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黒竹
2022-05-30 22:13:54
11785文字
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スタリラ
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夢を見るよりおやすみ
【スタリラ】【晶栞】
生徒会室の最奥に置かれた専用の机は、いち生徒が使うにしては豪華だ。机だけではなく、椅子も調度も重厚で高級感がある。使い込まれてはいるものの、それも歴史を重ねた深みをかもし出している。
ペラリと、質の悪い紙が一枚、そんな威厳ある机の上に置かれた。目線を下げてそれに書かれた文章をななめ読みする。補修工事。範囲拡大のお知らせ。
「ずいぶんと急な話だな」
「ま、伝統あるシークフェルト音楽学院は、裏を返せば建物みんな古くて傷んでるって話だからね。中を見てみたら予想より修繕が必要な箇所が多かったみたい」
眉を上げて訝る雪代晶に、紙きれを差し出した鳳ミチルが肩をすくめながら答える。
『エリュシオン』の上演も無事に終わり、年も明けて寒のきびしさがつらくなってきたこの頃、天気は崩れがちで雨とも雪ともつかぬ重いベタ雪が続いた。そんな中、学院の生徒が暮らす寮で雨漏りが発生したのは一週間ほど前のことである。晶は生徒会長として速やかに学院への報告と補修工事の手配を依頼し、業者の調査が入ったのが二日後。修繕範囲にある部屋の生徒にはしばらく空けてもらわないといけないので、説明して他の部屋に移ってもらったり宿泊施設の用意をしたりと準備を整え、ようやく工事が始まったのが今日の朝からである。そしてやってきたこのお知らせだ。
工事が始まってから判明したのだが、事前に対象と聞かされていた部屋よりも補修範囲が広かったのだ。合計四部屋、さらに空けなければならなくなった。
晶がちらりと視線を移す。ミチルの背後に控えている面々、その中の一番小さな姿。どことなく申し訳なさそうに身体を縮こまらせて、胸の前で組んだ両手の指先を忙しなく遊ばせている。
「他の子たちは仲がいい子の部屋に泊まってもらったり、先生に預かってもらったりして問題ないんだけど。栞は
気高き君
エーデル
だからね。さすがに一般生徒のとこにお泊りってわけにもいかないよね」
「
……
すみません」
「別に栞が悪いわけじゃないよ、建物の中にあるひび割れなんて分かるわけないんだから」
ますます小さくなる栞に向き直って、とりなすようにミチルが言う。彼女の言葉通りだが、だからといって問題はなにも解決しない。
工事は三日間。その期間中、どこかに身を寄せる必要があるわけだが、ミチルが言うように一般生徒と寝食ともにするわけにもいかない。
気高き君
エーデル
といえば全校生徒の憧れであるが、その羨望はたやすく嫉妬を生む。栞を預かった生徒がその後どういう立場に置かれるか、想像に難くない。それ以前に
気高き君
エーデル
と枕を並べるプレッシャーに耐えられるかどうか。
「まあ、あたしらのうち誰かの部屋になるでしょうねえ」
代表して、というように鶴姫やちよが片手をあげて言うと、隣のリュウ・メイファンもうんうん頷いた。
「それが一番安心ですね。私たちは高等部なので、お友だちと少し離れてしまいますがいいですか、栞?」
「いえ、それはぜんぜん
……
。三日だけですし」
じゃあ問題ありませんね、とメイファンがさやかに笑った。それを受けてミチルも肩の力を抜く。
「じゃああとは誰の部屋にするかだね。このメンバーなら」
すい、とミチルの視線が動いた。順繰りに見回し、晶のところで一瞬止まる。
それからうん、とひとつ頷き。
「メイファンかな」
「メイファンですね〜」
「私しかいませんね」
「ちょっと待て」
思わず玉座から立ち上がる王様。全員の注目を集めながら晶は不満を隠そうともせず眉根を寄せる。
「どうしてメイファンなんだ」
「どうして、って」ミチルがどこか呆れたような表情を浮かべた。
「栞と仲がいいからだよ」
「ほら、メイファンって栞のお姉さん代わりみたいなところあるじゃないですかぁ」
やちよが援護射撃のようにミチルに続く。
「ご安心ください晶さん。栞のおはようからおやすみまでしっかりお世話させていただきますので!」
胸を叩きながら意気揚々と宣言するメイファンをうっかり睨みつけそうになり、咄嗟に視線を落とした。いかんいかん、冷静沈着に、私は
白金の君
フラウ・プラティーン
なのだから。
気を取り直すために咳払いをひとつ。無意識に腕を組み、ミチルと正面から対峙する。
「なぜ私ではないんだ」
「あのねえ」
ミチルはこれ以上ないほど呆れていると半眼から送る眼差しで語り、自身のこめかみを人差し指で押さえながら口を開いた。
「いい?
気高き君
エーデル
は全校生徒の模範であり規範なの。清廉潔白、高潔無比、いかなる時も生徒たちの手本たれと言われ続けている選ばれし五人なの」
「当たり前だろう。なんだ今さら」
釈迦に説法だと言わんばかりに上から応じる晶。その態度にミチルは大剣を持っていたら横っ面をぶん殴って氷漬けにしそうな笑顔になった。親友のなかなか見たことのない表情に、さすがの雪代晶もひるむ。
「晶」
「な、なんだ」
「晶は
白金の君
フラウ・プラティーン
なんだよ?」
笑顔のまま鳳ミチルは言う。それは釘であり、楔である。
晶はなにごとか言おうとして口を開いたが、結局、言葉にできるものを見つけ出せなくてそのまま閉じた。
鳳ミチルは雪代晶に一切の瑕疵を認めないし、それはおそらく友情とは違う話だ。
深い深い闇を覗くような親友の笑顔に耐えきれず、片手を上げて視線を遮る。
「
……
分かっている。分かっているとも」
彼女にしてみれば今のこれだって晶の不手際なのだろう。しかしどれだけ失態を重ねても彼女が己を見限りはしないと、信じられてしまうのがつらいところだ。
二人きりになったタイミングでまたどやされるのだろうなと陰鬱な気分になりながら、ため息をついて観念する。
「私やミチルでは栞も気疲れするだろうからな。ではメイファン、よろしく頼んだぞ」
「おまかせください!」
「あはは、楽しそうだね〜。メイファン、あたしもお邪魔していい? お泊り会しよ〜」
割って入ってきたやちよを受け止めながらメイファンは爽快に笑った。
「もちろんですよ、ね、栞?」
話の中心にいるはずなのにどこか蚊帳の外だった栞は、急に水を向けられて驚いたのか、「ひゃっ」と小さく悲鳴を上げた。顔が赤い。そんなにびっくりしたのかな、とメイファンが首をかしげる。
「は、はい、もちろんです。メイファン先輩、やちよ先輩、ご面倒をおかけしますがよろしくお願いします」
礼儀正しくお辞儀をする栞に、先輩ふたりはそろって首を振った。
「お世話といっても部屋を貸すだけですからね。気にしなくていいですよ」
「ボードゲーム持っていくね〜。ミチル先輩相手だとぜんぜん勝てなくてつまんないけど、このメンツならいい勝負になりそう」
三人ともほわほわしていてお花畑にいるようである。実に可愛らしい。この結束があれば来年度の
気高き君
エーデル
は安泰だ。
輪に入れない雪代晶は「いやあ、実に感慨深いな」と天才らしからぬ棒読みでひとりごち、そっと窓の外を眺めた。
初日に「川の字で寝ましょう!」と声高らかに提案したメイファンだったが、シングルベッドに三人で寝ることの難しさに早々にくじけた。
二日目は、せめて栞だけはとベッドに引き入れ、やちよはベッドの横に敷いた布団で眠った。「実質的に川の字です」とはメイファンの談。寝相が良いというべきか、メイファンは朝目覚めるまで栞の腰を捕まえて離さず、おかげで栞は深く眠れなくて授業中に何度もあくびを噛み殺した。
そして三日目の今日、さっきまで遊んでいたオセロを片付けながら、メイファンはニコニコしながら栞に目を向けた。視線に捕まった栞はそっとそれから逃れようと目をそらす。
「栞、今日も並んで寝ましょうね。いやあ、昨日は懐かしかったです。故郷の妹もあんなふうに寝かしつけていたんですよ」
「却下」
「なんですかやちよ。どうして却下なんです?」
思わぬところから手を打たれてメイファンが怪訝な顔をする。「あのねえ」やちよはかばうように栞を引き寄せ、まっすぐすぎる同級生を手のひらで制した。逆の手で頭を撫でられて栞はすこしくすぐったい。
「栞の性格考えなさい。先輩にひっつかれてぐっすり寝れるわけないでしょ? ほら、見てよこの隈」
やちよが栞の目元を指し示した。メイファンがまじまじとこちらを見てくる。
「
……
? 私には見えませんが」
「メイファンは適当だから分かんないんだって。これは明日まで残ると大変だよ〜?」
「そ、それは困ります」
にわかにメイファンが慌てだした。可愛い後輩の健康を害したなんてことになったら自分で自分を許せない、そう思っているのがありありと伝わる表情だった。ただ、栞は自分のことなのでよく分かるが、確実に隈はできていない。そこまでひどい不眠ではなかった。
たぶん、やちよは栞が困っているのに気づいて助け船を出してくれたのだろう。まったく眠れないわけではないけれど、いつもより寝苦しいことは確かなのだ。二日連続は可哀想だと思ったのかもしれない。
ふわふわと頭を撫でながら、やちよはさらに説得を続ける。
「うちらが面倒見てる間に栞が調子崩したら、ミチルセンパイなんて言うかな〜? 晶センパイも怒るだろうな〜?」
「うう
……
、わ、私は栞が寒いだろうから少しでも暖めようと」
「人間、寝返りを打てないとすぐに姿勢が歪むんだよねえ。演技にも影響出るかもしれませんね〜」
説得というか脅迫だった。
紅玉が示す熱血が裏目に出たか。追い詰められてがっくり肩を落とす。
「そうですね、私のわがままに栞を付き合わせるのはよくありません。今日はのびのび寝てもらいましょう」
「うんうん。ま、メイファンとはあたしが寝てあげるから」
メイファンがわりと本気で嫌そうな気配を発した。顔に出さなかっただけ偉い。
敏感に気配を察知したやちよが、栞を捕まえたまま唇を尖らせる。「なぁに、あたしじゃ不満なわけ?」
斜め上から降ってきたその声の調子に、栞がおやと首をかしげた。なんとなく、あのいつもの飄々とした調子とはほんの少し違う気がしたのだ。どこがどう、とまでは言えないけれど、髪の毛が一本、頬に触れた時くらいの違和感。
「嫌というか
……
やちよが隣で眠っているところを想像すると、なんとなく落ち着きません」
メイファンも戸惑っているように視線をさまよわせている。またしても、栞がおやと首をかしげた。
やちよのほうを窺おうとしたら、頭をなでていた手が絶妙に押さえ込んできていて叶わなかった。
「なんでしょう、寝首をかかれそうな気がします」
「ちょっとぉ、失礼じゃない?」
一瞬でやちよの気配がなごんで、栞は不可解ながらもちょっと安心した。
「犯人バレバレな状況で寝首をかいたりしませんて」
「バレない状況ならするんですか!」
「さて、どうでしょう?」
「っ、や、やっぱりやちよは油断なりません! 栞、そこは危険です、こっちに来てください。そっと、やちよを刺激しないように
……
!」
「あたしは猛獣か」
くだらないやり取りは仲が良い証拠か。先輩たちに振り回されがちな夢大路栞は、なにかをごまかすように空虚な笑いを浮かべた。
結局、メイファンはやちよで妥協したようで、昨日よりずっと念入りに布団を整えて栞を寝かしつけてきた。明かりが消えてからも高い位置から先輩たちの会話が聞こえてくる。狭いとか隙間風が寒いとかメイファンがぶつぶつ言うのに、やちよが軽い口調でいなしているようだった。
「も〜、いい加減寝なよ。明日も学校なんだから」
ややうんざり口調でやちよが言う。
「分かっていますが、なんだか今日は寝つきが悪いんです」
「いいから、目つぶって口も閉じて。そのうち寝れるでしょ」
「むう
……
」
「ほらほら、眠れないならお姉さんが手をつないであげる」
「同い年ですよ。しかも誕生日でいえば私のほうがお姉さんです」
メイファンの言葉をやちよは無視した。それきり、二人に会話はなくなる。栞は何度か寝返りを打った。別に昨日できなかった分を取り返そうと思ったわけではないけれど。
夜はずいぶん静かだった。
ひんやりと空気が透き通って、月の輪郭がはっきりしている。鋭角的な夜だ。下手に触ると指を切りそうな夜だった。慣れない景色に意識が浮上する。勝てなかったオセロ。月光がカーテンの隙間から入り込んでいる。一振りの槍にも似た直線が栞の腕一本分先を照らしている。
冷たくて、堅くて、高潔な光。
丸い白と黒。穴のような。
耳が熱くなってきて目を閉じた。こんなことからまで連想するなんて。
上方から衣擦れの音が聞こえた。
「栞」
夜を破らないほど小さな呼び声。その声はひどく優しい。
「は、はい」
「メイファンはもう寝たみたいよ。晶センパイのとこ行きたいなら今のうちだよ?」
「
…………
」
この先輩は、勘が良すぎて時々困る。
「もう遅いですし、お休みになっているのでは。突然お邪魔したらご迷惑でしょうし
……
」
「行ってあげたほうが晶センパイの精神衛生上いいと思うけどね〜。ちなみにあの人まだ起きてると思うよ。
気高き君
エーデル
の引き継ぎが近づいて忙しいから」
「あ‥
…
そうですね。もう、そんな時期
……
」
そうだった。春が来ればあの人たちは
気高き君
エーデル
ではなくなるのだ。
最後の大舞台をともに飾れたことは誇りに思うし、ひとかけらの後悔もない。
けれど、今の生徒会室に満ちているあの空気。この五人で作り上げた気配は、春には消えて新しいものになってしまう。
それは。さみしい。
いつも最奥にいるあの人は、ドアを開けると必ず顔を上げてこちらを見てくる。それから入ってきたのが栞だと認識すると、少しだけ、ほんの少しだけ、口元がゆるむのだ。
そういうのが大事だった。
逡巡してから、もぞもぞと毛布を抜け出す。
「じゃ、あたしも寝るから。おやすみ〜」
「
……
おやすみなさい」
小声でかわしあい、そっと部屋を出る。
残された鶴姫やちよは「やれやれ」と息をついて、手のかかる後輩を思って柔らかく笑った。
「さて、と。これはどうしましょうかね
……
」
腰のあたりに回された腕をぺちぺち叩く。
「あたしは君の妹じゃないですよー」
言ったところで熟睡しているメイファンに届くはずもなく、栞に話しかけるために身体を返したタイミングで滑り込んできた両腕は抜群の安定感でやちよを捕らえている。
眠りたいのだが、邪魔すぎて眠れない。寝ぼけないでほしい。
「
……
明日、あたしの目に隈ができたら、センパイたちに怒られてもらいましょうかね」
まあ徹夜は慣れっこなのだけれど。
まったく離してくれる気配がないので、鶴姫やちよは仕方なくリュウ・メイファンとくっついたまま目を閉じた。
ドアを開けた晶の表情は無だった。感情表現に乏しいのは彼女の常だが、それにしても何もなさすぎた。おかげで混乱ぶりが手にとるように分かってしまって、栞はいたたまれなくて逃げ出したくなる。
気まずさのせいで長く感じていたが実際には一瞬と言っていい時間だった。我に返った晶が栞の腕を掴んで引き入れる。
ドアを閉じて小さく息をつく。それから、どこか焦燥感の見える表情で栞に向き直った。
「何をしている。消灯時間はとうに過ぎているぞ」
いくぶんか咎めるような口調。初っ端からこれである。さすがに怒っていいかな、と自問する。
「あ
……
」
「あ?」
「会いたかった、ので」
王様の感情がゆらぐ。喜んでいるのではない。不思議がっている顔だ。「明日も生徒会室で顔を合わせるのに?」という純粋な疑問。思わず口元に手を当てて考え込む。お姉ちゃん苦労しただろうな。プライドが高いわりに世話好きで、空気を読むのに長けていて、相手が望むと望まざるとに関わらず手助けが必要な相手を放っておけない自身の姉に思いを馳せた。
晶の夜着の袖を掴むけれど引っ張る勇気はない。
「あの
……
名前を呼んでもらえませんか?」
「うん?」
訝しげに目を開く晶を斜めに見る。見られたほうは透徹した眼差しでまっすぐに見返してきた。陰りのない澄んだ視線は清廉で、だから、夢大路栞は困る。
「栞?」
「はい」
呼び声に応えると、一瞬晶の動きが止まった。
明後日の方向を見やって低く唸る。
「あー
……
うん、そうか。そういうことか」
引っ張れない袖と、呼んでほしい名前。
晶がやや気まずそうな、照れくさそうな顔で咳払いする。
ふわりと手のひらが髪を包む。やちよにされたのとはまったく違う意味の撫で方だった。柔らかく頭を撫でられて、それからそっと引き寄せられる。少し屈んだ晶は猫背気味になって、そこに生まれた曲線にぴたりとはまる。背に回った両手は栞を包むのではなくお互いに組まれている。引け目なのかもしれなかった。
栞からは見えないけれど、彼女は弱りきった表情で深く息を吐いた。
「十二月はエリュシオンの本番があったし、年明けからはトラブルが多くてな。なかなか、お前とゆっくり話す時間もなかったか」
「すみません。雪代先輩がお忙しいのは知っているんですけど」
「謝ることはない」
会話もあったし顔も合わせていたけれど、それは概ね
白金の君
フラウ・プラティーン
と
翡翠の君
フラウ・ヤーデ
としてであって、ここ数ヶ月、
そういう
﹅﹅﹅﹅
声で呼んでくれることがなかった。それについて寂しいと訴えるには夢大路栞は聡明に過ぎたし、表情の意味を読み取るには雪代晶は鈍感すぎた。
「去年のうちは、エリュシオンが無事に終わるまではと意図してそうしていた部分もあったが」
「え、そうなんですか?」
「ああ、エリュシオンに臨む時はあの戯曲のことだけ考えていたい。あれは、私とミチルの悲願だったからな」
それ以外はすべて余計だと言ったに等しいが、そこに軋轢は生まれない。夢大路栞もまた舞台少女である。
怒るどころか、情けなく眉を下げてため息をつき、
「そういう大事なことは教えてください
……
」
「言ったほうが良かったか」
かまってくれなくて寂しいなどと子どもっぽい拗ね方をしていた己を恥じる栞に、晶は相変わらず鈍い反応。
なだめる手のひらが優しくて、栞はますます自己嫌悪する。そろそろ許された気がしたので彼女の腰に腕を回してぎゅっと抱きついた。どきどきする。舞台の上なら何をしても、何をされても平気なのに。
いつも髪飾りをつけているあたりに彼女の頬が触れて、それだけで鼓動がうるさい。
「
……
少し、不安でした」
「すまない」
「あんまりお話できなかったですし、あれきり、
……
してもらえませんし
……
」
ホッとしたせいで油断しすぎた。口にしてから何を言っているんだと狼狽する。いやもう確かにそうなのだけれど今このタイミングで言うことだろうかむしろ今しか言えないから出てしまったのかもしれないし実は自分で思っていたより気にしていたのかもでもだからって。
咄嗟に腕を解いて晶から離れる。耳どころか首まで全部熱い。なんだかちょっと泣きそうだ。
「な、なんでもないです! お話もできたし、そろそろ帰りますね!」
「待て待て待て」
回れ右をしてドアへ向かおうとしたら背後から抱きすくめられた。「いくら私でも、ここでおとなしく帰せるほど鈍くはないぞ」物憂げに告げてくる声が近い。振りほどけない。そんなことができるわけがないのだ。かすかな嘆息が首筋にかかる。これほど近づいたのはいつぶりだろう。舞台の上で嗅ぐ匂いはひとつもない。彼女の匂いしかしない。それから、手のひらの、慕わしさ。
「悪かった。けして、お前のことがどうでも良くなったわけではない。そばに置いておきたい気持ちは変わっていないんだ」
それと。晶は栞を解放してから自身の人差し指を唇に当てる。
「静かに。もう夜更けだ」
あまりにも空気を読めていない
白金の君
フラウ・プラティーン
の登場だったので、かえって栞は冷静さを取り戻した。こっそり深呼吸する。
「はい」
「このまま立ち話もなんだ。悪いが、テーブルが今ちらかっていてな。不作法は承知だがベッドを使ってくれ」
言われて視線をテーブルに移すと、大量の書類と資料、報告書が全面に積み重なっていた。「これは
……
?」「未処理の陳述書と作りかけだった企画書、引き継ぎ資料と推薦文の草稿だな」今日だけの分ではないのだろう、資料のカテゴリはバラバラで一部はテーブルに乗り切らず床に置かれていて、ちらりと見えた書類の日付は三日前のものだった。やちよが言っていたのはこのことか。
「推薦文
……
」
「まあ、ほとんど形骸化しているようなものだがな。次の
白金の君
フラウ・プラティーン
を推挙するにあたって学院へ提出せねばならんのだよ」
晶がさりげなく原稿を裏返しにする。誰を推すのか知られたくないのだろう。栞もあえて近づこうとはしない。
ベッドに並んで腰かけ、どちらもふっと息をつく。夢大路栞はくっついてもいいのかな、と悩んでいる。雪代晶は感情を表情に乗せない。
「雪代先輩、もうすぐ
白金の君
フラウ・プラティーン
じゃなくなっちゃうんですね」
「ああ、それが伝統というものだ。次代へつないで初めて職務を全うできる」
「そう
……
そうですけど」
晶が苦笑のように吐息を洩らす。
「そんなに嫌がるものでもないぞ。特にお前はな」
「え?」
意味が分からず小首をひねる栞に、相変わらずの鉄面皮で向き合う。それから、ほんのり気配に不満を乗せた。
「私は
白金の君
フラウ・プラティーン
だからなあ」
彼女は折りに触れそう言う。それは時に自信であり、時に責任であり、時に戒めだった。
今のこれは、なんというのだろう、アトラクションの身長制限に引っかかった聞き分けの良い子どもみたいな感じの声だった。
「清廉潔白であれ、高潔無比であれ。
気高き君
エーデル
はそう求められ、
白金の君
わたし
はその象徴なのだよ。全校生徒の模範となり、最高の戯曲『エリュシオン』にすべてを捧げる舞台少女の、な」
「はい、知ってます、けど
……
」
「つまり」
いよいよ晶はつまらなそうな顔になって、栞の頬をつまんでうにうに揉んだ。
「ひとりだけを特別扱いするような真似は御法度ということだ」
公明正大であることが
白金の君
フラウ・プラティーン
の証なのなら。
彼女は
……
彼女たちは、それを成そうとするだろう。
頬をつまむ指がギリギリの発露であると気づかないまま、栞はなんだか照れくさいなあと思いつつされるがままになっている。
「そういうことでしたか
……
」
「そういうことなのだよ」
晶が王でなくなるのは寂しい。けれど、彼女が王でいる間はつまり、彼女は王として振る舞わなければならないということで。
頬を解放されて身が軽くなる。
その寂しさ。
「ついでに言えば引き継いでからも学院にはいるし、引退したからといって周囲の見る目は変わりはしない。それに、お前も
気高き君
エーデル
だからな。しかも再来年の
白金の君
フラウ・プラティーン
最有力候補だ」
「え?」
それは。つまり。
晶はようやく分かったか、という顔で口の端を上げる。
「我々が自由になるのは、お前が学院を卒業してからだろうな」
栞は絶望的な気分になる。
「さ
……
三年以上もありますけど
……
」
「そうだな」
三年。まだ中等部の栞にとっては永遠にも思える長さだ。
色々と嫌な想像をしてしまって泣きそうになる。だって一年と少ししたら、彼女はもうこの学院からいなくなってしまうのだ。四月になれば高等部へ上がれて、やっと同じ場所に並べるのに。いつまで経っても追いつけない。
「楽しみだな」
「え?」
「お前が学院を卒業する頃、どんなふうに成長しているのか、今から楽しみだよ」
ああ、この人は。
疑わないのだ。
たぶんそれは彼女の道標のおかげで、けれど自分たちに道標はない。
それなのに迷わないのか。
それ、は、
「わっ、私っ、がんばりますね!」
語調は強く、しかしさっき怒られたので声量は抑えて言い放つ。「う、うむ」勢いに気圧されたか晶はやや引き気味に頷いた。
幼い恋は、子猫が体温を保つためにあたたかいものを探す頼りなさに似ている。
本能でくっついて、あたたかさに安心して、寂しくなれば鳴いて。
ずっとそうしていられるわけもないのだけれど、今はそういう夢大路栞の恋だった。
両手で拳を作り、固く決意する栞。何をがんばるのか具体的には浮かんでいないけれど。まずは
気高き君
エーデル
の名に恥じない生活を心がけよう。演技も磨いて、みんなの憧れになれるように。
思考に集中していたら、不意に景色が暗くなった。
綿菓子よりさらに淡い感触だった。それでも、気のせいだとは絶対に思えない。なにせ眼前にきれいな顔があるし。
「
……
すまん、可愛かったので、つい」
至近距離で囁かれる。可愛いものとの距離のとり方がまったく分からない雪代晶の性質を知らない夢大路栞は、突然の事態についていけない。
清廉潔白、高潔無比がどうこう言っていた同じ口で。
「な
……
なんでいつもいきなりなんですか
……
」
やっとのことでそれだけ抵抗する。いやいつもと言っても二度目だけれど。
晶はどことなくしゅんとしながらこちらを覗き込んでいる。
「あー
……
キスをしても?」
「待ってください聞かれても恥ずかしいです。どうしたらいいんでしょう
……
」
「とりあえず、目を閉じてもらえると助かる」
思わず反射的にまぶたを下ろした。
ふわりとした、しかし先程よりしっかりした感触。皮膚接触という意味では頬をつままれるのと違いはないはずなのに、鼓動の激しさは段違いだ。
離れてから晶が言い訳じみた口調で呟く。
「この部屋には他にミチルしか入らないし、ミチルはもう眠っている。だから今は
……
白金の君
フラウ・プラティーン
でなくなっても咎められはしないと思う」
「は、はい」
「お前も今は
翡翠の君
フラウ・ヤーデ
ではなく、私の栞ということだぞ」
「
…………
」
最近分かってきたのだけれど、この人は時々こういうことを言う。
無自覚ってこわい。
「栞」
「はい」
純粋無垢な王様は、王冠を脱いでも性質が変わるわけではない。
ただ大事にする対象が変わるだけだ。
それがこわいところでもあるのだけれど。
しかし、夢大路栞もまた、こう見えて騎士なのである。
ぬかるむような甘い声で呼ばれても、首筋にかじりついてみせるくらいの強さは持っている。
額と、まぶたと、こめかみに唇が落ちてきて、そのどれもが甘くて溶けそうだった。
唇をふさがれてくらくらする。呼吸をする方法を忘れてしまったみたいだ。「甘いな」笑声混じりのそれは独り言だったのだろうか。
ああ、甘いのは、こちらか。
「どうしましょう、雪代先輩はからいものが好きなのに」
「甘いのも嫌いではないよ。だがそうだな、ひとつあれば充分ではある」
三年後を楽しみに。
耳元で囁かれた言葉は、そこからどんなふうに続くのか栞には分からなかった。
「あ」
いろんなところにキスをされてふにゃふにゃになっていたら(少し手加減してほしい)、ふと晶が腕の力を緩めた。どうしたのかと目線を上げる。ややきまり悪そうな顔がそこにあった。
「いや、明日が期限の仕事がひとつあったな、と」
思い出してしまったら知らないふりはできない。王冠が頭上に戻される。
「眠かったら寝ていい。それともメイファンの部屋に戻るか?」
「いえ、待ってます」
無意味に自分でうなじのあたりを撫でながら、仕事に戻る晶の背中を眺める。
椅子についた彼女を斜めから観察する形になり、いつもと違う角度から真剣な表情が見られて得した気分だ。
かっこいい。心の中で呟いた。敬愛する完璧な
白金の君
フラウ・プラティーン
。
夢大路栞は好きな人がふたりいるような、奇妙な感覚を味わう。
その横顔を見つめながら、いつの間にか身体がかたむいていって、視界が狭くなっていく。
書類をまとめあげて一息つく。時刻を確認したら、手をつけてから一時間が経過していた。振り向いてベッドを見れば、中途半端な角度で栞が倒れ込んでいる。まあ、もうこんな時間だしな。内心でひとりごち、晶はたたんでおいた足元の毛布を栞にかけてやった。
軽く頬を撫でる。ふにふにしていて赤ん坊のようである。まだ幼さが見える横顔を視界に収め、晶は小さく肩をすくめる。
未来の話は、ふわふわと定まらず夢のようだ。
そんなものに縛られても仕方ない。
「今は、ただ日々を楽しもうか」
朝が来て、昼をすごして、夜になれば眠って。
それは定まらない夢を見るよりずっと大事なことだ。
子猫のように眠る栞を見ながら可愛いなと笑って、雪代晶は静かにその髪へ口付けた。
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