黒竹
2022-05-30 22:14:48
5212文字
Public スタリラ
 

あいのしるし

【スタリラ】【鳳ミチル】【雪代晶】

 緊張しますねえ、と鶴姫やちよが呟くのを、鳳ミチルは肩をすくめながらいなす。「全然そうは聞こえないよ」
「ほんとですって。なにせセンパイがたの最後の晴れ舞台ですし、それでなくても学院の宝ですからね。傷をつけるわけにいきませんよね〜」
「うん。期待してるよ」
「あはは、手厳しいですねえ」
 やちよが渾身の出来である衣装をひらつかせ、「でもまあ、そうですね。最善を尽くしましょうか」大地の神らしい包容力のある笑みで頷いた。
 去年の『輪廻の章』を演じたことがあるのはミチルと晶だけで、後輩たちはこの独特で特別な舞台を踏んだことがない。それなのに隣に佇む後輩はずいぶんと余裕のある態度だった。頼もしい限りだが、ミチルはだからといって安心はしない。この食えない後輩、日常的に演技をしている根っからの舞台少女だ。人生すら彼女の舞台、今のこの様子が、演技でないとも限らない。
──ま、それでも最後まで演じ続けてくれたら問題ないけど。
 偽も最後まで続ければ真だ。彼女に告げた言葉は嘘ではない。最後までやりきってくれることを期待している。
 目を転じる。あとの二人、リュウ・メイファンと夢大路栞は少し肩に力が入っているようだ。単なる舞台に対する緊張というよりは、それぞれ背負っているものが理由に見える。メイファンは目標である晶を超えるラストチャンスだし、栞はここで姉の汚名をそそがねばならない。もちろん、やちよが先ほど言っていたことも理由としてはあるだろう。後輩たちに慕われて先輩冥利に尽きるというものだ。そうなるように行動してきた甲斐があった。
 親指で軽く顎をなぞり、ミチルは隣のやちよを見上げた。
「栞の衣装、髪飾りの石が少しずれてるみたい。やちよ、直してあげて」
「え? 別になんとも……あ、いえ、そうですね。あたしが作った衣装だし、調整したほうがいいみたいです」
 裏方の生徒を呼ぶでもなく、直接やちよに頼んだ意味を彼女はちゃんと汲んでくれたようだ。重ね重ね、頼もしい限りである。
 苦笑のような、目を眇めて曖昧に唇を歪めた表情で、やちよが小さく息をつく。
「──まったく、人使いが荒いですねえ、ミチルセンパイは」
「来年の予行練習だと思ってよ。これからはやちよがみんなをまとめるんだから」
「そういうのは引き継いでからでよくないですかぁ〜? そもそもまだ何も決まってないですよね」
 あたしはただの真珠の君フラウ・ペルレですよ、と平坦な口調でされた反駁に、その背中を軽く叩くことで答える。
……ミチルセンパイ、先を見すぎですって」
「あは、そうかな。そうかも。ミチルが先を見てないと晶が迷っちゃうからね」
「たまには足元ちゃんと見ないと転びますよ」
「ありがとう。気をつけるよ」
 これ以上は言っても無駄と見たか、これ以上入っても無理と見たか、やちよはそれきり何も言わず、栞の衣装を直しにその場を離れた。
 やちよの言うことも分かるのだ。優れている自負はあるが、己は雪代晶のような天才ではない。現在いまだけを見て足取りを危ぶまない確かさはない。それでも鳳ミチルは未来さきを見なければならない。
 そうでなければ。
 緞帳の裏側、ゼロ番に直立する天の神を視界に収める。適度に弛緩した四肢と、軽く閉じたまぶた。瞑想のようなその風情にミチルは充足感を得る。彼女のその姿のために生きている。彼女がそこでそうできる舞台を作ることが、己の使命だ。
 運命でも革命でもない、一命である。
 学院から与えられる二つ名も、戯曲の三章も、巻き込まれた四つ巴も、本当は、本当の本当は、どうだっていいのだ。
 ただひとつの、彼女に捧げるめいさえあれば。
 それは鳳ミチルの心臓だ。
「ミチル? どうした」
 視線に気づいたか、晶が目を開けてこちらを向いた。ミチルはいつもどおりに笑って「ううん」と首を振る。
「ごめん、集中してたのに邪魔しちゃった?」
「いや。そろそろ裏に戻ろうと思っていたところだ」
 まるで儀式のようにポジションゼロに佇んでいた晶だが、ミチルに対峙するとやや神聖な気配は薄れる。このへんを自分でコントロールできないのが困るんだよね、とミチルは口の中だけで愚痴をこぼす。まあどの状態でも魅了される生徒はいるのだけれど。夢大路栞とか。
 しかしながら、一般生徒が感じている近寄りがたさは相当なものだ。無垢で奔放な天の神を演じる今年は、もう少しフランクなところを見せておきたかったものの、過ぎてしまったことを嘆いても仕方がない。ギャップを楽しんでもらうことにしよう。
 晶は落ち着き払った様子で緞帳の向こう側を見通し、
「始まるのだな」
 ひどく感傷を込めた口調で呟いた。
「うん。やっとだね」
「初めてお前の名乗り口上を聞いたときは驚いたものだが……今やすぐ手の届くところにそれがある」
「うん」
 鳳ミチルは、雪代晶がゼロ番に立つ『エリュシオン』だけを目指してきた。無垢で陰りを知らない誰よりも美しい王様。彼女が最も輝く舞台を作るために、彼女を照らす装置になって装置になって装置になって装置になって装置になって装置になって装置になって装置になって装置になった。
 九年間。
 ずっとそうしてきて、これからもそうするのだろう。
「戻ろう、晶。みんなに一言かけてあげて」
「ああ」
 舞台袖では後輩たちが最後の確認をしていた。よもや台詞が抜けたりはしないだろうが、舞台は常に変化する。それを直前まで(あるいは始まってからも)追いかけなければいけない。それぞれの顔を見る。良い人選だと自画自賛。晶のために在るものとして文句のつけようがない。
 晶が開演前の講話を始める。落ち着いた良い声だ。内容も良い。当たり前だ、己が叩き込んだのだから。人を惹きつける声、リズム、温度、表情、目線、さりげない手の動き、頷き方、全部、全部。
 完成された白金の君フラウ・プラティーン
 完成?
 完成、なのだろうか。
 ここで。
 白金の君雪代晶は、
 最高の、最高の、『エリュシオン』を、作り上げて、
「────」
 ひゅ、と、喉が鳴る。
 この後、エリュシオンは完成して、称号を引き継いで、それから、
 それから?
 どうなる?
 どうしたいんだっけ?
 鳳ミチルは、
 なんのために、
 これから
「ちょっ、ミチルセンパイ!?」
 やちよの声が遠い。ステージを見る。霞む。あそこに立たなきゃ。立って、舞台を。息ができない。苦しい。苦しい。冷たい。なに? 苦しいのに空気を吸い込めない。氷漬けにされたみたい。冷たい。冷たい。犬みたいにあえぐ。景色が暗い。目線が低い。座り込んで、たぶん誰かに支えられている。それだけ。それだけしか分からない。苦しい。
「ミチル」
 声。声が。すがりつく気力もない。力の入らない身体を無理やり引っ張られる。口に何かが当たって空気が流れ込んでくる。冷たい、気がする。あたたかいかもしれない。何度も空気を送り込まれる、それは吸い込める。苦しいけど少し楽になる。
「落ち着け、ミチル。大丈夫だ。舞台は成功する」
 ばか、そんなこと心配してない。なんでこんなに鈍いんだろう。
 それよりも空気がほしい。肺がつぶれてしまったよう。晶。呼んだよ、応えて。
「ああ、ここにいる。私はここにいるよ」
 霧の中にいるような視界で、銀の影が揺れてる。埋まる視界。目を閉じる。力が入らなくて自然に開いた唇の間から、空気が流れ込んでくる。彼女の呼気が。
「ゆっくり。ゆっくり息をするんだ。過呼吸とは珍しいな。さすがのお前でも緊張したか?」
 的はずれなからかいに言い返すこともできなくて悔しい。そう思える程度には回復したみたい。背中を汗がつたって気持ち悪い。冷や汗って本当に出るんだ。
 晶にもたれかかりながら少しずつ息を吸って、吐く。もうあえぎはない。
……あと、どれくらい?」
「三十分といったところか。間に合わせろ」
「はは、スパルタ」
 でもそうだね、開演を遅らせるなんて選択肢はないもんね。
 灯さなければならない。蒼火のともしびを。
 たとえ足元は照らせなくても、それが使命だから。


「し、栞、見てはいけ……いや、いけないんでしょうか? あれは……ど、どういう……?」
 混乱を極めた独り言を続けるメイファンは放置して、やちよは無言で白金と蒼玉を見守っている。
 ミチルの呼吸が異様に早くなったことに最初に気づいたのは、先の会話のせいだろうか。未来ばかり見ている先輩が、足元の石で転ばないか気にしていたから。
 過呼吸を起こしたミチルに駆け寄ろうとしたやちよを止めた晶は、そのまま自分で対応し始めた。なるほど止めるはずである、あの方法は他の誰にもできはしない。
 酸素を取り込みすぎてしまう過呼吸に対処するには、二酸化炭素を送り込んでやれば良い。そのくらいの知識はやちよも持っていた。とはいえ、ビニールを口に当てるとか安静にするとか、そんな対応を聞きかじったことはあるが、口移しで二酸化炭素を送るなんてやり方は聞いたことがない。 
「妬けちゃう?」
 隣にいる栞に尋ねると、彼女は口元に手を当てながら呆然とした表情で答えた。
「いえ……それが、まったく……
「ま、だよねえ。あれは──ただのgod bless祝福だもん」
 衣装のせいではないだろうけれど。
 その光景はあまりにも神々しくて、恋でも愛でも、ましてや医療的措置ですらない。
 ただの……そう、ただの、息吹、である。
 神がそうするのなら、与えられるのは、いのちだ。


 鳴り止まない拍手の中、緞帳が余韻を持たせながら降りてくる。光を通さない重い布が彼我を分ける。舞台の上と下、中と外を。それは逆説的にステージとそれ以外が同じ世界につながったということである。
 ミチルは下げていた頭を上げてまっすぐに前を見た。目の前には重厚な刺繍がされた緞帳。割れんばかりの拍手。明るい天井。客席のざわめきには熱がこもっていて、開演前のそれとは大違いだ。
 ああ、終わった。
 ついに鳳ミチルはその言葉を使う。
 終わったのだ。すべて。
 もちろん明日からも学院に通って授業を受けて、気高き君エーデルの仕事もするしオファーがあれば客演や外での演劇も行うだろう。
 けれど、鳳ミチルだけは、もう終わったのだ。
 あのジャングルジムから、今、降りた。
「ミチル!」
 白金の君フラウ・プラティーンらしからぬ浮ついた声で呼んでくるものだから、思わず顔をしかめてしまった。いつもならそれで自分の過ちに気づいて軌道修正してくるくせに、今日はそんなもの知ったことではないという顔で近づいてくる。
「晶、おつか」
 れ、と最後まで言う前に思い切り抱きしめられて息が詰まる。苦しい。身長差を考えてほしい。顔が埋まるのだ。
「素晴らしかった! 素晴らしかったな! ありがとう、お前のおかげだ!」
「ちょっと落ち着いてよ。周りに他の子たちもいるんだから」
「かまうものか。私たちの悲願は果たされた。お前が叶えてくれたんだ」
……まったくもう」
 そんなにはしゃがれたら、こちらはかえって冷静になってしまう。ぽんぽんと晶の背中を叩いて力をゆるめさせる。
 晶の肩から顔を出し、長く長く、息を吐いた。たぶん九年分くらい。
「終演後の講話までには落ち着いてね。いきなりそんなテンションじゃみんなびっくりしちゃうよ」
 なんなら今もすでに裏方の生徒がチラチラとこちらを覗いている気配を感じる。絶対これ晶のイメージ変わっちゃうなあ、と内心ぼやいた。他の生徒にもこのテンションを出せるならともかく、そんな可能性は万に一つもないので、晶に憧れている生徒の期待を裏切る結果にしかならない。
 ミチルのそんな心配をよそに、晶は深く考えないまま軽く頷いた。
「分かっている、だが今は抑えきれないんだ。やはりお前は私の道標だ。いつだって私を導いてくれる」
「恥ずかしいなあ、そんなに褒めないでよ」
 ジャングルジムを降りてしまえば、鳳ミチルはただの人だ。
 ここまでだ。ここまでだったんだ。
 道標は、もうどこを指すこともできないのに、雪代晶はあまりにも純粋すぎて疑いもしない。
「本当のことだ。愛してるよミチル。お前がいないと私はどこにも行けないんだ」
「大げさだよ」
 ああ、そんな言葉はいらない。なにひとつほしくはない。
 そっと晶の背を抱き寄せ、見えないように鳳ミチルはひとつぶだけの涙を落とす。
 恋も愛も人生も。君が持っているものはなにひとついらない。
 けれどひとつだけ、ただひとつだけ。


 君。どうかその一生を終えるその時には、今日の日を思い出して。
 それだけが、私の心臓しるし