黒竹
2022-05-30 22:39:03
9247文字
Public プロセカ
 

#3 希望的リフレイン

【プロセカ】【みのはる】【花里先生パロ】

 放課後になっても校内はそこそこ騒がしく、その一部について原因が自分にあると分かってしまうのはなかなか居心地が悪い。
「いやこれ、ほんとにわたし何人かから恨まれそうよね」
 げんなりした口調でこっそりと話しかけてきた隣の先輩に、遥は努めて何でもない風を装って歩きながら答えた。
「先輩とは今まで特に交流もなかったですし、ちょっと勘違いはされてるかも」
「他人事みたいに言わないでよ。あんたのせいでしょ」
 そう言われても、と肩をすくめる。誤解されるのは遥としても困るが、こっちだって別にわざと誤解を招くような事をしているわけではない。
 ひょんなことから遥とよく話すようになった桃井愛莉は、卒業まで間もないというのに唐突に厄介事に巻き込まれて迷惑そう。しかも事実無根なのだから余計に納得がいかないという表情だ。
 あのふたり、いったいどういう関係なの、という周囲の視線に肩を落としながら、愛莉が斜めに遥を見る。
「ま、わたしはあと一ヶ月もすれば卒業だからいいけど。変な噂立てられて困るのはそっちじゃないの?」
 やや心配そうな視線を向けられた遥がふふりと小さく笑った。
「先輩のそういうところ、好きですよ」
「だから聞かれたらますます勘違いされそうなこと言うんじゃないわよ!」
「ふふ、照れ屋さん」
 ふに、と人差し指で愛莉の頬をつつく。周囲の空気が軽く凍った。「やめなさい!」本気で身の危険を感じたのか、愛莉が大げさに腕を振り回して遥からちょっと距離をおいた。
「ほんっと、いい度胸してるわね、あなた……
「ごめんなさい。クラスの友達以外でこんなふうにふざけられる人がいなかったから、嬉しくて」
「あっそ……
 気のない返事はどうも照れ隠しのようだった。遥もふざけた態度だったけれど伝えたことはみんな本当だった。みのりとのことを知られた時、他言しないと明言されたとはいえやはり少し心配で、一週間ほどは緊張感を持って学校に来ていたものだったが、本当に噂のうの字も出てこなかったのだ。それに、あれ以来なにくれとなく声をかけてきて、他の誰にも話せないようなことも聞いてくれる。
 とはいえ、あまり甘えるのは良くないかもしれない。ちょっと調子に乗ってしまったかも。遥は意識して背筋を伸ばす。
「それで桃井先輩、この前貸していただいた資料のことなんですけど」
「え? あ、資料ってあれのこと?」
「とても参考になりました、ありがとうございます。お父さんの持ち物なのに無理を言ってしまってすみませんでした」
 凍りかけていた周囲の空気がやや和らいだ。なるほど、そういう事情だったのか、と納得感が広がっていく。よく分からないけど桐谷さんくらい成績が良いならなにかの学術書とか論文とか、本格的な資料が必要なこともあるんだろう、みたいな。
 愛莉はどこか据わりの悪そうな瞳を無理やり半月にして隠しながらうなずいた。
「え、ええ。うちの父さんも仕事柄ああいうのはたくさん持ってるから、一冊くらい貸しても困らないって言ってたわ。だから気にしないで」
 うんうん首を振りつつ愛莉が答える。遥だけが見える瞳の奥になにか言いたそうな気配があるが、遥は極上の微笑みでそれを無視した。
「──あ」
 前方の視界に小さく入ってきた姿。見間違えるはずがないその姿に目を奪われそうになって、咄嗟に少しだけ視軸をずらす。
 それから、すれ違う手前まで待って、「花里先生」普段と変わらないトーンで声をかけた。
 現代文の教師である花里みのりがふと足を止めてこちらに首を向けてくる。今日は少しヒールがついたパンプスを履いているから目線の高さが同じくらいで、それがなんだか新鮮だった。
「どうしたの、桐谷さん?」
「今日出された課題の提出期限なんですけど、配られたプリントの日付と曜日が合っていなかったので、どちらなのか確認させてもらえますか?」
「え!? ごめん、ちょっと見せてくれる?」
 バッグから問題がプリントされた紙を取り出してみのりに指し示す。プリントを覗き込んだみのりが、スマートフォンに表示したカレンダーと提出期限の日付を見比べて「あっ」と小さく声を上げた。
「ほんとだ、曜日を間違えてる。火曜日が正しいですっ」
 慌てすぎてなぜか生徒相手に敬語になるみのりに苦笑しつつ、遥はプリントをバッグに戻して軽くうなずいた。
「じゃあクラスのみんなに伝えておきますね。すみません、私もその場で気づいたら良かったんですけど、ホームルームが終わってバッグにしまうときに気がついたので、聞くのが遅くなってしまって」
「ううん、わたしが間違えたのが悪いんだから。ありがとう、よろしくね」
「なーにみのりセンセ、またドジしたの? 先生なんだからもうちょっとしっかりしてよね」
「うう、返す言葉もない……
 愛莉の言葉にしゅんと肩を丸めるみのり。そういう可愛い仕草を無防備にしないでほしい。いじらしさを感じて庇護欲に駆られる生徒が複数いることを遥は知っている。
 後でちょっと、なんとかして慰めよう。心の中でこっそり考える。もう本当に、しゅんとしてる時の彼女は可愛いので。たぶん贔屓目ではないと思う。ああなっている時のみのりはやけに生徒が世話を焼きたがるのだ。困ったことに本人はまったく気づいていないが。
 背中をしょんぼりさせたみのりが去ってから、遥は視線を斜めに飛ばして息を吐いた。
「先生にああいう言葉遣いはどうかと思いますよ」
「みのりセンセには大抵の生徒がこんな感じでしょ。別にいいんじゃない、あんたもみのりセンセって呼べば」
「そういうキャラじゃないので」
「羨ましいならそう言いなさいよ」
「違います」
 本当に羨ましくなんかない。他の生徒がみのりに対して、愛莉みたいにタメ口をきいたり軽率に頭を撫でたり抱きついたり「今度一緒に遊ぼうよ」なんて軽口を叩いているところを見かけたりしているけれど、そんなのは全然羨ましくなんかない。だってお隣さんだし。ご飯作ってあげてるし。おいしいって言ってくれるし。
 愛莉が少し困ったようにクスクス笑う。
「なんだ、けっこう可愛いところあるのね」
 顔に出ていたらしい。いつの間にか肩に力が入っていたことに気づいて、悟られないようにゆっくりと力を抜いた。
 ぽんと優しく背中を叩かれる。
「よしよし、先輩があなたたちのために一肌脱いであげるから、任せなさい」
「それはまあ、お願いします」
 そう言われて、遥は愛莉と一緒に帰る本題を思い出した。これから買い物をして愛莉の家にお邪魔する予定なのである。
 みのりには言っていない。そういえば、こういう関係になってからみのりに何も言わずに誰かと過ごすのは初めてだな、と、なんの気無しに思った。



 遥がはてと首をかしげる。みのりの部屋でテーブル越しに向かい合っている位置関係はいつもどおりで、持ち帰りの仕事をしているみのりに持ってきた夜食を食べてもらっているのもいつもどおりだ。しかし彼女の表情だけがいつもと違う。
 普段なら満面の笑みや噛みしめるような表情や真剣な思いを伝える視線と共に「おいしい」と言ってくれるのに、なんだか今日は難しい顔をしたまま無言で食べている。
「みのりさん、今日のはあんまり好きじゃなかった?」
 みのりが持っているのはサーモンとアボカドと豆腐のボウルサラダである。時間帯を考えてカロリーは控えめ、みのりの好物であるサーモンに加え、豆腐の良質なタンパク質とアボカドの良質な脂質で夜ふかし気味なみのりの美容にも気を使った一品である。
 味付けを失敗しただろうかと、おずおず尋ねた遥の言葉に、みのりはハッと顔を上げて慌てて首を振ってきた。
「う、ううん! すっごくおいしいよ!」
「そう? それなら良かったけど、なんかちょっと元気なさそうだったから」
「そんなことないよ。あの……なんていうか」
「もしかしてプリントのこと? 全然大したミスじゃないし、そんなに気に病むことでもないと思う」
「ううん、それも違って……違う、というか、えっと」
 もぎゅ、とサラダをひと口噛み締め、飲み込んでからボウルとフォークをテーブルに戻す。
 みのりの手が膝の上で軽く遊んで、絡み合った両手の指が落ち着きなくうごめいた。
「な、なんか、放課後会った時の遥ちゃんと桃井さん、仲良さそうだったなって」
 目をそらしながら言われた言葉に一瞬きょとんとして、みのりの言葉が腑に落ちてからおもむろに立ち上がった。
 対面から隣に座り直す。みのりが更に遥から目をそらした。
「やきもち?」
……そういう、わけでは」
 ごにょごにょ答えるみのりの声は実に儚く、言い訳にすらなっていない。
 遥が気持ち背を丸めてため息をついた。
「あのね、みのりさん。あと一年あるんだよ?」
「へ?」
「そういう可愛いことされると我慢できなくなりそう」
 するけど。我慢するんだけれど。いっときの情動ですべてを台無しにするほど浅い愛情ではない。それでも恨み言のひとつも言いたくなってしまう。
 桐谷遥のかわいい人は本当に無防備で、そのくせ大人だからとこちらの手を引いているつもりなのだからたまらない。
 遥の隠しきれない本質を読んだみのりが唐突に咳き込んだ。耳が赤くなっている。咳き込んで苦しいわけではない。
 テーブルの上で両手を組み、小さくため息。
「桃井先輩、お父さんが料理人で、色んな料理本を持ってるから貸してくれたんだよ」
「あ、そうなんだ。そういえば桃井さんも家庭科部の部長だったよね」
「うん。それで良く話すようになったの」
 だからなにも心配することはないのだと主張する遥に、みのりはやや後ろめたそうな表情でうなずいた。疑っていたわけではないものの、やはり思うものはあったようだ。
「私がみのりさん以外の人を好きになると思う?」
「さすがにそれは思わない、けど」
「けど?」
…………わたしも遥ちゃんと放課後おしゃべりとかしたい……
「もしかしなくても、忙しくて疲れてるでしょ」
 はい、とみのりがテーブルに突っ伏す。もうすぐ期末試験だし、受験生向けの補講などもあるから休日も潰れていて、たしかに傍で見ていても目の回るような忙しさだ。
 手伝えたらいいんだけれど、さすがにそんなことができるわけもない。生徒の身で試験問題の作成を手伝ったらそれはただの不正行為である。
 夜食を作ってあげるのが関の山の自分がやや不甲斐なかった。
「でも、こうやって遥ちゃんの顔が見れるだけですごく元気出るよ」
「そう?」
「うん」
 身体を起こしたみのりが、ありがと、と目を細める。この顔が役立っているなら光栄だけれど、遥としてはもうちょっと違うところで役に立ちたい。
 しばし考え、置いたままだったフォークを取り上げて、サーモンとアボカドをまとめてすくい上げる。
「あーん」
 みのりの喉がかすれた音を出した。逡巡を見せてからおずおずと口を開ける。
 そっとフォークを口の中に差し入れると、ぱくりと閉じてサーモンとアボカドを受け取ってくれた。
 もぐもぐする口元を眺めながら柔らかく笑う。
「元気出た?」
……しゅっごく出た……
 噛んだのは食べ物が入っていたせいか、別の理由なのか。
 聞くのはかわいそうだからやめておいた。



 期末試験も間近な二月中旬。その日は朝から学校中が甘い匂いに包まれていて、綺麗にラッピングされた小箱や袋が飛び交っていた。
 中身はチョコレートとか、チョコレートケーキとか、ブラウニーとか、チョコチップクッキーとか、とにかくチョコレートのなにかである。
 昼休みまでで桐谷遥は八個のチョコレートを受け取っており、昼休みが終わる頃には十三個まで増えていた。そろそろ打ち止めになってほしい。
「今年もモテモテだねえ」
 呼び出された中庭から教室に戻ると、クラスメイトが感心したように言ってきた。
「それ、全部食べるの? 家族で分けたりする?」
「好意でくれたものだし、食べないのも悪いから全部自分で食べるよ」
「すごーい。でも、確かはるかちゃんにあげるチョコってルールが決まってるんだよね。えっと、手作り禁止で、手紙もつけちゃいけなくて、クラスと名前明記、だっけ」
 指折り数えるのに、「らしいね」と相槌を打つ。誰がどうやって決めたのか定かではないが、去年のバレンタインデーを前に、そんなような取り決めがあったらしい。抜け駆け防止ということだろう。
 おかげで時間をかけて食べることができるが、それにしても先は長そうである。明日からのカロリー計算が難しいなと顎に手を当てて考える。
「はるかちゃんは誰かにあげないの? チョコ」
「ん?」
 無邪気な瞳で問いかけられて、遥は少しだけ悪戯に笑った。
「そうだね。じゃあ、はい」
「え? アタシ? わっ、ブラウニーだ。しかも手作り! ありがとうはるかちゃん!」
 両手で捧げ持つようにブラウニーの袋を受け取って喜んでいたが、ハッと気づいて申し訳無さそうな顔をする。
「ごめん、アタシ用意してないや……
「気にしないで。本音を言うと、これ以上増えるとちょっと困るし」
「あ、それもそっか。じゃあホワイトデーにお返しするね!」
「ん、楽しみにしてる」
 誰かに取られる前に食べちゃお、と冗談交じりに言い、いそいそと袋を開けてブラウニーを食べ始めた友人を、遥はニコニコしながら眺めた。
「おいしい?」
「うん。すっごくおいしい!」
「良かった。一応、料理が得意な人に習いながら作ったけど、初めてだから不安だったの」
 みのりじゃなくても、誰かに作ったものをおいしく食べてもらうのは嬉しい。
 ちらりと机の脇に置いてある紙袋を見やる。十三個のチョコレートたち。
 ここまでではないにせよ、みのりもけっこうもらいそうだなと、遥はこっそりと少々憂鬱なため息をついた。

 ラッピングしたブラウニーを入れた小袋を片手に花里家のインターフォンを押す。玄関のドアを開けたみのりの表情が遥を見つけた途端に華やいだ。
「みのりさん、今日は帰り早いんだね」
 いつもは夕飯時が過ぎてからの帰宅なのに、まだ部活も終わっていないような時間に帰っているのは珍しい。毎日帰宅したときにメッセージをもらっているのだが、通知が来た時はちょっと驚いた。
 みのりは「あはは……」と力ない笑いをこぼしてから軽く頭を掻いた。
「それが、放課後に何人かチョコを持ってきたんだけど、断っても粘られちゃうから仕事ができなくて」
 悪気があるのではない生徒を邪険にするわけにもいかないし、仕方なく切り上げて仕事を持ち帰ってきたのだという。
「断ったの?」
 どことなく背中のあたりがそわっとするのを感じながら尋ねる。みのりは苦笑を浮かべたまま首肯した。
「前の学校でもそうだったけど、バレンタインって期末試験の直前でしょ? そういうつもりじゃなくても、チョコを受け取ったせいでテストの採点になにか影響したって思われると大変だから。ほら、現代文って自由な文章で回答する問題も多いでしょ? そういうところでけっこう採点に先生わたしの判断が入りやすいんだよね」
 生徒側が採点に手心を加えてほしいと思っていなくても、どこかでそういう勘繰りをされるかもしれない。もしチョコをくれた生徒の成績が上がったとして、そんなことで本人の頑張りを否定されてはたまらないとみのりは語った。
 遥はそっと紙袋を後ろ手に隠す。
 そうだ、この人は先生なのだ。迷ったり悩んだりしている子の手助けをしたいと語っていた彼女の、それは本質的な在り方だ。
 自分のためにチョコを断ってくれたのではないか、などと浮かれた想像をしたのが恥ずかしい。
「そう……だよね」
「遥ちゃん? ──あ」
 後ろ手に回された紙袋。見えなくても遥が何かを持っていることは分かって、それと日付を組み合わせればどういうことかなんて簡単に察してしまえる。
 みのりが気まずげに小さく唸った。
 それからふたり、しばし無言。
……う、うぅん、いくら遥ちゃんでも特別扱いするわけには……
「ごめん、もっとちゃんと考えれば良かった」
「や、別に遥ちゃんが悪いわけじゃないからね? ほしいかほしくないかで言ったらめちゃくちゃほしいよ?」
 ただ、ほしいかほしくないかで判断してはいけないだけだ。これ以外のことも全部。
 弁当や夜食については、母親の手伝いをしているだけだと言い訳が立つ。ただ家で作った料理をお隣さんにおすそ分けしているだけだと言える。けれどこれは違う。どうしたってふたりしかいない。贈ったならそれは桐谷遥の想いであり、受け取ったならそれは花里みのりの想いである。
 どれだけ粘ったってみのりは受け取ってはくれない。他の生徒と同じように。
 無為な時間が流れる中、不意にみのりの背後のドアが開いた。
「なんだいつまでも玄関先で。みのり、遥ちゃんに上がってもらえ」
 リビングから顔を出したみのりの父親が、いつまでも玄関先で話し込んでいるふたりを訝って覗いてきたようだ。「あ、もう帰るので」遥が遠慮がちに手を振る。いきおい、逆の手で持っていた紙袋も一緒に手前に回った。
「ん? それ、もしかしておじさんに? ははは、懐かしいな、小さい頃に何度かチョコくれてたっけね」
 思い切り勘違いして頬を緩めている父親を一瞬半眼で見つめたみのりだったが、次の瞬間にはあっと目を見開いて手を打った。
「そうそう! 学校の友だちと作ったんだって。それでお父さんにいつもお世話になってるお礼にって持ってきてくれたの」
「世話だなんて、大したことはしてないけどなあ。わざわざすまないね」
「い、いえ……
「お父さん、甘いものあんまり食べないでしょ? わたしとお母さんにもちょうだい」
 ここに来てようやく遥はみのりが何をしようとしているか察した。なるほど、お隣のおじさんに日頃の感謝を込めて贈るブラウニーには何の問題もない。
 みのりがこっちを見つめてきたので、うんうんうん、と細かく首を縦に振る。どんな理由であれ、みのりに食べてもらえるなら文句はなかった。
 みのりに紙袋を手渡すと、彼女はそれをそのまま父親に差し出して、
「あ、先に一個確保しとこ。じゃあ遥ちゃん、おうちまで送るから一緒に出よ」
 しれっと小分けになったブラウニーをひとつ手に収めてから遥のほうに戻ってきた。「送るっていっても隣だよ」「いいの」背中を押し出すようにしてくるみのりに苦笑しながらドアを抜ける。
 敷地を区切る塀の内側でみのりに引き止められた。
「へ、変じゃなかったかな……
「大丈夫だと思う。みのりさん、けっこう演技派だね」
 からかい混じりに答えたら、「誰のためだと思ってるの」呆れがちに肩を怒らせてきた。
「ん、ありがと」
「これ、手作り、だよね?」
「うん。桃井先輩のうちで教えてもらった」
「そっか」
「がんばったよ」
「うん。嬉しい」
 ブラウニーをつまんでひと口。「おいしい」へへ、と照れくさそうに笑いながら呟くみのりに、遥がまなじりを緩める。
 ひと口分が欠けたブラウニーをさらに割って、みのりが遥の口元に突き出してきた。
「あーん」
 ほんのひとかけのブラウニー。親指と人差指でつままれたそれを、指に触れずに口で受け取るのは至難の業だ。そしてさしもの桐谷遥もそんな芸当はできなかった。
 唇がみのりの指のふちをかすめる。ブラウニーが口の中に消えてから、指を引く動作でするりと撫でられた。
 まったくこの人ときたら。
 目を伏せて笑い、甘えた声でねだる。
「もっと」
「やだよ、わたしも食べたいもん」
「じゃあ順番」
 それから、お互いかわりばんこにブラウニーを食べさせて、最後のひとかけがみのりの喉を通ったところで終わった。
 何度も味見をしていたはずのブラウニーはひどく甘くて胸焼けがしそう。けれど悪い気はしない。むしろ幸福で身体の内側を満たされている気分だった。
 みのりの手が伸びてきて頭を抱えられた。
「いろいろ我慢させててごめんね」
「平気」
「ほんと?」
「ちょっと嘘かも」
 子供じみて笑う遥にみのりが苦笑する。こういうときに強がれないのは我ながらまだまだ未熟だと思う。
 みのりの指が滑ってこめかみをなぞっていき、それから耳のふちを軽く撫でてきた。
「卒業したら、いっぱい好きって言うから」
「うん」
 想いすら伝えられない今の、精一杯の愛を謳う。
「遥ちゃんもだよ」
「うん」
「約束して」
「約束する」
 何度だって伝えるし、何度だって誓える。
 見つめ合っていると次第にみのりの瞳が揺れてきて、その意味を読むには遥はまだ幼かった。
 みのりが自分の中の何かを鎮めるように深く息をつく。
「はー……可愛すぎる。ぎゅってしたい」
 読み取る前に申告されてしまった。
「みのりさん、だだ漏れだよ」
「えっ、声に出てた!?」
「それはもうはっきり言ってた」
「あわわ……
 もう遅いのに慌てだしたみのりを、やれやれと思いながら見つめる。時々ちょっと心配になるけれど、こういうところが可愛い。
「こういうの、なんて言うんだっけ。欠点とか短所も、好きな人なら可愛く思えるっていうの」
……あばたもえくぼ、かな」
 さすが先生、すぐに出てきた。
「そうそう、それ。みのりさんのドジっ子なところ、可愛いよね」
「褒められてる気がしない……
 ちゃんと褒めてるつもりなんだけれど。会話って難しい。
「そんなにドジかなあ。まあたまに失敗しちゃうけど、けっこううまくできてると思うんだ」
「確かにいい先生だと思うよ。でもちょっと抜けてはいるかな」
 日暮れが近い二月は寒い。遥はみのりの手を取ると、自身が羽織っているコートの内側にいざなった。
「だって、花里先生ってば、こんな寒い日に表に出るのに上着を忘れちゃうんだから」
 冷え切った手を温めるために上着の中に潜らせて、それから身体も同じようにコートでくるむ。「そのままだと風邪引いちゃいますよ」だから温めてあげてるんです、と鳴らした喉で語る。
 みのりは腕の中で微動だにしない。抱き返してしまったらそれは一線を越えることになるのだと思っているのかもしれない。
「アウト?」
……まだ、セーフ」
「良かった」
 みのりの手が温まったら、この腕を解いて家に帰ろう。
 そう決めて、一度だけ両腕に力を込めたら、彼女の身体からふわりと甘い匂いがした。
 それはきっと、世界でたったひとりだけが受け取ることのできた想いチョコレートだ。