黒竹
2022-05-30 22:12:13
10676文字
Public スタリラ
 

天の秘密 風の綾

【スタリラ】【晶栞】
「黄金の地平 銀の地図」後日談。

 その一瞬、周囲の視線が自分に集まるのが分かった。
 無理もない。壇上で全校生徒を前に立つあの人が告げた言葉、断罪。その刃を振り下ろされた本人はおらず、代わりに(そう、皮肉なことに言葉通り『代わり』に)、彼女の血を分けた妹が近くにいたものだから。思いがけず目を向けてしまっても仕方がない。
 一瞬だけの視線を、夢大路栞は感じてはいたが気にはしなかった。そんな暇はなかった。
 相応しくないと言った壇上の白金の君フラウ・プラティーン。彼女から目を離せない。
 それは怒りのようであり、別のなにかのようでもあったが、たしかにその感情は栞の心に杭を打った。
 成らねばならない。
 他の誰でもなく、己がその称号を得ねばならない。
 理解しないまま夢大路栞は魂で感じ取る。
 夢大路栞が翡翠の君フラウ・ヤーデにならなければ。
 そうしなければ、あの人は。


 廊下から聞こえていた笑い声が不意に静まった。まだ消灯前だし大騒ぎというほどでもない、ティーンエイジャー特有の甲高い、しかし品性は失っていない生徒の声。栞は部屋でコレクションの紅茶を整頓しながらその声を聞いていたが、前触れなしに無音になったので不思議に思って顔を上げた。そのタイミングでドアがノックされる。誰だろう。「はい」と答えながら立ち上がる。
「私だ。少しいいか」
 ドア越しに届けられた声に、気持ち数センチ飛び上がった。理解する、突然静かになった寮生たち。無理もない。誰だってあの人が通りがかったら口を閉じ足を揃え背を伸ばす。静粛に、静粛に。そして優雅に礼をして言うのだ、ごきげんよう、親愛なる白金の君フラウ・プラティーン
 跳ねた心臓をそのままに室内を見回す。なにかあったのだろうか? 明日、生徒会室で話すのでは済まないような重大事が? まさかまたぞろ気高き君エーデルの誰かが出奔したなどということはあるまい。それとも事故か。あああの優しい先輩たちの笑顔が曇るようなことが起こっていませんように。
…………
 分かっている、現実逃避だ。悪い予想ばかり立ててドアを開けることをためらう自分へ言い訳をしているのだ。
 だって恥ずかしい。
 ほんの数時間前にあんなことになって、冷静に顔を合わせられるわけがない。
「栞?」
 ためらっていたらうっすらと不安そうな呼び声がドアをすり抜けてきて、慌ててノブを回す。開いたドアの隙間から見えた顔は相変わらず神話みたいに美しかったが、わずかばかり、ほころびのある目をしていた。
 それは多分、己が斬った傷口だ。
「突然すまない。少し、時間をもらえるだろうか」
 その言いぐさも彼女らしくない。開口一番に出てくるのが謝罪だなんて。王が臣下に許しを請うなんて。
 ああ、だから、違うのだ。
 今は。
 人生という舞台を演じ続けてきた人の、一瞬の暗転が、今だ。
「どうしたんですか、雪代先輩?」
「いや……
 口ごもり、喉の奥に何か詰まったような様子で手のひらを当て、それから不機嫌そうにも見える眼差しを落としてきた。それもまた、ほころびている。
「特に用があるわけではないのだが……お前と話をしたくてな」
 嘘ではないが本心はもう少し違う、という口調。「そ、そうですか、はい、どうぞ」うまく受け止められなくて、もだもだしながらドアを大きく開く。耳が熱い。触れられた耳が。
 ついさっきのことのようで、逆に遠い昔の話にも思える。
 お前が必要だと言われた時の、あの声。
 言葉だけなら何度も受けていたものだ。エリュシオンのため、シークフェルト音楽学院のため、お前が必要だと。
 いつもならそれでおしまいのはずだった。当たり前だ、それは下命である。王から賜り叶えるだけの一方通行で、その先には王が進む道しかないはずだった。
 それで充分なはずだった。それ以上の望みはないはずだった。そう言い聞かせていたのに。
 斬ってしまったから。
 あろうことか敬愛する白金の君フラウ・プラティーンを、その完璧な鎧を、一刀両断してしまったから。
 傷口から流れたのは。
 だからあの時、夢大路栞は涙を流した。
 だから今、ほころびを消せないまま雪代晶は夢大路栞に会いにきた。
 微妙な緊張感を漂わせつつ斜向いに腰を下ろす。真正面では強すぎるし、隣同士では耐えられない。色々と。
…………
…………
 気まずい。
 なにか話題をと思っても焦って思考は空回りするばかりで、浮かぶ景色は白一色で、いつかの雨宿りの再演かと思うような体たらくである。
 そもそも、中等部と高等部で教室も離れているし、顔を合わせる機会は生徒会の仕事と舞台の稽古が大半を占めており、仕事中は仕事の話が主だし稽古の時はもちろん演技について話し合うことがほとんどだ。メイファンとなら世間話もするのだが、晶と膝つき合わせて話し込んだ経験など皆無なのである。
「お、お茶でも入れましょうか?」
「いや、気を遣わなくていい」
 手のひらで制され、浮かせかけた腰をすとんと落とす。ここに鳳ミチルがいないのが悔やまれる。彼女なら間髪入れずに「三流!」と怒鳴ってくれただろうに。
 晶が両手を組み、そこに額をつけてため息をついた。めちゃくちゃ落ち込んでいる。
「すまない。顔を見たらすぐに帰ろうと思っていたのだが」
「い、いえ」
 苦悶の表情で額を押さえつつ、晶はゆっくりと眼差しを交わしてきた。わずかに稚気を含んだ眼差し。紙ふうせんのように栞の鼻先に当たったそれが、ふわふわ流れて、消えた。
……風邪は、もういいのか」
 ひねりにひねって絞り出した、というふうに晶が言う。もう何日も前の話だし、治っていることなどとうに知っているだろうに。
 それでも栞は真面目にうなずいた。
「はい、もうすっかり」
「そうか。ならばいい。あまり無理をしないようにな」
……はい。以前のように雪代先輩に失望されることがないよう気をつけます」
 いつかの失敗を思い出して肩を落とす。その様子に晶が訝しげに眉を上げた。
「私は失望などしていないが」
「し、してました」
「なんのことだ」
「だって、邪魔だから寝ていろって」
 熱があるのは分かっていたがその日の内に片付けたい仕事があって、それに、少しでもそばにいたくて。
 そうしたら、怒ったような顔で言われたのだ。
 晶は顎に手を当てながらまっすぐに栞を見つめている。
「邪魔だとは言っていない。気が散るから寝ていろと言ったんだ」
「同じことだと思いますけど……
「違う。見るからに具合の悪そうな様子でフラフラされたら気になって仕事が手につかないだろう。だから」
 あれ? 俯いていた栞の瞳がまろみを帯びる。
 もしかしてあの表情は、怒っていたのではなくて。
 恐る恐る顔を上げる。
「し、心配してくれていたんですか……?」
「当たり前だろう。それなのにお前ときたら、保健室には行きたがらないし休もうともしない。まあ……少し口調が荒くなってしまったのは、すまなかった」
「いえ……てっきり呆れられているのかと……。帰る時もなにも仰られませんでしたし……
 「それは」なみなみと水の注がれたコップを運ぶ子供を見る目で、晶は栞を一瞥し、それからふいと顔を背けて短く瞑目した。
「下手に声をかけて引き止めるより、早く帰らせたほうがいいと思った」
 なんてことだろう、蓋を開けてみればなんのことはない独り相撲だった。やちよに慰めてもらう資格などない。栞は自己嫌悪に深くうつむき、晶の視線から逃れた。
「なるほど」
 晶が腕を組み、細く息を吐く。
「我々は、越えねばならん課題が色々とあるようだな」
「そう、みたいです……
 もうひとつ、雪代晶にほころびができる。口元に。
 それは晶自身が気づかないせいで行くあてもなくふわりとその場に漂っていた。
「そういうことならひとつ、お前に聞きたいことがある」
「なんでしょうか?」
「昼間の問いの答えを、まだもらっていない」
 言われた内容を噛み砕けなくて栞は小さく首をかしげた。何か聞かれていたっけ。
 昼間のことは、思い出すのが難しい。記憶力の問題ではなくて。覚えているから。覚えすぎているから。
 苦労しながら順繰りに記憶をたどって、最後の最後、もらえないはずの言葉を記憶から引き出す。
「え、ええっ? 言うんですか、それ!?」
「私は言ったぞ」
「だっ、だってそんな、雪代先輩は」
 私があなたを好きだって分かってて言ったじゃないですか。
 ぎゅっと喉が締まって音にならず、後ろはただ口をパクパクさせただけだった。言外にこぼれた声を、晶がひょいと拾い上げる。こんな時に王の技能を使わないでほしい。相手の機微を読むのは舞台の上だけにしてもらいたい。
 そんな目をするのは、ずるい。
「聞かせてくれないか」
 それは懇願のような命令だ。
 どれだけ迷ったところで逆らえはしない。
 覚悟を決める。それでも顔は上げられずうつむいたままだ。
…………
「ん?」
…………そばに、いたいです」
「それから?」
 ひどい。無茶ぶりにもほどがある。マントを脱いだ王様はずいぶんと意地が悪い。まるで神の祝福によってこの身は滅びることなどないと信じているように。王の舞台に神などいないくせに。
 剣で斬られた意趣返しのようで、その実、おそらく何も考えていない。無垢なのだ。もしかしたら、激情を孕む己よりずっと。
 雪のように、氷のように純粋な彼女。
 その純粋無垢を、愛しいと思うのは本当だけれど。
 斜向かいから腕が延びてきて、そっと頬を撫でられた。声はない。それは意図的だ。静かに、あなたの声がよく聞こえるように。
 頬に添えられた手を、ほのかに包む。
「──ここに、いてくださいね。私が雪代先輩を守りますから」
 それは彼女にとって少し意外な言葉だったようで、わずかに目を瞠り、指先を震わせた。
 なんだかおかしくなって栞は小さく笑う。どうしてそんな顔をするんだろう。当たり前のことなのに。
 王は臣下に守られるもので。
 だから私は翡翠の君フラウ・ヤーデになったのに。
 晶はふむ、とひとつ唸り、しかしいつもよりは多少気楽そうに目を細めた。栞の物言いが面白かったのかもしれない。
「私はそんなに頼りないか」
「いいえ、そういう意味じゃないんです。白金の君フラウ・プラティーンのことは心から尊敬していますし、舞台の真ん中に相応しいかただと思っています」
 冷たい季節の名前を持つ彼女は、本当に、透き通って、それでいて真っ白で。
 けれど、だからこそ。
「ならばお前は、なにから私を守ると言うんだ」
 苦笑のように口元を緩めて、まるでわがままな子どもをなだめるような口調。そんなことをしなくてもいい、君はまだ未熟なのだから。そういう表情。
 それは純粋な傲慢だ。
 ああ、けれど。
 けれどあなたの身体には、もう切り裂かれた傷が開いているのです。
……雪代先輩。ひとつ、お願いがあります」
「うん?」
 夢大路栞の喉が動く。緊張のせいだ。
 裏切りというなら裏切りなのだろう。謀反と言ってもいい。翡翠の君フラウ・ヤーデから白金の君フラウ・プラティーンへ、傷口にねじ込む反逆の刃。
「姉を気高き君エーデルに相応しくなかったと言ったこと、取り消してもらえませんか」
 緩んでいた晶の口元が瞬時に引き結ばれた。眼差しから温度が消え、呼吸がひとつ分止まる。
 少し、悲しそうにも見えた。
「それはできない」
「どうしてもですか」
「ああ、どうしてもだ。いくらお前の頼みでも、それは叶えられない」
 私は、白金の君フラウ・プラティーンなのだから。
 冷たくて硬い視線。それはプラチナである。
 分かっていたことだ。彼女がそう答えると分かっていて、栞はその願いを口にした。
 晶は触れていた手を離すと背もたれに深くもたれ、湿度のない目で栞を見据える。
「私が、道半ばで出奔した夢大路文を許すということは、これまでの白金の君フラウ・プラティーン全員を否定することになる。今日こんにちまで連綿と受け継がれてきたエリュシオンを、伝統を閉ざそうとした者を、私が許すわけにはいかない。そんなことをしたら……それこそ、白金の君フラウ・プラティーンの座を、下りねばなるまい」
 王座とは、そういうものだ。
 次代の者に斬られて死ぬまで、その椅子に座り続ける使命がある。
……そうですね。分かっています。分かっているんです」
「お前には酷なことをしていると思う。どうあろうと、お前にとって大切な家族なのだからな。心穏やかでいられないのは当然だ」
「いいえ、平気です。でも」
 敬愛する姉を全校生徒の前で罵倒された、それは確かにそのとおりだ。
 だけれど、栞は姉の名誉を回復したくてこんな願いをしたわけではなかった。
 そんなのは、舞台の上ですればいい。
 夢大路の名にかけて、翡翠の輝きを見せつける。その機会にお誂え向きな大舞台が、この先に待っているのだから。
 栞が救いたかったのは。
「それじゃ、雪代先輩はどうなるんですか?」
「なに……?」
 守るべき白金の鎧を真っ二つにしてでも引きずり出したかったもの。
「お姉ちゃんは……お姉ちゃんだって、ずっと先輩たちと一緒にいたのに。急にいなくなっちゃって、誰にも何も言わないで」
 突然からっぽになっていた部屋。その景色は、栞の中心に穴をあけるのに充分で。
 その穴を。

 ──晶! 紹介するわ、妹の栞よ。ほら栞、次の白金の君フラウ・プラティーンに挨拶して。
 ──ほう、文の妹か。よく似ているな。お前も姉のように気高き君エーデルになれるよう励むことだ。

 あの時は誰も、翡翠が砕けるなんて思いもしなかった。
 ずっとそばにいた人が、いなくなってしまった。
 その穴が。
「たぶん私だけなんです。私だけが、雪代先輩の気持ちに気づけた」
 凪の表情、二人ともよく似ている。
 それはお互いにあの時のことを思い出しているせいなのかもしれなかった。
 壇上で、翡翠に相応しくないと断罪したあの時、雪代晶は怒りを見せなかった。
 なかったからだ。
 穴が空いていたから。
 そして夢大路栞にも同じ穴が空いていた。
 そっと、栞の両手が晶の頬を包み、流れたことのない涙を拭うようにゆっくりと滑り降りた。
 無意識なのか、力なく、晶の唇が開く。
 それと同時に栞の喉も震えた。

「さみしい」

 とうとう、引きずり出した。
 きっと学院中のどこを探しても、晶のその空虚を見つけられる者はいない。
 同じ虚空を内側に詰め込んだ栞だけが、白金の鎧の内側が空虚だと気づけた。
 だからオーディションの門を叩いたのだ。
 救いたかったから。
 晶は自身の口から出た言葉をまるで遠くから誰かに言われたような面持ちで咀嚼し、「ああ」と小さく声を洩らした。
「そうか。私は、さみしかったのだな」
「はい。あの時から、ずっと」
 翠色の宝石が砕けたあとの空虚を埋めたくて、なりふり構わず飛び込んだ。
 せめてよく似た宝石がはまれば、多少の隙間はあっても慰みにはなるだろうと、それだけの気持ちでいたのに、いつの間にか、それだけの気持ちではなくなってしまって、うまく隠せなくなった。
 たったひとりで孤独に佇むこの人を、いとしいと思ってしまった。
 晶が追憶に目を伏せる。
「そうだな。私は……あれが好きだったよ」
 あれ、と、名ではなく代名詞を使うことで強調される親密が、栞にやや複雑な思いをさせる。もう終わってしまった関係に妬いてどうするのかと自分でも思うけれど。
 姉がこの人と並んでいた時の顔を思い出す。誇らしげで、幸せそうで、未来には希望しかないような顔だった。
 きっと姉もこの人のことが好きだった。恋ではなくても。
 純粋で、無垢で、透明で、高貴で、美しい。
 まるでこの学院が守り続けてきた戯曲を具現化したようなこの人を、どうして、この学院の生徒が好きにならずにいられるだろう。
「言われてみればお前しかいないんだな、文のことを話せるのは」
「ミチル先輩とは、お話しないんですか?」
「ああ、全くしたことがない。ミチルは私にしか興味がないからな」
 てらいも他意もなく、晶は平坦な口調で言い、軽く両手を組む。不思議なことにその絆は栞の内心を揺さぶらない。
「ミチルには前を向いていてもらわないと困る。あれは私の道標だ。何が起ころうと他の何者もあれを惑わすことはできない」
「はい」
 それは見ていれば分かる。舞台で結ばれた強固な絆。舞台少女というなら彼女たちほどその呼び名に相応しい者もいない。
 嫉妬はないけれど、そういう意味では、少しうらやましい。
 きっと二人の舞台には他の誰も上がれないから。
「ミチル先輩に怒られるかもしれません。お姉ちゃんのこと、雪代先輩に引きずってほしくないでしょうから」
「私はそれほど弱くはないよ。そう心配するな。まあミチルは怒るだろうが」
……脅かさないでください」
 鳳ミチルはいつもニコニコしていて気さくで生徒からの人望も厚い尊敬する先輩だが、そうだからこそ怒ると怖い。
 晶が小さく眉を上げながら肩をすくめた。
「怒るとしたら私に対してだ。自慢ではないが私はミチルに怒られ慣れているからな。どうということはない」
 わあほんとに自慢にならないなあと思ったけれど、さすがに口には出せなかった。
「それに今ここには私とお前の二人だけだ。誰にも聞こえんよ」
 だから。
 雪代晶は伏し目がちに笑い、微妙な距離感を保ったまま静かに言った。
「思い出話をさせてくれ。文と共に過ごした日々のことを」
「はい」
「そして、良ければ聞かせてほしい。お前と文の思い出を」
「もちろんです」
 それはすがるというほど弱くはない、ただ静謐な願いだった。
 長くなりそうだったから栞が二人分の紅茶を淹れて、二人は夜が更けるまで話をした。綿花から糸を撚るように、ふわふわした思い出を指先でそっと摘んで紡いでいく会話だった。透明な糸が織り込まれて景色を作る。一人ではおぼろに薄れて消えるばかりだった景色がよみがえる。楽しかったな。会話の中で、懐かしむように雪代晶が言った。その一言を引き出せたのだから、夢大路栞はそれで充分だった。満ち足りた。
 白金と蒼玉と翡翠が並んでいた景色は、もうないものだけれど、紅茶を飲みながら向かい合う二人の隙間には美しく織られた思い出が広がっていた。
「文は、また舞台に立っているらしいな」
「そうみたいです。新しい学校の演劇科のみなさんと一緒に舞台をするって聞きました」
 晶も栞も、彼女に関する直近の景色は恐れたように舞台から遠ざかっていく姿だ。何度言っても舞台に立てなかった彼女。その彼女がまた板の上に立ったという。
 かすかな音を立ててカップを置いた晶が栞から顔を背ける。視線の先にはカーテンの閉められた窓があり、彼女はそのさらに向こうを眺めているようだった。
……少々、遺憾ではあるな。私たちには何もさせなかったくせに」
「ほんとです。だから」
 栞もカップから手を離して澄み切った笑顔を浮かべる。
「いつかお姉ちゃんと同じ舞台に立てたら、全力で殴ってやろうと思います」
……ははっ」
 なんとも似つかわしくない乱暴な決意を聞いた晶がこらえ切れず吹き出した。優雅に頬杖をついてこちらの瞳を覗き込む。本気だと確かめると、王は面白そうに唇を歪めた。
「いい心がけだ。私の翡翠はそうでなくてはな」
 「私も一発くらい殴りたいな」こちらは冗談なのか本気なのか分かりにくい口調だった。
 白金は砕けた翡翠を許せないし、雪代晶は夢大路文を取り戻せない。それを分かっているから、決意にも冗談にもできなかったのかもしれない。
 あとさらっと「私の」とか言われたけどたぶん無自覚だろうからこちらも聞き流すことにした。
 落ち着くために紅茶を半分ほど一気に飲む。
「それで、ちゃんと伝えます。さみしかったんだよって」
……ああ」
 ひどく穏やかに笑い、晶がうなずく。
 それは夢大路栞の持つ特権であり、雪代晶の持たない実体だった。
 虚空は埋めることも取り除くこともできないから、雪代晶は夢大路文にさみしいと言えない。
 あんなことを言いたくはなかったよと、夢大路栞に告白できない。
 それはきっと彼女がその生を終えるまで秘められる虚空だ。
 それでもきっと、彼女はそれを後悔しないに違いない。
 そこにあるのは、愛さずにはいられない彼女のプラチナego
「うまくできたら褒めてくれますか?」
「なんだ、褒めてほしいのか?」
 どこかきょとんとするのに栞がほんのり唇を尖らせる。あなたのために伝えるのに。
 まあこの人が鈍感なのは今に始まったことではない。なんだかこちらに嫌われているとまで思ってた節があるし、恋心と姉への嫉妬と愛情と忠誠心とがごちゃまぜになったその願いを、理解しろというほうが無理なのかもしれない。
「無意味だな。私はよくできていたら褒めるしそうでなければ褒めない」
 これだ。
……知ってます」
 ため息をつきたいけれど失礼だからこらえる。
「だが、うまくいってもいかなくても、胸くらいはいくらでも貸そう」
「え?」
 やや悪戯な口調で言われたことの意味をつかみかねて、思わず顔を上げて真正面から彼女を見てしまう。
 その視線。
「お前は泣き虫だからな」
 視線。
 視線、が。
「そっ、そういう不意打ちやめてください!」
 沸き起こった何かをごまかすために咄嗟に大声を出すと、晶は面白そうに喉を鳴らしながら少しだけ目をそらしてくれた。
 ずるい。さっきまで半分くらいは王の衣をまとっていたのに。
 いきなり無防備になるなんて。
 焦燥。この人が無防備になると困る。
 飛びつくことを、許されてしまうから。
 流し目のようにこちらを見てくるのに耐えられなくて椅子に座ったまま身体ごと回って逃げる。王様なのだ、彼女は。生まれてこの方愛されたことしかない。だからこその無垢で、陰らぬ煌めき。その資質。
 それを、ただ一人の相手にすべてぶつけることの意味をまったく理解していない。
 単純な感情は強い。
「ふむ」
 遠くからかすかな呟きが聞こえた。
 空気が揺れる。
 椅子を引く音と、首筋に感じる気配と、視界の端に入るテーブルについた指先の影。
「では、先に言えばいいのか?」
……たぶんですけど、それも、困ると思います」
「難しいな」
 白金の秘密も、二人で織った思い出の景色もしまいこまれて、今がすべてになった。
 影が深くなって、声が近づく。
 そっと肩に触れる指の長さ。
「今日は有意義だった。また話そう。次はそうだな、私たちのことを」
 ああ、そうだ。
 自分たちには、過去だけではなくて。
 『これから』も、あるのだ。
 むしろそちらのほうが長いだろうし(そうあってほしいし)、そして楽しい(そうなってほしい)。
 さらりと、髪が一房引かれる感触があった。晶の手に乗っているのだと気づくのに一瞬かかる。
「メイファンが栞の髪はふわふわで気持ちが良いと言っていたが、確かにそうだな」
 ウェーブがかかった色素の薄い柔らかな髪は、扱いが難しくてあまり好きではなかった。けれどそれも今日までかもしれない。
 彼女が褒めてくれたのなら、それは誇りだ。
「というかメイファンのやつ、そんなことを言えるほど栞の髪に触っていたのか」
「ま、前に髪を梳かしてもらったことがあるので、その時のお話じゃないかと……
「ふむ……あれは栞の世話を焼くのが好きだからな。ひとこと言っておくか」
「やめてください……
 思わず両手で顔を覆った。そんなことをされたら恥ずかしくて死んでしまう。
「ならば」
 肩を引かれて身体を起こす。逆らえず向き合った栞に、晶は幾分か挑戦的な眼差しを向けた。
 髪に長い指が絡み、一房取られた。それが引き寄せられて唇に触れるのを理解できないまま目で追う。
 印、だと、彼女の眼差しが語る。
 刻まれた。
「これで我慢してやる」
 ありがたく思えと言わんばかりの自信に満ちた声。
 ああこれだから、王様は。
 こちらはとうの昔に、あなたしか見えていないのに。
 めまいのように視界がぶれて、一度強く目を閉じてそれに耐える。
「雪代先輩」
「なんだ?」
「私が好きなのは雪代先輩ですよ」
 晶が大きな飴玉をうっかり飲み込んでしまった時みたいな顔をした。
 まったく。
 耳が熱い。先輩のくせに甘えないでほしい。本当にこの人は鈍くて無邪気で、愛しい。
 まだ動かない晶のシャツをつまんで引っ張る。そうしてようやく腕が背中に回されて、甘やかに包まれた。
……すまん」
「いえ。雪代先輩がそういう人なの、分かってますから」
 も〜、と内心で唸りながら胸元にもたれて、少しばかり自己嫌悪している様子の手のひらを受ける。
「まだ加減が分からないな」
 彼女の傷口から流れ出る虚空は自分の意思では止められないし、どんな医師にも治せない。
 許されてしまっている夢大路栞はその虚空をぼんやりと眺めた。
 ふう、と、吐息が流れる。
「お前を離したくないのだよ」
「離れませんよ」
「文は行ってしまっただろう」
「私はお姉ちゃんじゃありませんから」
「そばにいてくれるか」
「そばにいます」
 穴の空いた二人が一緒にいたところで穴がふさがるわけではなく、穴がふたつ並ぶだけなのだけれど。
 それでも相手の空いた穴から向こう側を覗けば、懐かしい景色が広がっている。
 それは慰めである。
「お前と文は、よく似ているくせに全然違うんだな」
 苦笑のように、雪代晶が言った。
 それは何より寂しい言葉で、夢大路栞が何よりほしい言葉だった。
 冬の氷は透明で、抱えていても溶けることはない。
 身を切るような冷たさが心地良いのだ。非情なほどさみしくて切ない想いは、透き通って、まるで穴が空いているようで。
 その恍惚もまた、夢大路栞が持つ特権である。