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黒竹
2022-05-30 21:56:27
10800文字
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少女☆歌劇レヴュースタァライト
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#3 捩花
【少女☆歌劇レヴュースタァライト】【ふたかお】【春に咲き匂う】
壊れませんか? この足元は。
「んぎいいぃぃぃ〜〜〜」
寮の廊下で花柳香子が歯を食いしばって右腕にしがみつき。
「ちょっと香子、いい加減離しなさいよ」
西條クロディーヌが逆の腕を掴んで引っ張り。
「
…………
」
中央の石動双葉はこの世のすべてに呪詛をかけそうなうんざり顔で二人に引っ張られている。
力のバランスが崩れるたび、双葉の身体はあっちに傾きこっちに傾き、やじろべえのようにフラフラしつつ、どちらかに倒れることもない。そろそろシャツの袖が伸びそうである。気に入っている一枚であるのでそれはなんとか避けたい。
どうしたものか、と思い悩んでいると、背後からさらに別の声がかかった。
「先に手を離した方が本当のお母さんよ」
思わず二人ともパッと手を離した。双葉の体感的にはほぼ同時、どちらが真の母親であるかは判断がつかない。
「いや、どっちも親じゃねーし」
「相手を想う気持ちが大切ということよ。で、三人でいったいなにしてるの」
大岡越前、あるいは救世主の星見純那が訝しげに眉をひそめながら尋ねてくる。自由の身となった双葉は、引っ張られてずりおちたシャツの襟を直し、首の後ろを撫でながらため息をついた。
「まあ、あたしが悪いんだけどな
……
」
後ろめたそうな顔で訥々と説明するところによると、先日クロディーヌの買い物に付き合う約束をとりつけていたのに、それをうっかり忘れて香子が見つけた甘味処の限定和菓子を食べに行こうと出かける直前でクロディーヌと鉢合わせ、ダブルブッキングが判明した。そして両者譲らず双葉の奪い合いになった、というわけだった。
「私が先に約束してたんだから、私と行くのが当然でしょ?」
クロディーヌが「ねえ?」と純那に同意を求める。「普通はそうでしょうけど」純那は歯切れ悪くうなずきつつ、けど石動さんだから
……
みたいな目で双葉のほうを見やった。
視線に気づいた双葉はそれをふさぐように手のひらを突き出して首を振った。
「待て待て、あたしだって何でもかんでも香子を優先するわけじゃないぞ」
「はあ? 双葉はん、今なに言わはりました?」
「双葉もこう言ってるんだし、やっぱり私と行くのよね?」
「あーもーめんどくせえなあ
……
」
「人気者ね、石動さん」
「
……
勘弁してくれよ」
四面楚歌である。双葉とてもちろん先約のクロディーヌに義理があることは分かっているのだが、香子と行こうとしていたフェアは今日までの開催なのだ。自室で雑誌を広げながら浮き立っていた香子の笑顔を思い出すと左胸がじりじりと痛む。
香子に八方美人と揶揄されたことがある。実のところそのへんに自覚的でもある石動双葉だった。
石動双葉の胸の内が、あるいは純粋な忠誠心や友情、恋であったら何も迷わずに済むのかもしれない。なにものも、不純物がないほど強い。けれどその小柄な身体の内側にひそんでいるのは雑多に混じり合った感情で、どれを芯にすることもできず、どれを真にすることもできず、どれを信じることもできず曖昧で脆いままだ。
「──ま、ええどすやろ」
右腕を捕まえていた手を離し、花柳香子がふんと鼻を鳴らした。
「クロはんと行ってきたらええんとちゃう? おみやげ、期待してますえ?」
「え、いいの花柳さん? さっきはあんなにぐずってたのに」
拍子抜けした顔で食いつく純那に、香子は腰から出した扇子で口元を隠しながら平たい視線を送る。
「ぐずってなんかおまへん。双葉はんがあほなことしよるからたしなめとっただけどす」
「ひでえ言いようだな
……
」
しかし、今回ばかりは負い目があるのでいつものようには言い返せない。
しょげる双葉を後ろから抱きかかえるかたちでクロディーヌが腕を回してくる。「じゃ、今日は双葉は私のってことでいいのね?」「
……
買い物するだけやろ? どうぞごゆっくり」純那は二人の間になにかが飛び散った気がして、思わず眼鏡を外して自身の目をこすった。
香子が部屋に戻ると、クロディーヌがさらに双葉にのしかかってきた。両目を三日月にしてずいぶんとご機嫌だ。んふふ、と含み笑いまでして勝ち誇る。
「それじゃ、行きましょうか」
「
……
クロ子、あんま香子のこと煽るなよ。嫌われるぞ」
「別に嫌われてもいいけど。優しいのね、心配してくれるの?」
双葉が深々と嘆息する。純那は意味が分からなくてただ首をかしげていた。
「えっと
……
なんで花柳さん、あんなにあっさり引き下がったのかしら?」
「ああ」双葉の右目がすがめられた。彼女の頭上でクロディーヌも口の端を少し上げる。
「委員長が来たからだよ。あいつ、他の連中の前だと強がるからな」
「周りに誰もいないとすぐ噛み付いてくるのにね。でも香子のああいうとこ、私は好きよ?」
「
……
ほんと、良い趣味してるよな、お前」
「ふぅん」
相槌を打ったものの、さっぱり分からない純那だった。分かるのはこの三人は仲が良い、ということだけだ。
「仲良きことは美しきかな」
「は?」
「武者小路実篤の言葉よ」
「いやまあ、それくらいならあたしも知ってるけどな?」
「オーディションであれだけ戦った後なのに、みんな仲良いわよね」
少し不思議だ。トップスタァを賭けて競い合っていたのに、誰かに勝ったり誰かに負けたりしているのに、まるでなにもなかったようにクラスメイトとして笑い合っている。学内のオーディションも同じことではあるのだが、あれは、少し特別だった。そう、きっと、みんないつもより、貪欲だった。
「神楽ひかり」
クロディーヌが土塊の中の宝石みたいな口調でその名前を呼んだ。
「
……
が、そういうの全部背負っていったからでしょ」
八人分のキラメキと引き換えに彼女が持っていったもの。
「確執とか負い目とか、そういうのひっくるめて全部。私は気に入らないけど」
あの子きっと地獄に落ちてるわ。不満を隠そうともせずクロディーヌが言う。
「だな。あたしなんて香子に負けてるし」
「やあね、あなたたちは違うじゃないの」
ふふ、と母親じみた眼差しで言うクロディーヌに、双葉は「あん?」不理解を顔に出した。
「そりゃ、石動さんと花柳さんは小さい頃からの幼馴染だもの。あんなわけのわからないオーディションで壊れるような仲じゃないでしょ?」
「さあ、どうだろうなー」
わざと軽く答えて、石動双葉は笑った。
純那はそれを彼女の冗談だと思ったので、合わせるように小さく笑った。
入学した当初から二人はいつも一緒で、双葉が香子の世話を焼き、香子はそれを当然のように受け止める。そういう二人だったし、純那にとってそれは他に意味を持っていなかった。
そういう二人。
そういう二人としか思っていないから、香子は彼女の前で強がりを見せる。
新作のロングコートを羽織って、「どう?」と視線を送ってくるクロディーヌ。「いいんじゃないか?」上から下まで見通した双葉が笑顔でうなずく。
「やっぱ背ぇ高いとそういうの似合っていいよなー。あたしもあと十センチほしかった」
同一規格で作られているスクールコートの時はそれほど気にならなかったが、やはりこういった物になるとスタイルの差が出てくる。クロディーヌがすんなり着こなしているそれを双葉が羽織ったら、おそらくマキシ丈になってしまうだろう。
「別に双葉、スタイル悪いわけじゃないでしょ。小さいだけで」
「小さいって言うなよ」
「気にしてるの?」
「まあ、ちょっとはな。殺陣だって身体がでかい方が映えるだろ」
双葉に褒められたのに購入意欲は沸かなかったのか、コートを元に戻しながら学年次席が小さく苦笑いした。
「殺陣は学年トップクラスでしょ、あなた。それなのにそういうこと言う?」
それだけを取れば首席よりも上なのではないかと目されている立場でそんなことを言うのかと、クロディーヌは皮肉げに言った。自分より恵まれている者の上に立っているのに?
言われた方は小さく肩をすくめただけだった。
「殺陣だけじゃ天下を取れないしなあ。他のところに回す時間もほしいんだよ」
「忙しいわねえ」
「まあな」
「香子の世話もあるし?」
「香子の世話もあるし」
異口同音に言ってから二人で顔を見合わせる。はは、と気の抜けた笑いをこぼした双葉を、クロディーヌはひそやかに見つめた。
彼女の笑いかたは自嘲ではなかったのだけれど、わずかばかり乾いていた。
きちんと水をやらなければ、若芽などすぐに枯れてしまうのに。
言いたくなった言葉をごまかしたくて、手近にあったマフラーをぐるりと巻いてやる。「あら、似合うじゃない」適当に取ったわりには薄色の瞳とよくなじんだ。
「そろそろ寒さも厳しくなるし、今日付き合ってくれたお礼にプレゼントしよっか?」
「いいよそんなの。そういうつもりで来たわけじゃないしな」
それに、とつい口をついたが、逡巡を見せて双葉が押し黙った。「双葉?」意味が分からず、クロディーヌが何気なく促す。
双葉はむいむいとマフラーを外してクロディーヌに押し返した。その耳がほのかに赤い。
「
……
あいつの目と、同じ色だろ」
胸元に押しつけられているマフラーを見下ろす。
あたたかな、山吹色。
ああ、あなた。胸中になんとも言えない青い匂いが満ちる。
そんなにまで。
青い匂いにめまいがして、誘われるように口を開いた。
「ねえ、言わないの? 香子に」
「なにをだよ」
「だから」
「香子に言うことなんてねーよ」
「
……
私、双葉のそういうところ好きじゃないわ」
quand-même!
まったくもう!
思わず語気が強まる。「なんとでも言え」唇をへの字にして双葉が言い返してくる。すっかりへそを曲げていた。
いけない、つい頭に血が上ってしまった。深呼吸。
薄色の瞳が濡れたように煌めいている。クロディーヌはそれを美しいと思う。けれどその煌めきの代償は逃れられない呪縛だ。
それを彼女が自分自身で選んだことは知っているのだけれど。
「いつからなの?」
「知らない。考えたこともない。考えたって意味がない」
石動双葉はもう、自身の想いそのものは、西條クロディーヌに隠す気をなくしていた。気づかれているだろうとは思っていたし、彼女にだったら知られていてもいいとも思った。
まっすぐに西條クロディーヌを見据える。彼女はまっすぐに見返してくる。
そういう彼女だからこそいだく、信頼であり、親愛だった。
「意味がないんだ。香子は『そこ』にいない。だからあたしも『そこ』に立つ必要はない。なあクロ、分かるだろ? あたしたちはこれでずっとうまくいってるんだ」
今のままで充分幸せなんだ。言外に伝えられた幸福を、もちろんクロディーヌも理解している。
その幸福が、幸せのかたちが、納得できないだけだ。
踏みつけてやりたくなるくらいに。
「いつだって香子が最初なんだ」
追うものと追われるもの。
先を征くものと、後に従くもの。
石動双葉はその関係性を壊したくなくて、そこにあるものに蓋をした。
なにもないよと言い張る決意を固めていた。
「うそつき」
「うそだって吐き通せば本当だよ」
いやに優しく、双葉が笑う。
それはまっすぐな意志だ。
一直線の、曲がったところのない実直な、柔らかさのかけらも持たない重苦しいばかりの
Determination
ひとりよがりな決意
だ。
「やっぱり、双葉のそういうところ、好きじゃない」
「実はあたしもあんまり好きじゃないんだ」
クロディーヌが苛立ち紛れに双葉の頬をつまんで引っ張った。
「バカ」
「そういうクロ子はどうなんだよ」
「え?」
「ちゃんと天堂に言ったのか?」
それとも言われたほうか? ニヤニヤと品のない笑みを浮かべて双葉が詰め寄る。
「バッ、な、なに言って
……
」
「あんまりあたしにばっか構ってると天堂がやきもち焼くぞ?」
「あのねえっ」
一瞬にして形成が逆転する。チェシャ猫のような意地の悪い笑みが眼前に迫る。華やかな二人が店先でじゃれているものだから周囲の視線が痛い。元がつくとはいえ子役としてコマーシャルなどにも出演していたクロディーヌに気づく人も出てくるかもしれない。クロディーヌは双葉の首根っこを捕まえて無理やりその場から離れた。
どちらから伝えたのかは意地でも教えなかった。
予想はしていたが、帰ってきたら香子の機嫌が悪かった。
まあそれはそうである。これでまったく怒っていなかったら花柳香子ではない。偽者を疑うレベルだ。
分かっていたから双葉は帰りがけに駄菓子屋へ寄ってありったけの駄菓子を買っていた。駄菓子とはいえ量が量なのでけっこうな出費だった。ほしかった新しいバイクグローブは当分お預けである。
そういう双葉の心痛などいざ知らず、香子は次々に駄菓子を食い荒らしている。きなこボーンはあたしも食べたいからできれば残してほしいなあとそっと願う双葉だ。
「ほんま、双葉はんときたら、どこもかしこもええかっこするんやから」
もぐもぐもぐもぐ。
「だから悪かったって」
「そうやって適当なことしとったら、そのうちバチが当たるで。お天道さんはちゃんと見てはるんやから」
もぐもぐもぐもぐ。
「それなら先にお前の方に当てそうだけどな
……
」
「うちはかいらしさかい、お天道さんも見逃してくれはるわ」
もぐもぐもぐもぐ。
「そーかよ。
……
そんだけ食ったら満足だろ。甘味屋はまた今度連れてってやるから機嫌直せよ」
「あ、お店には天堂はんと行ってきたわ。美味しかったで、特製和栗あんみつ」
もぐもぐも「おいちょっと待て」
駄菓子を食べる手を双葉が掴む。今なにか、聞き捨てならない発言があったような。
「
……
行ったのか?」
「せやって、今日までやったやろ? うち一人で行くのもなんやなー思うとったら、天堂はんがご一緒しましょかー言うてきてな。せっかくやし二人で食べてきたんよ」
天堂はん、よう食べはるからうちもお相伴に預かれてええ思いできたわ。自身の頬を両手で包み、堪能した和菓子の味を思い出すように目を閉じる香子。
双葉はそんな香子と、床に散乱する駄菓子の空き袋を交互に見やった。
「は
……
はあ!?」
「どないしたん?」
香子がはんなりと首をかしげ、立てた人差し指を口元に当てながら「双葉はん、何をそない驚いとるん?」いつもよりやや高めの声で可愛く訊いてきた。
これほどまでに見事な手腕もない。
実直な幼馴染の神経を逆なでするその手管、見事と言うほかなかった。
神経とともに双葉の柳眉が逆立った。
「おっ、お前なあー! こっちがどれだけ気にしてたと思ってんだ!」
「うちはクロはんとごゆっくりて、ちゃんと送り出したやろ。双葉はんが勝手に気ぃ揉んどっただけやないの」
諦めたバイクグローブ(かっこいい)を思い浮かべ、床に手をついてうなだれる。
恋心がちょっと揺らぐ石動双葉だった。
うつむいている双葉の前髪を香子の指先が遊ぶ。
「せやけど、双葉はんが買うて来てくれるって信じとったから、うちはどっこも寄らんとまっすぐ帰ってきたんよ?」
「
……
期待してるって言ったのそっちだろ」
「言うたから信じたんよ」
花柳香子が願って、石動双葉が叶えないことなんてない。
こつりと額を押し当てて、香子はふふりと喉の奥で笑った。
それは信頼と、親愛。
その他の感情はおそらくない。
鼻先が触れそうなほどの至近距離で、双葉は絶妙に視線をそらし、神妙に彼女の髪が触れるのを受け、巧妙に口の端から息をついた。
両手は床を掴むばかりで、ついぞ彼女の背に回ることはなかった。
妙に寝苦しくて目が覚めた。桜が香る。呼気にすら染みついた薫香が双葉の鼻先で揺れている。身体が重石を乗せられたかのように息苦しく自由がきかない。
「──って、おい」
「ように」というか重石が巻き付いていた。花柳香子の腕と足であった。察するに、寒風吹きすさぶ夜の気温に耐えられず、ぬくもりを求めて双葉のベッドへ潜りこんできたのだろう。湯たんぽ代わりにされた双葉は半ば無理やり香子をどけて、乱れたパジャマを手探りで直した。
お前なあ、と口には出さずにつぶやく。寒いならしまってある毛布を出せばいいだけだろうに、いやおそらくそれが面倒だったから双葉で暖を取ろうとしたのだろうが。
「勘弁してくれ
……
」
顔を手のひらで覆ってため息。抱きつかれたり膝で寝られたりは日常茶飯事だが、不意打ちはなかなかきつい。
触れてしまいたくなる。
たぶんそれは彼女に対する裏切り行為だ。
片肘をつき、香子の首元まで掛け布団を引き上げて、その上からぽんぽんと叩いてやる。
あー、昔はよくこうやって寝かせてたな。思い出の中の小さな彼女。稽古の合間、祖母が用意してくれた布団で一緒に昼寝をした。あどけない寝顔をよく覚えている。己も同じくらい幼くて、未来なんて何も見えていなかった。
あの頃のままだ。何も変わっていない。
何も変わらないように、守ってきた。
肘をついた方の手で、口元を隠す。誰が見ているわけでもないのに。
香子が目を覚ましそうにないのを確認してそっと抜け出す。このままでは眠れそうになかった。水を飲みにキッチンへ行こうと、そっと部屋を出る。
と、どこからか話し声が聞こえてきた。耳に馴染む声だ。なんとなく歩を忍ばせる。近づくと声がはっきりしてきた。
「すみません、すっかり遅くなってしまいましたね。明日に響かないといいのですが」
「平気よ。あんたこそ、寝坊なんかしないでよね」
「ええ。学年首席と次席がそろって寝坊など、クラスメイトたちに示しがつきませんから」
「だから私は平気だって」
会話の内容を精査するまでもなく、声の主は真矢とクロディーヌだった。こんな時間までなにやってんだあいつら。双葉は不思議に思いながらも歩みを進め、二人の姿を視認できる位置までやってきた。
「ほら、さっさと部屋に戻りなさいよ。ほんとに寝坊するわよ」
「そうですね。でも、最後にもう一度だけ」
双葉の足が止まる。足どころか全身が止まる。心臓まで止まるかと思った。
視線の先。呼吸一つ半の間、二人のまぶたが下りて、それから開いた。
クロディーヌの双眸が、どんな舞台でも見たことのない色に染まっている。
真矢の瞳が持つ二藍が艷やかに色を帯びている。
色、だ。
あれは。
恋の色だ。
「おやすみなさい、クロディーヌ」
「おやすみ、真矢」
二人の声をきっかけに、ゆっくりゆっくり、音を立てないように後ろへ下がる。
嫌々付き合っていた日舞の稽古がこんなところで役に立った。
呼吸も止めて、全神経を集中して、静寂をひとかけでも破らないように。
二人の色が、頭から離れない。
あの色を、自らも発しているのだろうか。
ああ、それは。
嫌だ。嫌だ。
なんだか今朝から双葉の様子がおかしくて、香子は気になってしょうがない。やや寝坊気味だったのかいつもより起こしてくれる時間が遅く、それで気ぜわしくなっていたのかもしれないが、なぜか今日は自分で着替えろと言ってきたし(断固として抵抗した)、髪を梳くブラシの加減がわずかに強かったし、首筋にかすかに緊張が見える。昨日まではそんな気配まったくなかったのにどうしたことだろう。
双葉の背中にまとわりつく。「なんだよ、まだ眠いのかー?」いつもどおりの受容と棘のない声。気のせいやろか、と口の中だけでひとりごちる。
寮は暖房がよく効いていて、そのせいだろうか、触れ合っているこめかみがわずかに熱い。
「双葉はん、熱あるんとちゃうよなぁ?」
「あん? 見ての通り絶好調だぜ?」
何言ってるんだと訝る双葉に、「なんでもあらへん」とごまかす。
たとえば靴の中に小さな石ころが入った時とか、ボタンをひとつかけちがえた時とか、いつもつけているアクセサリーをうっかり忘れた時のような、うっすらとした違和感と不快感。
そこで、気づいた。桜の香りがない。そうだ、今朝は少しバタバタしていて、あの練り香水を出すのを忘れてしまっていた。半ば習慣化していたから、逆にしなくても気づかないほどになっていたのだろう。
違和感なのか、不快感なのか、しかしどちらにも似ていてどちらとも少し違う。
心細さ、のような。
輪郭を確かめるようにぎゅっと双葉にしがみついた。
「お前そろそろ自分で起きれるようになれよ」
香子が眠くて甘えているのだと思っている双葉が、苦笑交じりに言ってくる。「いやや」「あのなあ」「双葉はんが起こしてくれるさかい、それでええやないの」
はあ、と双葉が小さくため息をついた。
本当に。花柳香子は本当にそう思っていたのだ。
いつまでもいつまでもこのぬるま湯のような関係に浸って、そのまま最後まで続くのだと。
「今はそれでいいけどな」
意識してのものか無意識なのか、やや抑えられた声。待っていたけれどその続きが双葉の口から発せられることはなかった。
いつの間にか彼女の輪郭はどこにも掴みどころのない曖昧なものになっていた。
今。
今ってなんだろう。
「あ、双葉ちゃん、香子ちゃん、おはよう」
玄関口でななと居合わせた。双葉が背中にはりついている香子を引っ剥がして顔を上げる。
「おー、おはよ」
「おはようさんどす」
柔らかく結い上げられた髪を揺らしながら、なながほんのわずか目を瞠る。視軸を双葉に置いてしばし沈黙。
視線に気づいた双葉が怪訝そうな顔でななを見返した。
「ふた
……
」
「Bonjour.みんなおはよ」
なにか言いかけたななにかぶせるようにクロディーヌの透き通った声が届いた。艷やかな金の髪に一筋の乱れもなく、身を包む制服にもしわひとつついておらず、よく通る声にわずかのにごりもない、いつもどおりの西條クロディーヌだった。
そんなクロディーヌを視界に入れた石動双葉の身体がピクリと震えた。ほんのかすかな震えではあったが、香子はそれを見逃さなかった。
輪郭のゆらぎが大きくなっている。
ななのゆるく巻いた髪が一房揺れた。
「おはようクロ。ほら、香子、行くぞ」
手を取られて強く引かれる。「ちょ、なんやの?」そんなに急ぐような時間でもない。香子には双葉がなにをそんなに忙しくする必要があるのか分からない。
「遅刻するより早く行ったほうがいいだろ」
「急がば回れ言いますやろ」
「いいから」
あわあわしながら引っ張られていく香子を見送りながら、ななが軽く首をかしげた。
「
……
クロちゃん、双葉ちゃんになにかした?」
「ええ? 別になにも
……
あ、うぅん
……
ちょっと焚きつけはしたけど
……
。でも全然響いてなかったわよ?」
「なにがしたいのかは聞かないけど、あんまり刺激しちゃだめよ? 双葉ちゃん、ああ見えてけっこう脆いんだから」
「はいはい」クロディーヌがわずかに首をすくめて生返事をする。渦中の人とは違う意味だが、彼女は彼女で守護者である。再演のループが終わってもそのスタンスは変わらないらしい。
「うーん、でも昨日の晩ごはんのときは普通だったし
……
」
ちらりと隣を見やる大場なな。自然に折り曲げた人差し指を顎に当てて、一度ゆっくりと瞬きする。
わざとらしく視線を大きく外した格好で口を開いた。「あのね、クロちゃん」
「首に跡ついてる」
クロディーヌの左手がとっさに自身の首筋を押さえ、
「嘘! 天堂真矢がそんなところにつけるわけ
……
」
言いさした直後、ななの表情で気づいた。
クロディーヌは耳まで赤くしながら歯ぎしりする。
「ちょっと、なにするのよ
……
!」
「わたしはそういうの、みんなの自由だと思ってるのよ? でも純那ちゃんは学校の風紀が乱れるの嫌がるじゃない?」
「
…………
」
「風紀を乱さないように気をつけましょうね?」
ななは両手を合わせていかにも人畜無害そうな笑顔でいる。
クロディーヌはなにも言い返せず、ただ喉の奥で唸るしかなかった。
結局予鈴が鳴るまでかなりの余裕をもって学校に到着したので、二人はロッカールームで暇をつぶしていた。
というか、双葉のほうは最初の授業の準備をしたがっているのだが、香子が離さないので動けずにいる。
ロッカー前のベンチに並んで座り、香子はずっと双葉の腰を捕まえて離そうとしない。
「双葉はん」
「なんだよ」
腕に伝わる感触も耳に届けられる声もかすかな息遣いも重ねられた手のひらも。
たしかであるはずなのに探れば探るほどどれもが曖昧模糊となって実像がぼやけていく。
双葉の肩口に顔を埋めて深く息を吸い込んだ。
桜の香りがしない。
「どうしたどうした? 怖い夢でも見たか?」
「そんなんとちゃいます」
ここにいるのにここにいないような感覚。
約束したのに。
まるで強い日差しが生んだまぼろしであるようなゆらめきが彼女から消えない。
当の双葉はそんなことには微塵も気づいていない様子で、なだめるように腕を叩いてきた。
「なんだよー。今日ちょっと変だぞ、お前。具合悪いのか?」
それはこっちのセリフや、と言い返したいのを抑えて唇を尖らせる。額に手のひらを当てられる。熱を測ったところでまったくの無意味だ。間違いなく健康優良児である。
身体にはなんの問題もない。あるのはもっと内側のほうだ。
あるというのか、ないというのか。
たしかにあったはずのものがなくなっている。
おそらくは鳥の風切羽一枚程度のなにかが。
双葉はそれを隠そうとしている。
手を取る。
小さいけれど強い手だ。ずっとその手に守られてきた。この手があれば何も怖くなかった。何を恐れることなく花柳香子でいられた。逃げ出したって迷わなかった。大切にする必要すらなかった。願う必要すらなかった。大切にする方法も、願いかたも知らなかった。知る必要がなかった。知らなくてもいいと、この手が告げてくれていたのに。
だから、だから。
──ああ、せや。
この気持ち。
ざわざわと、香子の内側がさざめく。
今は。
つながっていない。
「双葉の
阿呆
あほう
」
「は? なんだよいきなり」
彼女の肩から顔を上げられない。
花柳香子は。
さみしい。
壊れませんか? 壊れませんか?
この、足元は。
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