黒竹
2022-05-30 22:02:18
9951文字
Public 少女☆歌劇レヴュースタァライト
 

#2 情熱家の葛藤

【少女☆歌劇レヴュースタァライト】【すずまひ】【夏の夜に覚めてみた夢】

 愛し方なんて知らなかった。
 そんな言い訳で自分を慰めてみたところで意味はなく、そもそも今だってそんなものを知りはしない。舞台の上で何度「愛してる」と囁いたところで己の経験になるわけでもない。
「愛してる」
 口にしたって実に空虚だ。とんでもなく嘘っぽい。きっとこの言葉は、口にしていいものではないのだろう。
 それなら文にしたためてみようか。紙に筆とまではいかなくても、現代っ子の必需品スマートフォンにはいくらでも文章を打ち込める。たった五文字のそれを、メッセージ欄に指先で書く。
 愛してる。
 ああ、なんとも、空疎だ。
 愛ではないのかもしれない。目もくらむような眩しさと、身体中を包み込むあたたかさ。それを好ましいと思う己の内側は、そんな純粋で崇高なものではなくて、もっと汚れて卑俗なものなんだろう。
 五文字を指先で消す。
 スマートフォンを持った腕を下げ、額を手のひらで覆った。
 だってこんなにも、彼女に触れてほしい。



 思いがけない頼みごとに、南風涼はなかば無意識に復唱した。
「練習相手?」
 電話越しに、遠慮がちな相づちが聞こえる。
『うん、今度の舞台、殺陣が難しくて。なかなか上手く決まらなくてみんなに迷惑かけちゃってるから……。涼ちゃんの殺陣、すごくかっこいいから教えてほしいなって』
 先日めでたく久闊を叙した友人、露崎まひるのやや高くて甘い声。それに首の後ろをくすぐられながら涼は小さく肩をすくめる。
「別にいいけど、あたしだって教えられるほど上手くはないよ?」
『そんなことない! 交流プログラムの時だってみんな圧倒されてたもん。わたしも、手も足も出なかったし』
「う、うーん」
 どう答えていいか分からず言葉を濁す。そのとおりだと言ったら嫌味たらしいし、そんなことはないと謙遜しても堂々巡りになるだけだろう。当時は演目を巡って争っていたから、自分たちの実力を思い知らせることに躊躇はなかったのだけれど。
 空いている手で頬をかきつつ、苦笑いを浮かべながらも涼が頷く。
「教えられるかどうかはともかく、あたしでよければいくらでもつきあうよ。こないだうちの舞台見に来てくれたお礼も兼ねて」
『ううん、舞台はわたしも見たかったから』
「あはは、そこはあたしに会いたかったからって言ってよ」
『えっ、あ、あのっ』
 ほんの軽口のつもりで言った台詞に、まひるがあからさまに狼狽する。その反応に涼の口元が小さく引きつった。分かっているのだ、別にまひるは友人の義理で誘いを受けてくれただけで、愛城華恋や天堂真矢も一緒だったから、学校間の交流の一環として見学に来てくれたのだということは。
 むしろ愛城華恋が見たいと言ったから同行したのかもしれない。そんなこと恐くて聞けないけれど。嫌な想像に頭痛を覚える。
 再会を喜んでくれたとは思う。目を合わせて「涼ちゃん」と呼んでくれた時の表情は、きっと嘘ではない。
『あ、あのね、わたし、涼ちゃんに会いたいよ?』
「あはっ、ありがと。まひるは優しいなー」
『ほんとだもん』
 しゅう、と、唇の端から息を吐く。
「あたしは」
 ずっと君に逢いたかった。
……うん、これからはさ、いっぱい遊ぼうよ。海とか行ったり、花火とかしちゃったり」
 それはきっと楽しい。
 それはきっと純粋で、きれいだ。
 彼女にふさわしい。


 聖翔音楽学園に赴き、入校証をもらってからまひるを呼び出してもらう。交流プログラムの際に一度訪れているが、別に校内見学をしたわけではないのでレッスンルームの場所が分からないし、なんでもない日に他校の校内を一人で歩くのも気が引ける。
 校内放送からしばらくしてパタパタと足音が近づいてきた。顔を向けるとジャージ姿の露崎まひるが小走りに近い早歩きでこちらに向かっているのが見えた。廊下を走ると叱られるのだろう。違反のラインを越えないギリギリの速度。そんなに慌てなくても、と涼が苦笑する。
「涼ちゃん、お待たせ」
「お邪魔しまーす」
 お互いの両手を軽く合わせて挨拶。まひるの前髪が額に軽く貼りついていた。あの早歩きで汗をかくとも思えないので、涼が来る前にもう練習していたと見える。
「こっちだよ」
 先導するまひるについてレッスンルームに向かう道すがら、興味本位でキョロキョロと周囲を見回した。廊下の窓から広い中庭が見えて、「わお」思わず声を上げる。
「さっすが名門。豪華だねえ」
 薄曇りの空の下、中庭に設置されたテーブルで優雅にお茶をしている生徒たちを認め、涼が呟いた。「そんなことないよ。お茶は自分たちで持ってきたのだし、お菓子はだいたいばななちゃんが作ってくれたのをみんなで分けてるだけで」まひるが手を振りながら言う。
 そうはいっても缶ジュースとスナック菓子でだべる光景とはまったく違う。名門だけに所作も磨かれるものなのだなあと涼が感心していると、「ひがりぢゃあぁぁん! まっでえええぇぇ」廊下の曲がり角の向こうから幼児かと思われる泣き声が聞こえてきた。
「ん?」
「あれ?」
 なんだか聞き覚えのある声だ。しかし小さな子どもの心当たりはない。だが考えてみれば、そもそもここに幼児などいるだろうか? 聖翔音楽学園に初等部や託児所があるなんて話も聞いたことがない。
「ひーがーりーぢゃあああああん!! おいでがないでえええぇぇぇ」
 発する音すべてに濁音がついてそうなだみ声だったが、近づいてくるにつれて声がはっきりしてくる。「ねえまひる、あれ……」「うん」隣のまひるに視線を移せば、彼女は笑っていいのか怒っていいのか、あるいは涼に対して気まずそうな顔をするべきなのか迷っている、なんとも言いがたい表情で曲がり角を見つめていた。
「華恋ちゃん……だね」
 その言葉通り、廊下の角から姿を現したのはまひるのクラスメイトであり、先日の『スタァライト』での見事な演技で涼を泣かせてくれた愛城華恋だった。それと、その彼女を腰にまとわりつかせながら、まるで華恋が存在しないかのように無表情でいる、黒髪をなびかせて歩く少女。
「と、神楽さん?」
 涼とはなかなか因縁浅からぬ二人だが、なにせ状況が状況なので剣呑な空気になるわけもない。あっけにとられたまま二人を見ていると、視線に気づいたひかりがこちらへ首を向けてきた。涼の姿にわずかに目を瞠り、それから腰の華恋へ目を移して顔をしかめ、足を止める。
「ひかりちゃん、華恋ちゃん、なにしてるの?」
「あっまひるちゃん! お願いひかりちゃんを止めて!」
「え、えぇ?」
「ひかりちゃんに捨てられるうぅぅぅ」
 なにがなんだかさっぱり分からない。愛城華恋が神楽ひかりに捨てられそうらしい。たしかこの二人、運命がどうとか言っていた気がするが。
「え、えっと、華恋ちゃん、お客さんの前だから、あの……
「え?」
 そこでようやく、華恋が涼の存在に気づいた。「どうもー」片手を上げながら涼がなんとも外れ調子の挨拶をする。べそをかく真似をやめてひかりの腰から立ち上がる華恋。その表情は実に趣深い。
「今のは……あのー、今のはですね、ノンノン、そんなんじゃないから」
「なにも言ってないけど」
「くらげ」
「くらげ?」
 さてどう説明しようかと悩む華恋を尻目にひかりがボソリとつぶやいた。涼は知らないが、くらげがひかりの好きなもののひとつだということを、まひるは当然知っている。ひかりは無表情だがやや不機嫌そうでもある。単純に機嫌が悪いというより、もう少し根が深い感じだ。すねている、のかもしれない。
 まひるは人差し指を唇に当てると、小さく首をかしげてひかりに尋ねた。
「くらげのなにかがあるの?」
「ナイトアクアリウム。水族館で、十七時からくらげの特設展示があるの。華恋が教えてくれて、一緒に行こうって言ったのに」
……わたしが、すっかり忘れてまして……
 それでひかりが怒って一人で行こうとするのを、華恋が追いすがって止めていたという顛末だった。痴話喧嘩だ。「痴話喧嘩じゃん」声にも出てしまった。それを聞いてまひるの唇がほんのわずか尖ったのに、涼はまったく気づかなかった。
 はあ、とまひるがため息をついて、眉の下がった優しい笑顔を浮かべる。
「華恋ちゃん、今日の授業で課題発表の当番だったから、きっとそれに気を取られてうっかりしちゃったんだよ。そんなに怒らないであげて」
 落ち着いた声で諭されて、ひかりが声に詰まる。「べ、別に、本気で怒ってるわけじゃないけど」ツンデレだ、と涼は思った。筋金入りである。
 まあ、誘ってきたくせにデートをすっぽかそうとしたなら、これくらいの仕打ちは受けてしかるべきだろう。まひるの朗らかな笑みにほだされたか、ひかりの表情も和らいで、まひるに手を取られて華恋とつながされても抵抗しなかった。
「はい、仲直り」
 素直にでへへと笑う華恋と、わずかに眉をひそめつつ、まひると華恋の顔を交互に見やってふっと息をつくひかり。華恋はひかりの機嫌が直ったのを感じ取ってだらしなく笑った。そこにはステージで見せたあのキラめきは爪の先ほどもなかった。キラめきとは、かくも儚い。
「じゃ、二人とも。行ってらっしゃい」
「うんっ、行ってきます」
……行ってきます」
 手を振って二人を送り出すまひるを涼は横目で盗み見る。なんだか釈然としない。「いいの、まひる?」「え?」「今のってさあ」うまく言えなくて口ごもる。
 涼が言いたいのは要約すれば敵に塩を送って構わないのか、ということだったのだが、なんだか自分がそれを言うのも違う気がして、結局、ため息しか出なかった。



 聖翔音楽学園を訪れたとき、すでに空は薄暗く、なんともどんよりとした空模様だったが、練習を始めてから二時間、ここにきてついに窓を小さな粒が打ち始めた。
 レッスン場でクールダウンのストレッチをしながら、涼が「あちゃー」と小さくこぼす。
「降ってきちゃったか。帰るまでもつかと思って傘持ってきてないんだよね」
「あ、それなら駅まで送るよ? 傘、一本しかないから一緒に入るとちょっと濡れちゃうかもしれないけど」
 ないよりはいいと思うよ、と申し出てくれたまひるの好意に、涼は素直に甘えることにする。ここで相合い傘だなーとか思わないのが南風涼だった。
 持参していた着替えに替えて、入館証を事務室に返してから、まひるの可愛らしい傘に潜る。涼のほうが背が高いから少し猫背になって、それに気づいたまひるが捧げるように傘を持つ手を上げた。それに苦笑して傘の柄を奪い取る。猫背のまま、まひるが濡れないように低く傘を構えた。
 別に他意があってそうしたわけではないけれど、そうすると、いつもよりまひるの顔が近くなって、涼はその柔らかそうな頬に目を奪われる。
 ん、とまひるが何の気なしにこちらを見上げてきた。とっさに視線を前に戻す。
「まひるはさ」
 のぞき見をごまかしたくて口を開いた。「なぁに?」少し間延びした柔らかな声音。それになぜだか動揺する。
 前を向いたままでしか声を出せない。
「まひるは、昔っから優しいよね。面倒見良くてさ、あたしがバトンやりたいなんて馬鹿みたいなこと言っても練習つきあって教えてくれたりさ、きょ、今日も愛城さんたちの手助けしたり、あたしにも、こうやって傘に入れてくれるし」
 目隠しをして歩き回っているような、フラフラとあちこちに飛ぶ思い出と今。何も見えていないような、ただひとつの光を見ているような、ブラックアウトなのかホワイトアウトなのか判別できない会話を、南風涼は手探りで必死に形作ろうとする。
 まひるは優しいから。
 だから。
 その先に続く言葉を、涼はどうしても形にできない。
……優しくなんかないよ。ひかりちゃんが転校してきた時、嫌だって思ったもん」
「え? あんなに仲良さそうなのに?」
「今はそうだけど、最初は、華恋ちゃんを取られちゃいそうで。すごく嫌だった」
 なんだかずきりと胸が痛んだ。知っているけれど。彼女の気持ちは。彼女の視線の先に、誰がいるのかは。
 でも神楽ひかりだって、あのレヴューで見せたように、まひると堅い友情で結ばれている。
 涼だってそれを否定したくはないのだ、もう。
 邪魔者がどちらだったのかなんて、火を見るより明らかで、あの想いはもう日の目を見ることはない。
 想いは暗闇の中で育つばかりだ。
「っ!?」
 涼の内心を切り裂くように鋭い光が一瞬走った。しばらくして、ドォンと深く響く音が耳をつんざく。涼もまひるも思わず身をすくめる。雷だった。数を数える余裕はなかったものの、それほど遠くないと思わせる音だった。それと同時に雨脚が突然強くなる。「わっ、たたっ」慌てすぎて無意味な声が洩れる。けして大きくないひとつの傘は、さっきまでは二人の肩の大半を守ってくれていたのに、今はもう肩も胸も斜めに降り注ぐ雨でぐしょりと濡れていた。
「まっず、まひる、走るよ!」
「ま、待って涼ちゃん」
 揃って走り出したものの、相合い傘で全力疾走などできるはずもなく、かえって揺れた傘の先端から落ちた雫が二人に降りかかり、最終的に涼は諦めた。いろいろと。スマートフォンだけ無事ならいいや、と半ば投げやりに思う。
 足を緩めた涼のシャツの袖をまひるが引っ張ってきた。
「涼ちゃん、それじゃ風邪ひいちゃうよ。タオルと着替え貸すからうちに寄って?」
「うちって、聖翔の寮?」
「うん。ここからならもうすぐだから」
 ありがたいが、少し面映い。友人の家に遊びに行ったりしたことがないわけではないのに、それが他校の寮で、しかも露崎まひるの部屋だと思うと、どういうわけか気後れする。
「い、いいよ、大丈夫だって」
「だーめ。わたしがお願いして来てもらったんだもん、それで涼ちゃんが風邪ひいたらわたしのせいだよ」
 だから雨やどりしていって、と上目遣いにお願いされて、涼は先ほどとは違う種類の照れくささを感じた。
「うう……。じゃあ、お邪魔します……
 もうすぐというまひるの言葉に嘘はなく、それから数分ほどで星光館に到着した。話に聞いていた三人部屋に案内され、大判のタオルを渡される。
「ちょっと待っててね、ばななちゃんに服借りてくるから」
 まひるとは身長差があるので、彼女の洋服を借りてもサイズが合わない。同室の二人ではもっと無理だろう。背格好の似ている大場ななのものなら合うだろうと、まひるが部屋を出ていく。
 濡れた髪の毛や腕をタオルで拭いて、そのまま顔を埋めて小さく唸る。なんでこんなことに。ほんの数時間、殺陣の練習に付き合うだけのはずだったのに。ベッドとかあるし。スズダルキャットのぬいぐるみが置いてあるから、どちらが彼女のベッドかすぐ分かるし。そうか君はいつもまひると一緒に寝てるのか。いやいや別に羨ましくなんてないけど。
 涼はまひるが戻ってくるまで、頭からタオルをかぶって視界をふさいでいた。
 大場ななが貸してくれたTシャツとショートパンツに着替えて、まひるのいれてくれた麦茶をすする。雨は降っているが気温は低くなく、じめっとした熱気がまとわりついてくる。首にかけたタオルは湿っている。座っているだけでうっすらと汗をかいている涼とは対照的に、まひるの顔は涼やかだ。
「反対だね」
「え?」
「暑がりなのに『涼』のあたしと、涼しげなのにお日様なまひる。二人とも名前のイメージと逆じゃない?」
「そうかも」
 ふふ、と小さく笑って、まひるが涼の腕を取る。
「涼ちゃん、ちゃんと汗拭かないとだめだよ」
「はーい」
 ふざけて手を上げながら返事をすると、「もうっ」まひるも笑いながら首のタオルを奪って頭にかぶせてくる。
「ちゃんと言うこと聞いて」
「聞いてるってば」
 なにせ風邪をひいたら彼女のせいになってしまうらしいので、万が一にもそうなるわけにはいかない。
 汗を拭いてくれるタオル越しに彼女の指先の感触がした。
 以前触れてくれた。
 指。手のひら。
 どくりと、鼓動がひとつ、跳ねた。
「あ、ありがとまひる。もう大丈夫」
 いや大丈夫ってなに。自分で自分にツッコミを入れる。
 タオルで拭いている間、どこかの拍子に編み込んだ髪がほどけていたらしく、一筋、額に落ちた。
 あえて隠していない額を彼女はどう思っているのだろう。
 タオルを床に置いたまひるは、頼りない笑顔をしていて、迷うように涼の手首を握ってきた。
「汗かいてたのに、冷たい」
「うーん、さすがに雨で冷えちゃったかな。あ、でも平気だよ。風邪ひいたりなんかしないから」
 握った手のひらからぬくもりが伝わってきて、涼の手首を温める。
 まひるは手を離してくれない。
「そ、そういえば、愛城さんと神楽さん遅いねえ」
 ナイトアクアリウムは、ナイトとついてはいるが夕飯時くらいで終わるはずで、そろそろ帰宅の連絡が入ってもいいはずなのだけれど、まひるのスマートフォンは沈黙したままだ。
「華恋ちゃんたちも、雨で足止めされちゃってるんじゃないかな」
「あ、そっか」
 彼女たちは傘を持っていただろうか。水族館で傘を売ってるものだろうか。どちらもなければ、なるほど動けなくなっているということも、あるか。
 まひるの目線が窺うように上がる。涼はその視線になにかが込められているような気がしてどぎまぎしたけれど、それは自分の願望なのかもしれなかった。
「今日ね」
「うん?」
「わたしも一緒に行きたいって、言いたかったの」
 あまりにも色々と省略された言葉だったが、その省略は意図的なものではなくて、けれどきっと彼女が言いたくないから省略された。
 「うん」なんの理解もなく、涼はただの相づちとして、そう言った。
「わたしもくらげ見たいって、言えばきっと、二人ともいいよって笑ってくれるの。分かってる」
「うん」
「ごめんね。ごめん、涼ちゃん」
「うん」
「ひとりになりたくなかったの」
「うん」
「華恋ちゃんが好きなの」
「知ってる」
 強がりの隠れ蓑に使われたのだと、分かってなお涼は怒りを覚えなかった。
 だって、彼女の手はあたたかいし。
 こうして、彼女を独り占めできているし。
「ねえまひる。おでこ触ってよ。前みたいに」
 手首を掴まれたままねだると、まひるが顔を上げて、泣きそうに唇を歪めた。
「涼ちゃん、ずるい」
「まひるよりはずるくないよ」
「わたし、華恋ちゃんが好きなのに」
「それでもあたしはまひるに触ってほしい」
 ため息なのか、なにか言葉になるはずのものだったのか、まひるの口から吐息が洩れた。
 ゆるゆると、手首を掴んでいた手が這い登ってくる。乱れた前髪をかきわけて、さっきの髪を拭いてくれた優しさはなくなって、それなのに涼は口元がゆるむのを止められない。
 おずおずと乱暴に指先が触れる。
「もっと。もーっと」
 額に、頬に、首筋に。南風涼の輪郭を露崎まひるの手がたどる。借り物のTシャツは襟ぐりが伸びていて、裾もよれている。だから隙間がたくさんあって、なにかの間違いで手が滑り込んでも仕方がないくらい隙だらけだった。
 真っ暗闇で、手当たり次第に縋るように、涼はまひるの身体を抱きしめた。傷つけないように優しく、優しく。呼応する彼女の手のひらが背を撫でてくる。シャツの裾から侵入してきた手のひらは、ねだればねだるだけ触れてくれる優しくない恵みだった。
 それは、底なしの堕落であり、それと同時に青春のいちページにすらならない、いくつかのセンテンスがあるだけの段落でしかなかった。
 南風涼と露崎まひるは、お互いに太陽を見失って真っ暗闇の中を彷徨していた。たぶん二人とも何度も願いを叫んでいて、けれどその咆哮は聞いてほしい相手には届かなかった。たぶん声を上げている方向が違うせいだろう。
 それがどうした。
 無理矢理に、南風涼は露崎まひるに自身を触れさせる。見えなくても見てなくてもここにいることが詳らかになるように。知らしめる。彼女の持つ世界なんて知らない。彼女が出す正解も知らない。ただ、ただ。
 暗闇の先に、熱のない青があると知っていてくれたら。
 それでいい。



 つまりは通過儀礼のようなものなのだ。南風涼がスズダルキャットに嫉妬しなくなるための。おそろいにした帽子を屈託なくかぶるための。



「涼ちゃん、腹筋すごい……
「鍛えてるからねー」
「華恋ちゃんに見習ってほしいな。華恋ちゃん、最近夜中にラーメン食べたりしてるからちょっと心配なの」
 涼の腕の中で、すん、と鼻から息を洩らすまひる。涼は腹を撫でさすられながら苦笑いを浮かべる。
「ま、うちら舞台少女は運動量も多いしさ。ちょっとくらい食べたってへーきへーき」
「そうかなあ。それにしたって食べ過ぎな気がするけど」
 ばななちゃんにダイエットメニュー作ってもらって、トレーニングもしたほうがいいと思うんだ。困り顔で言う。
「愛城さんがぷくぷくになったら、まひるは嫌?」
「うーん、困るけど、スズダルキャットみたいで可愛いかも」
 猫耳を生やし、シュールな顔つきになった愛城華恋を想像して、涼が思わず吹き出す。「けど、それはちょっと困るなあ」
「まひるの好きなものが二つも合わさったら太刀打ちできなくなっちゃう」
「そ、そんなことないよ」
「だといいけどね」
 念のため、減量に重点を置いたトレーニングメニューを作って愛城さんにあげようかな、と、涼は胸のうちだけでつぶやく。おそらくはそんなことをしなくても、そしてまひるが何も言わなくても、神楽ひかりが一言なにか忠告すれば、彼女は生まれ変われるのだろう。
 だから本当に、これは戯言だ。他愛もない、睦言みたいな世間話。
「どうせだったらまひると一緒にしたいな。そうだ、またバトンやろっか?」
……やだ」
「だめかー」
「怪我、してほしくないもん」
 ことこれに関しては信頼が皆無である。けれど触れている手が少し優しくなったから、それでいいかと涼は目を伏せて笑う。
 飽きることを知らないみたいに、二人は抱き合って、露崎まひるは南風涼に触れていて、南風涼は時々じゃれるように露崎まひるの髪を指で梳いて、それでも自意識は混じり合わなかった。
 それが少し悔しくて、なにかひとつでもルールを変えてみたくなる。
 わざと甘えるように彼女の瞳を覗き込んで、首をかしげる。
「一回だけ、だめ?」
「だめー」
「怪我しないように気をつけるから」
「だめったらだめ」
 その物腰からはあまり想像がつかないが、彼女はとても頑固だし、こうと決めたらなかなか動かない。
 だから好きな人がいるのに違う人のことも好きになってしまうと自縄自縛で動けなくなってしまう。
「まひるー」
「もう、涼ちゃんしつこい」
 ぺちんと唇を叩かれた。「むむ」仕返しにその指へ噛みつく。「うひゃあっ」さすがに度肝を抜かれたらしく、まひるが妙な悲鳴をあげた。
「涼ちゃん!」
「はーい」
「ふざけないのっ」
 「もうっ」ぷんすかしているまひるが可愛らしかった。腕を緩めて隙間を作り、額を彼女の頭頂に押し当てる。
 こうすると何も見えない。彼女の顔も、スズダルキャットも、彼女のものじゃないベッドも、なにも。
 それが南風涼と露崎まひるの逃げ場だった。手をつないで目を閉じて歩くことにした。手に手を取って逃避行。けれどどこにも逃げられやしない。
 見えない傷。見えないのはふさがったからで、穴が空いたらふさがるもので、失敗して入りたかった穴はもうとっくにふさがっていて、それ以外に穴はなくて、だからどこにも落ちなくて、堕落は、深さのないただの闇だった。
 それでもいつか太陽が、まばゆいばかりの真昼が、頭頂のその真上から降り注ぐ日差しがあればいいと、そう、願っていた。
 誰が?
 誰かが。
「まひるー」
 まるで愛してるという言葉みたいに名前を呼んでみる。
 汚れて卑俗な感情は、彼女の名前でくるむとずいぶんきれいに様変わりして、なんだか少し眩しくなった。
「なあに、涼ちゃん」
 そう応える彼女の言葉もやっぱりどこか汚れていて、けれど何とも混じり合ってはいなかった。
 いつの間にか雨はやんで、澄んだ青空が広がっていた。
 その光景は、愛してるという言葉に似ている。