黒竹
2022-05-30 22:05:42
10050文字
Public 少女☆歌劇レヴュースタァライト
 

幕間1 情熱家の恋愛裁判

【少女☆歌劇レヴュースタァライト】【すずまひ】【夏の夜に覚めてみた夢】

 実のところ接触にそれほどの意味はない。意図はあったが意志はなかった。意外にも意匠は張り巡らされていた。そうそれは装飾である。色も跡もくぼみも隆起もない装飾。刃も歯も持たない草食の彼女にできるのはたったそれだけだった。切り取ることも削り取ることもできない、何も捌けない彼女のそれを裁き judgementと呼ぶこともできるだろう。たぶん loveの。裁かれているのは彼女自身だ。
 裁いているだけで自罰はない。彼女の表情は凪ぐ。代わりに痛みを負っているような顔をするのは装飾である。痛みか、それ以外のなにかを堪えるような表情。表層にも深層にもなにも残らないはずなのに、共同幻想がそんな顔をさせる。
「あの……まひる、そろそろ……
 数々の衣装にうずもれた格好で、南風涼は消え入りそうに願う。呼気がやや荒い。理由の大半は緊張だった。ドアひとつ向こうの廊下ではにぎやかな声と足音が響いている。自分たちが隠れている衣装部屋にいつ誰が入ってくるとも限らない。やましいことはないけれど(ないのだ、本当に)、抱き合っているところを見られるのは単純に恥ずかしい。
……うん」
 なにか言いたそうに、けれどなにも言わずに露崎まひるがうなずく。先ほどまで優しく蹂躙していた肌から手を離す。南風涼はほっと息をつきそうになって咄嗟に押し留めた。まひるに触れられると息が詰まるがけして嫌なわけではない。そもそも触れてほしいと望んだのはこちらだ。だから、詰まった息はいつもそのままにする。だから、少し息苦しい。この四月からは特に。
 まひると同じ大学に進学して一年半ほどになる。ふたりとも、たまたま目指すものの方向性が一緒だったから。まひるはみんなを笑顔にする方法のひとつとして、己は理想を体現してくれた人に近づくために。
 戯曲『スタァライト』をめぐる騒動の際は絶望させられたものだが、今にして思えばあの人の言うとおりだった。スタァを育てるのなら、誰かを選んで誰かを落としていかなければならない。その厳しさを持たなければ指導者にはなれないのだと、自分たちが知らなかっただけだ。
 知った今だから、南風涼はそれを目指せる。
 衣装部屋のドアをそっと開けて、知り合いがいないことを確認してから素早く廊下に出た。まひるも涼も、なにもありませんよみたいな澄ました顔で並んで歩く。「明日の一限ってなんだっけ?」「舞台芸術論かな」「座学かー」涼がため息をつく。もちろん、知識も大事なことは分かっているが、身体を動かすほうが好きだから仕方ない。
「てゆーかまひる」
「なに?」
「あたしが主役取るたびに拗ねるつもり?」
 やや半眼になってねめつけると、まひるはうっと声を詰まらせ、きまり悪そうに目をそらした。
 来月発表する二年生のミュージカル、その配役が今日の最後の講義で発表され、主演に抜擢されたのが涼だった。まひるは役名つきではあるが出番は多くない。良かったねと心から言えるほど無欲ではない露崎まひるに連れられて衣装部屋へ引っ張り込まれたのが三十分ほど前。ぎゅっと抱きつかれたまではいいがそこからがひどかった。髪といわず肌といわず、優しく手厚く蹂躙された。額の、傷があったところを除いて。それが一番ひどいけれどまひるは気づいていない。
 大家族の長女という立ち位置のせいか、彼女は甘えるのが上手くなくて、時々加減を間違える。そのうえ嫉妬深いから余計にたちが悪い。自身が丈夫で良かったと思う南風涼だ。フィジカルもメンタルも。
 高校時代のルームメイトたちを、まるで小さな子どものように扱う話をたまに聞いていたが、そんな天性の甘え上手が二人もいたらこうなっても仕方がないのだろうか。
 けれど本当は、甘えられたくは、ない。
 言わないけれど。
 目をそらしたまままひるが唇を尖らせた。
「つ、次は、大丈夫だよ」
「ほんとかなー」
……わ、わたしが主役になるもん……
 気弱な口調で強気なことを言うまひるに思わず吹き出す。「なるほどね」笑いながらうなずいた。揶揄の意図はなかった。彼女らしいと思ったのだ。そういえば彼女はいつだって貪欲だった。
 ただの友人なら「きっと次は主役になれるよ」と無責任な励ましもできたけれど、涼のポジションでそれを言ったらただの嫌味だ。「うん、頑張ろう」からりと笑ってまひるの肩を叩く。
「負けないよ」
「あたしだって負けないよ」
 そうだ、負けられない。中学三年生のあの夏から、ずっと、彼女には負けたくない。南風涼は露崎まひるのライバルでありたい。
 そんなふうに自身の恋心をライバル心と誤解してそろそろ五年になる。
 真にかれるべきはその心かもしれなかったが、なにせ南風涼は丈夫だった。
「でもまずは来月の舞台だけどね」
「うん、わたしも小さい役だけど舞台に立つんだもん、頑張らなきゃ」
 どこかの天才は主役でなければ意味がないと言っていたが、まひるはそう思ってはいない。板の上に立つ以上、どんな役でも重要だ。ぎゅっと拳を握る。涼はその手をいとしいものとして見る。
 大学はいくつも学科があって、二人が所属する演劇科以外にも美術系やダンス系の学科も存在する。同じキャンパスにいても名前も知らない人がほとんどで、入学当初はそれが新鮮だった。今はまあまあ慣れている。慣れているから、油断するとまひるの手が伸びてきて涼の手を取ってくる。二人とも無意識だ。この一年くらいで確立された無意識。
 あまりにも無意識だった。特別ではなさすぎた。逆転した不自然が作り上げられていた。
 その歪みは南風涼の無意識と露崎まひるの無視が原因だった。
「あ」
 前方から歩いてくる学科の先輩に気がついて涼が声を上げる。あちらも片手を上げてきた。
「まだ残ってたの?」
「や、もう帰りますよ」
 ふぅん、と先輩が小さく相槌を打った。それから少しだけ目線を下げて苦笑のように口元を引く。
「相変わらず仲いいね」
 その口調にはなにかが潜んでいたけれど、涼はなにひとつ気づかずにぼんやりとうなずいた。
「? はい、仲いいですよ?」
 ふっと手が軽くなったけれど涼は特に気に留めなかった。
 先輩が行き過ぎてから手はずっと軽いままだった。



 秋だった。秋といえばじゃがいもである。
 秋深まる土曜日、ダンボール箱五つに詰め込まれたじゃがいもを前に、まひるが深々とため息をつき、両手で顔を覆った。
「今年は……豊作だったみたいで……
「だよねー。この量、過去最高じゃないかな」
 呼ばれてやって来た涼もじゃがいもの山をしげしげ眺めて半ば感心している。一人暮らしの娘にこれだけのじゃがいもを送ってしまうのを、親心として受け入れるべきなのだろうか。
「ゼミの子たちに配ってもたかが知れてるよね。みんな一人暮らしだし」
「ど、どうしよう……
「とりあえずいくらかはみんなにあげるとして、差し当たり、うちの食いしん坊でも呼ぶ?」
 ポケットからスマートフォンを取り出してメッセージツールを示してみせる。新進気鋭の舞台俳優として忙しい身だけれど、まひるいもの話をすればない時間を作って来るだろう。「氷雨も呼ぼうっと」メッセージの宛先をグループに変更。
 まひるがぱっと顔を輝かせて両手を打った。
「あ、それならせっかくだから華恋ちゃんも呼ぼっか。確か先週で舞台終わったはずだから」
「いいねー! にぎやかな方が楽しいし、みんなも久しぶりのまひるいもじゃない?」
「卒業してからは初めてじゃないかな」
「ひかりも来れるかなー」
 なんの気無しに出した名前に一瞬、まひるの眼差しが曇る。いつもは鈍い涼の感覚がその時だけ働いた。まずかったかな、と気後れしたように目をそらす。
「華恋ちゃんとひかりちゃんが揃ったら大変なことに……ううん、頑張る……っ、食べこぼしだけは絶対にさせない……っ」
 曇った理由が思ったのとは違っていた。
 一応同い年なので二人とも成人式は迎えているはずなのだが。
 それぞれ友人たちに連絡を入れると、残念ながら氷雨は都合が合わず来られないとの返事。しかし他の面々はみんな来てくれるそうだ。食べざかりが五人も揃えばそれなりの消費が見込めそうである。メニューの方は大場なながいてくれたら助かったのだが、彼女は劇団を立ち上げるために寝る間を惜しんで動いているのでさすがに捕まらなかった。スマートフォンでレシピを検索しながら作ることになりそうだ。
 みんなが来る前に買い出しや下ごしらえをしていると、夕方を過ぎたあたりから続々と集まってきた。柳小春と愛城華恋は来る途中たまたま行き当たったそうで一緒にやって来た。
「愛城さん久しぶりー」
「久しぶりー! 南風さん、相変わらず背ぇ高くてかっこいいねえ」
「この歳で縮んだら困るよねあはは!」
 横で小春が小声で「うるさい」と洩らしたけれど、二人とも聞いていなかった。
「華恋ちゃん、柳さんいらっしゃい。急に呼んだのに来てくれてありがとう」
「水臭いなーまひるちゃん! まひるちゃんのピンチとあらば、この愛城華恋どこへでも駆けつけるよ!」
「え、ほ、ほんと?」
「もっちろん!!」
……う、うひゃあ」
 喜びを隠しきれない呟きが涼の脇腹あたりをつついて来て、その掻痒感でわずかに身を捩らせる。柳小春はその様子に一瞬、黙祷のように目を閉じた。
 そして最後に訪れた神楽ひかりは天堂真矢を連れていた。
……え?」
「お久しぶりです露崎さん。お邪魔します」
「いやいやいやちょっと待って。天堂さんってパリで公演するんじゃなかったっけ!? こないだネットニュースで見たよ!?」
 しれっと上がろうとする真矢と、立ち尽くすまひるの間に割って入った涼が詰め寄る。そうなのだ、天堂真矢と西條クロディーヌはフランスの劇団が主催する舞台の客演に呼ばれていて、だから今は日本にいないはずなのだ。だから呼ばなかったのに。
 真矢は深窓の令嬢が窓辺の小鳥を眺めるような眼差しで涼を見やり、穏やかに笑った。
「ええ、西條さんはすでにあちらの劇団と稽古をするためにパリへ行っていますが、私は知り合いのバレエ公演に招待されていたので予定を遅らせたのです。ちょうど今日公演だったので、終わってからお邪魔した次第」
「次第って、ひかりちゃんが呼んだの?」
「うん。まひるいもが余って困ってるっていうから、たくさん食べる人がいたらいいと思って」
「それは助かるけど……、天堂さん、もしかしてすぐ向こうに行かなきゃいけないんじゃ?」
「問題ありませんよ。おいも……もとい、大切な学友の一大事ですから」
「あ、ありがとう……
 釈然としない表情ながら礼を言うまひる。そこまで言っているのを固辞するのも失礼だし、助かるのは確かだ。
 さすがに六人もいるとワンルームは手狭だったが、もとよりパーソナルスペースなどあってなきに等しい愛城華恋は気にせず神楽ひかりと露崎まひるに挟まれて気炎を上げている。
「よーし食べるよーっ。食べに食べるよーっ」
……がんばる」
「あれ? よく考えたらこの中でお料理できるのわたしだけ?」
「うーん、あたしも手伝うから。ファイト、まひる」
 腕組みをしながらあっはと苦笑いする涼に、まひるは一片の光を見るような目を向けた。

 神楽ひかりが肉じゃがを頬張り、天堂真矢がジャーマンポテトを休む間もなく胃袋へ収めていく。「なにこれすごくもちもちしてる!」愛城華恋は芋餅の食感に感動していて、柳小春はコロッケの油など存在しないかのように軽やかな食べっぷりで、南風涼はその様子を見ているだけで食欲をなくしていた。
「まひるちゃん、グッドグッドだよ!」
「ありがとう華恋ちゃん。ほら、口についてる」
 まひるが華恋の口元についていたソースを甲斐甲斐しく拭ってやる。「……まひる、私にはついてない?」なぜかひかりもチェックを頼んでいた。自分で拭けばいいんじゃないかな、と涼は当然の感想を抱く。
 それぞれ近況報告をしたり思い出話が出てきたり、話しているだけで時間はあっという間に過ぎていった。
 メイン料理がほぼ片付いたあたりで天堂真矢のスマートフォンに着信が入る。真矢はあえてハンズフリーモードでそれを受けた。
『どういうことよ天堂真矢!! あんた、ただでさえ稽古に後から合流するっていうのに、私を差し置いてまひるいもですって!?』
「お呼ばれしたものですから」
『あのねえ! こっちはもう顔合わせも本読みもしてんのよ! なにのんびりおいも食べてるの! あと私も食べたい!!』
「クロちゃん、ごめんね。良かったら戻ってきたらおうちに送ろっか?」
『え、まひる!? ちょっと真矢、オンフックにしてるなら最初に言いなさいよ!!』
 言う前にがなり立てたのは西條クロディーヌの方だが、それを言わせないだけの迫力ある声だった。
『じゃがいもってどれくらい保つものなの? 私、日本に戻るの二ヶ月先なのよね。送料出すからパリまで送ってくれない?』
「そこまでして食べたいんだ、まひるいも」
「そりゃそうだよ、まひるいもだもん」
 後ろで涼と華恋がコソコソ話す。
 結局、クロディーヌに送るかどうかは後でまた改めて話し合うことになり、彼女は天堂真矢への恨み言を残して電話を切った。
「失礼、お騒がせしました」
「相変わらずだね、クロちゃんと天堂さん」
「ええ」
 困ったものです、と表情で語るわりに、それ以外のものも滲ませる。小春はその滲みを見ているのか、「どうですか」と真矢に声をかけた。
「クロディーヌさんの実力、見られましたか」
「見れていますよ。その節はご協力いただきありがとうございました」
「それならいいのですが。……その目、曇らせないでくださいね」
「あら、見くびられたものです。私がそんなことになるように思えますか?」
……いえ」
 含みばかりの会話に、涼と華恋は首を傾げ、まひるは二人がなんだか恐いなと感じ、ひかりは残っていたポテトサラダを食べて許容量オーバーで苦しんでいた。
 涼がじゃがいものたらこバター和えをつまみながら烏龍茶を空けていると、「あ、炭酸もうないや」華恋が空っぽになったペットボトルを持ち上げてひとりごちる。「あーごめん、足りなかったか」炭酸ジュースは一本しか用意していなかった。買い足しに行こうと立ち上がる。それをまひるの声が押し留めた。
「いいよ涼ちゃんは休んでて。わたしが行ってくるから」
「じゃあわたしも一緒に行くー」
 華恋が手を上げてしまったものだから、涼は引き下がるしかない。まひると華恋が連れ立って買い物に出るのを見送って息をつく。
 料理はほとんど食べ終わっていたので残った面々でなんとなく片付け始める。健啖家が二人いただけあって、じゃがいもは予想以上に消費できた。キッチンで洗い物をしていると、真矢が隣で食器を拭き始めた。
「あ、ありがと」
「ごちそうになったのですから、これくらいは」
「天堂さん、けっこう話しやすい人だね。もっと気難しいタイプかと思ってた」
「そうですか?」
「噂で聞いてた頃は。孤高の天才って有名だったからさー」
 真矢が小さく肩をすくめる。「それも間違いではありませんが」挑戦的な眼差しを天に向けた。
「そうなの? でもほら、西條さんみたいなライバルもいるし、まひるたちとも仲いいし、いい意味でわりと普通なんだなーって思ったよ」
 不意に真矢が笑った。含むでもない、自然な笑い方だった。それでも涼の背中が毛羽立った。
「ライバル、ですか」
「ちがうの?」
「私にライバルはいません。あちらはそう思っているようですけれど。私は、一人で真ん中に立つだけの存在です」
……ふぅん?」
 南風涼は、露崎まひると並び立ちたい。その思いが基準になるから天堂真矢を見誤る。
「じゃあ西條さんって天堂さんにとってなんなの?」
「恋人です」
「恋人なの!?」
「知りませんでした?」
「知りませんでしたよ!?」
 突然の告白に持っていた皿を落としそうになった。付き合ったり別れたりという話は大学の友人から聞くこともあるが、身近に感じたことのない話題だから驚いた。
 天堂真矢はなんということもない顔で、「あなたが驚くほうが意外です」とよく分からないことを言った。
「あなたは、もう少し色々と鑑みたほうがいいですよ」
「え?」
「人の振り見て我が振り直せ、ということです」
 どういう意味か聞き返そうとしたら、背後でまひるたちの帰ってくる音がしてタイミングをのがしてしまった。なんだそれ、と口の中でこぼしながら残りの食器を洗い終える。
「ただいまーっ」
「ただいま」
「あ、まひるちゃん家なんだから、わたしが『ただいま』って言うのも変かな?」
「ううんっ、好きなだけただいまって言っていいよっ」
「そう?」
「そうそうっ」
 なぜか知らないが心が痛い。丈夫だから壊れはしないけれど。
 キッチンからリビングに戻って出迎えると、ひかりの常温の眼差しを首筋に感じた。さっきまでお腹が痛いと丸まっていたはずだが落ち着いたらしい。それと、小春からも同じような視線が届いている。なんだろうと首を傾げたら同時にため息をつかれた。
「どうして気づかないのかしら」
……不思議」
「あなたは気づいてるんですね、神楽ひかりさん」
「私、十二年だもの」
「なるほど」
 どこもかしこもよく分からない会話ばかりだ。考えるのは苦手だ。おいしいご飯を食べて、楽しくおしゃべりして、それで充分じゃないか。
 舞台を降りてしまえばみんな、ただの人だ。
 舞台少女はここにはいない。
 だったら。
 だったら、今の自分が持つこの望みは。
 望む星などないと言い切って、それでいてなお残る、望みは。
「わたしウノ持ってきたよ、やる人ー!」
「お、やるやる! 定番だよねーウノ!」
 考えるのが嫌で南風涼は笑う。


 一番の失敗は炭酸ジュースと間違えてアルコール飲料を買ってきてしまったことである。口にしたのが愛城華恋と天堂真矢だけだったのはラッキーだった。どちらも成人している。
 しかし、華恋の様子がおかしいといち早く気づいた神楽ひかりが事態を理解したときには遅かった。飲みつけないアルコールはてきめんに効いて、華恋の足元は覚束なくなり、天堂真矢は何度も名乗りを上げ、収集がつかないままなし崩し的にお開きになる。
 華恋と真矢を支えながらエントランスまで下りると、小春が真矢に付き添ってくれた。
「以前共闘したよしみで」
「小春、天堂さんの家知ってるの?」
「クロディーヌさんに聞けば分かるから」
 そうですよね恋人ですもんね。とは言わなかった。あの様子だと小春は知っていたらしい。氷雨もだろうか。知らなかったのは自分だけなんだろうか。いや見れば分かるものなのか? あの二人、そんな恋人みたいなことしてたっけ? そもそも恋人同士としての仕草とは?
「涼」
 少し呆れがちな声で呼ばれる。考え込んでいた涼はその声にハッとして顔を上げた。
 小春の視線が動いて、それを追うと困り顔のまひるがいた。「もおぉー、華恋ちゃんしっかりしてー」華恋の両手を引いてなんとかまっすぐ立たせようとしている。「ほら、駅まで行くからちゃんと立って」「うぅ〜ん、約束だよクレールぅ」「こんなところでわたしの夢が叶いそうだけど嬉しくないよ」
 まひるの手が、しっかりと華恋の手を握っている。
 なんだか少し面白くない。
 モヤモヤしたものを抱えていると、ひかりが静かに近寄ってきて、不意に涼の腕を取った。
「ん?」
「まひる」
「なに? えっ」
 困りながらも華恋に寄りかかられて嬉しそうだったまひるが固まった。涼も事態が飲み込めなくて固まっていた。ひかりは涼にべったりはりついて腕を絡めていた。
「こういうこと」
「ど、どういうこと?」
「あんまり涼に甘えちゃ駄目」
 言うだけ言って涼の腕を解放する。「十二年の重み、ですね」「華恋はちょっと特殊だけど」小春とひかりが分かり合うようにうなずいた。
「それじゃあ。今日は呼んでくれてありがとう」
「え、ああ、はい?」
「行こう、まひる」
「う、うん」
 駅まで華恋を連れて行くのに、ひかりだけでは心もとない。両脇から華恋の手を引いてまひるとひかりが歩き出す。「天堂さん、我々も帰りましょう」「ええ、頂で輝く星はひとつです」「あなたがどうなったかはクロディーヌさんにすべてお知らせしますね」また怒られるぞ、と涼は誰にともなく思う。
 残された涼はひとつため息をついてからまひるの部屋に戻った。さっきまであんなに騒がしかったのに、終わってしまえばもの寂しい。二十歳の若者たちとはいえ、基本的には礼儀礼節を叩き込まれる演劇学校の出身ばかりだ。飲み食いの後もきれいに片付けられていて、祭りのあとという雰囲気はない。愛城華恋がウノを忘れていた。後で連絡しておかないと。
 中身の残った缶がある。間違えて買われたアルコール。ジュースと間違うくらいだからそれほど度数の高いものではない。それでも、その数パーセントが明確な違いになっている。
 たぶん、それくらいしか自分と彼女は違わない。
 その数パーセントの違いで、南風涼は露崎まひるを酔わせられない。
「それって、いったいなに?」
 缶を指先でつまみ上げて揺らす。この中で揺れてる液体に、それがあったなら。
 たとえ毒でも飲み干せるのに。
 一気に缶を傾ける。アルコールと炭酸が喉を焼く。そういえば炭酸が苦手だった。けして嫌いではないけれど仲良くできないのだ。そういう相手っているものだろう?
「こんなの、全然良くないじゃん」
 それが飲み込んだ液体のことなのか、自分の取った行動のことなのか、それとも自覚してしまった望みのことなのか、一切が判然としないまま南風涼は吐き捨てる。
 愛城華恋の手を取る露崎まひる。
 無意識と無視。
 つながってしまった。
 そんなものを見せられて、平静でいられるわけがない。
 目が潤む。アルコールのせいだと思う。身体が熱い。アルコールのせいだ。
 頭がぐらぐらする。座っていられなくてソファに横たわった。おかしいな、全然楽しくない。先輩たちはあんなに楽しそうに飲んでいたのに。
 ドアの開く音が聞こえた。誰だろう。もうみんな帰っていって、ここに来る人なんていないはずなのに。
 ひとりぼっちのはずなのに。
「あっ、涼ちゃん大丈夫? もしかしてお酒飲んだの?」
……ああ、まひるだ」
「ねえ、大丈夫? あ、これ空っぽになってる。ひかりちゃんが気づいてほとんど飲まずに置いてたのだよ。これみんな飲んだの?」
 困ったように肩を叩いてくるまひるの、その手を引いて抱き寄せた。「うひゃっ」華奢な身体。意外とある上背はいつも少し丸くて、涼はそれがもったいないと思っている。
 まひるの声が遠い。いつだって酔っ払っているのはこっちのほうだ。浮ついて、はしゃいで、それで失敗する。
「あ、あの、今日はありがとう。色々手伝ってもらってすごく助かったよ」
「うん」
「みんなにも久しぶりに会えて楽しかったね。今度は穂波さんも来れるといいね」
「うん」
「あの、すず、ちゃん……?」
 どうしたのと恐る恐る尋ねてくる声には答えず、涼は目を閉じて、まひるの肩口に頬を寄せた。
「ねえ、お祝いしてよ」
「え?」
「主役取ったお祝い。まひるにしてほしいな」
 同じ舞台に出る役者に対して、なんとも失礼な願いだった。身長に比して長い腕がまひるの身体を絡め取っている。それをほどこうとはせず、されるがままのまひるが小さくうなずいた。
「うん、いいよ。涼ちゃん頑張ったもんね」
「じゃあ」
 目を閉じたまま、探るように彼女の背を撫でる。
「もう、あたしと手をつながないで」
 思いがけない願いにまひるが戸惑う。涼が見つけた願いはほしくないものだった。ほしいものはまだ見つからない。消去法の願い。
 無意識にまで落とし込むほどつないだ手は、間に他の誰かの手があった。
 その手を無視し続けていたのが露崎まひるの罪科で、それを裁き続けていたのも露崎まひるだった。
 そんなひとりぼっちはいらなかった。
「──うん。分かった」
 ごめんね、と、キスをするような淡い謝罪が涼の耳を撫でた。
 やっぱり分かってたんだ。
 まひるはずるい。
 眠くて眠くて、それが声になったのか、涼にはもう分からなかった。
 その狡猾さえ愛しいのに、まだそれを、どうやって伝えたらいいのかも、涼は知らない。