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黒竹
2022-05-30 22:20:11
8961文字
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スタリラ
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新緑の候
【スタリラ】【晶栞】
路地裏で女が暴れている。けして恵まれた体躯ではないのに、屈強な男たちを相手に大立ち回りだ。殴って蹴って避けて掴んでまた殴る。大声で叫ぶ、その声は威嚇ではなく獣の咆哮に近い。男たちをバッタバッタとなぎ倒し、女は大見得を切ってキメ台詞を放つ。
その様子を雪代晶は腕組みをしながら見ている。狭い劇場の奥まった中央の席、晶の左側には壮年の男女がいて、逆隣は空いていた。客席はほとんど埋まっている。座っているのは若い女性が多い。女の前に現れた男に見覚えがあった。かなり話題になったゲームの舞台化で主演を務めた俳優だ。おそらく彼のファンだろう。名前はちょっと思い出せないが。
激しい動きになびく長い金の髪を懐かしい気持ちで眺める。演技なのだが、彼女の生き生きとした表情に対していくらか安心感を覚えていて、それが我ながら意外だった。
晶が座っているのはいわゆる関係者席だ。関係とはなんだろうと思う。たしかに旧知の仲ではあるものの、ただの友人というわけでもないし、過去にあった軋轢が完全に消えたわけでもない。チケットを渡された時はさすがに面食らった。自分には芝居を見られたくないのでは、と思っていたのだ。目の前からいなくなったあの日からずっと。プライドが高くて、そのせいでみじめな行動に出た彼女の古傷をえぐる行為だから。誰だって過去の失敗をほじくり返されたくはない。
まあ無名劇団が行う小劇場の舞台だ、チケットノルマがあったのかもしれない。興味がないなら来なくていいけど、とあやふやな誘い方をしてきたから、その可能性だって低くはない。のこのこと足を運んでしまったのは早計だっただろうか。またミチルに空気が読めないと叱られるか。ため息をつきたくなったが舞台の邪魔になるから堪えた。瞬きだけ、ひとつ長めにする。
微動だにしないまま頭を切り替えて舞台に集中した。
狭い小劇場でも、目が合うことはなかった。
スタッフの案内で楽屋に通される。呼ばれた夢大路文は振り返った途端にぎょっとした顔になって、それから慌てた様子で近寄ってきた。眉間にしわは寄っているが険はない。
「ちょっ、なっ、なんで、なに楽屋まで来てるの」
「せっかく観に来たので挨拶でもと思ってな」
飄々と答えると、文が肩の抜けるような大きな嘆息を吐いた。
「ほんとに来るなんて
……
」
「来ないほうが良かったのか?」
「
……
そういう、わけじゃないけど」
「そうか。なら良かった。お前のことだからてっきり見栄を張って主演舞台のチケットを渡したはいいが今の私との立場の違いを気にして後悔しているかと思っていた」
「ねえあなた本当にその性格でやっていけてるの? 周り全部敵に回してたりしない?」
文が頭痛を我慢しているみたいな苦悶を浮かべる。「あと、自分の立場を分かってるなら軽はずみな行動しないほうがいいわよ」
ちらりと動いた視線。それにつられて目をやれば、どこか浮き立ったような様子でこちらを伺っている数人が見える。晶にしてみればもう慣れたものだった。すでに演劇の世界ではかなり名が通っているし、憧憬の対象になる場面などこれまで数え切れないほど経験している。
「なんたって東邦藝術劇場のゼロ番に立てる役者なんだから。業界にもファン多いでしょ? あ、主人公の妹の恋人役だった子、あなたのファンだって言ってたわ。後で握手でもしてあげて」
「構わないが」
晶は軽く肩をすくめて、視線を文の顔に戻した。
「立場というのはそういう意味ではない。お前は仲間と舞台に立つことを選んだだろう」
上下ではなく違いだ、と晶は続ける。世界のトップスタァを目指し、ただ一人の覇者として立つことを選んだ自分と、仲間と協力しあって舞台を作ることを選んだ彼女。その違いが分からないほど夢大路文は愚かではない。少なくとも晶はそう思っていて、だからこちらの孤高を侵食したことを悔やんでいるかもしれないと気がかりになっていたのだ。
晶の正面にいるのに疲れたのか、文はテーブルに置いてあったペットボトルを取る仕草で身体半分くらい晶から逃れた。
「別にそんなことないわよ。単に私のお芝居を見せたかっただけ」
「ふむ?」
「かっこよかったでしょ」
ふふんと含み笑いをして胸を張る。それはたぶん半分くらい虚勢だったが、そういうことをする夢大路文のことが雪代晶は嫌いではない。
「まあそうだな。しかし見得を切るシーン、あそこはあと一呼吸おいたほうが効果的だった。それと視線を奥に向けすぎだ。心理的に奥の客を意識しがちになるのは分かるが、劇場の大きさからいえばもっと手前を見ても影響は少ない」
「あのねえ! チケットもらって招待されたんだから、こういう時は褒めるのが礼儀なの!」
「参考にはさせてもらうけど!」拳を震わせながら文が言う。けして多くはないはずの地雷をひとつ残らず的確に踏み抜いていく晶はしかし、そんなことには気づきもしないでわずかに黙考した。
「
……
私が、お前にへつらうと思っているのか? この私が?」
「おべんちゃら使えって言ってるわけじゃないわよ
……
」
文はぐったりと脱力し、なにか言いたかった言葉を流し込むようにボトルの水を勢いよく飲みはじめた。彼女の言いたいことがよく分からない。真摯に演技を見ていたからこそ、彼女の成長につながるようアドバイスをしたのだけれど。
「しかし、全体的にはいい芝居だった」
「
……
そう」
「次も楽しみにしている」
文が一瞬呆けて、それからほんの少しさみしそうな笑顔になった。
「なに当たり前に次も誘われると思ってるの?」
「違うのか?」
「
……
晶って、ほんと」
その先は言葉にならなくて、視線も交わることはなく、ただ、肩から落ちたまっすぐな髪が一房、何かを惜しむように揺れた。
さっきから恋人の機嫌が悪い。土産に買ってきた紅茶のフレーバーが気に入らなかったのだろうか。それとも止められていたのに新しいスパイスを五種類ばかり増やしてしまったせいか。あるいはこちらになんの非もなく、まったく別の理由で不機嫌になっているのかもしれない。
最後のは希望的観測である。概ね、希望的観測とは実際にはあり得ないことを言う。
新しく購入したソファは二人が並んでもゆったりと余裕がある。肘かけに寄りかかりながら晶は沈黙に浸されている。隣では夢大路栞がタブレット端末でなにか調べ物をしている。その表情は無である。おかげで声をかけられない。現状打開のため、テーブルに手を伸ばして来月から公演が始まる舞台の台本と最近かけ始めた眼鏡を手に取った。チャリ、と小さな音を立てて眼鏡を耳にかける。本を読む時くらいしか使わないので度数は大したことがないが、まだ馴染んでいなくて違和感が拭いきれない。それでも沈黙による憂鬱よりはマシだった。
無言で台詞を追っていると、不意に隣の気配が揺らいだ。
「どうでした? お姉ちゃんのお芝居」
やはりそれか、とこめかみを押さえる。残念ながらスパイスではなかった。それなのに彼女の口調はピリリと刺激的だ。甘ったるいばかりの過去をやや懐かしく思う晶である。
「良かったぞ。台詞は流暢だったし感情の込め方も立ち回りのキレも、出演者の中でも抜群だった。まあ、一度は私が認めた相手だからな、それくらいでなくては困る」
台本を膝に置いて答える。本人にしたような指摘はない。する必要がないからだ。
栞もタブレットの画面を消して、身体の力を抜くために息を吐いた。
「お姉ちゃん、昔は視線誘導がちょっと苦手だったんですけど」
「ああ、そこは今でも改善の余地があるな。しかし、シークフェルトにいた頃と比べたら雲泥の差だ。凛明館で鍛えたか、卒業してからの稽古の賜物だろう」
顎をさすりながら思い出す。唇の端からかすかに笑声が洩れる。思えば彼女はいつだって命がけだった。自分より恵まれている者にずっと追いかけられて、崖っぷちの演劇部に引きずり込まれて、それに加えて自分の力で生きていかねばならず、ただ己の演技だけを磨いて高みを目指していればいいような境遇にはなかった。
だからだろうか、彼女の演技は思い出よりずっと鋭くなっていて、その研ぎ澄まされた演技を一言で表すなら、やはり彼女の言葉を借りるしかない。
「格好良かったぞ」
微笑混じりの賛辞を聞いた夢大路栞が、姉の演技くらい鋭く口を尖らせた。
「む、栞? どうかしたのか?」
これ以上ないくらい褒めたのに不機嫌さが増すとは思っていなかったので、晶の声が思わず上ずる。
タブレットをテーブルに置き、背筋を伸ばす姿がなぜか鬼気迫っていて、いつもは可愛らしいポニーみたいな雰囲気なのに今はどこか気性の荒いサラブレッドのようだ。
ゆるりと、栞の首がこちらを向く。
「お姉ちゃん、私にはチケットくれなかったんです」
「う、うん?」
「ゆっ、雪代先輩は誘ってるのに。ミチル先輩に聞いてみたら、他には誰も誘われてなくて、雪代先輩だけって
……
っ」
確かに、劇場では顔見知りには遭遇しなかった。公演期間は二週間ほどあるので日程が合わなかっただけという可能性も考えられたが、彼女の言葉通りならそういうわけでもないらしい。
文のやつ、なんの気まぐれだ。胸中で苦々しくつぶやく。割れた翡翠はそれでも輝くのだと、白金の煌めきに灼かれながらも思い知らせたかった夢大路文のプライドはわりとまったく通じていない。
「雪代先輩っ」
ぐいっと迫ってきた栞に台本を奪われる。晶は思わずのけぞった。目が怖い。眼鏡をかけていて良かった。透明なガラス一枚でもいくらか視線の強さが緩和される。
「なんでそんなにお姉ちゃんのこと褒めるんですかっ」
「
……
いや、いい舞台だったので
……
」
素直に答える。ミチルが「まあそこは晶の美徳だよね、ある意味」と評してくれた素直さ。しかし今回は裏目に出たらしい。「うぅ〜っ」栞が小さく獣じみて唸る。どんどん迫ってくる彼女の表情は泣きそうではないが、気配が次第に
潤
ほと
びてきて、それを察知した晶の心拍が比例して速まった。
固く握られた両の拳が晶の胸を強く押してくる。
「わっ、私のお姉ちゃんなんですよ!」
「
…………
」
栞の言葉は、文のそれよりは理解しやすい。
文もこれくらい感情的なら分かりやすいのだが、とそっと視線を遠くに投げた。我慢することに慣れた長子と、奔放を許されてきた末子の差なのだろうか。
自身の額に触れ、目をこすろうとして眼鏡のレンズを爪で引っ掻いた。まだ慣れないそのフレームと透明。向こう側が見えているのに穴は空いていない。
見えているのに触れられないのは、それが自分のものではないからだ。
「
……
妬いているのか」
夢大路文は、夢大路栞がずっと追いかけていた憧れの人で、それは昔から当たり前にここにあった。何も隔てない透明な板みたいな、透明な意味しかないような、透明な痛みのような、淡い憧憬。
割れた翡翠はもう王冠に収まることはない。けれど、どこにも収まらないから、自由だった。
王冠に嵌ってしまった翡翠は追いかけたくても追いかけられなくて、それでずっとくすぶったままでいたので、余計に白金が軽々しく触れたことに怒ったのだろう。
栞の腰を捕まえて引き寄せる。肩口に顔をうずめてきた栞の腰を抱いたまま肘かけに頬杖をついて、ゆるゆると視線を天井付近で遊ばせた。
「なぜいつも私に妬くんだ。普通逆だろう」
細長くため息をつく。
築浅のマンションは天井が高い。飾り気のない真っ白な壁と天井が目に痛いから、シーリングライトの光量は控えめだ。以前、やちよが遊びに来た時に「間接照明とか置いておしゃれにしましょうよ〜」と言ってきたが掃除が面倒になるから断った。それくらい殺風景な部屋の中で夢大路栞の気配だけが明確なかたちを持っている。馬の刺繍がされたクッションとか、スパイスの隣に並んだ紅茶缶とか、晶には使えないタブレット端末とか、シーツのしわとか、ソファのくぼみとか、晶が使うには少し背の低いハンガーラックとか、いつも一足分スペースの空いている玄関とかに留まっている気配が、栞の不在時でも色褪せず残っていた。
それくらい。
それくらい、侵食を許しているのに。
ぎゅっと抱きついてくる身体を受け止める。照れ隠しをしたいときの彼女の癖だ。
ゼロ距離で栞を感じながら、晶は天井の隅にただよう夢大路文のかすかな匂いを嗅ぎ取っていた。
「だって、雪代先輩は」
待っていたけれどその先の言葉はなかった。
もしかしたら、続く言葉は文が言わなかったものと同じなのかもしれなかった。
この姉妹、全然ちがうくせによく似ている。
今、部屋には二人しかいなくて、栞が顔を隠しているから、つまり晶の表情も誰にも見えない。
だから晶は表情を作ろうともせず、表情を繕おうともせず、ただ自然に、強くも弱くもないニュートラルな面差しで目を閉じた。
「
……
私だって、お姉ちゃんと舞台に立ちたかったのに」
なにかを争うレヴューではなくて、二人で一緒に作り上げる舞台を。
そうだ、間に合わなかったのだ、彼女は。
追いかけたのに届かなくて、理想はだから理想のままだ。
手に入った現実と並べてしまえば、持っていないものばかりが目に入る。
やはりよく似た姉妹である。
「まったく、揃って遠くばかり見ている」
栞の頭を抱えてくしゃくしゃ撫でてやる。子犬みたいなその扱いは彼女のお気に入りなのだった。髪が乱れるのを嫌がる素振りも見せず、きゅっと首をすくめて小さく身震いする。
理想を裏切られて置いてきぼりになった少女は、それでも理想を追い求めることをやめなかった。それは褒められこそすれ咎められるようなものではないのだ。翡翠の輝きそのものだったから。
だから白金は。勝手に割れた翡翠を許せなかった白金は、次の翡翠を許した。
「この雪代晶をないがしろにして許されるなど、お前くらいなものだぞ」
「
……
すみません」
「だめだ」
クスクス笑いながら顔をあげさせて、お仕置きとばかりに唇を奪った。
この恋がもっと激しければ良かったのだろうか。激しくて狂おしくて、他のものなどすべて燃やし尽くして顧みもしない想いだったら、もっとお互いを縛りつけていられただろうか。
それもまたひとつの理想だろうけれど、雪代晶も夢大路栞もそれを選ばなかったから、今、ここにいられる。
離れて、目を合わせて、なんの含みもなく晶が笑う。
表情を作ることもなく、表情を繕うこともなく、いとしいという心だけで、笑う。
「意外と邪魔にならないんだな」
「え?」
「眼鏡をかけたままでも」
それがさっきのキスのことだと気づいて、栞がわずかに頬を紅潮させた。
「
……
いちいち外すような話も、聞きませんし」
「ああ、舞台では寸止めだが、眼鏡を外す演技などしたことがないな」
伏せた目で、もう一度と淡やかに誘う。待ち受けた唇に木漏れ日のような感触が訪れて、ゆっくり、一度だけ食んできた。
その行為が表しているのは甘い甘い侵蝕だ。どこにも跡ひとつ残らないただの愛情表現だ。
剣で切りつけて傷口をえぐるような、幼稚な暴力性はもうない。
それから、儀式みたいに互い違いにキスをした。額に、まぶたに、鼻先に、頬に、こめかみに、耳朶に、首筋に。相手の肌に触れた瞬間の唇からこぼれる音のない言葉のいち音ごとの隙間から、色とりどりの光が舞った。キラめきに似ているけれどそうではないもの。愛情としての透き通った色が水面に浮かぶ気泡みたいにおだやかに弾ける。
透明なガラスはなにも隔てないし、爪で引っ掻いても傷ひとつつかないし、恋人同士のキスを邪魔したりもしない。
だからこれで良かったのだ。雪代晶の視界ではキラキラした緑色の光がいくつも弾けていて、それはまるで風薫る初夏の日差しのようだった。
いつか、この景色の中で美しい翠の鳥が自由に羽ばたいたらいいと思う。
それはきっと燃やし尽くした荒野よりも幸福である。
戯れに触れ合う憩いの儀式のあとは、いつも彼女の身体から角砂糖を溶かしたミルクの匂いがする。
それはおそらくいつの日か、もっと違うなにか、そう、もっと刺激的なスパイスのようなものが加わるのだろうという予感があった。
けれど晶はいつも、その予感に気づかないふりをして、こてんともたれかかってくる栞の身体を柔らかく受け止めるだけなのだった。
幸福な重みを感じながら、ゆるく波打つ金の髪を指で梳く。
「次の文の舞台が決まったら一緒に観に行くか」
ふにゃふにゃと幸福に浸っていた栞がその言葉に弾かれたように顔を上げた。
「えっ、雪代先輩と、ですか?」
「なんだ? 文だって本気でお前に見られたくないわけでもないだろう。気まずいならミチルに手配を頼んでもいい」
「いえ、そういうことではなく
……
。私たちがそろって舞台にお邪魔すると
……
その、注目を集めてしまうかもしれないので」
「ああ、そうか」
言われてみればそうなのだった。二人とも演劇界に名だたる名門校のトップにいたのだから、演劇に触れた者の間ではすでにかなりの有名人だ。そういえば以前、まだ晶がシークフェルト音楽学院に在籍していた頃、他校へ潜入してとんだ目にあった。それでなくとも晶自身、今日の楽屋で囲まれたことは記憶に新しい。
「騒ぎを起こして迷惑をかけるのも悪いか」
「そうですね、お姉ちゃんも落ち着かないでしょうし、雪代先輩とは別日に行くことにします」
デートの約束ひとつ取りつけられない自分がやや不甲斐ない。それも昔からミチルに言われていたことではあるが。
栞が身体を起こし、ソファの定位置に落ち着く。「けど」指先で唇を撫でながら横目でこちらをうかがってきた。
その視線にどこかとげついたものを感じ取る。
「楽屋に行ったりとか、そういうのは、ちょっと控えてほしいです」
「うん?」
「お、お姉ちゃんも公演が終わってすぐじゃ疲れてますし、できればゆっくりさせてあげてほしいと言いますか」
「
……
お前は本当に私と文が仲良くするのが嫌なんだな」
「そう、いう、わけでは
……
」
「ない」と言い切れないのは彼女の美点か、あるいは欠点か。
「文が私に懐くと不満か?」
「懐くって
……
」
お姉ちゃんそんなに犬っぽいかな、と栞が首をかしげる。言葉の選び方が適切だったかはともかく、二人の距離感に栞がやきもきしているのは感じていた。わだかまりがなくなるのは良いことだと思っているだろうが、それとは違うベクトルの小さな焦燥だ。
晶はやや怠惰な姿勢でソファにもたれながら、手のひらで口元を隠し、どこか呆れたように息をついた。
「以前から薄々感じてはいたんだが。お前、私が心変わりしないと思っているだろう」
それは愛されて生きてきた砂糖菓子の甘ったるさか。
言われた栞は一瞬きょとんと目を丸くしてから、だんだんと首から上を紅潮させていった。
無自覚だったらしい。
「だから私にばかり嫉妬するんだ」
珍しく核心をついてきた晶の言葉に栞は氷漬けにされたみたいに固まっている。けれどその氷は冷たくはない。むしろほの温かいのだ実は。
だが内側に閉じ込められて固まってしまえば、温度なんて分からない。
「すっ」
ほとんど音になっていない、雪の結晶が地面に落ちるくらいの声量でいち音だけが飛び出る。
かすれた喉を整えようと栞が小さく咳をした。
「するんですか
……
?」
「む?」
「こ、心変わり
……
」
「いや、特にその予定はないが」
平たいと思っていた地球が実は丸いと知ったような、二十段あると思っていた階段が十九段しかなかったような、空だと思っていたら海だったような反応の栞に、晶のほうがたじろいでしまう。
栞が胸の前で拳を握り、内面の読めない視線をよこしてくる。
「する、かもしれないんですか?」
「だから、その予定はないと言っている」
「予定はなくても可能性はあるということですか?」
「不確実な推測をしても仕方ないだろう」
夢大路文が雪代晶に惚れる可能性より、考えても無意味な問題である。
姉の目移りは心配しても恋人の心変わりを心配したことがなかった夢大路栞は、常温の氷につつまれたまま心もとなさそうに晶のシャツをつまんできた。
どう言ったらいいか分からなくて、発作的に小さな身体を抱きくるむ。氷が割れて飛び散って、それは煌めきを持たなかった。
「急に弱気になるんじゃない。それでも私の翡翠か」
「あ、いえ
……
」
栞が応じるように背に腕を回し、軽く引き寄せて晶の肩に頬を乗せた。
それは不安の現れではなくて、ひどく無骨な、引きちぎった鎖みたいな仕草だった。
目を閉じて頬で触れたまま栞が口を開く。
「ごめんなさい」
「いや、謝るようなことでもないが」
「いえ」ちぎれた鎖をぶら下げて首を振ると金属の硬い音がする。
「もしそうなったら、私はきっと雪代先輩を取り返しに行くので」
眼差しの中に秘められているのは土の奥深くで脈打つ植物の強さ。
「その時はご迷惑になるでしょうから先に謝っておきます」
晶が目をみはった。
沸き上がったおかしさは自嘲だったかもしれない。
「ずいぶんな自信だな」
「自信はないですけど、雪代先輩は諦められないので」
「それを自信と言うんだ」
彼女の、儚さの裏側にある激しさをいとしいと思う。みどりいろの、まどろみのようなキスをしたかと思えば、肉体すら超越した激しさだけのヴィジョンを見せてくる。
ああ、そうだ。
選ぶなら最初から、彼女しかいないと思っていたのに。
「まったく
……
」
くるむ腕に力を込める。
雪代晶の両腕は、彼女の身体をくるむばかりで、一向に狂う気配がない。
「これからも、お前から目が離せないな」
それはみどりいろの、若葉の芽吹きによく似た愛の言葉だった。
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