黒竹
2022-05-30 22:10:35
6377文字
Public スタリラ
 

開演ブザーが鳴る前に

【スタリラ】【晶栞】

開演ブザーが鳴る前に

 緞帳の向こうからは絶え間ないざわめきが届いている。具体的な言葉としては聞こえないものの、基本的には気安い声音だ。それもそうだろう、まだ客電も落ちていないし開演まで十分ほどある。
 そうと分かっていても、少し静かにしてくれたら助かるのだがな、と、舞台袖で待機している雪代晶はついつい胸中でつぶやいてしまう。
 十九世紀のヨーロッパをイメージしたスーツ姿の己と対象的な、可憐な衣装を身にまとって隣に佇んでいる相手役をちらりと見やる。才能は申し分ないが若さゆえか本人の性格か、いささか緊張に弱い。無論、これからシークフェルト音楽学院を背負って立つ存在なのだから、高校演劇の舞台で毎回ナーバスになられても困る。甘やかしたい気持ちは胸の内だけに秘めて、晶は強い視線を彼女に落とした。
「栞。いつまで震えている気だ。もうすぐ幕が上がるぞ」
「す、すみません。すぐに落ち着くので……
 威厳ある生徒会長に叱られて(晶はそんなつもりはなかったのだけれど)、中等部からたった一人抜擢された夢大路栞はますます萎縮する。やれやれ、と息をつく。一度舞台の上に立ってしまえば、この姿が嘘かと思うほど堂々とした演技を見せるのだけれど、それでも一抹の不安はある。
 栞は早くどうにかしなければと焦ったのか、深呼吸をしてみたり軽いストレッチをしてみたり、なんとか緊張をほぐそうとしたようだが効果はなかったらしく、最後に手のひらに『人』の字を書き始めた。
「古いおまじないを知ってるんだな」
 思わず笑い混じりに言ってしまって、少女は羞恥に顔を赤らめた。
「お姉ちゃんが教えてくれたんです。こうやって、お客さんなんてみんな飲み込んじゃえば大丈夫って」
……そうか」
 今はもうここにいない彼女の姉を思い出す。ずいぶんと仲の良い姉妹だった。いくらも経っていないはずなのに、その光景をもう懐かしいと思い始めている。
 寂寥はないけれど。
「観客を飲み込むほどの演技力なら、もう充分ついているだろう。もっと自信を持て」
「が、がんばります……
 そう答える声がなんとも気弱で、晶は何度目か分からないため息をついた。
 ため息を聞き止めた栞がしゅんと頭を垂れる。
「すみません、せっかく気高き君 エーデルに選んでいただいたのに、こんな情けなくて……。お姉ちゃんみたいに堂々とできなくて、私……
「文と比べる必要はない。お前はお前で務めを果たせばいい」
 「それとも」栞に向き合うと、衣装の懐中時計についた鎖がシャラリと鳴る。その音につられて顔を上げた栞は、直線的な視線に射抜かれて一瞬身体を固くした。
「お前は、お前を選んだ私の目が節穴だとでも言うつもりか?」
「そんなこと……っ、……すみません」
「謝らせたいわけではない」
 どうもうまくいかないな。自嘲気味に目を細めて、晶はポンと栞の頭に手を置いた。
 そっと、艷やかな金色の髪を撫でる。己の白銀とまるで対のような髪色。いつもその髪を飾っている花は、今はない。
 だからだろうか。それとも、これといって理由のない、もう少し素直な感情か。客席から起こる私語の気安さにつられたわけではないと思うが。
 髪を撫でていた手を彼女の肩に下ろす。そのまま引き寄せて、舞台袖を覆うドレープカーテンの内側へ誘った。「え?」戸惑いがちなつぶやきが洩れるのを、悪戯な気持ちで愛しいと思った。
 くるりとカーテンを繭のように巻きつける。
 頬を撫でると、栞の表情の色合いが、変わった。
「そんな顔をするな。優しくしたくなる」
 くっと、苦笑の形に口角を上げる。その表情を見てようやく栞の身体からこわばりが抜けた。
「雪代先輩はいつでも優しいですよ」
「そうか? ミチルには生徒会長としての威厳がよく出ていると褒められるんだがな」
「もちろん、白金の君 フラウ・プラティーンとしての厳しい面もありますけど。雪代先輩はお優しいかただと思います」
……ああ」
 それは相槌とも感嘆ともつかない声で、たぶん一番近いのは諦念だった。
「お前にそう言われるのは、私としては嬉しいが考えものだな。ミチルにはよく怒られているよ。栞に甘すぎると」
 代名詞をいろいろと持っている晶だったが、それらを取り払ったときに残る一個人としての雪代晶には、ひとつ、弱みがあった。
 腕の中にいる、儚くて幼くて甘い、砂糖菓子のような少女。いつからか、その水蜜桃のような声で名前を呼ばれるとずいぶん弱い。
 己が栞に甘いのではない。彼女自身が甘いのだ。その甘さに溺れているのを周囲が勘違いしているだけだ。伝統ある名門校の生徒会長、白金の君 フラウ・プラティーン、すべてを統べる王。その完璧な姿から、ずれるから。
 幼なじみはずいぶん気を揉んでいるようだ。彼女は昔から晶を完璧な王として君臨させたがっていたから。弱点など持ってほしくないのだろう。
 それこそ、甘く見られたものだと思う。
 こんなもので屈するなら、恋心ひとつでだめになってしまうほど脆弱なら、最初から、王様なんて目指しはしない。
「自覚は、あるがな」
 まなざしに込められたものを正しく理解した栞が、恥じらいに目を伏せる。「そのまま閉じろ」命じるような、こいねがうような囁きに、少女がまぶたを下ろした。
 唇に触れると花の香が鼻先をくすぐってくる。軽く触れるだけのキスを三度。こらえきれない吐息が唇にかかる。
「あ、あの、これ以上されると、台詞が飛びそうです……っ」
 四度目の直前で小さな両手が押しやってきた。「ふむ。それはまずいな」甘やかしすぎた。
「どうだ、緊張はほぐれたか?」
……本番前の緊張は、なくなりました」
 熱気による紅潮を隠すために厚く塗られたファンデーションのおかげで、顔色は平静に見える栞が「もう」と小さく抗議してくる。
 姉に教わったおまじないより効くだろう、と言ってみたくなったけれど、それは特大の地雷を踏みかねないのでぐっと堪える。
「ただそれもせいぜいここまでのこと。幕が上がれば容赦はしないぞ、栞」
 体感として、そろそろ開演時間だ。ゆっくりとまばたきをして気持ちを切り替える。
「っ、はい」
「今回の舞台、私とお前は恋に落ちる役どころだが……。私が演技に私情を挟むと思うなよ」
 自身の恋愛経験を芸の糧にする役者は多い。経験を芝居に盛り込むのに異論はないが、舞台の上で出会って恋をするはずの二人だ。はじめから恋をしていては身も蓋もない。
 緞帳が上がれば、雪代晶は王様に成る。
「舞台の上でも私を惚れさせてみせろ、翡翠の君 フラウ・ヤーデ
 王者の余裕たっぷりに笑うと、挑みかかるようなまっすぐな視線が返ってきた。
 良い目だった。
 この眼差しを正しく評価したからこそ、気高き君 エーデルとして迎え入れたのだ。
 栞が一度、強く唇を噛み締めた。それから勢いよく背伸びをして晶に迫る。
「?」
 虚をつかれている間に彼女の唇が顎のあたりに当たった。背伸びしても足りなかったと見える。思っていたようにいかなくて、はわわ、と狼狽しながらそれでも気丈に睨みつけてきた。
「か、必ず惚れてもらいますっ、白金の君 フラウ・プラティーン!」
 軽く噛んだがまあ及第点か。くっくと笑い、晶は栞の身体を解放した。
「ああ、楽しみにしている」
 懐中時計がシャラリと鳴る。
 ドレープカーテンの繭を抜けると、静寂だった。
 空気感が変わる。ライトが一斉に落ちる。目を閉じる。隣の少女の表情は見えない。見る必要もない。
 開演ブザーが鳴り、幕が上がる。


カーテンコールのその後で

 舞台後の反省会はそれほど緊迫しなかった。改善点はいくつかあったが取り立ててミスもなく、大きな問題は見当たらない。晶が何点か気づいたところを挙げて、ミチルがアドバイスや重要なポイントをそれぞれに伝えるとお終いになった。
 汗と化粧を流して各自寮へ帰れば今日の舞台は閉じる。主演の雪代晶もヒロインの夢大路栞も例外ではない。
 ので、晶はさっそく可愛い恋人を捕まえて腕に閉じ込めていた。
「なんだあのキスは。やり直しだ」
「え、ええー……
 自室のベッドで、膝に乗せた栞の腰を捕まえたまま、わざと不満げに言う。勇気を出したささやかな反抗があえなく失敗に終わり、それだけでも恥ずかしいのにやり直しまで要求されて、気弱な少女は困りきって俯いた。
 もじもじと晶の手の甲を指先で撫でてくる。二人きりの反省会(意味深)の追及は厳しい。そんなことで情けをかけたりはしない。
「あの時は、よ、よく見えなくて……
「薄暗いとはいえ、あの至近距離で見えないはずがないだろう。見えなかったのはお前が始めから目をつぶっていたからだ。目線は最後まで離さない、基本だと教えたはずだが」
「それは殺陣の話です」
 話が違います、と頬を膨らませて反論してくる。
「なら話を戻そう。私に一矢報いたいのならもう一度してみろ。失敗を取り返すチャンスなど、そうそう与えられるものではない。これを好機と捉えろ」
「かっこよく言ってますけど、雪代先輩、私に……させたいだけですよね」
 そのとおりだ。
 好機というなら雪代晶にとって好機なのだ。なにせこれまで、栞のほうからしてきたことはただの一度もない。たまにはしてみてもバチは当たらないだろうと思う。
 後輩で、引っ込み思案で、しかも相手は泣く子も黙る生徒会長だ。あんな勇気はそうそう出るものではない。そういった事情は慮れるものの、できればもう少し歩み寄ってほしい。
 ふぅむ、と小さくうなり、柔らかな金の髪を指で梳いて遊ぶ。絹糸みたいに艶めいている髪を何度もくしけずっていると、次第に胸にかかる重みが増してきた。彼女なりに、精一杯甘えているのだ。腹部に置いたもう片方の手をきゅっと掴んで離さないのは親愛の証である。
……まあ、あまり無理をさせても仕方がない」
 壁に頭をあずけて息をつく。これでは小鳥を鷲掴みにして振り回す子どもと一緒だ。両腕でそっと抱きくるむと、彼女は水蜜桃の声でくすぐったそうに小さく笑った。
「雪代先輩、いつもキリッとしてて、お芝居のときは恐いくらいなのに、こういうときは可愛いんですよね」
「うん?」
 年下の、『可愛い』の代名詞みたいな子に言われてやや鼻白む。
「私を可愛いなんて言うのはお前くらいだ」
「そうですか? ……そうだったら、うれしいです」
「ああ、栞だけだな」
 つまり、相手にそう思わせるような顔をしているのだろう。
 それならそれはつまり、つまるところ、そういうことだ。
 腕の中で栞がなんだかもじもじし始めた。こちらを振り返り、か弱い目線をよこしてくる。
「あの……お顔を見てもいいですか?」
 ずっと膝に抱いていたからお互い表情は見えない状態だった。晶は別に困っていなかったが、そう請われて断る理由もない。
「構わないが」
 よいしょ、と栞がこちらへ向き直る。膝立ちの姿勢で晶をやや見下ろすかたちになり、あえかに頬を包んでくる。
 ふふ、と、小さな笑声が可憐な唇から洩れた。今、雪代晶は貫く槍を持っていない。
 傷つくことがないと分かっているせいか、栞はどこか無遠慮にも感じる手つきで晶の頬を撫でた。
「かわいいひと」
「何を言っている。お前のほうがよほど可愛らしいだろう」
 足を投げ出して無防備でいる晶のまなざしは淡い。いつもの厳しい仏頂面はかけらもない。
 それをどこか泣きそうな気配さえ漂わせながら、夢大路栞はじっと見つめている。
 彼女が浮かべている表情の意味を、雪代晶はもう知っていた。
「今日の舞台、どうでしたか?」
「ん?」
「惚れてくれました?」
 それが開演前の挑戦について聞かれているのだと気づくのに少しかかった。
 あの下手なキスと挑みかかる視線。
 ああそうだ、あれは、そういうものだった。
「そうだな」
 雪代晶は真摯に答える。
「ステージにいる間、私はあの子に心底惚れていた。素晴らしい芝居だった」
「ありがとうございます」
 栞が満足気に息をつく。甘えるように腕を晶の首に回すが、抱きつきはしない。
「舞台少女で良かったって思うわけが、ひとつ増えました」
「なんだ?」
「舞台の上で、何度も雪代先輩に好きになってもらえるから」
「一度では足りないか?」
「そんなことないです、けど。でもやっぱり、す、すきなひとに、すきって言ってもらえるのは、うれしいので……。あっ、お芝居のときはちゃんと真剣ですよ。終わってから、夜寝る前とかに思い…………
 自分がとんでもなく恥ずかしいことを言っていることに気づき、語尾がしぼんで消えていく。
……今の、忘れてください……
「生憎だが記憶力はいいほうだ」
「お願いだから忘れてくださいぃ……
 穴があったら入りたいくらいの照れっぷりだった。
 晶は緩む口元を意識して真一文字に結ぶ。
 わざと難しい顔を作ると天を見上げた。
「記憶力はいいほうだが、そうだな、栞がキスをしてきたら驚いて忘れてしまうかもしれないな」
……うそ」
「試してみる価値はあると思うが」
 こういった謀は幼なじみのほうの得意分野で、晶自身はあまり得意ではない。
 それでも栞は弱りきった情けない声で唸っていて、しびれを切らした晶は「なんだかちょっと眠くなってきたな」みたいな風情で目を閉じた。「えぇ〜……」オロオロしている栞の様子が目に浮かぶようだ。
 ちらり。片目だけ薄く開けて様子をうかがう。やっぱりオロオロしていた。
……目、開けないでくださいね」
「ああ」
 ちゃんと答えたのに疑わしかったのか、ほんのりと熱をもった手のひらが両目を覆うように当てられた。
 封じられた目をそのままにして待っていると、ふと、馥郁たる水蜜桃が唇の隙間から入り込んできた。
 抱き寄せなかったのはたぶん、そのキスがあまりにも純潔だったせいだ。
 手も足も投げ出して、唇だけを彼女に預けて。
 つまり、この幸福に、手も足も出ない、ということだった。
 そっと解放される。ゆっくりと目を開けると大いに恥ずかしがっている子どもがいた。
「ど、どうですか? びっくりしましたか?」
「ああ、したな。驚きすぎてさっき何を聞いたかすっかり忘れてしまった」
……なら、いいです」
 どこか悔しさをにじませつつ栞が身体を起こす。その華奢を眩しいものとして見ながら、ごまかすように目を細めた。
「さあ、もう遅い。舞台もあって疲れただろう。部屋に戻れ」
「あ……はい」
 羽衣が舞う姿にも似た動作でベッドを下りる。二人だけの反省会(意味深)はお終いだ。意味深長だなんだと言ってみたところで、ここは学生寮で、狭い部屋の中で、深くなったり長くなったりなどしない。
 ベッドにできたシーツの皺は清潔で、蛍光灯は明るくて、二人のキスは幼い。
 ドアノブに伸ばしかけた手を一度止めて、栞がゆるりと振り向く。
「いつもこうして私を帰すのは、私が子どもだからですか?」
 晶は一瞬きょとんとして、それからふと力の抜けた笑みを浮かべた。
「いいや」
 万が一にも手折ってしまってはたまらないと、優しく優しく、目の前の小さな宝物をくるむ。
「大事にしたいんだ。お前のことが好きだからな」
…………
「台本どおりの台詞より、今の言葉を思い出しておけ。雪代晶の本心だ」
「覚えてるじゃないですか!!」
 しまった。
 次の日から三日間、夢大路栞が部屋に遊びに来てくれなくて、雪代晶はけっこう本気で落ち込んだ。