黒竹
2022-05-30 22:06:04
10555文字
Public 少女☆歌劇レヴュースタァライト
 

幕間2 楽天家の後悔

【少女☆歌劇レヴュースタァライト】【すずまひ】【夏の夜に覚めてみた夢】

 ──好きと大切はどう違う?



 正しい人なのだと思う。正義と正しさはイコールではない。正義は間違えてはならない。履き違えてもならない。行き違ってもいけないし取り違えなんてもってのほかだ。彼女は正義の人ではなかった。間違えたし履き違えたし行き違ったし取り違えた。それでも、その内側にあるものは正しいのだ、慌ただしい日々のどんな場面 Sceneでもこちらの恣意を読み間違えない正しさ。
 見違えるようだ。
 屋上にふたり並び、隣で危なっかしくバトンを操っていた彼女とも。
 ひたすら真っすぐにこちらを求めてきた彼女とも。
 本当にあれは南風涼なんだろうかと冗談のように思う。自分が知らないうちに、こっそりと中身が他の誰かと入れ替わっていて、そう例えば酔いつぶれた友人を送って帰ってきたちょうどその時、本当の南風涼と入れ違うように、誰かが彼女の中にするりと入っていったとか。
 ため息。馬鹿馬鹿しい妄想である。ショックを軽減するためにそんな失礼な妄想をするなんて、お門違いもいいところで、見当違いも甚だしい。その程度で逃れられると思ったら大間違いである。
 露崎まひるは目を閉じて彼女の言葉を反芻する。
 手をつなぎたくないと言った彼女。
 そうだ、彼女は最初から違っていた。大きくて冷たい手。余計な脂肪がついていない分、筋張っていて印象は華奢だ。しかし殴られたらたぶん痛い。そんなことをされたことはないし、これからもないだろうけれど。殺陣でうっかり当たってしまう可能性はあるかもしれない。稽古中、呼吸が食い違うのは珍しくない。まあそんなことがあっても怒るのは筋違いである。そんなのはただの事故だ。
 事故といえば事故だったのだろう。避けようのない事故だった。初対面から好意はあったがまさか恋に発展するなど思うはずがない。そんなことができるのは予知能力者か物語の読者だけである。これが恋愛漫画だったら『お年寄りを助けていた元気な子が同級生で寮でも同室』などというシチュエーションが来た時点で読者は「ははあ、この二人、もしや恋愛に発展するのだな」などとしたり顔で予想をするものだ。そしてそれは思い違いである。
 好意が恋にはなったが恋愛には発展しなかった。彼女には運命しかなかった。勘違いも見込み違いも眼鏡違いもなかった。運命だけを見ていたし運命だけに見られていた。
 そのキラめきを間近で見ることが叶わなくなって一年以上が経ち。
 露崎まひるは南風涼と手をつなぐようになっていた。運命に愛された彼女とは違う手と。
 そして南風涼は手をつなぎたくないと言った。
 あたしと違うものを、あたしで確かめないでと彼女は言った。
 その拒絶は正しい。
 

 その日は二人とも講義が午後からだったので、天気も良いし散歩がてら街に出た。といっても特に目的があるわけではない。大学の最寄り駅にほど近いメインストリートを冷やかしながら歩く。
「お、あの服かわいー。──あーだめだ、たっか」
 店頭にディスプレイされていたセットアップにそそられて覗き込んだ涼が、値札を返して天を仰いだ。
「最近人気あるブランドだよね。前に香子ちゃんが着てたよ」
「ああ、似合いそう。あの子おしゃれだよねえ。今こっちにいるの?」
「ううん、京都で修行中。写真送ってくれたの」
 ちょっと待ってね、と言いおいてからスマートフォンを操作して、メッセージアプリの履歴をたどる。よほどお気に入りなのか、ポーズを決めて得意満面の花柳香子が現れた。自撮りの角度ではないから、撮ったのは彼女の幼馴染だろう。
「ほら、ここのブランドの新作だって」
「へえー! お金持ちの子だとは聞いてたけど、こんなのホイホイ買えちゃうんだ」
「聞いた話だけど、カードが黒いんだって」
「ふーん?」
 言ったまひるも聞いた涼もピンと来ない表情。すごいことなのだ、と聞きかじりの知識で知ってはいるが、それがどれほどのものなのかは実感が沸かない。
「ま、うちらは素直に、社会人になってからだね。まだまだすねかじりですから」
「わたしは、学生のうちにアルバイトしてみたいな。お金っていうより社会経験を積みたいから」
「なんのバイト?」
「決めてないけど、野球場の売り子さんか……小さい子の面倒を見られるのがいいかなって」
 やや不純ではあるが、野球観戦が趣味の身としては一度は体験してみたいし、子どもの面倒を見るのは正直に言ってとても慣れている。
 まるきり未経験の分野だと尻込みしてしまうけれど、そういうのなら経験してみたいとずっと思っていたのだ。もちろん、学生としての本分は忘れないし、舞台少女として芝居も大切にするけれど。
 露崎まひるは欲張りなのである。何事にも。
「まひる、色々考えてるんだ。あたしなんか大学卒業することしか考えてなかった」
 涼が感心しきりの表情で息をつく。尊敬の念すら抱いていそうだった。まひるは慌てて首を振った。
「それはそれでまっすぐでいいと思うよ。涼ちゃんは外の舞台にも出てるし、そこで大人の人たちとやり取りしてるもん」
 それがもう社会経験だよ、と前のめりに言う。涼が「あっは」と照れ笑いした。
「うん、どれもアンサンブルだし半分裏方だけど、すごく勉強になるよ」
「えらいよ、涼ちゃん」
 涼が忙しなく視線を巡らせ始めた。照れているときの彼女の癖だ。話をそらしたくて話題を探している。舞台の上ではあんなに堂々としているのに、意外と緊張しいで照れ屋なのだ。そのギャップが可愛らしい。
「あ、あーっ、ここのアクセいいなっ」
 ちょうど通りがかったショップのディスプレイを指差し、「ちょ、ちょっと見ていこ?」わずかに口元が引きつった笑みでこちらに向きなおってくる。まひるは吹き出すのをこらえながら「うん」とうなずいた。
 メインストリートの路面店ということもあり、店内は華やかだった。以前いっしょに買い物をしたセレクトショップとは正反対の印象。まひるはあの雑多な光景を懐かしく思う。スズダルキャットの野球帽は部屋の壁に飾られたまましばらくかぶっていない。涼もそうだ。相変わらずあのキャラクターは大好きだけれど、年齢が上がるとともに服装の雰囲気も変わって、ワッペンのついた野球帽が壊滅的に似合わなくなってしまった。
 時の流れは残酷である。
「このへん好きかも」
 まひるが思い出にふけっている間に、涼は飾られていた指輪を取り上げて眺めていた。シンプルだが肉厚で存在感のあるリングだった。
「うん、似合いそう。はめてみたら?」
「ん」
 ためつすがめつしていた指輪を右手の薬指にすべらせる。大した意味はない。サイズ的に一番合いそうだった指にしただけだった。途中、ぐ、と押し込むような形になったが、涼もまひるも特に気にしなかった。
 指輪をはめた手を広げてかざしてみる。大振りすぎるかと思ったが彼女の筋張った手にはよく馴染んだ。強そうだ。
「いいね」
「うん、けどちょっときついかな。今日はやめとくよ」
 話題探しのために入った店だから、もとより買う気はなかったのだろう。役目を果たした指輪を外そうと左手をかける。「ん?」涼が眉をひそめた。
「あれ? んん?」
「どうしたの?」
「いや……ちょっと、まずいかも」
 先ほどとは違う意味で、涼が口元を引きつらせた。「んーっ」「むんっ」「おおっりゃあぁ」かけ声と百面相がまひるの隣で繰り広げられる。涼の顔に赤みがさしてきたあたりでまひるも確信した。
「涼ちゃん……まさか、抜けなくなったの?」
……どうやら、そうみたいで……
 引っ張りすぎて赤くなった薬指の根本には、さっきからまったく位置の変わらないリングが鈍く輝いていた。
 南風涼は緊張しいで照れ屋で、時々おっちょこちょいである。


 指輪を外そうとあれこれ試しているうちに講義の時間が差し迫り、仕方なく指輪をそのままの状態で買い上げて大学へ向かう。さしあたって、きつすぎて指が圧迫されたりはしていないので、外れないことを除けば特に問題はない。それが唯一にして最大の問題なのだが。
 指輪が仕送りで生活する大学生でも払える値段だったのは僥倖だった。最初の店だったら二ヶ月くらいタダ働きをしなければいけなかっただろう。その代わり涼の懐はずいぶん涼しくなった。そこに関しては、名は体を表してほしくはなかった。
「大丈夫だよ涼ちゃん、おいもならうちにたくさんあるからねっ」
 だから食いっぱぐれる心配はないと励ましてみたが、トレーニングが趣味の彼女はタンパク質の確保をどうするかで頭を悩ませていた。
 しかしながら、真に彼女が窮するのはそんなことではなかった。
「あーはっはっはっは!」
 まず先輩に大笑いされた。
「わっ、笑い事じゃないですよ! こっちは真剣なんですから!」
「だってそんな、今どきコメディでもないよそんなベタなシチュエーション」
 治まらない笑いを無理やり引っ込めながら先輩が言い、それから我慢できなくてまた「ひーっ」と笑った。
 涼は不本意そうに顔を赤らめて肩を震わせている。発表会の稽古があるこの時期、演劇科の教室には各学年の学生が集まっていて、まひるたちの周囲にも何人か陣取っている。先輩を除けばそれほど親しくはないから一緒にからかっては来ないけれど、視線からは面白がっている空気がありありと感じられる。
 それから、まひるは視線のいくつかからなんとなく居心地の悪さを感じていた。悪意とか敵意とかではないが、なんとなく、背中がむず痒くなる視線だった。誰のものかは分からない。他の視線にまぎれて気配だけが漂ってくる。
 なんだろうと怪しみながらも原因を探る勇気はなく、気にしないふりをしてごまかした。
「はー……これは、あたしは一生この子と添い遂げるしか……
「大丈夫、ここには丸ノコもジグソーもある」
「指も落ちますよ」
「グラインダーで削るのは?」
「へたしたら骨まで削れますよ!」
 先輩もまさか本気で言っているわけではないだろうが、涼は律儀にすべて却下した。
「ま、せっけんとか油とかで取れるんじゃないの?」
「そうですかねえ」
「帰ってから試してみなって。今は諦めてそのままにしとけば?」
「はあ」
「それとも、見られて勘違いされたら困る相手でもいる?」
 揶揄するような口調で投げかけられた問いに涼が呆れ顔になる。
「いませんよそんな人」
 それを聞いた次の瞬間に吸い込んだ空気が、少し重い気がした。
 ほんの少し、ほんの少しだけ、粘度を持ったような。
 あれ?
「とか言ってー。こっそり付き合ってる人とか好きな人がいるんじゃないのー。だからそんなに焦って外そうとしてるんじゃないのー?」
「違いますってば」
 深くため息をついて、涼が腕組みをした。
「勘違いされて困るような付き合ってる人も、好きな人もいません」
 あれ?
 断言した。
「あ、露崎はなんか知らない? 南風の好きな人とか」
「ちょっ、先輩っ」
 屈託なく尋ねてくる先輩の笑顔がまっすぐ見られなくて、まひるは無意味にこめかみの髪をいじる。
……さあ、涼ちゃんがいないって言うなら、いないんじゃないかと思います……
「ほらあ」
「ふーん。一番仲いい露崎が言うならいないのかー」
「しつこいですよ。誰だって指輪が外れなくなったら困るでしょ」
「そりゃそうだけどさ。けっこういるのよ? 南風のこといいなって思ってるの。いまのでみんな安心したんじゃない?」
 ざわりと、まひるの胸がざわめく。あの居心地の悪い視線。
「なに言ってんですか。そんなこと言われたことないですよ」
「そりゃ……
 ちらりと先輩の視線が動く。その先にいるまひるは気づかなかった。他の視線が痛すぎて。
「くだらないこと言ってないで、ちゃんと稽古の準備してくださいよ」
 まったくもう、と肩を怒らせる涼。先輩が他の学生に呼ばれたのを契機に会話を打ち切り、二人は台本を片手に読み合わせを始めた。もうそろそろ稽古が始まる時間だ。気持ちを切り替えなければいけない。
 それでもまひるはなかなか台本に書かれた文字を追えない。多くはないセリフ。もうほとんど覚えていてそらで言えるはずなのに、唇が別の意志をもって反抗しているかのように重くて固い。
「まひる? どうしたの、調子悪い?」
……涼ちゃん」
「んー?」
「さっき先輩に言ったの、ほんと?」
 カラカラに乾いた質問を、涼はきょとんとした目で真正面から受けた。
「何言ってんの、当たり前じゃん。まひるは一番分かってるでしょ」
 あれ。
 そうか。
 そうだったんだ。
 だから、嫌だって、彼女は。
 そんなんじゃないんだって。
 あれ、じゃあ、どうして。
 こんなのは、間違ってるって。


「こんなこと言うのもなんだけど、私、そこまで露崎さんと仲良くはなかったと思うのよね」
 それは拒絶というより困惑に近い口調だった。深夜帯に入ったファミリーレストランは閑散とまではいかないがそれなりに空席が目立つ。その一番奥まったテーブル席で向かい合い、星見純那は困ったように頬を掻いた。
「もちろんクラスメイトとして尊重していたし、華恋についてはずいぶんお世話になったわ。あなたがいなかったら卒業までに私の胃にふたつみっつ穴が空いていてもおかしくなかった」
「華恋ちゃん、そこまでだったかな……
「例のレヴューが始まるまではね」
 そもそも、それまでは「華恋」ではなく「愛城さん」で、クラスの秩序を乱す、やる気の見えない厄介な問題児でしかなかった。
 真面目な顔で言われて、むしろまひるの胃に穴が空きそうになる。
 まひるとしては、その頃のことはそんなに悪い思い出ではないのだ。
 やる気が感じられないのは彼女が寝坊助だからで、そのおかげで毎日、彼女と手をつなげたから。
「けど、それくらいでしょう? レヴューでの因縁もないし、泣きながら呼び出された理由が分からないんだけど」
 遅い時間にかつての級友が涙声で電話をかけてきて、押っ取り刀で駆けつけたは良いが、どうして自分が呼ばれたのか、なんの要件なのかまったく分からないと純那は肩をすくめながら言う。
 まひるは赤い目を隠すこともなく、スカートの裾を指先で弄んで視線を落とした。
「誰かに叱ってほしかったの。それで、わたしに一番厳しくしてくれる人って誰かなって考えたときに、浮かんだのが純那ちゃんだったから……
「叱る?」
「えっと……わたしがすごく勝手なことをしてるっていうか……。あれもこれもってしてちゃいけないのは分かってるんだけど、どうしても、すごく大事なものがふたつあって、どっちも選べないままズルズルしてて」
「ふぅん?」
「く、比べちゃいけないのに比べたりして、それを怒られてるのにやめられなくて……
 頼んだ飲み物が運ばれてくる。純那は自分の手前に置かれたいちごミルクをストローでかき混ぜ始める。まひるもポットで運ばれてきた紅茶をカップに注いだ。
「純那ちゃん、よく自分星って言ってたでしょ?」
「ええ、まあね」
……自分星がふたつあるって、良くないよね?」
「どうして? ひとつもないよりずっといいじゃない」
「え?」
 純那がストローを咥えていちごミルクを吸い上げる。それから脇に置いていたバッグを持ち上げて、中から数冊の本を出して見せる。出てきたのは演劇論と演劇史と舞台装置の参考書と経営学の教本と法律書だった。
「これが、今の私の一番星。全部ね」
「ぜ、全部?」
「なながね、劇団を作りたいって言うの。もちろん簡単じゃないことはなな自身も分かってる。でも私はあの子ならできるって信じてるわ」
 劇団を立ち上げるだけなら難しくはない。私たちが劇団なんとかですと宣言すればいい。当たり前だが彼女たちが目指している形はそんなものではない。
 純那は本のバッグに戻しながら柔らかく笑った。けれどその瞳に宿る意志は強い。
「私、ななに芝居を続けてほしいの。脚本を書きたいっていうあの子の気持ちはよく知ってる。けど、私は舞台の上で輝くななを見ていたから。
あの輝きを失くしたくない。
そのために自分が何をできるか考えたの。色々調べたんだけど、劇団の運営って大変よ? やることがたくさんあるわ。一人じゃ絶対に無理。
だから。
脚本は仕方ないとして、私がこれくらいやれば、ななも舞台に立つ余裕ができそうでしょう?」
 私は、脚本家の大場ななも、舞台女優の大場ななも諦めないわ。
 そう、彼女は声高らかに宣言したのだった。
 まひるはその眩しさにうつむく。
「じゅ、純那ちゃんは強いから……。わたしは、どっちも選ぶなんてできない……
「全部選んだわけじゃないわよ。聖翔にいた頃、私はトップスタァを目指してたもの。天堂さんを越えなきゃ、そのためには他のみんなの上をいかなきゃって必死だった。あの頃、私の夢はななじゃなった。
それに、意識して一番を諦めたわけでもないし。いつの間にか夢の形が変わってた。叶えたいものが他にできてた。それだけよ」
 彼女は、一度負けてしまったらすべてが終わるのだと、絶望を味わったことがある。
 しかし実際は一度負けた程度では何も終わらなかったし、結局勝てなかったけれどそれでも何も終わらなかったし、幼い頃からの夢を諦めたって終わらなかった。
 ふっ、と、息をつく音が聞こえる。
「──やる価値のあることならば、上手くやろうとすることは意味がある。持つ価値のあるものならば、それを手に入れるのを待つ意味がある。手に入れる価値のあるものならば、それを得るために戦う意味がある。経験する価値のあることならば、時間を割く意味がある」
 得意げに純那が暗唱してみせた。
……誰の言葉?」
「オスカー・ワイルドの言葉よ。私は聖翔にいた頃の夢を諦めたけど、それは別に停滞でも後退でもないわ」
 ズズ、と音を立てて、純那が最後のいちごミルクを吸い上げた。まひるのカップは紅茶で満たされたままだ。
 すべて飲みこんでいる純那と、冷めるまでただ置いていたまひる。その対比は少し意地が悪すぎるけれど。
「諦めたって捨てるわけじゃない。諦めたものまで全部抱えて、さらに掴んでみせます、自分星」
「誰の言葉?」
「私の言葉よ」
 胸を張って答える純那。
 叱られたくて来てもらったのに、結局彼女はまひるを笑わせただけで帰っていった。


 純那と別れての帰り道、そぞろに歩きながらまひるは同じように夜道を歩いていたときのことを思い出していた。
 酔っ払った華恋を駅まで送っている途中、彼女を挟んで反対側にいる友人に言われた言葉。

「まひる」
「なに?」
「確かめないと不安になるような気持ちなら、やめて」
…………
「涼に失礼だから。華恋は……まあ、いいけど」

 それから、華恋への気持ちを確認するために手をつながないでと涼に拒まれて、どうしていいか分からなくなって。
 会えないから気持ちが薄れたなんて、そんなふうには思っていなかった。
 思春期特有の一過性の感情だとか、憧れを混同していたのだとか、そうも思っていなかった。
 確かにあのとき、彼女に恋をしていた。己の身のうちから生まれたとは思えない、激しい恋だった。ずっとそばにいて、一緒に、ふたりだけで永遠の舞台を演じたかった。それが最大の幸福だと信じていたし、真実だった。
 うまくやろうとした。
 手に入れるために待っていた。
 手に入れるために戦った。
 持っていた時間すべて捧げた。
 意味は、あっただろうか。
 あったのだ。
 あったに違いない。
 意味があったから、今も彼女のことが大切だと思える。
 以前と変わらない彼女の姿をいとしいと思ったし、はしゃぐ声をいとしいと思ったし、おいもコールも懐かしくていとしかったし、相変わらずひかりとの『スタァライト』を何よりも大事にしているのもいとしくて堪らなかった。
 そういう気持ちになっていた。
 三年間をともに過ごした、大切な、大切な人。
 たぶんあのキラめきは胸の中でいつまでも消えない。
 考え事をしていても慣れ親しんだ帰り道、間違えることなどない。街灯の下、半ば無意識に進んでいく。
「あ! まひるー! いたー!」
 前方から唐突に叫ばれて思わず身をすくめた。街灯の光が届かないところにいるけれど、その声を聞き間違えるはずもない。
「え、なんでここに?」
 バタバタと走り寄ってきた南風涼ががっしりと肩をつかんでくる。
「どこ行ってたの! 既読つかないし電話しても出ないし部屋にいないし、心配したよ!」
「あ、あの、ごめんなさい……
 そういえば涼からの通知をすべてミュートにしていたのだった。好きな人はいないと言われたのがあまりにもショックで、涼と会話するのが恐くなって。
 慌てて純那とファミリーレストランにいたことを説明し、夜中に一人で出歩いていたことを謝罪する。涼はまひるの保護者でもなんでもないが、心配をかけたことに変わりはない。
 何事もなくて安心したのか、涼が深く深く嘆息した。呆れていたのかもしれない。
「まったくもう……
 さり気なく、涼が鼻をすする。顔をライトからそむけて隠そうとしているけれど、目尻に光るものがある。ほっとして涙が出てきたらしい。こう見えてけっこう泣き虫なのだ。そんな可愛らしいギャップのある彼女だ。
「なんで通知切ってんの」
「ご、ごめんね。あの……
 言わなければならないんだろうか。
 あまりにも、場違いなような理由だった。
 けれど言わなければ単に涼と縁を切りたがっているように見えてしまう。
 みぞおちあたりのシャツを掴んで、まひるはおずおずと口を開く。
「涼ちゃん……先輩に、好きな人いないって……。それって、わたしのこと……
「え? 言ってないよ?」
「い、言ったよっ」
「ちがうちがう」
 涼はどこかぽかんとしていて、まひるが何を言いたいのかまだ掴みかねているようだった。それでも訂正箇所は見つかったのでそこだけ指摘してくる。
「付き合ってる人もいないし、勘違いされて困るような好きな人もいないって言ったんだよ。だってまひる、一緒にいたんだから勘違いなんかしないでしょ?」
 前半はただの事実だし、後半は勘違いされたら困るのは唯一露崎まひるだけなので、勘違いされないなら困らない。
「え、えー……?」
 力が抜けて、思わずその場にへたりこんだ。
 涼はまだよく分かっていないような顔をしている。まひるも「君が先日のことで呆れ返ってもうわたしのことを好きじゃなくなったと思った」などと言えるわけもなく沈黙した。
 「なんかよく分かんないけど」へたりこむまひるの前にかがみ込み、涼が首を傾げる。
「ずーっと言ってるけど、あたしはまひると同じ舞台に立って、同じ景色を見るのが夢だから。それが叶うまで他のこととか考えられないし、まひるだけでいいよ」
 夢を叶えるために、まひるにあたしの時間を全部あげるよ。
 そう言ったに等しいのに、当の本人はぜんぜん気づいていなくて、いつものように屈託なく笑っている。
 彼女もまた、上手くやろうとして、待っていて、戦った。
 そして時間をくれると言う。
 きゅう、と、まひるの胸がきしんだ。
 触れたい、と、思った。けど。
 拒絶された痛みがまた襲ってくる。
 意気地がなくてうつむいたまま黙っていると、「あ、そうだそうだ」のんきな声とともに、目の前に手のひらが差し出された。開いた手の上には見覚えのある指輪が乗っている。
「見て見てー、やっと取れたんだよ! 氷雨に聞いたらオリーブオイルがいいって言うんだけど、なかったから代わりにココナッツオイルでやってみたら一発! いやー、持つべきものは友だよね。外れなくなったときはほんと焦ったよ。二度とお店で適当な指輪試着しない」
「う、うん。良かったね」
「でね」
 涼がまひるの手を取って、そこにポンと指輪を落とした。
「まひるにあげる」
「え?」
「ほら、これってあたしの指にはまったら絶対……ではないけど、人の力じゃ外せない指輪だからさ。つまり、なんていうの? あたしから離れない縁起のいい指輪っていうか。手、つなぐ代わりに、それ」
 あ、ちゃんと洗ったからヌルヌルしてないよ大丈夫。早口で言い募る涼。そんなことを心配してはいなかったのに、さも重要事項だと言わんばかりの表情だったものだから、まひるはうっかり吹き出してしまって、涼は笑われたことに赤面した。
「ごめんね、ありがとう。大事にするね」
「ううん、こないだちょっと怒っちゃったし、あたしもごめん」
 とんでもないと首を振る。あんなの、怒られて当然だった。甘えるなというひかりの忠告はまったく正しい。
 夜更けの上り坂が続く住宅街。ひと気はない。
 女子大生がふたり、しゃがみこんで向かい合っている光景はどこか滑稽で、まるで、通り過ぎたはずの青春みたいだった。
 懐かしい青が、まひるの鼻先をくすぐる。
「ねえ、涼ちゃん」
「ん?」
「さわってもいい?」
 ふふ、と、涼が小さく照れ笑いをした。
「聞かれるの久しぶり」
 いーよ。シャボン玉さえ割れない、淡い淡い声が応じる。
 左手に指輪を持って、右手をそっと、彼女の頬に差し出す。
 シャープなラインの頬。温かくて、柔らかい。指先でなぞらず、手のひら全体で包むように触れる。
 意図してなのか、あるいはいとしくてなのか、涼がそっと頬をすり寄せてきた。
 胸が苦しい。
 ふたりの想いは何も違わなかった。澄んでいて、濁りがなかった。
 指輪は左手に握り込まれて、どの指にもはまらない。
 だから、ふたりは何も誓わなかった。



 ──好きと大切はどう違う?



 好きは、切ない。