黒竹
2022-05-30 21:55:45
12511文字
Public 少女☆歌劇レヴュースタァライト
 

#2 常初花

【少女☆歌劇レヴュースタァライト】【ふたかお】【春に咲き匂う】

 このところ一人の時間が増えた。転校生がやって来て、不可思議なオーディションが開催され、その過程で幼馴染とけんかをした。果たしてけんかと呼べるものであったのかは甚だあやしい。あるいは剪定や摘果のようなものであったのかもしれない。健やかな成長のために削ぎ落とされたなにか。代わりに守られたものがなんであるかもあやふやである。
 何を失って何を守ったのかは曖昧だ。それでも、彼女は少しだけ自由になったし、己は少しだけ掴んでいた手をゆるめた。
 そうはいってもなにせ寮の同室で生活しているので、おはようからおやすみまでをともにすごす間柄のままではあるのだが、それぞれ別々の時間をすごすケースも出てきている。
 休日の昼下がり、今もまた幼馴染は隣におらず、代わりに学年首席が至福極まれる表情で対面に座っていた。
「よう食べはりますなあ、天堂はん……
 呆れがちに言ってみたものの、天堂真矢は優雅にバウムクーヘンを食べる手を止めない。隣にはバウムクーヘンの入っていた箱が置かれている。有名なメーカーのロゴが刻印された大きな箱だった。中身はまるごと取り出されて真矢の手前の皿に置かれている。切り取られたピースに乗せているのは粗熱を取ったばかりのカスタードクリームだった。ところどころ塊が浮かんでいる。手作り感あふれるクリームとバウムクーヘンを一緒に口の中へ入れ、じっくりと味わってひとつうなずく。
「家庭的な甘さの奥から届く、パティシエの手による上品な甘み……。これはまさに、造り手同士のマリアージュ」
「意味が分からん」
「花柳さんもいかがですか?」
「遠慮しとくわ。見てるだけで胸焼けしそうや」
 マリアージュってなんやろ、と思いながら首を振る。甘いものの上にさらに甘いものを乗せる感性が理解できない。彼女には京都の繊細な和菓子などはあげないようにしよう。
 膝の上で頬杖をついた香子がやや上目遣いに真矢を見やり、次に半ホールほど残っているバウムクーヘンへ目を移した。
「一人で全部食べる気なん?」
「ええ、せっかく石動さんと大場さんが作ったのですから」
「失敗したやつやろ、それ」
「だまができてしまっただけで、味はとてもおいしいですよ」
 真矢がフォークの先でカスタードクリームをすくい、こちらに差し出してくる。「……あーん」口を開けて待つと、そっとフォークが差し入れられた。唇でクリームを受け止める。洋菓子特有のこってりとした甘みが口の中いっぱいに広がった。
「どうです?」
……まあまあやな」
 「うちは和菓子の方が好きどす」「そうですか」柔和な笑みで相槌を打って、それきり真矢は香子にすすめようとはせずに自分でぱくぱくと食べ始めた。「ほんまに自分だけで食べてまうつもりなんやね……」軽く引く香子だった。
「だまはありますが、全体的にはなめらかですし柔らかさも丁度いいですね。大場さんの指導のもととは言え、初めてでこれだけ作れたら上出来ではないですか? 石動さんは器用なかたですね」
「あー、まあ、せやねえ。器用いうか、器用貧乏やと思いますけど」
 自分とは正反対の努力の人である。運動神経は良いが特筆するような才はなく、この学校にだってギリギリの入学だった。それでも努力でここまで実現できるのだから大したものだ、とはならないのが花柳香子である。
 一緒に入学するのも、技術を磨くのも、花柳香子が望んだのだから、努力するのはあたりまえだ。
 石動双葉が花柳香子の願いを叶えないなんてありえない。
 傲慢に、そう信じて疑わない。
 疑いようはないけれど、それはそれとして現状は面白くはない。
「双葉はんには似合わへんわ、お菓子作りなんて」
「そうですか?」
 真矢がけれんみなく微笑む。「何事にも興味をもつのは良いことだと思いますよ」
 香子は対照的に唇を尖らせた。
「天堂はんは甘いもんにありつけるんが嬉しいとだけとちゃうの」
「さあ、どうでしょう」
 気づけばバウムクーヘンがずいぶん減っていた。運動量が多いとはいえ、それにしてもこれだけ食べて体型を維持できるのはすごい。もしかしたら胃にブラックホールが開いているのではないだろうか。
「花柳さんはやはり私と似ていますね」
「はあ?」
 バウムクーヘンを爆食する趣味はないが。
「うち、そない大食いとちゃうで?」
「そういうことではありません」
 先ほどとはうって変わって韜晦をひそませた笑みを浮かべ、空になった皿とクリームの入っていたボウルを重ねてキッチンへ運ぶ真矢。ほんまに一人で食べきったわ、と驚愕する香子。
 戻ってきた真矢はソファには座らず、リビングのドアへ視線を送ると微妙な角度に眉を上げた。
……まあ、お互い大変ですね」
「はあ」
 玄関ドアの開く音が聞こえてきた。パタパタと廊下を歩く音のあとに、大きい少女と小さい少女が並んでリビングに入ってくる。
「ただいまー」
「ただいまっと」
 ドアを開けた大場ななが、両手に買い物袋をさげた石動双葉を通してから袋をひとつ受け取った。「双葉ちゃん、持ってくれてありがと。助かっちゃった」「これくらい軽い軽い」にかっと朗らかに笑い、空いた手でななの肩を軽く叩く。
「っていうか、あたしが失敗したせいだしな。二度手間とらせて悪かったな」
「ううん。次はきっとうまくできるよ」
 仲良くキッチンへ向かう二人の姿を、香子は褪めた目つきで眺めている。ちなみに「おかえり」は言っていない。
 休日になながお菓子を作ってみんなにふるまうのはいつものことだが、今日は作り始めたところにたまたま双葉が居合わせて手伝いを申し出たのだ。そしてカスタードクリームを炊くのに失敗して(真矢がおいしくいただき)、足りなくなった材料をななと一緒に買いに出かけていたのだった。
 香子は置いてきぼりになっていた。今もなっている。手伝う気も出かける気もなかったので当たり前だが香子としては良い気分はしない。そしてそれを自業自得だと諌める存在はない。
「え、あれ? さっきのクリームがなくなってるんだけど」
「とてもおいしかったですよ。大場さん、石動さん」
「一人で全部食ったのか、お前……
「あらー……
 キッチンでは楽しそうな会話が繰り広げられている。香子はつんと唇を尖らせてリビングにいる。しばらく待ってみたが会話がやむ気配がない。横目で見てみると三人できゃっきゃとはしゃいでいてキラメキが弾けていた。くうぅ、と喉の奥が鳴る。
……双葉はん!」
「んー?」
 呼びつけると双葉がひょいと顔を出した。「どうした? 香子」手持ち無沙汰に卵を回しながら続きを促してくる幼馴染に思わず口がへの字に曲がる。
 なんだその適当な態度。
「のど乾いたわ」
「はいはい、なにがいい? お茶か? ジュースか?」
「あったかいお茶いれとくれやす」
「りょーかい」
 双葉の手のひらが自身の首を撫でる。あれは呆れている時の彼女の癖だ。「まったく、しかたないな」と言われているのに等しい。いや実際に何度も言われているせりふではあるのだが、口に出されるのと態度で言われるのでは受け止め方が少し違う。こっちの方が腹が立つ。
 双葉のくせに生意気や、という心中を隠そうともせずにソファでふんぞり返っていると、穏やかな気配とともにテーブルに湯のみが置かれた。
「熱いからな。気をつけろよ」
「分かっとります」
 ありがとうのひとつもなく湯のみを口に運ぶ。知っている。一番好きな温度で淹れられている緑茶。幼馴染の関係は伊達ではないのだ。こんなところでも付き合いの長さが証明される。
 呼べば来るし望めば叶えるし口に出さなくても通じる。
 花柳香子にとって石動双葉はそういう存在だったので、どこかへ行ってしまったら怒る権利があるのだった。
 そして石動双葉は、花柳香子がそういう存在であることを知っているので、帰ってから香子を好きに怒らせておくのだった。
 二度目のカスタードクリームは成功し、おいしく出来上がったバナナカスタードパイはクラスメイトたちに振る舞われ大変好評だった。
 天堂真矢は三つ食べた。



 はああ? と素っ頓狂な声が香子の口から上がる。隣の双葉は涼しい顔でサンドイッチを頬張っている。サンドイッチを作った大場ななは「あらー」とつぶやき、その横で星見純那と愛城華恋が目を丸くしていた。
 昼休みの中庭は騒々しい。香子の声も一瞬だけ周囲の注目を集めたが、それもすぐに落ち着いて、残ったのは六つの目だけだ。
「一緒に帰らんって、どういうことやのっ」
「クロが殺陣の練習に付き合ってくれっていうから、殺陣部屋で放課後に自主練するんだよ。もうすぐ発表会だろ。追い込みかけたいんだと」
 じきに行われる定例発表会の演目で、クロディーヌは主役級の役を得ていて、双葉はそのライバル役だった。香子も役を得ているがまあそれは当然なので特に自主練とかする予定はない。
「双葉はんがおらんかったら、うちどないして寮まで帰ったらええの!?」
「歩いて帰ればいいだろ」
「無理どす。むーりーいー」
「無理なわけあるか。今日いちにちくらい我慢しろ」
 我慢などという言葉、花柳香子の辞書にはない。「双葉はんはうちよりクロはんを優先するん!?」「はあ? そういう話じゃないだろ?」「そういう話やろ!」「なんでだよ!」次第に双葉の方もヒートアップしてきた。双葉の声が上ずるのをみとめた華恋があわあわと両手を振り回す。
「ふたりともけんかしないでぇー。あ、ねえねえ、わたし今日自転車で来てるから香子ちゃん後ろに乗ってく?」
「甘やかさなくていいぞー、華恋。香子のやつ調子に乗るからな」
 「石動さんに言われてもねえ」純那がぼそっとこぼしたが、ななが少し困った顔で笑っただけで、他の面々の耳には入らなかったようだ。
 口元を拭った純那が立ち上がり、すっと香子を見据える。
「人生には選ばなければならない瞬間がある。自分自身の人生を充分に、完全に、徹底的に生きるか、社会が偽善から要求する、偽の浅薄な、堕落した人生をだらだらと続けるかの、どちらかを」
「なんですのん、それ?」
「オスカー・ワイルドの言葉よ。世の中には堕落への誘惑があふれているけど、そこで自分自身をしっかり保って努力できる人こそ、トップスタァの資格があるの」
 握りこぶしで力説する純那に冷ややかな視線を浴びせる香子。「うち、そないなもんに興味ないわ」
 トップスタァなど眼中にない。ほしいのは世界だ。
 世界の頂点に君臨して、その姿を石動双葉に見せつけてやること以外に興味はない。
 あまりにも手応えがなさすぎて純那のこぶしがほどけた。「こういうやつなんだ」双葉が贖罪すら匂わせる口調で純那に言った。
 香子が両手を合わせて天使のように笑う。
「せっかくの華恋はんのご厚意、断ったら失礼やわ。ありがたく受け取らせてもらいます。おおきにな、華恋はん」
「う、うん、まかせて」
 天使の笑顔から、今度は皮肉な口元の嘲笑じみた笑みに変え、双葉を見やる。
「双葉はんは好きなだけクロはんと仲ようしてなはれ。なんならずーっとクロはんのとこの子になって、もう帰ってこんでもええで?」
 香子の発言に周囲の空気が緊張した。なんだかこんなようなせりふをいつか聞いた気がする。再演はもう終わっているはずだが。
「はいはいはーい」
 周囲の心配とは裏腹に双葉は生返事で香子の挑発を受け流した。おお、と華恋が思わず感嘆をもらす。
「双葉ちゃん、なんだかちょっと変わったみたい」
 ななが軽く首をかしげた。「そうか?」真似をするように双葉が同じ方向へ首をかしげる。
 もしここに西條クロディーヌがいたら、ななの言葉を否定しただろう。石動双葉は変わってなどいない。正確に言えば入学してからずっと変わり続けている。努力の人アンギフテッド
 だから石動双葉が変わったように見えるのなら、それは彼女を反映するものが変わったということだ。努力を嫌い、停滞をいなとせずにいた才能の人ギフテッド
 自分自身の変化に気づかないまま、花柳香子はいなされたことに立腹している。
「双葉はんは前々からこうどすえ。ええかっこしいで八方美人や」
「お前なあ。舞台のために練習するのは悪いことじゃないだろ。あたしもクロも舞台のためにやってるんだ。かっこつけてるわけじゃない」
「たかが定例の発表会ですやろ。お客さんかて父兄ばっかりやし、そない気張ってどないするん」
「本番は本番だろ」
 平行線だった。どうあっても花柳香子は石動双葉の言っていることが理解できないし、理解する気もなかった。  
 香子にとって重要なのは双葉が自分よりクロディーヌを優先したことであり、それが明確である以上、他のすべては些事だった。
 クロディーヌのことは嫌いではない。双葉に引っ張られたかたちとはいえ「クロはん」と呼べる程度には親しいし、次席という立場を鼻にかけることもなく誰に対しても友好的で話しやすい。
 けれど、どうしてか彼女が双葉と話しているところを見ると胃の裏側あたりがざわざわするのだ。理由はわからない。たとえば双葉はななにもよくなついているが、ななと仲良くしていてもざわざわはしない。何がちがうのか、香子はずっと分からないままでいる。
……ま、ええやろ。隠れてこそこそ秘密特訓されるよりはマシやわ」
 以前の一件を引き合いに出すと、途端に双葉がバツの悪そうな顔になった。あれは双葉側が理解を諦めた結果だ。巧妙に見えなくされていた信頼関係の欠如が表出した出来事だった。
 疑いようのなかった彼女の輪郭が少しぼやけたのはあの頃からだ。
 香子はつんとすました顔で、ピックに刺した卵焼きを口に入れた。
「一時間でも二時間でも。なんなら一晩中でもクロはんと二人っきりで練習してきなはれ」
「だから、なんでお前クロにだけ厳しいんだよ」
「私がどうしたの?」
 のし、と双葉の頭に腕が置かれて、その頭上から涼やかな声が届いた。
 双葉が顔をあげると制服の袖越しに話題の人の双眸が見えて、「おう」柔らかい、澄んだ面持ちになる。
 香子の内側がざわざわした。
「放課後、一緒に殺陣の練習する約束しただろ。その話」
「ああ、そのことね。悪いわね香子、双葉ちょっと借りるわよ」
 借りるのジェスチャーのつもりか、クロディーヌが双葉の首元に腕を回し、左手をすくい取った。握った手首をひらひらさせて双葉を操る。
 はああぁなんで双葉はんにそないベタベタするん? おかしない?
「どーぞどーぞ。いうても、双葉はんにクロはんの練習相手が務まるかどうか……
 ざわざわを押し殺しながら大上段に構える。クロディーヌは針ほどの動揺もなく「あら」と笑った。
「今回は絡みも多いし双葉が一番いいのよ。気が合うから稽古中も楽しいしね」
「ふ、ふぅん。そうどすか」
 笑みを崩さぬよう口元に力を込めつつ頷く。そろそろ双葉から離れてほしい。
「あたしもクロの相手してると勉強になるしな。けっこう助かってるよ」
「本当? なら良かったわ。こっちばっかりお世話になってちゃ申し訳ないもの」
「ははは、気にすんなよ。いつも世話ばっか焼いてるから慣れてるんだ」
 世話を焼かせている当人を置き去りに盛り上がる二人。そろそろ離れたらどうか。
 パキリと手元で音がした。
 ニコニコしながらその光景を見ていた大場ななが口を開く。
「クロちゃん、たしか今日日直だったよね? そろそろ教室に戻った方がいいんじゃないかな」
「あ、そうだったわ。じゃあね双葉。また放課後」
「おう、またな」
 クロディーヌが去ってから、ななが香子の手を取って、固く握られていた拳を開いた。
「これは危ないから、わたしが捨てておくね」
 香子の手の中でプラスチックピックが真っ二つに折れていた。



 ひゅーひゅーと華恋の喉が鳴っている。先程まではぜえぜえしていたが、肩で息をする余裕すらなくなっているようだ。
「華恋はん、おきばりやすー」
 自転車の後部スタンドに腰かけた香子がのんきに声援を送る。
「さ、坂道はっ、さすがにっ、きついよ……!」
「送ってくれる言うたの華恋はんやろ?」
「言ったけどおぉぉ〜」
 やっとの思いで上り坂を抜け、平坦な道にたどり着く。息を荒げた華恋が合間にほっと一息をついた。
「そりゃあ双葉ちゃん、バイクの免許取るよねえ……。速いし楽だし」
「そうどすな。バイクは楽ちんや」
「香子ちゃんは後ろに乗ってるだけじゃん」
 華恋の肩にしがみついていると、いつもと違いすぎて戸惑う。
 届けられる声も違うし、いつもは触れない髪が頬に触れるし、手を置く肩の高さも違うし、背中の広さも違う。
 なにより、桜の香りがしない。
「ちょっとスピード落としていい?」
「構いませんえ」
 華恋がペダルを漕ぐ速さを落としたので、景色の流れがゆるやかになる。背中越し、華恋の髪飾りが時折陽の光を反射してきらめく。
 この頃急に風が冷たい。
 冬が近づいていた。
「華恋はん、今どないな気持ちやの?」
「え?」
「神楽はんがおらんようなってもう半年や。手がかりもない、探しようもない今の状況で、華恋はんは、どないな気持ちで過ごしとるん?」
 彼女は次の定例発表会で名前のついた役をもらえなかった。キラメキは奪われていないのに。
 「うーん」小さく唸る声が、かすかに聞こえる。「どんな、かあ」ひとりごち、華恋は前を向いたまま快活に答えた。
「ひかりちゃんに会いたいって気持ちで過ごしてるよ」
「はあ?」
「ひかりちゃんに会いたい。すっごく会いたい。だから、いつか必ず迎えに行くの」
「どこにおるかも分からんのに?」
「今は分からないけど、いつか分かるよ」
 運命だから、と彼女は言った。
 彼女が無垢に無邪気に無謀に信じているその言葉を、香子は口の中で転がす。
 運命。
 たぶん、自分たちにはないものだ。


 陽もすっかり暮れた頃になって、西條クロディーヌが帰ってきた。「ただいまぁ」心なしか声がぐったりしている。ずいぶん熱心に稽古をしたようである。
 自室でその声を聞き止めた香子は、居残りしていたもうひとりの声が届くのを待っていた。どうせクロディーヌをバイクに乗せてやったに違いない。石動双葉はそうなのだ。香子の侵食されたくない領域をあっさりと他人に触れさせる無神経さを持っている。自分のそういうところを棚に上げてこちらのことばかりわがままだのなんだの言うのである。実に業腹だ。
 バイクを置きに行くからクロディーヌより少し遅れるだろう。ベッドに寝転がって待つ。投げ出した手足が重い。早いところマッサージをしてもらいたい。
……まだやろか」
 クロディーヌが戻ってから五分ほども経っているのにいまだ気配がない。なにしとんの、と口の中で文句を言い、更に五分待ってみる。
…………
 しびれを切らしてベッドから降りる。部屋を出るとちょうど自室で部屋着に着替えたクロディーヌと鉢合わせた。
「あ、クロはん。双葉はんなにしてはるん?」
「え? まだ帰ってないの? バイクだから私より先に帰ったはずだけど」
 「てっきり部屋にいるんだと思ってた」首をかしげるクロディーヌ。
「クロはん、双葉はんと帰っとらんの?」
「ああ、帰ろうとしたら私だけB組の子に捕まっちゃって。小道具の確認だったんだけど、時間かかるかもしれないから双葉には先に出てもらったの。だから私より遅くなるはずないんだけど」
 不思議そうな顔と声で言うクロディーヌに、香子は首の後ろにチリチリとした痛みを感じた。「そうどすか。ま、どこかで買い食いでもしとるんやろ」はーやれやれと両手を振ってみせる。クロディーヌが小さく眉をひそめて黙考する。
「だといいけど……。一応、連絡してみたら?」
「なんや、クロはんは心配性どすなあ。双葉はんかて子どもやあらへんのやし、そのうち帰ってきますやろ」
「一応よ、一応」
 なんなら私からしておきましょうか、とクロディーヌが言うので、香子は食いつくように首を振った。
「クロはんのお手を煩わせるまでもないわ。うちがしとくさかい、ご心配なく」
 部屋に戻ってから双葉にメッセージを送る。画面を表示させたまままんじりともせず返信を待つが、既読マークすらつかない。とはいえ、バイクの運転中という可能性もある。そうだとすれば電話をかけてもどうせ出ないだろう。
 手詰まりである。
……ああもう」
 苛立ち紛れに携帯電話をベッドに投げて大仰にため息をつく。どういうつもりなのだろう。
 石動双葉はそれから二時間経っても帰って来ず、さすがに寮内がざわつきだした。
 一人で部屋にいた香子もリビングに引っ張り出されて、車座で行われている話し合いに混ざらずを得ない状況になっている。
「花柳さんも何も聞いてないのよね?」
「聞いとったらとうに言うとります。クロはんと殺陣のお稽古しはるのは聞いとるけど、それ以外は双葉はんなにも言うてへん」
「私も。双葉は先に帰ってると思ってたわ」
 純那の質問に香子とクロディーヌがそろって首を振る。他の子たちも何も聞いていないし、双葉を見かけてもいないという。
 純那はうつむき、親指を軽く噛んで思案した。担任に連絡するかどうか、悩ましい時間帯だった。夕飯時は過ぎているが深夜ではない。どこかに寄り道をしていたらこのくらいの時間にはなるだろうという頃合いだ。
 ななが淹れてくれた紅茶を口にしつつ、香子はすました顔で言う。
「そない心配することなんてあらへん。そのうちひょっこり帰ってくるわ」
「でも、もしバイクで事故にあってたりしたらどうするの」
「それやったらおうちに連絡行くやろ。そしたらうちにも伝わるはずや」
「そ、そうね……
 そうだ、何も心配などいらない。己の預かり知らないところで双葉に何かが起こるなんてあるわけがないし、双葉が己のもとに帰ってこない可能性もない。
 ないに決まっている。
 手をゆるめはしたけれど、手放すつもりなんて毛頭ない。
 だから。
 だから、早く。
「双葉はんももう十七や。夜遊びのひとつもしたなるんちゃう? 華恋はんも朝帰りしとりますし」
「うう、それを言われると……。でもでも、私はちゃんとじゅんじゅんたちに連絡してたし……
「華恋ちゃんのとはちょっと違うんじゃないかなあ……
 華恋とまひるが困り顔で反駁してくる。「華恋ちゃんの話はちょっとおいておこっか」なながキッチンからトレイを持って現れた。
「糖分補給にどうぞ」
「あら、おおきに」
 ななが作ってくれたバナナスコーンは、芳しく香っているのに噛みしめると砂のようだ。
 口の中でざりざりと砕ける砂を飲み下し、満足げにうなずく。
「うん、ええお味や。ばななはんのおやつはいつも最高どすなあ」
「のんきにおやつ食べてる場合じゃないでしょ。んん……あと一時間……三十分待って帰ってこなかったら先生に連絡しましょう」
 純那が絞り出すように結論を発したその時、玄関ドアの開く音がした。純那とクロディーヌがいち早く立ち上がり、他の面々も我先にと玄関へ向かう。香子は最後に悠々と立ち上がって足を進めた。
「ただいまー。はあー、すっかり遅くなっちまった」
「石動さん! 連絡もなしにどこ行ってたの! みんな心配してたのよ!?」
「あー、悪い悪い」
 説明するからまず上がらせてくれ。懇願のように言う双葉に、純那が慌てて道を開ける。双葉は制服についた汚れを適当に払ってから靴を脱いで玄関を上がった。
 香子は双葉を一瞥しただけで声をかけなかった。双葉も「ただいま」と言っただけで香子の横を通り過ぎる。
 リビングでまひるとななが甲斐甲斐しくお茶を淹れたりスコーンを温めてやったりしてから、全員で双葉を囲む。「さ、説明してもらいましょうか」委員長の顔で純那が腕組みをする。
「クロと別れてまっすぐ帰るつもりでバイクを走らせてたんだ。そしたら、途中でおばあさんが倒れててさ。けっこうひと気のないところだったから周りに誰もいなくて、バイクを置いて救急車呼んだんだ。で、どういうわけかあたしも一緒に乗せられて、なんか状況聞かれたりしてぜんぜん帰してもらえなくてさ。あ、おばあさんは持病の発作だったらしくて、病院で処置してもらって大したことにはならなかったみたいだ」
 病歴と持病が判明するまで、事件の可能性もあったので発見者の双葉も拘束されていたらしい。病院を出て、置きっぱなしのバイクを取りに行くためにひたすら歩き、それからやっと寮に戻ってこれたという顛末だった。
「携帯はどうしたのよ。みんなずっとつながらなかったんだから」
「あー、なんかずっと鳴ってるのは気づいてたんだけど、病院じゃまずいかと思って電源切ったんだった。忘れてた」
「あなたねえ……
 何事もなかったというか、むしろ良い事をしていたので純那の言葉にも勢いがない。「いやー、あたしもこんな時間まで捕まるとは思わなくてさ」苦笑いする双葉に、純那も気の抜けた息をついた。
「次からはちゃんと一報入れなさいよ。花柳さんだって……
 言いかけて、純那が一瞬止まる。「……たぶん、心配してた……わよね?」自信なさそうな視線を送られたが香子は鼻を鳴らして笑うだけだ。
「なんでうちが心配せなあかんの。うち、双葉はんの保護者とちゃいますえ?」
「むしろ双葉ちゃんが香子ちゃんの保護者っぽいよね」
「華恋はん?」
 ちょっと何言ってるか分からない、という視線で華恋を睨む。華恋がまひるの後ろに隠れた。「ええぇ!?」盾にされたまひるがわたわたと周囲を見回す。隠れられそうな安心感のある影を見つけて、華恋をくっつけたままその後ろに避難した。「あらー」守り手に任命された大場ななが困ったように笑う。
「えっと、とりあえず双葉ちゃんは着替えてきたらどうかな? 先にお風呂入ってくれたらその間にご飯あっためておくから」
「ああ、ありがとな。そうさせてもらうよ」
 「行くぞ香子ー」ぐっと伸びをしながら自室に戻る双葉の後ろについていく。背中に疲れがはりついていた。
 二人の王国はひそやかだった。明かりをつけるとだるまのぬいぐるみが出迎えてくれる。双葉が上着を脱いでリボンを解く。仕事帰りのサラリーマンみたいに重く息をつく。それから、首の後ろを軽く撫でた。
 香子は皮肉に口元を上げたまま拳を腰だめにしている。
「ほんましゃあないなあ。外でまでええかっこしいして、それでみんなに心配かけとったら世話ないわ」
「そうだな」
「華恋はんなんて着替えもせんと探しに行こうとしはったんよ? なんやろな、神楽はんのことがあったから余計心配しとったんやろか」
「そりゃ悪いことしたな。後で謝っとくよ」
「クロはんも自分が一緒に帰ってれば言うとったし、ばななはんも」
「香子」
 視線が届く。生真面目で清廉な眼差し。静かな、凪の双眸が香子を捉えている。
「いつまで笑ってるんだ?」
 頬が引きつれて痛い。双葉の指先が右目の目元から顎先までを撫でてきた。それに導かれるようにして、香子の唇が歪み、見る間に涙が盛り上がる。
「ふっ……
 吐息のような、嗚咽のような、中途半端な声がもれて、双葉は辛抱強くその続きを待っている。
 今朝つけた桜の香りはとっくに消えてどこにもない。
 だから。
 だから、早く。
……あんたはうちのやろ!」
 喉の奥が何かで詰まって声が上ずる。それでも双葉の双眸は静謐なまま、ただ静かな光を湛えている。
 ぐいと荒々しく涙を拭い、香子は真正面から双葉を睨みつけた。
「勝手に……うちのそばからいなくならんといて」
「ああ」
 嘆息のような、諦念のような、甘受のような声を、双葉が落とす。
 どこまで行っても石動双葉は与えるものアンギフテッドだったし、花柳香子は与えられるものギフテッドだった。なにものもそれを邪魔できなかった。それは石動双葉の想いであっても花柳香子の深層であっても例外ではなかった。
 どこまでも二人は二人だけの世界で舞っていて、二人はお互いだけを構っていて、二人の深層はぐしゃぐしゃに絡まっていて、二人の足元はひたすらにから回っていた。
 それを笑う第三者はいない。
 双葉は耳を澄ますように呼吸をひそめて、香子の髪をかきあげるように、耳朶に触れた。
「いなくならない。約束する」
……信用できひん」
「なんだよ、それ」
 困ったような微苦笑を浮かべる双葉を、香子はいじけた視線で追い立てる。
「双葉はんはええかっこしいやから、口だけやったらなんとでも言わはるやろ」
「あのなあ。お前に嘘ついてどうするんだよ」
 ぐずぐず鼻を鳴らす香子に泣き止まない赤ん坊でも幻視したのか、それとも別の何かを刺激されたのか、慈愛のにじむ眼差しで双葉が香子の頭をなだめるように叩いた。
「じゃあどうしたらいいんだ? 誓いのキスでもするか?」
 明らかに冗談だった。舞台ではよくある安っぽい演出だ。
 焦燥感が香子の背中を覆っている。
 早く、早く、
 時を経ても消えない、なにか、を。
 こくりと頷くと、双葉の瞳がさざなみ立った。
 愛するひとアンギフテッドと、愛されるひとギフテッド
 その違いが如実に現れる。
「ば、馬鹿。本気にするなよ」
「いやや」
「いややじゃないだろ」
「言い出したのは双葉はんや」
……っ、いや、だってお前……
 適切な言葉を選び出せず、双葉が無意味に口を開閉させた。香子は不思議と身体の力が抜けていた。泣いて体力を消耗したのかもしれないが、それとはまた別の理由があるような気がした。
 そうできたら、足元に光がさす気がした。
「双葉はん」
…………
「双葉」
…………っ、……
 一度、双葉がきつく奥歯を噛み締めた。
 差し出された手。慣れ親しんだ指先の感触。彼女の吐息が肌を撫でた。
 手の甲に、一瞬触れて、離れる。
……こっ、これで文句ないだろ」
 約束したぞ、とこわばった表情で宣言する双葉の顔がみるみる紅潮していく。
 香子は、なにをそないに照れとるんやろ、と不思議に思っている。
 安っぽい演出の芝居みたいなその儀式はしかし、二人の世界で意味を持った。
「ま、ええわ」
 左手の甲に残されたしるし。
 唇の感触を反芻すると、背中はずいぶん健やかになった。
 石動双葉は、呼べば来るし望めば叶えるし口にしなくても通じる。
 それが崩れる心配がなくなったので、花柳香子はこの平穏な世界に満足していた。