操服の裾を握り込んでいて、そこはすっかりしわくちゃになっている。
「だめ?」
 甘く甘く、しわくちゃの体操服をほどく声で問いかけた。
…………だめじゃ、ないです」
 でもちょっとまってね心の準備が必要だからまずは深呼吸すーはーすーはー遥ちゃん一回後ろを向いていただいてもよろしいでしょうかそのお顔に今は心臓が耐えられないっ。
 早口かつ噛みまくりながら告げられたので、遥はおとなしく後ろを向いた。みのりに背を向けた体勢で呼ばれるのをじっと待つ。
 しばらくして、制服のセーラーカラーが小さくたわんだ。
 思わず笑みがこぼれる。
「近いよ?」
 いつもと反対だなと思いながらからかうように言う。
 遥のうなじの下あたりに額を乗せたみのりが、
……か、顔を見ながら言うのは、やっぱり無理っぽいので……
 髪の毛ほども芯のない、弱々しい声で答えてきた。
 セーラーカラー越しの感触に穏やかな幸福を感じながら遥がうなずく。
 カラカラになった喉を治そうと、みのりが一度咳をする。
「──わたしの、遥ちゃん」
 そこにはなんの色もない。恋愛どころか友愛もない、性的でもないし純粋でもない、濃密でもないし浅薄でもない。
 本当か嘘かも分からない。
 本当にも嘘にも分かれない。
 だからその言葉に意味はなかった。
「はい」
 それなのに桐谷遥はあたかもそこに意味があるような声で答える。
「わたしの遥ちゃん」
「はい」
「わたしの」
 おそらくこれはやまびこのようなもので、返ってくるのは遥の声の反響だ。だから意味がないし本当も嘘もない。
 誕生日プレゼントなのだ。
 ありがとう嬉しいと、喜んでもらうことだけが目的の。
「──わたしだけの、遥ちゃん」
「──はい」
 この時、花里みのりは間違いなくアイドルだった。
 誰のものでもなくて、一方的に独占される恋心アイドル
 桐谷遥はその半分の空虚恋心を穏やかに受け止める。
 近づけないくせに遠ざかりたくない彼女のわがままを、セーラーカラーの柔らかさで。
 ザリ、と、砂を踏む音がした。
「みのり? いつまでライン引き探して──」
「ひゃあ!?」
 一気に背中が軽くなる。首を回すとクールな眼差しがこちらに届いた。
 そうか、花里と日野森。おそらく出席番号が並んでいるかとても近い。一緒に日直をしてるんだろう。それはちょっと羨ましい。
 志歩は半眼で寸時こちらを眺めてから、音もなく足を引いてこちらから目をそらした。
……お邪魔しました」
「待って違うの志歩ちゃん! ただお話を! してただけで!!」
 くるりと背を向けて帰ろうとする志歩にみのりが追いすがる。「いくら敷地の端っこっていっても学校だからねここ」「違うんだってば〜〜〜」
 いっそ誤解を解かないほうが助かるのでは、と心の悪魔的な何かが囁いたが、いくらなんでもみのりが可愛そうなので却下。
 背に残るみのりの額の熱を幻想しながら、遥も二人の後を追って扉を抜けた。
 扉に鍵をかけると、外はずいぶん明るかった。