黒竹
2022-05-30 22:21:06
10385文字
Public スタリラ
 

透明と透明

【スタリラ】【晶栞】

 今年の身体測定で測った身長は去年とほとんど変わらなかった。人によっては二十歳くらいまで伸びるらしいよ、と新作衣装の採寸をしてくれた先輩が言っていたけれど、この様子では期待薄だろう。
 身長があったほうが舞台で映えるとか、高いところに手が届くとか、なんとなく格好良いとか、そういった理由で背を伸ばしたいわけではない。もちろんそれらについても叶うなら嬉しいが、あくまでも二義的であって、一番ではなかった。
 ぼんやりと、隣を歩く人の姿を盗み見る。自分より頭一つ高い身長と、嘘みたいに長い手足。一見して冷たそうな瞳と鋭い顔つきの持ち主のくせに人を惹きつけてやまないそのカリスマは、天性であり、また幼い頃からの努力の賜物なのだともう知っている。
 初夏の連休となれば人出も多くなる。街のメインストリートは様々な人でごった返していて、ぶつからずに歩くのは大変だ。隣の晶も辟易しているようで、買い物を頼んできたやちよへの恨み言をさっきから小声でつぶやいていた。
「まったく、いくら限定スナックといっても、これでは割に合わないな」
「けど、こんなに道が混んでるとは、やちよ先輩も思ってなかったんじゃないでしょうか」
 栞もふうふう息をつきながら晶の背中を追っている。二人がやちよに頼まれたのは、期間限定でこの地域に出店しているコスメブランドの新作である。店舗限定販売で、今日を逃すと手に入れるチャンスはもうないのだという。他に空いてる子がいなかったんですよぅ、と肩をすくめながら言ってきたやちよは、見返りとして地方の激辛スナックを提示してきた。こちらは逆にネット限定で展開している商品で、購入には公式サイトでの会員登録とネットバンキングによる振り込みが必要になる。雪代晶は折れた。けっこう簡単に折れた。どれだけ頑張っても自分では買えないことを数秒で理解したので話は早かった。
 買い物だけなら晶だけでも良かったのだろうが、それにプラスして、ブランドの情報アプリから専用画面を提示すると非売品のノベルティがもらえるそうで、やちよはそれも要求してきた。
 やり方は教わったものの、何度やってみても画面を表示できなかったので、見かねた栞が付き添いを申し出たのだった。
 そんな紆余曲折の末、雪代晶と夢大路栞は人波に揉まれている。
「それにしても、いつもは休日でもこんなに混んでないのに、どうしたんでしょう」
「ふむ……。私はこちらにはあまり来ないからよく分からないが、なにか催しでもあるのかもしれないな」
 単純に人が多いというより、人の流れがどこかで滞っている気配がある。ファッションビルが立ち並ぶこの区域には、栞はやちよと買い物に来たりすることが多くて、月に何度か訪れているが、こんなに歩きにくいのは初めてだ。きっとやちよもこんな状況は予想していなかったに違いない。
「あ、もしかしてあれでしょうか?」
 栞が人だかりの向こうにあるものを指差す。遠目にステージのようなものが見えて、バンドが演奏をしているようである。小規模な音楽イベントかなにかだろう。
 近づいてみると、制服姿の女の子が数人、ステージでパフォーマンスをしていた。「あっ、フロンティアさんですね、あの制服」見覚えのある制服に思わず栞が声を上げる。晶も軽く首を伸ばしてそちらを見やった。
「あそこは演劇だけではなく、色々な学科があるのだったな」
「きっと音楽系のコースの人たちですね。みなさんあんなに堂々と演奏されていて……すごいです」
「ああ。以前、演技のためにベースを習ったうえの半可通をさせてもらうなら、なかなか大したものだな。技術的には悪くないしステージを盛り上げる勘の良さもある」
 足を止めた二人はそのままうっかり一曲分フルで聴いてしまって、なるほど道が混雑するわけだと顔を見合わせて笑った。
「おっと、時間を取られてしまったな。やちよが数量限定のものもあると言っていただろう。少し急ぐぞ」
「あ、はい」
 足早にその場を離れる晶について歩き出そうとした栞だったが、一瞬の隙に入り込んできた通行人にぶつかりそうになってとっさに踏み出しかけていた足を戻した。刹那と言ってもいいくらいのその時間で、人波が進む。
「あ……っ」
 人と人の間から、銀の髪が揺れる。
 薄ぼんやりと、彼我の距離が空く。
 追いかけないと、と思っているのにうまく進まない。大人にぶつかって舌打ちされる。彼女はこちらを見ない。当たり前だった。彼女にとっては、こちらはついてくるのが当然の存在なのだ。疑いもしないからわざわざ確認なんてしない。
 だから、だから背が伸びないのが嫌だ。
 あの人に追いつけない。
 流されてさっきのステージの前まで来てしまった。フロンティアの生徒の演奏はもう終わっていて次のバンドに移っている。はわわ、と動転しながら栞はなんとか大通りに戻ろうとした。とにかく晶を追いかけないと。
「あれ? もしかして夢大路さん?」
「え?」
 不意に声をかけられて振り返る。フロンティアの生徒だった。ステージにいた子ではない。おそらく裏方で作業していたのだろう。
 かすかに緊張した面持ちで話しかけてきた少女が、胸の前で両手を組む。
「あのっ、あたし舞台表現コースで。今日は音楽コースの手伝いで来てたんですけど。夢大路さん、前にうちのオープンキャンパスに来てましたよね? 今日のステージも見に来てくれたんですか? もしかしてフロンティアに編入とか……?」
「い、いえ、オープンキャンパスにお邪魔したのは、えっと、勉強の一環というか……。今日もこちらを通りがかったのは偶然で。でも素晴らしかったです。聴き入ってしまいました」
 まさか先輩がカレーを食べたくて潜入するのに付き合わされたのだとは言えずごまかした。それに妙な誤解をされているようだ。申し訳ないが編入するつもりなど髪の毛一本分ほどもない。
 どう切り抜けようかと迷っているうちに、いつの間にか他の子たちも集まっていた。中心にいる栞そっちのけで盛り上がり始める。「シークフェルトの?」「そうそう、すごいエリートで」「えーすごいじゃん! サインもらっとく?」「かわいい〜、お人形みたい」年上に囲まれもみくちゃにされ、栞はどうすることもできずうろたえるばかりになっている。どうしようどうしよう、雪代先輩とはぐれちゃう、早く追いかけないといけないのに。焦れば焦るほど喉は凍りついて、この場を切り抜けるうまい言葉も出てこない。
「あ、いたいた! どこ行ってたの、探したよ」
「え?」
 後方から届いた聞き慣れない声と、肩に置かれた手。何が起きたのか理解できず、一瞬固まってしまう。
「ごめんごめん、この子うちの連れ。ちょっと目を離した隙にいなくなっちゃって探してたの」
 フロンティア生徒の包囲網から引っ張り出してくれた腕をたどって見上げるけれど、何度確かめてもその人に見覚えはなかった。人好きしそうな笑顔と、片側だけ編み込まれた前髪が印象的だ。こんなに華やかな人、一度見たら忘れないだろう。空中に疑問符を飛ばしていると、小さく目配せをされた。あっと気づいてうなずく。
「すみません、ステージが気になって、つい勝手に来てしまいました」
「見つかってよかったよ〜。じゃあ行こっか、みんな待ってるよ」
「はい、待ち合わせ時間も過ぎちゃいましたね、急ぎましょう」
 エチュードは得意だ。会話を合わせながら、誘導に従って歩き出す。
 肩を抱かれながら歩いていて気づいたが、この人、やけに身のこなしが軽い。通りを埋める人の数は変わっていないのに、一人の時とは歩きやすさが段違いだ。まるで舞台の導線に従って動いているような感覚である。それが抱かれた肩にかかる絶妙な力が誘導しているのは明らかだった。何者だろう、この人。
「いきなりごめんね。でもなんか困ってそうだったから」
「あ、はい、ありがとうございます。助かりました」
 ためらう様子を感じ取ったのか、その人は小さく笑って「南風涼」と自身の顔を指差しながら言った。
「みなせさん」
「南の風が涼しいで南風涼ね。覚えやすくていいでしょ?」
 何度もそういう自己紹介をしているのかもしれない、なめらかな説明をして涼が笑う。「そうですね」栞も小さく笑ってうなずき、こちらも名乗った。「栞ちゃんね」涼がよろしく、と肩を抱く腕に力を込めてくる。
 ゆるいラインのパーカーを着ているから見た目には分からないが、触れている腕や脇腹のあたりはかなり引き締まっていた。なにかスポーツをしているのだろうか。明るくて爽やかだし、まさにスポーツ少女という感じがする。身のこなしもサッカーとかバスケットボールとか、そういったスポーツの経験があるせいだろうか。
「けど、どうしてあんなに囲まれてたの? 実は芸能人? かわいいからモデルさんとか?」
「い、いえ。そういうのではないんですが……。演劇の学校に通っていて、何度か舞台に立ったことがあるので」
「そうなの? あたしも学校演劇系だよ。青嵐総合芸術院ってとこ」
 すごい偶然だね、と涼が相好を崩す。栞も驚いた。青嵐といえば、この頃頭角を現してきたと評判の学校だ。全国大会でも賞を取っていたはずである。
「栞ちゃんは?」
「シークフェルト音楽学院の中等部です」
「あのエリート校? すごいんだ」
「そんなことないです、先輩がたに比べたら、私なんてまだまだで」
 涼の人柄のせいか、やや人見知りの傾向がある栞なのにすぐに打ち解けられた。お互い演劇学校の生徒ということもあり、共通の話題が多くて会話のネタに事欠かない。世話焼きなのか、先輩とはぐれてしまったのだ、と話すと一緒に探すと申し出てくれた。
「またさっきみたいなことになっても困るし」
「ありがとうございます。でも、いいんですか? 南風さん、なにか用事があるんじゃ……
「んーん、もうすぐ友達の誕生日だからプレゼント買いに来てたんだ。それはもう済んでるから」
「そうでしたか」
「うん、だから気にしなくていいよ」
 明るくて、朗らかで、優しくて。一癖も二癖もあるシークフェルトの面々に慣れてしまった栞には、涼のようなタイプが新鮮に映る。彼女はまるで、そう、まるで。
「南風さんって、太陽みたいですね」
「ん?」
 涼が少しだけきょとんとして、それから、どこかとらえどころのない笑みを浮かべた。
「太陽は、あたしじゃないかなー」
「え?」
「他にいるからね、それにぴったりな子が」
 どういうことですか、と聞こうとしたら「なにをしている!!」大地を割らんばかりの怒号が響き、栞が思わず身をすくめた。涼もかばうように腕を回してくる。
「誰だ貴様は! うちの生徒になにをしている!!」
「えっ、雪代先輩!?」
 一触即発、今にも涼に掴みかかりそうな形相でこちらを睨んでいるのは、探していた雪代晶である。なにか誤解されているらしい。栞が慌てて首を振った。
「ち、ちがうんです! 南風さんには助けていただいて、今も一緒に雪代先輩を探してくれてて」
「む……?」
「そうそう、別に怪しいもんじゃないってば」
 シークフェルトと青嵐の生徒が白昼堂々喧嘩なんてことになったら大騒ぎだ。栞が早口で事の顛末を説明して事態の収拾を図る。晶はまだ眉根を寄せていたが、涼が栞を害そうとしているのではないことは分かってくれたようだ。やや態度が軟化する。
 涼がしばらく晶を見つめて、それから「あ」とつぶやいた。
「あなたは見たことあるよ。シークフェルトの会長さんでしょ?」
「ああ、シークフェルト音楽学院の雪代晶だ。私を知っているということは、演劇関係者か」
「青嵐の南風涼だよ、よろしくー。会長さんってことは、なんだっけ、フラフープ? プロテイン? みたいな呼び方されてるよね」
 軟化した態度が一気に硬直した。
白金の君フラウ・プラティーンだ。貴様、我が校の伝統ある称号を愚弄するつもりか」
「そうそれ! ごめんごめん、あたし英語は苦手でさあ」
「英語じゃないです……
 どうしても見過ごせなくて訂正する栞。「英語じゃないの? じゃあもうお手上げだよー」涼がその場に倒れ込みそうな勢いで両手を上げる。
 毒気を抜かれたか、腕組みをしながらため息をついた晶は、値踏みをするように涼を斜めに見てから口を開いた。
……まあいい。うちの夢大路が世話になったようだな。正式な礼は改めて、学院を通してさせてもらう」
「え、いいよいいよ、そんな堅苦しいことしなくても。あたしはただ栞ちゃんが困ってそうだから助けただけで、シークフェルトに恩を売ろうと思ったわけじゃないし」
 「ねー」わしわしと頭を撫でられながら同意を求められ、栞はどう答えたらいいか分からず曖昧に微笑んだ。
「栞ちゃん髪ふわふわー」
 頭を撫でてくる涼が子犬みたいに扱ってくる。
「うちのチーフも中学生の妹がいてさ、その子もこんな感じでふわふわの髪なんだよね」
 あれ、なんだろう、晶の周囲がなんだか空気がひんやりしているような。
…………
「生徒会長なんでしょ? だったらここでありがとーって言ってくれたら学校通したりしなくても同じことじゃない?」
…………
「栞ちゃんだって困ってたけど、危ない目にあってたんじゃないし、そんなおおごとにしなくたっていいよ」
 涼は気づいていないようだが、栞は全身で感じ取っていた。さっきから晶の機嫌が悪い。
 不機嫌は感じ取れるのだけれど、どうしてかは分からない。礼儀に厳しい人だから、タメ口が気に入らないのかと思ったけれど、同学年だし、涼は特段の失礼は働いていない。その程度で怒りはしないだろう。
 ここに他の先輩たちがいてくれたら、うまく話をそらしたりして晶を落ち着かせてくれるのだけれど。今日はそれぞれ予定があって別の街に出かけている。さすがにもう偶然の邂逅は望めない。
「あ、あの……雪代先輩……?」
「──私に」
「ん?」
 腕組みをしたまま、雪代晶は氷点下くらいの声で言う。
「私に礼を言わせたいなら、まずその手を離せ」
 言われた涼は彼女の視線をたどり、それが栞の頭に置いたままの手に注がれていることに気づいた。
「なんで?」
「なっ……、なんでもなにも、夢大路は誇り高きシークフェルトの生徒だ。気安く頭を押さえていいわけがないだろう」
 わりとみなさんから頭を撫でられますけど……、と思っても口にはしない栞だった。
 「ふぅん」涼が唇をすぼめてつぶやく。ふわりとした、薫風みたいなつぶやきだった。
「ま、いっか。じゃ、先輩も見つかったことだし、あたしはここで。あ、栞ちゃん連絡先交換しない? 今度おねーさんと遊ぼうよ。さっき言ってた子、さくらちゃんって言うんだけど良かったら紹介しようか? そういえばこないだできたカフェのシフォンケーキがおいしいらしいんだよね、一緒に行かない?」
「え、あ、あの……
 頭から手は離したが、今度はスマートフォン片手にぐいぐい迫ってくる。
 栞がたじろいでいると半ば強引に晶が間に割って入ってきた。
「貴様、いい加減にしろ。なんのつもりだ」
「せっかく知り合ったんだし仲良くしよって言ってるだけだよ? フラフープもあたしの番号いる?」
白金の君フラウ・プラティーンだと何度言えば分かる! 貴様のような無礼者と交わす連絡先はない!」
「ゆ、雪代先輩、落ち着いてください」
「うわ、なんかめっちゃ怒ってる?」
 不可解な表情をした涼がパッと一歩下がり、両手を胸の高さまで上げて「降参」とアピールしてくる。
「あたし、やっちゃった?」
 問いかけられた栞がおずおずとうなずいた。シークフェルトの伝統についてはほとんど彼女のアイデンティティだ。それを茶化されて怒らないはずがない。
 そうは思うものの、それを他校の生徒に理解しろというのも無理筋である。学院の歴史をいちから説明するわけにもいかないし、気高き君エーデルの成り立ちなんて一言では言い表せない。
 あるいはミチルたちであれば妙な言い間違いをされたところで笑い飛ばしてくれるだろうが、今回は相手が悪かった。
「いやー、ごめん!」
 それでもなにか気配を察したか、涼は上げていた両手をぱしんと叩き合わせて頭を下げた。
「よく分かんないけどごめん。会長さんの大事にしてるモノ、冗談にしちゃ駄目だったね」
……ふん。これに懲りたら今後は口を慎むことだな」
 涼が素直に謝ったせいか、晶もいくぶんか落ち着いた様子で矛を収める。涼は「ツツシムってどういう意味だろう?」みたいな顔をしていた。
 駅へ向かう涼と別れ、二人はまた並んで歩き出した。簡単なお使いのはずがずいぶんと回り道をしてしまった。時間は気になるが歩く速度が上がったりはしなかった。晶がまたはぐれては堪らないと気にしているのだろう。
「それにしても、いつの間にはぐれたんだ。急にいなくなるから心配しただろう」
「すみません、人に流されてしまって……
「まあ、目的地は分かっているのだからそちらで待っても良かったのだがな。とはいえ、うちの生徒になにかあっても困る。早々に見つかって良かったが、今度からはすぐに連絡しろ」
「はい」
 うちの、というのは、シークフェルト音楽学院の、という意味で、それは分かっている。
 晶が心配しているのは学院の生徒であって、きっと夢大路栞ではない。
 もちろん、気高き君エーデルの一員なのだから他の一般生徒よりちかしさは感じているだろうが、他の生徒が迷子になっても彼女は同じように探すだろう。
…………
 栞の右手が震えるように揺れて、軽く握られ、それから開いた。
 手をつなぎたいなんて、子供じみた要求をしたら笑われてしまうかもしれない。いや、笑いはしないか。呆れるだけだ、きっと。迷子になるような年でもないだろう、と。さっきだって本当はすぐに合流できた。いくら人混みだからって、ほんの数メートル先の晶に追いつけないような混雑ではなかった。
 止まったのは栞の意思だ。
 その後の出来事は完全にハプニングだったけれど、ここで止まれば小さい自分はすぐに紛れて埋もれてしまうだろうと、そう思ってわざと。
 子供みたいで嫌になる。
 気づいてほしいなんて。
 振り返って、こっちを見てほしい、なんて。
 この人がそんなことをするわけがないのに。
「栞? どうした」
「あ、い、いえ、なんでもないです。少し、ぼーっとしてました」
「暑気あたりか? 今日は日差しも強いからな。買い物をしたらどこかで休憩するか」
「大丈夫です、本当に、なんでもないので」
 元気ですよ、と握りこぶしを顔の横まで掲げてみせる。
 晶はまだなにか言いたそうな顔をしたが、結局、「そうか」といつもと同じ調子でうなずいて、また前を向いた。
 買い物を終えて寮に帰るまで、二人が手をつなぐことはなかった。



 ゴタゴタがあったものの、やちよに頼まれたものは数量限定の商品も含めてすべて購入できた。待ち受けていたやちよは冒険から帰った勇者を出迎えるが如くの歓待ぶりだった。よほど欲しかったらしい。
 やちよがホクホクした顔で受け取ったショッピングバッグの中身をあらためている。ノベルティのポーチと試供品も大変感謝された。
「いやー、二人ともお疲れさまでした。このブランド、本店が地方でなかなかこっちに展開してくれないんですよね〜」
「全部買えてよかったですね」
「ほんと助かりましたよ。フェスのことはあたしも知らなかったんで、それは申し訳なかったですけど」
 帰ってから調べてみたところ、やはりあの一帯で地域ぐるみの音楽イベントが開催されていた。数カ所でアマチュアバンドのステージが行われたらしく、二人が通りがかったのはそのうちのひとつだったのだ。
 壁にもたれかかって腕組みをした姿勢の晶が細く息を吐く。
「まったく、とんだ目にあった。だがまあ、約束は約束だからな」
「はいはい、ご要望の激辛スナックはもう注文済みなのでご安心を。明後日には届くはずですよ」
 肩をすくめるやちよに、満足げな晶。「ああ、そうだ」やちよがふと気づいて首を回す。
「晶センパイのお礼はそれでいいとして、栞にもなにかお礼をしなきゃいけませんねえ」
「そんな、私はただの付き添いですから。気にしないでください」
「そういうわけにもいきませんって。うーん……栞ならこのへんかな?」
 やちよが試供品のいくつかを手に取ってためつすがめつする。その中から選びだしたチューブタイプのリップグロスを開けて、「栞、ちょっとおいでー」手招きして近づいた栞の顎を持ち上げた。
 ちょん、と唇に軽くチューブを押し付ける。そのまま左右に滑らせてグロスを乗せた。
「色つけなくても、ツヤ感出すだけでちょっと大人っぽくなるよ〜。UVカットだからこれからの季節にもいいし、お出かけのときに使いなよ」
 チューブを手に乗せられて、ほら、と鏡の前に導かれた。
 舞台のメイクとは違う、素顔にプラスされた唇の艷やかさ。こういうものをつけたことがなかったから、それだけなのになんだか気恥ずかしい。
「い、いいんですか?」
「試供品だし、グロスは他にもけっこうあるからね。せっかく似合うんだし、使って使って。もっと本格的なメイクはもうちょっと大人になってからかなー。コスメって揃えるのもお金かかるしね〜」
 これだけでもけっこう変わるでしょ。鏡越しにやちよが笑いかけてくる。
 艶めいた唇。自分の身体の一部とは思えない。もっと大人になったらしっくりくるんだろうか。子供だと思われたくなくて手をつなげない今はまだ、リップグロスひとつが精一杯なのかもしれない。
「ほらほら晶センパイ、どうです? かわいいでしょ?」
 急に水を向けられて驚いたのか、晶の肩が小さく震えた。
 晶の視線がまっすぐに届く。じっと見つめられて居心地が悪い。
……まあ、悪くはないと思うが」
「なんですそれ、もっとちゃんと褒めてあげてくださいよ〜」
「くだらない遊びに付き合わせるんじゃない」
 ため息とともに言い捨てて晶が踵を返す。
「あれ、晶センパイ行っちゃうんです?」
「ミチルに確認しておきたいことがあったのを思い出した。お前たちも休日だからと気を抜きすぎないように」
「は〜い」
「はい、今日はお疲れさまでした」
 晶がリビングを出て、入れ替わるようにメイファンが顔を出した。「晶さん、どうしたんです?」
「なにが?」
 出し抜けに問われて、やちよも栞も首を傾げる。
「さっきそこですれ違いましたが、なんだかとてもムスッとした顔をしていました。でも不機嫌というわけではなさそうだったんですよね」
 ムスッとしているのに不機嫌ではない。とんちだろうか。
 リビングにいた時は、疲れた様子は多少あったが、特にムスッともしていなかったし不機嫌でもなかった。メイファンの気にし過ぎではないかと栞が言い、メイファンも「そうですかね……」と自身の言葉に確証がないようで納得しかけている。
「あー、ま、そういうこともあるんじゃないですかね〜」
 やちよだけは二人より一歩進んだ位置で、何かを見据えながら平坦な口調で呟いた。
「そういうこと、ですか?」
「そ。純度高すぎてあるかないかも分かんない水に光を当てたらキラキラしてきれいだった、って話」
「はあ……?」
「みーんな、はやく大人になりましょうねえ」
 マニキュアの新色を試し塗りしながら、やちよはどこか達観したように言った。
「大人……
 どこか悲壮感のある眼差しを落とし、栞はその単語を口にする。
「大人に、なれるんでしょうか」
 背も伸びないのに。
 手をつなぎたいって言えないのに。
 やちよが軽く首をかしげ、「まあ、あたしもまだ未成年で子供ですけど」
「グロスひとつでこれだけ変わるんだから、けっこうすぐじゃない?」
 ねえ、と笑いかけられて、栞は無意識に手の中のリップグロスを転がした。
 その感触を頼もしく感じる。
 そうだったらいいな。


 一方、雪代晶は鳳ミチルの部屋でテーブルに肘をつき、額を自身の両手で支えながら唸っていた。
「ミチル、私はもう駄目かもしれない」
「はいはい。駄目になるのは勝手だけどエリュシオンの上演が終わってからにしてね。あと早めに出てってね。ミチル今、新作公演の会場探しで忙しいの」
「慰めてくれないのか」
「なにを慰めろっていうの? 栞がかわいくてつらいこと?」
「そっ……そういう言い方はやめてくれ」
「はいはいごめんね。栞がかわいいけどどうしていいか分からない晶を慰めてあげたらいいの?」
 晶が何も言えなくて崩れ落ちる。
気高き君エーデルの仕事はちゃんとしてるからいいけどさ。もうちょっと大人になりなよ、晶」
 まったく、いつまでも雪解け水みたいなんだから。ミチルが呆れ調子でひとりごちる。
「初対面の人にヤキモチ焼いたりして、情けないなあ」
 もう晶は顔を上げることすらできない。
 いつだって視線は一方通行で、見られている方は見られていることに気づいていないし、見ているほうは見てほしいと思われていることに気づいていない。
 湖に映った月を見て、きれいですねと言うようなものだ。
 あまりにも純粋で透明な視線は、まるでどこにもないようにかき消えて、なんの像も結びはしない。
 今は、まだ。