黒竹
2022-05-30 21:57:10
11898文字
Public 少女☆歌劇レヴュースタァライト
 

#4 花は紅

【少女☆歌劇レヴュースタァライト】【ふたかお】【春に咲き匂う】

 ぷくりと秀でた膝頭、その裏側に手をあてがって持ち上げる。瑞々しくすべらかなふくらはぎのラインをたどるように手のひらをすべらせて導く。少しでも力を込めれば赤く跡が残ってしまいそうな白い肌は抵抗なく導かれる。くるぶしの窪みまで到達して若草よりまだやわい踵を捧げ持つ。台座と化した自らの腿に乗せると膝下がゆるやかに脱力した。ビロードに包まれたガラスの靴を想起させる。磨かれた素足は小指の根本に入るしわまで艷やかだった。薄皮一枚で守られた果実にも似て、どこかをプツリと刃先で破れば芳醇な果汁がこぼれ落ちそうである。
 足先についた淡桃色の爪。小さな貝殻じみたそれに、逆手に持ったガラスの爪やすりを添える。風呂上がりの爪はふやけて柔らかい。一本一本、ゆっくりと根気よく削っていく。彼女の爪はどこにも無駄な部分のないきれいな楕円形をしている。
 爪を削られている間、彼女は手慰みに扇子を開いたり閉じたり回したりして遊んでいる。形を整えて表面を磨いてケアオイルを塗り込んで絹の端切れで拭うまで、花柳香子は漫然と無為な時間を過ごす。
 月に一、二度、石動双葉はこういう時間の過ごし方をしていた。香子と会話をしながらすることもあったし、今日のように無言で行うこともあった。どちらも特に理由があるわけではなく、話したいことがあれば話すし、そうでないなら無理に話そうとしないだけのことだった。
 両足の爪を磨き終えて、双葉がうんとひとつうなずく。メンテナンス作業がわりあいに好きな双葉だ。単純にきれいになるのが気持ち良いし、それが己の手によるものだというのも満足度を上げる。バイクのメンテナンスも似たような心持ちだが口にしたら怒りそうなので言ったことはない。
 引っかかりのひとつもない土踏まずを刺激してやりながら、ふぅむと唸る。
「普通しないよなあ」
 独り言に反応した香子が顔を上げる。広げた扇子を指先に引っかけてくるくる回しながら不思議そうな表情になった。
「どないしたん?」
「きょうだいでもないのに足の爪切ってやったりしないだろ、普通」
「いやなん?」
「いやじゃないけどさ。ていうか、けっこう楽しいんだけど」
 いつぞや、何の気なしにクラスメイトにその話をしたらずいぶんと奇妙な顔をされたのだった。自分たちが納得ずくならそれで良いと双葉も思ってはいるが、あの表情に気恥ずかしさを感じたのも事実だ。
 香子が扇子で口元を隠す。据わった目をどこへとなく向け、「あほらし」平板な声音で呟いた。
「普通て、そないなもん気にしとったら舞台少女なんてやってられまへん。普通なことなんておもんないわ」
「ま、お前はそうだろうけどな」
「双葉はんはうちの言うことだけ聞いとったらええんよ」
 小悪魔のような、支配者のような笑んだ視線。「へーへー」惑乱されそうで、双葉は呆れた演技でやり過ごす。
 重症だ、と我ながら思う。致命傷かもしれない。
 そしてこういう部分が自分たちの違いなのかもしれない、と感覚する。
 才に恵まれ、誰と比較するでもなく自己を確立できる彼女と、努力を重ねて他者と比べることでしか結果を確認できない己と。
 石動双葉は花柳香子に勝てない。
 それは実力とか状況とか勝ち負けの定義とかの話ではなく、ただただ、どうあっても、勝てない。たとえレヴューで彼女より輝くことがあったとしても、勝てたとは言えない。
 そういうふうにできあがっている。
 石動双葉にかけられて久しい呪いの正体である。
「ほれ、顔やるからこっち来い」
「ん」
 手招きに従って香子が双葉の膝を枕に寝転がる。双葉は逆向きになった幼馴染の顔を見下ろしつつ、マッサージクリームをたっぷりと手にとって体温をなじませる。香子の実家から送られてくるクリームは代々贔屓にしているメーカーのもので、興味本位で値段を聞いたまひるはスズダルキャットのぬいぐるみに換算して卒倒しそうになっていた。双葉は惜しげもなくそれを香子の頬に額に鼻筋にこめかみに顎に塗り込める。伸びの良いクリームは双葉の指先と香子の頬の境目をあいまいにする。
「んん?」
 あいまいだった感触に違和感を覚え、双葉が訝しげなしわを眉間に作った。通り過ぎた指先を戻す。それから目を凝らしてきめ細かい肌の表面を観察した。
「──ああっ」


 突然、派手な音を立てて部屋のドアが開き、星見純那と大場ななは揃って目をまん丸くしながら入り口を振り向いた。
 ノックもしない不躾な乱入者は「ばなな!」と奇っ怪な叫び声を上げて拳を握りしめている。
 無論、ばななというのは大場ななのニックネームであるし、乱入してきたのは不審者などではなく二人ともよく知った人物で、もっと言えばクラスメイトだし、はっきり言えば石動双葉だ。
「ど、どうしたの? 双葉ちゃん」
 ベッドでレシピブックを眺めていたなながぴょんと飛び起きる。純那もすわ事件か事故かと気色ばんだ。
 飛び込んできた双葉は奥歯を噛み締め、ドアのへりに握った拳を強く押し当てて、腹の底から声を絞り出した。
「しばらく、香子におやつをやらないでくれ」
……はい?」
 緊張していたななの首がコミカルに傾く。「今日のおやつはなんだった?」「バナナドーナツだけど」「それだよ!」舞台少女らしく大仰なしぐさで首を振る双葉。
「えっと……ちょっと、話が見えないんだけど、どうして香子ちゃんにおやつあげちゃいけないの?」
 ななが助けを求めるように純那のほうを見たが、こちらも困ったように首を振るばかりだ。
 のしのしと迫ってきた双葉がななの両肩に手を置き、重々しく表情を歪める。
 プレッシャーにやや身を引きつつ、ななが人差し指を立てた。
「ダイエット?」
「いやそっちはまだ大丈夫」
「体重、把握してるんだ」
 純那のつぶやきには反応せず、ななの肩に置いた両手をわななかせて、ゆっくりと口を開く。
……にきび、が」
「はい?」
「さっき見つけちまったんだ。……香子のおでこに、にきびができてた」
 「それだけ?」という純那の声はやはり無視された。
 ななは「あらー」と、消え入りそうな声量で、相づちともなにともつかない調子で言う。「治るまで甘いものを控えさせたいってことね?」「ああ」重々しくうなずく双葉。
「そういうわけだから、頼んだぞ、ばなな」
「頼まれました」
 掴みどころのない笑顔でうなずくななに、ようやく双葉がほっと息をつく。「私たちくらいの年齢でにきびができるのなんて珍しくないと思うけど……」さっきから誰も聞き入れてくれなくて純那はちょっと悲しい。
 憂いを払った双葉が満足げな表情を浮かべて帰ろうとしたところで、
「おでこにできるにきびって、想いにきびだっけ? 花柳さん、好きな人でもできたのかしら」
 からからと軽やかに笑いながら言われた純那の言葉に一瞬双葉とななの時が止まった。ほんの一瞬だったので言った本人はまったく気づいていない。
 純那にしてみればまったくの冗談だったし、ただちょっと言ってみただけの他愛もない言葉だった。それだけに二人の舞台少女がごまかすのも簡単だ。
「なんだよ委員長、まだそんなの信じてるのか?」
「かわいいね、純那ちゃん」
 からかうように頬をつつかれて、「えっ、なっ」不意の空気に純那の声が半分ほどひっくり返る。
「し、信じてるわけないでしょ! 中学の頃、そういうふうにクラスの子が言ってたのを思い出しただけよっ」
 もうっ、と頭から湯気を出す純那に二人で笑って、双葉はドアの向こうに消えた。
 と思ったらひょいと顔だけを出してきて、
「マジで頼んだぞ」
 真剣な眼差しで告げてくる。
「はい」
 先ほどと同じ調子でななが応えると、今度こそ安心したのか、姿が見えなくなってから廊下を歩き去っていく音が聞こえてきた。
 足音が小さくなってから、純那は表情を消して天井を見上げた。
「比較的常識人だとは思うけど、石動さんも相当だと思うのよね」
「香子ちゃんが絡むとね……
 ななが乾いた笑いを小さく落とす。
「でも少し羨ましい気もするわね。あんなふうに小さい頃からずっと一緒だった相手なんて、私はいないもの。他の誰よりもそばにいて、その人のことを知ってるってどんな感じなのかしら」
「うん……わたしも一人でいることが多かったから」
 両親の反対を押し切って進学し、戦い続けている星見純那と、学園に来るまで、大切なものを守るために孤独を強いられた大場なな。
 彼女たちには、花柳香子にとっての石動双葉のような、絶対の一人を得る機会がなかった。
 あの、無条件の庇護と惜しみない愛情を誰かから受けられたら、それはどんなにか心地良いものだろう。
「ああでも、これから分かるのかもしれないわ」
「え?」
「私、ななとずっと仲良しでいられる自信があるもの。きっとこの先どこかで、ななのこと私が一番詳しくなるから」
 いとけない笑みがななに届く。ななはどこかきょとんとした、呆気にとられた表情で純那の瞳を覗いている。
 浮かべる笑顔も、仲良しという無邪気な表現を選ぶところも実に彼女らしい。
 ななが何も返さないので純那の眼差しがわずかに曇った。先ほどのようにおかしなことを言ってしまったのだろうかと不安になっている瞳。
「いえ、その、私が勝手に思ってるだけなんだけど。ななもそう思ってくれてたらいいなって……
 頬に差した赤みに気づいているのかいないのか。ごまかすようにパタパタと両手を振りながら眼鏡の奥で視線を泳がせる純那に、ふっと、ななの口元がゆるむ。
 満天の星空を見た時のような、ぐっと胸に迫る感情を、ななは舌先で覆い隠した。
「うん」
 おそらくはもっと何か言うべきだったのだろうけど。
 その一息で精一杯だった。



 我慢の限界が近づいていた。
 額に現れたたったひとつのにきびのために、飴ちゃんはすべて隠され、双葉が買ってあった駄菓子は天堂真矢と西條クロディーヌに献上され(概ね真矢が食べた)、大場ななには泣き落としが通用しなかった。
 そうして三日が過ぎていた。三日! これはもう永遠と呼んでも差し支えない。
 花柳香子とお菓子は密接不可分である。どちらかが消えればもう一方も消える運命。これだけの長きに渡りお菓子と引き離された香子の存在は風前の灯火となっていた。
「うちはもうあかん。堪忍な双葉はん、うちは旅立ちます……
「そんなわけねーだろ。いいから手を動かせ、手を」
 ぐったりと机に突っ伏している香子のつむじに冷たい声が刺さる。香子の横で双葉は小道具の剣を片手に殺陣の型をなぞっている。机の上には短冊状の紙束とハサミ。顎を机上について、香子が口をとがらせた。
「チョキチョキ飽きたぁ」
「紙吹雪なんてすぐ作れるだろ。みんな大変なんだから協力しろよ」
 定例会の準備は佳境、舞台創造科の作業がやや遅れており、双葉のように道具の出来栄えについて確認を頼まれたり、香子のように小道具作りの手伝いに駆り出されたり、教室は実に騒々しい。
 すっかり手が止まった香子の頭を剣で軽く叩く。「いたっ、暴力反対やで!」「そんな強く叩いてねーよ」言い返したものの、逆の手で優しく撫でてやる双葉だった。
「はあー、飴ちゃんのひとつも食べんとやる気出ぇへんわ。双葉はん、代わりにやっといておくれやす」
「断る。あたしだって暇じゃないんだ」
「せやったらおやつ」
「駄目だ」
 むうぅ、と香子の口が尖った。双葉の甲斐甲斐しい世話のおかげか、にきびはもう赤みも引いて、目視では見つけるのも難しい。ほぼ完治と言ってもいい状態なのに、双葉はおやつを解禁してくれない。
 身体を起こそうとしないまま、のたくたとハサミを動かす。双葉はやれやれと首をさすり、様子を見に来たB組の小道具担当と話し始めた。
 やる気のない姿勢で紙吹雪を生産しつつ横目で幼馴染を見やる。ずっと一緒にいて誰よりも確かだったはずのその輪郭は少し前からぼやけている。
 チョキン、と刃先を噛み合わせると、白い紙束が細かく舞った。
 双葉は剣の柄を指し示しながら握ったり離したりして、実演を交えて話し合っている。教室が騒々しくて会話の内容は聞き取れない。
 香子は握ったり開いたりしている彼女の手を見ていた。
──手ぇ、
 今は目に見えるものがあまりにも不確かで。
──つないでくれへんかな。
 触れられたら少しだけ安心するから。
 石動双葉は花柳香子が願えばなんでも叶えるけれど、口に出して願わなければその限りではない。
 喉から先に進まなかった願いは、どこにも届かないまま、香子の吐息とともに消えてしまった。
 紙束をすべて切り終えると、身体を起こしてふあぁと息を吐く。周囲はまだまだ忙しそうだが香子はこれ以上働きたくなかった。おなかもすいたし。
 ばななはんどこやろ、と首を巡らせて探すが、長身で目立つはずのクラスメイトの姿は見えない。俳優育成科に所属しているが、脚本見習いでもある彼女なので、隣のクラスにいるのかもしれない。その場合ちょっと困る。自慢ではないがB組とは未だに壁のある人見知りなのだ。単身乗り込む度胸はない。かといって双葉を盾にもできないのがつらいところだ。ななを探している理由はおやつをねだるためなので、先ほどあれだけ頑なだった堅物を連れていってはもらえるものももらえなくなってしまう。
 とりあえず、廊下から中を覗いてみようと立ち上がる。B組にいるかどうかはまだ分からないし、そこにいたとして呼んだら来てくれるかもしれない。
「あれ、香子ちゃんどこ行くの?」
 衣装の細かい部分を調整していた華恋が、後ろを通った香子に気づいて声をかけてきた。
「ばななはん探しとるんどす」
「ああ、ばななだったらじゅんじゅんと図書室で脚本の直しやってるよ。最後の決闘のところをちょっと変えたいからって」
「あら、おおきに」
 これは運が良い。図書室なら双葉の目も届くまい。昨日はだめだったが、三日も経ったのだ、ななだって仏心を出してくれるかもしれない。香子は洋々と図書室へ向かう。
 みんな舞台の準備に追われているので、図書室はひと気が少なかった。書架の間に人影はなく、閲覧席にいくつかのグループが散らばっている。首を伸ばして目当ての友人を探す。閲覧席の最奥、こちらに背を向ける形で腰かけている二人を見つけた。ななの特徴的な髪が揺れて横顔が見える。
「これをこうしちゃうと、第二幕のここと辻褄が合わなくなるね……
「そうね、ここも変えたほうがいいみたい」
「だったら演出もこうしたほうが」
 ななと純那は小声ながらも白熱した議論を繰り広げているようだった。やや気が引ける。ここで「ばななはん、おやつおくれやす」などと能天気に割り込む胆力を香子は持っていない。一段落するまで待っとこか、と書架の陰で様子を伺う。
 二人とも香子には気づかないまま、脚本と資料をためつすがめつ、新たに書き込んだり書いたものを消したり、セリフを読み合わせてみたり忙しそうだ。
 いつまでかかるのだろうと気を揉みながら覗いていたが、それほど待つこともなく、ななが嬉しそうに脚本を閉じた。
「うん、すっごく良くなったと思うわ。ありがとう、純那ちゃん」
「私も楽しかった。いつもはななの書いた脚本を読ませてもらって感想を言うだけだったけど、こうやって二人で一緒に書くと、新しい発見があって面白いわね」
 角度の関係で純那の表情は伺えないが、その声音だけで浮き立っているのが分かる。仲のよろしいこと、と香子はやや揶揄にも似た感想を胸の内でいだく。
「いつかコンビで脚本家デビューできたら面白いかも。コンビ名、なににしよっか」
 悪戯な調子で思いつきを述べる純那に、ふふりと吹き出してななが相槌を打った。
「でもわたしは、やっぱり純那ちゃんには主演してほしいな」
「そう?」
「うん。いつか、純那ちゃんのためのお話を書いてみたいの」
「ええ? 私のためって……なんだか恥ずかしいわね」
「本気よ?」
「じゃあ……その時は精一杯演じさせてもらうわ」
 頭に手を当てて「えへへ」と笑う純那の、その視線を受ける大場ななの左目。
 花柳香子は、あれ、と小さく目を瞠る。
 柔和な、人好きのする、人畜無害そうな笑顔。純那が筆入れにペンをしまっている。そのややうつむいた首の角度はうなじを露わにしていて、ななの視線はそこから少し外れている。
 すみれの花がほのかに香った。
 あの眼差しを、花柳香子はよく知っている。何度も見ているし何度も受けているし何度も見逃した。
 知っていたけれど、識らなかった。
 ストンと、腹の底になにかが落ちた。
 腑に落ちる、というやつ。
──なぁんや。
 最初に思ったのはそれだった。
 曖昧だった輪郭と掴みきれない小さな手と香らない桜と。
 そういうものすべてに対しての感想だった。なぁんや。
 知らず知らずのうちに、唇が尖る。
 そんなのは。
──おもんない。



 拗ねて逃避するのは得意技である。幼い頃から磨き続けたライフワークだ。
 殺陣部屋には誰もいない。畳の芳香が気配程度にただよう。壁にもたれかかり、足を投げ出して怠惰に中空を眺める。
 と、ドアが開く音がした。香子は目線だけでそちらを見やる。
「あ、いたいた。双葉が探してたわよ」
「なんであんたやの」
 出会い頭のブーイングに西條クロディーヌが苦笑する。「知らないわよ」
「双葉ほっぽってなにしてるの?」
「なんでもあらへん」
「そう? ただのサボりって感じでもないけど」
 腰に手を当てて、小さな子どもを見るような目で見下ろしてくるクロディーヌを、香子は下から居丈高に睨み返す。
「うち、なんでクロはんと喋ると落ち着かんようなるのか、ようやく分かりましたわ」
「ん?」
「クロはんがうちより双葉はんのこと知っとったからや」
 わずかにクロディーヌの両目が細められた。何かを見透かそうとしているような、ラベンダー色の目。
 香子はすぐに彼女から目をそらしたが、それは萎縮や後ろめたさからではなかった。
 分かってしまったから、彼女の存在が重要ではなくなった、というだけのことだった。
 クロディーヌは指先を自身の顎に当て、軽く撫でて「ふぅん」と言った。
「そっか」
 大切な二人の世界。二人で作って二人で守って二人で遊んでいた楽園。
 それを唯一壊せるのが西條クロディーヌだった。
 だから花柳香子は彼女だけを恐れた。
「それで、あなたはどうする? 花柳香子。このままがいい? それとも」
「クロはんに教える義理なんかありまへん」
 つんと澄まして言う香子。クロディーヌが肩をすくめた。
「ここにいるって双葉に伝えましょうか?」
「けっこうどす。そないなことせんでも双葉はんはちゃんと見つけるさかい」
「そう」
 誰がしたのか知らないが、彼女たちの足元はボロボロに崩れていた。クロディーヌだったらためらうくらいの崩れぶりだった。わざとじゃないのかも、とクロディーヌは密かに推測する。
 ま、いいか。胸のすく崩壊を眺めながら思う。
 王国が滅んだところで世界は廻る。



 いよいよ逃げたかと歯噛みしながら石動双葉は花柳香子を探している。最後に見かけた華恋の証言に従い図書室へ行ってみたが幼馴染の姿はなかった。とはいえ学校の敷地から出てはいないだろう。寮に帰ったりもしていないはずだ、彼女にそんな根性はない。
 あのレヴューから少しはましになったかと思っていたが、やはり人はそうそうすぐに変われるものではないらしい。やれやれと呆れながら、双葉もまた昔から変わらず香子を探している。
 図書室から戻る途中で西條クロディーヌとすれ違った。「あ、クロ子。どっかで香子見なかったか?」クロディーヌが悪戯な光を瞳に宿す。
「香子なら殺陣部屋でサボってるわよ」
「やっぱりか。ったく……。サンキューな、クロ」
 向きを変えて殺陣部屋に一目散。おかげでクロディーヌの「これくらいはね?」という児戯に似た声は聞こえなかった。
 しんとした部屋の片隅で、香子は人形のように動かない。眠っているのかと思ったがまぶたは上がっていた。しかしどこを見ているというわけでもない。ただぼんやりと向こう側の壁を眺めている。
「おい、香子。探したぞ。何やってんだよみんな準備してんのに」
 説教のひとつもかましてやらねばなるまいと意気込んで近づくが、香子はどこ吹く風、双葉と目を合わせようともしない。
 なんだよ、とムッとしながら隣に座る。
「お菓子禁止したくらいで拗ねるなよ」
「そんなんやない」
「じゃあなんだよ。B組の手伝いがいやなのか?」
「ちがう」
……はぁー……
 何を聞いてものれんに腕押し。ため息も出ようというものだ。
「ため息つくと幸せが逃げますえ」
「誰がつかせてんだよ」
「うちや」
「分かってんじゃねえか」
 香子が自身の膝を土台に頬杖をつき、双葉を一瞥した。
 互いの耳朶にまとわりつく桜香。隣同士に座ればどこまでがどちらから発せられているのかも分からない。双葉は香子の妙な気配を訝った。いつもなら何が不満なのか矢継ぎ早に言ってくるのに、今は視線だけが刺さってくる。
 不意に香りが流れて。
「──うわあ!!」
 耳。
 耳の、一番外側の、硬くて薄い部分。
 そこに、香子の歯が立てられた。
「な、なななななにすんだ!」
 いくら幼馴染とはいえ、さすがに耳を噛まれたことはない。動揺のあまりバランスを崩して畳に倒れ込んでしまう。
 腰のあたりに奇妙な感覚を覚えてている。快と不快の中間のような、今までの人生で一度も味わったことのない感覚だった。顔が熱い。熱が、この熱は、どこから。
 倒れ込んだ視線の先、眼前に紺碧の髪が揺れる。香子の両腕と床に閉じ込められて、いつもは柔らかな印象を持たせる山吹の瞳が強く見据えてくる。
「かっ……
「おもんない」
 吐き捨てるように、香子が言った。
「な、なにが」
「全部や」
 あんたの全部や、双葉。
 焼いた鉄串を腹に刺されたような錯覚をする。彼女が放ったのはそういう言葉だった。
 見下ろしてくる視線に込められているのは失望だ。
……っ」
 双葉が一度あえぐ。耐えがたい焦燥感が襲いかかってくる。
 ふと、香子の眼差しから険が抜けた。
「あんたがおらんと、なんもおもんない」
「な、なんだよそれ。別にどこにも行ってないだろ」
 また視線に生まれるわずかな失望。双葉は混乱する。
「双葉はん、うちのことどう思っとる?」
「え? そりゃ……大事だよ」
 桜の花びらが舌に乗った。一枚、二枚四枚八枚十六枚、すぐに口の中が花びらでいっぱいになって溢れ出す。
 床に手をついたまま、香子が肘を曲げた。さらに二人の顔が近づいて、花びらもそれに伴ってどんどん嵩を増していく。
 追い詰められていく。
 双葉もすでに気づいていた。
「どんくらい?」
「だから、一番、お前のことが大事だ」
 言えなくなった言葉。
 呼べなくなった名前。
 子どもの頃はなんのてらいもなく言えていたのに。
 首筋に軽やかな髪の感触。いつも自分が手入れをしている、自慢の、彼女の。
 自らの両手はだらりと床に落ちたままだ。
「双葉の阿呆」
……なんだよ」
「ちゃんと言うて」
 石動双葉は。
 花柳香子が願ったら、叶えなければならない。
 観念したように目を閉じる。
 ここまでか。
 あの平和で穏やかな、子どもの王国は。
 桜の花びらは風に舞い上がって、二人にその薫香だけを届けた。
 石動双葉を花柳香子の花香だけが包んでいる。
「──お前が」
 むうっと香子の頬が膨らむ気配。
 最後の小さな抵抗も許されなかった。
 一度唇を結んで、開く。
「香子が好きだ」
「──んふ」
 我慢しきれなかったのか小さな笑声が聞こえて、双葉もつられたように笑った。
 見たくないものは見ないふりをして、考えたくないものは考えないようにして、壊したくないものだけ閉じ込めていた王国は、消えてしまった。
 それを成長と言えるとして、まだ石動双葉は両腕を恋の相手の背中に回せない。
 香子が上体を反らして、鼻歌でもうたいそうな顔で双葉の双眸を覗き込んだ。たぶんあの色を湛えているんだろうなと思うと気恥ずかしかったが、いまさらごまかせるものでもない。
「なんで隠しとったん」
「そりゃ……家のこととかいろいろあるだろ」
 一人でもやっていけるわ。西條クロディーヌに言われたセリフが脳裏をよぎる。
 もちろん彼女は双葉の恋心を指して言ったわけではないが、あの言葉が絶妙に双葉の奥底を絡め取ったことは確かだ。
 そうなのだろう、と思った。一人で生きて一人で死ぬことも、己には可能なのだろうと。
「お前が世界で一番煌めくところを、一番近くで見られたら、そうしたらあたしは一人になるんだろうって」
 左目が、意思とは無関係に潤む。
 すべて納得して受け入れていたはずなのに、そこだけが子どものまま、頑是なく涙を落とす。
 香子はその涙を拭うでもなく止めるでもなく、ただ流れるに任せて、それからペチンと双葉の額を叩いた。
「いてっ」
「なに言うてはるの」
 つまらなそうに見下ろして来る香子の視線にさしもの双葉もひるむ。
「あんたがうちのこと諦めてどないするん?」
 それから彼女は、幼い頃から人々を、双葉を魅了してやまない、花開く笑みに変わり、そっと双葉の頬を撫でた。
 むせ返るような桜の香り。
「あんたには、うちしか似合わへんのに」
 それは。
 いつからなのかは知らない。いつからだったのか考えたこともない。いつからだろうと考えたところで意味のない。
 紛れもない、花柳香子の恋だった。
「ははっ」
 これには思わず失笑。
 早く彼女に大人になってほしかった。
 二人だけの子どもの王国を卒業して、大人の世界へ飛び込んで、そこで一番煌めいて、一刻も早く自分以外の誰かを選んでほしかった。
 それしか、この呪縛を逃れるすべはないと思っていた。
 それなのに、現実はこうだ。
 笑うしかない。彼女に阿呆と言われても仕方がない。
 がんじがらめにされている鎖の一本すらも、彼女は断ち切ることを許さない。
 だから石動双葉は、何重にも鎖が巻きついて隙間のない腕を大儀そうに持ち上げて、愛しい愛しい、華奢な背中をひどく優しく包み込んだ。
 ようやく、そうできた。




「えーっと……まひるちゃん、なにしてるの?」
 特別教室へ続く廊下の真ん中で仁王立ちしている露崎まひるに、愛城華恋がそっと尋ねる。
「よく分からないんだけど、西條さんに『あなたは今から廊下を守る女神よ』って言われて……。ここから先は誰も通しちゃいけないんだって」
「へー? いったい何があるんだろ?」
「さあ……。ばななちゃんと二人で殺陣部屋の方に行ったけど、秘密の特訓とかかな?」


「やれやれ。ずいぶんかかったわね」
「二人ともすごいね。十何年越しの純愛かあ」
「ほんと」
「今日はお赤飯かなー」
「やめときなさい。双葉が本気で怒るから」




 アラームが鳴るやいなや、双葉の右手がそれを止める。すっきりとした顔で起き上がり、洗面所で洗顔と歯磨きを済ませたのち、手早く身だしなみを整えて香子を起こしにかかる。
「香子ー。起きろー朝だぞー」
 掛け布団を剥ぎ取ったら途端に身体が丸まった。そうはさせじと肩に手を置いて力任せに揺する。
「起ーきーろ! 遅刻するぞ!」
「うちは天才やから、いちんちくらい休んでも平気や……
「平気じゃない!」
 まったく、と肩を怒らせて無理やり引き起こした。「んああぁぁ」恨めしげに香子が唸り声を上げる。
 なんとか目を覚ました香子を眼の前に立たせ、パジャマのボタンを外して脱がせる。
「うあぁ寒いいぃぃ」
「ちょっとくらい我慢しろ」
「いややぁ」
 寒い寒いと騒ぐ香子に閉口しながら、それでも着替えを進めていく双葉。寒いのはこちらも同じだと言ってみたことがあるが、筋肉量の違いを根拠に自分の方が寒さをより感じているはずだと訳の分からない主張をされたので、それ以来この話題には深く入り込まないようにしている。どうせこのわがままも春までの期間限定だ。
 着替えが終わればヘアオイルで寝癖直しとブラッシングをしてやり、一通りの準備ができたらバイクに乗せて学校まで送る。
 そうだ。特に何も変わらなかった。二人だけの王国は消えてなくなったのに世界は昨日と同じように存在していて、自分たちは聖翔音楽学園の生徒で、毎日学校に通って授業を受けねばならず、もうすぐ定例発表会があるのでその準備もしなくてはいけない。一週間前も昨日も今日も、そして明日もそうして過ごす。
 花柳香子は今日も眠い眠いと石動双葉の背中にもたれ、石動双葉はその重みをただただ受容する。
 そうして日々は過ぎていく。
 ただひとつ変わったことと言えば、花柳香子が西條クロディーヌに喧嘩を売らなくなった、それくらいのものである。