黒竹
2022-05-30 21:54:50
10469文字
Public 少女☆歌劇レヴュースタァライト
 

#1 徒花

【少女☆歌劇レヴュースタァライト】【ふたかお】【春に咲き匂う】

 髪の毛を梳かれながら、くあぁ、と花柳香子があくびをした。柔らかいブラシを操って香子の髪を艶めかせている石動双葉は眉一つ動かさない。傍から見れば良いご身分だと薄笑いのひとつも出てきそうな光景なのに、彼女たちはあくびをしたりブラシを入れやすいように顎を持ち上げたりするだけだ。
 香子の首がかくんと落ちた。辛抱強い双葉の手が落ちた首を元に戻す。「香子、ちゃんと起きろって」呆れ口調の忠告に返ってきたのは不満げな唸り声だった。
「まだ眠いぃ……
「寝落ちしたら置いてくからな」
 言いながら、香子のパジャマを脱がせて制服に着替えさせる石動双葉である。ブラウスのボタンも留めるしスカートのホックもかけるしリボンも結んでやるのである。香子は、そう、ブラウスの袖を通す時に腕をあげてくれるし、リボンを結びやすいように自ずから上を向いてくれる。それに時々は双葉が起こす前に目を覚ましていることもある。
 それらを不平等と思わない二人だった。不公平とも不均衡とも思っていない二人だった。
 双葉が脇に置いてあった小さなケースを手に取る。丸蓋を外すと薄紅色の練り香水が詰まっている。桜。やや季節外れの春めいた香りはしかし、彼女によく似合う。人差し指の腹で擦り取って、香子の耳の裏側をなぞるように香を乗せる。最近は匂い袋よりこちらの方がお気に入りだ。大人っぽい感じが良いのだと言う。双葉はどちらも好きだった。
 最後に髪をふわりとかきあげれば、桜の薫香が双葉の鼻先をかすめる。
「よし、完成」
「おおきにな、双葉はん」
 可愛らしく両手を合わせる香子に苦笑しつつ(それはなにかをごまかす仕草だったけれど、彼女はいつもそれに対して何も言わない)、椅子にかけていた自分のジャケットを羽織った。


 香子は時々、二人きりになりたがる。
 元々かなりの人見知りで、集団の中にあっては常に精神力を削られていくタイプである。クラスメイトとはずいぶん打ち解けたが気のおけない間柄にはまだまだ遠い。精神力がレッドゾーンに入ると途端に落ち着きをなくすので双葉にはすぐに分かるのだが、クラスメイトたちは「香子ちゃんはだいたい落ち着きないよね?」と不思議がっている。相互理解の道は険しい。
 そんなわけで今も誰もいないレッスン室の片隅で二人きり、双葉の膝の上で回復中の香子である。
「先生、うちにばっかり難しい問題出し過ぎとちゃう? 嫌がらせや、学級崩壊や!」
 毎日なにかしらに不満を持つわがままガールの今日の標的は演劇史の担当教師だった。授業中に当てられて、答えられなかったのが悔しかったらしい。
「お前がまともに授業聞いてないだけだろ」
 彼女のノートには、およそ授業内容とは関係のない落書きが溢れている。サインの練習とか舞台衣装のデザインとかだ。当人いわく、落書きではなくいずれきたる将来への備えであるらしいが、双葉としては不確定な未来を慮るより、切実な今を生きてほしい。成績的な意味で。
「双葉はんも答え教えてくれへんし」
「ばれたらあたしまで怒られるだろーが」
 ひどいひどいと暴れる香子を両手で力任せに押さえつつ、双葉は深々とため息をついた。
「ったく、いつになったら大人になるんだよ……
 練り香水を大人っぽいと言って得意気に笑うくせに、本質は祖母に叱られて拗ねていた頃と何も変わりはしない。朝せっかく整えた髪も暴れたせいで乱れに乱れている。直すのはもちろん双葉だ。桜の香りだけが優しい。
 柔らかい頬を指先でつつく。すべらかでぷくぷくしていて、子どもどころか赤ん坊のようである。
「早いとこ大人になってくれよ」
「うちより小さい人に言われたないわ」
「身長は関係ないだろ」
「うちは身長のことやなんて言っとらんで?」
「じゃあどこの話だよ。返答によっては香子でも容赦しないぞ」
 剣呑な空気に香子が口を結んだ。概ね空気を読まない彼女だが、危険を察知する能力は高い。
 双葉は肩をすくめて、中身の話だよ、と、今度は頬をつまんで引っ張った。「なにしますのん」「餅みたいに柔らかいからどこまで伸びるかと思って」「伸びんわ」
 はじくように双葉の手を払った香子がいじけたポーズで唇を尖らせる。それでも膝の上からどかないのが花柳香子だった。
「なんならもう、とうに大人の女ですし?」
「ははっ」
 これには思わず失笑。そのままため息が出そうになったがさすがに我慢した。
 代わりに茫漠とした気配だけの、湿った視線が香子の首元に落ちた。いじけて顔を背けている香子は気づかない。
 大人に。
 具体的なイメージなど何一つ持っていないそれに、二人が到達したなら。
 あたしたちは。
 お前は。
 桜の香る耳たぶが髪の毛の隙間から覗いていて、双葉はその薄桃色を見ている。
 すん、と鼻を鳴らした。
 ふいにドアが開く。きれいな金色の髪がひらめいた。香子がパッと起き上がる。
「あら、双葉に香子。なにしてるの?」
「クロ子」
 「見ての通り香子のお守りだよ」静かだった室内に突然ドアの開く音が響いたから、驚いて少しだけ鼓動が速まっている。誰にも気づかれないようにゆっくりと深く呼吸する。
 「ふぅん。いつも大変ね」どこか感心したような、それでも大して関心もなさそうな表情の西條クロディーヌ。「クロ子は自主練か?」「そ。お邪魔だったかしら」「いや、あたしらはもう帰るよ」香子の手を引いて立ち上がらせる。クロディーヌに聞こえないように、お守りちゃうしとか大変ってなんやねんとかぶつぶつ言っているが無視。乱れていた髪も手櫛で軽く直してやる。
「あら?」
 すれ違いざま、クロディーヌが小さくつぶやいたのを聞き止めて、双葉が立ち止まった。
「どうした?」
「香子、なんだか良い匂いがする。いつもより上品な感じね」
 花柳香子、即座のドヤ顔。高々と鼻を持ち上げて、これみよがしに髪を払った。
「さすが、クロはんくらいになると気づきはりますなあ。京都の由緒正しい香屋さんのものどす」
「お師匠さんが香子に似合いそうだからって練り香水を送ってくれたんだ」
「へえ、いいじゃない。フランスもフレグランスは盛んだけど、けっこう主張が激しいのが多いのよね」
「あれはあれで、ゴージャスで嫌いじゃないけどな、あたしは」
 双葉の何気ない一言に香子の頬が膨らむ。その表情を盗み見るクロディーヌの双眸が、「やれやれ」とでも言いたげに細められた。
 元子役であることが関係しているのかどうかは分からないが、西條クロディーヌは観察眼が鋭い。
 彼女にしてみればこの二人、実はどちらもわざとなんじゃないかと思えるくらいなのだが、それでいて反応を見る限りどちらも分かっていないようなのである。ある意味すごいな、と感心しているクロディーヌだ。
 感情は、グラデーションが複雑すぎる。
 香水は時間が経つごとに香りが変わっていく。トップノートからミドルノート、そしてラストノートへ。そういうふうに、たぶん、時間をかけて少しずつ変化していって、しかし境界はどれも曖昧だ。
 近すぎればきっと、それが自分のものなのか相手のものなのかも区別できない。
「双葉はつけないの?」
「あたしはいいんだよ。ガラじゃないだろ」
「そんなことないと思うけど。なんだったら私が見立ててあげましょうか? シトラスとか爽やかなの似合いそう」
 むうぅぅ、と、地の底を這うような唸り声がどこからか届いた。後ろから双葉の身体がホールドされる。「なんだなんだ」突然身動きを封じられた双葉が目を丸くする。クロディーヌは香子が泣きそうな目で睨んでくるのを面白がっている。
「ふ、双葉はんはそないなもんつけんでも充分ええ匂いしとります!」
「なにを言ってるんだお前は……
 双葉は香子が何に対抗心を燃やしているのかが分からないし、香子は自分が煽られたことに気づいていない。
「はいはいそーね」
 ひとつ、ふたつ。それぞれの頭を撫で叩いて、クロディーヌは二人の横をすり抜けた。
「そろそろ練習したいからこのへんでね。双葉、フレグランスがほしくなったらいつでも言って」
「いらん言うてるやろ! 行くで双葉はん!」
「お、おう……
 合点のいかない顔をしながらも、香子に押し出されるようにしてレッスン室から廊下へ出る。
「お前、クロにだけ当たり強くないか?」
「そんなんあらへん」
 まだ双葉の胸から上はホールドされたままだ。脚は自由なので香子を引きずるように進んでいく。
 一瞬離れたと思ったら背中に飛び乗られた。「うおっ!?」さすがの双葉もバランスを崩しかけるが、持ち前の運動能力で見事に持ちこたえた。
「いきなりなんだよ、危ないだろ」
「疲れた。バイクまで運んでえな」
「さっきまで寝転がってたのになんで疲れるんだよ。それくらい歩けよー」
 言いながらも香子を背負ったまま歩いていく双葉である。結果はどうあれ意思表示が大事だと思う。吐息が頬を撫でてきて少しくすぐったい。肩を包むように回された腕の力。彼女がどんな表情をしているのかは分からない。それに少しほっとしている。
 視線の先に二人の影が落ちていて、その境界はまったく曖昧だった。


 西條クロディーヌが星光館に帰った時、双葉はちょうど共用リビングにいた。「お、おかえり」ラフな部屋着でテレビを見ていた双葉が、クロディーヌに気づいて人懐こい笑顔を向けてくる。
「ただいま。香子は?」
「風呂」
「一緒に入らないの?」
「あいつと一緒だとゆっくりできねーんだもん」
 あ、お世話はするのねやっぱり。と思ったが口には出さない。
 ソファの隣に腰を下ろして、バイクレースの中継を眺めている双葉の首筋に鼻先を寄せた。
「クロ?」
「香子が言ってたじゃない。双葉は良い匂いがするって。どんなかなと思って」
「あんなの、適当言っただけだろ」
「そうね、よく分かんないわ」
 小さく軽い笑声をこぼして、倒していた身を起こす。
 双葉が柔らかく笑った。ウェーブのきつくかかった金糸の房、クロディーヌの胸元に落ちたその一房をすくって引き寄せる。
「クロはバラの匂いがするな。クロっぽくて似合うよ」
 ほんとそういうところよあなた、と思ったけれどそれも言わない。
「自主練の後でシャワー浴びたもの。シャンプーよ」
「良い趣味してるよ。あたしはそういうの、よく分かんないからなあ」
「だから見立ててあげるってば」
「ああ、いや……
 少し言いにくそうに唇を歪めて口ごもる。人懐こくて社交的な彼女がこういう顔をするのは珍しい。珍しいが皆無ではない。クロディーヌはそれを知っている。いつだって理由がひとつだけなことも。
 彼女のこの表情を見ると、無性に頬へキスをしてあげたくなる。小さな子どもへの無償の愛ではなく、たぶん、友人が道を見失わないための霧鐘として。
 けど、とクロディーヌは思い直す。
 そもそも、どこにも行けないものね。
 だから西條クロディーヌは石動双葉にキスをしない。
「香子が怒っちゃう?」
「まあね。あいつ、妙にクロにだけ厳しいんだよなー」
「私にじゃなくて双葉にでしょ」
「え?」
「私が双葉と仲良くするのが嫌なんじゃなくて、双葉が私と仲良くするのが嫌なのよ、あの子」
……一緒じゃないか? それ」
 「ちがうわよ」掛け算の順番で答えが変わると言われたような表情の双葉を、クロディーヌは教師に似た眼差しで見つめる。
「そんなもんかね」
「そんなもんよ」
 バイクレースが終わった。双葉がリモコンを操作すると、画面はニュース番組に切り替わった。どうやら録画だったようだ。
「面白かった?」
「ああ。でも、クロと話してる方が楽しいよ」
「あなたね……
 とうとう声になって出た。彼女にはまったく伝わらなかったことだけが幸いである。
 低く落ち着いた声と、溌剌とした表情と、小柄だが伸びやかな肢体と、人懐こい性格と、相反するような面倒見の良さと。
 それらはすべて彼女の魅力だ。
 それだけのものを持っているのに、どこにも行けない彼女を少し哀れに思う。
 それは幸福だろうか。
 それは幸福だろう。
 だからこれは、誰にも言わないクロディーヌだけの自分勝手な憐憫だ。
 友情、とも言える。
 分かたれて、戻って、元通りにはならなくて、けれどたったひとつの絶対である彼女たち。
 その行く末を案じてしまう程度には、西條クロディーヌは石動双葉と花柳香子のことが好きだったし、双葉の足元が不安定なことに気づいてしまう程度には、観察眼が鋭かった。
 いっそ踏み抜いてあげればいいのかしら、と、剣呑なことまで考える。可愛らしい二人の危うい足元。
 崩れるか崩れないか、と危ぶんでいるより、いっそ壊してしまったら、それはひとつの救いになるのではないかと。
「さ、そろそろ香子が戻ってくる頃かな」
 ソファから腰を上げた双葉を見上げながら、クロディーヌがつぶやく。
「苦労症よね、双葉って」
 双葉がきょとんと目を丸くした。「猫はワンと鳴くよね」と言われたような顔だった。
「別に好きでやってるだけだからなあ。ま、あんまりわがままがすぎる時は怒ってるし、それでいいんだ」
 おそらくは無意識だろうけれど、それは牽制だった。「それでいいんだから口出ししてくれるな」と、踏み込みすぎたクロディーヌに釘を差してきた。
……oui。そうね、あなたたちはきっとそれでいいんだわ」
 吐息に意味が混じらないように気をつけて、包容力のふりをしてうなずく。
 自室に戻っていく双葉の背中を目で追う。
 閉じ込められてどこにも行けない彼女の想いは、いつか散ってしまうのだろうか。それともまた少しずつ形を変えながら生き続けるのだろうか。
 どちらにせよ幸福だろうが、喪失の悲しみがないわけではないだろう。
 その時はせめて、喪われた想いを悼んでやろうと思う。
 できることならどこかで咲いてほしいものだけれど。
「肝心の双葉がそれを望んでないものねえ」
 頬杖をつき、深々とため息を吐き出すクロディーヌだった。
 気づいて、見抜いて、それでも傷つけないし射抜かない彼女は、優しい。


 だるまのぬいぐるみを抱きくるみ、それを枕代わりにして香子がベッドに寝転がっている。右足、左足と順繰りにマッサージしてやると「極楽、極楽やぁ」と年寄りじみたことを赤ん坊の顔で言う。変幻自在だ。役者には向いた特質である。彼女が極めたいのは演技ではなく踊りの方だが。
 ぎゅむぎゅむ押しつぶされているぬいぐるみを見やった双葉が、眉を寄せながら香子の後頭部を叩いた。
「あんまり乱暴に扱うなよ。それ、あたしのなんだからな」
「双葉はんはうちのもん。つまり双葉はんのもんは全部うちのもんどす」
「勝手に決めるなよ」
 この部屋は二人が初めて得た王国ランドだった。円環ラウンドし続ける積み重ねた年月グラウンドの上に建てられた、二人だけの世界だった。
 征服するまでもなく、花柳香子は世界を手にしている。
 「はーい、しゅーりょー」締めにトコトコ肩を叩いて宣言し、ぬいぐるみを取り返す。香子の下敷きになっていたおかげでやや形が歪んでしまっている。ベッドの縁に腰かけて、「あーあ、かわいそうに」哀れっぽい声でつぶやき、これ見よがしにぬいぐるみを撫でる双葉の背中に、ゴロゴロ転がってきた香子が体当たりした。
「あだ!」
「なんやの。それ、そないに大事なん?」
「気に入ってるんだよ」
「うちより?」
「そんなわけないだろ」
 ぬいぐるみから視軸を移さないまま、腰にまとわりついている香子の頭を手探りで乱暴に撫でる。「髪乱れるやろぉ」嬉しそうに香子が抗議する。
「せやったら、クロはんは?」
「ん?」
「うちとクロはん、どっちの方が大事?」
 子猫の甘噛みみたいな問いかけに腹の底をくすぐられる。こらえきれない笑声が口の端からこぼれた。頭を撫でる手を、かき回すように荒らげる。
「お前に決まってるだろ」
「ちゃんと言うて」
「香子のことが一番大事だ」
 満足そうに息をつく音が聞こえる。乱れた髪を指先で梳いて整える。グルーミングされて子猫は目を細めている。
「双葉はんはほんま、うちがおらんとだめやなあ」
「どの口が言ってんだよ」
「うちは一人でも平気ですえ? 双葉はんがおらんでも、なーんも困らへんもん」
「はいはい」
 二人だけの世界は平和で美しい。
 あまりにもきれいで、石動双葉はそれを壊したくない。
 守りたいと、それだけが、幼い頃からのただひとつの絶対だ。
 寮の外に設置された常夜灯が窓の向こうから光を届けている。香子が離れようとしないから、双葉は少し身を乗り出してベッドの横に置いてあった携帯電話を手にとった。左手は彼女に触れたままで。
 大した興味もないネットニュースを流し読みして、動画サイトで有名劇団の公開ゲネプロを見て、殺陣の参考に居合動画をいくつか巡った。動画サイトは時間泥棒だ。左手はずっと天色の髪を撫で梳いている。
 いつしか、腰に回された腕の重みが増していた。うん? と視線を落としてみれば、安らかな寝顔がそこにある。ああ、しまった。やってしまった。動画サイト巡りに夢中になったせいだ。髪を撫でていた手を止める。「んん……」むずがるように眉を寄せる香子に苦笑する。指の背で彼女の頬に触れると、血色の良い肌が匂い立った。
「かーおーるーこ。寝るならちゃんと布団入れ」
「んんー……
「ったく、しかたねーなあ」
 一度立ち上がり、ぐでんぐでんの香子を抱きかかえるようにして起こす。「いややぁ〜……」「おーきーろ。ちょっとだけだから」
 香子が抵抗するように抱きついてきて、「ああもうっ」双葉は力任せに持ち上げようとした。
「ふたばぁ」
「なんだよっ」
「うちが世界取るまで、離れたらあかんで?」
…………
 寝ぼけ声のそれは鎖だった。今までに数えきれないくらい双葉に絡みついたそれらの、新たな一本だった。
「分かってるよ。だからここにいるんだろ」
 ずっと選び取ってきた。意図と意思と愛しさと示唆と視座とらしさとで囚われることを選んだ。
 けれど。
 それは、永遠を意味しない。
 やっとの思いで香子を掛け布団の内側に押し込んで、寝かしつけるように肩口を叩く。
「不安になるくらいなら、最初から強がるなよなー」
 大言壮語はいつものことで、すぐに後悔して小さくなるものいつものことだ。我が幼馴染は学習能力がないと肩が落ちる。
 身をかがめて無垢な寝顔を覗き込む。
 無防備な寝姿。
 子どもじみた野望。
……全部お前のためだったんだぞ。分かってんのか?」
 幼い頃から捧げ続けたすべて。
 ふたりの願い。
 彼女が最も煌めく瞬間を、隣で見られたら。
 そうしたら。
「それから、お前はどうするんだろうな、香子」
 あたしはどうしたらいいんだろうな。
 壊したくない二人の世界と、表に出せない双葉の想い。
 何も知らずに眠る幼馴染のまつげが震える。
「けっこうしんどいんだぞー」
 感情のこもらない声音で言いながら香子の鼻をつまむと、「ふぇっ」間の抜けた声が上がった。あまりにも間抜けで毒気を抜かれる。情けなく笑って手を離す。
 もぞもぞと香子の両手が表に這い出てきて捜し物をするようにさまよった。何の気なしにその手を取ると、彼女は満足したふうに双葉の手を引き寄せて、胸元に閉じ込めた。
 ライナスの毛布というわけではないのだけれど。
……しかたねーな」
 花柳香子にそうされると、石動双葉は動けない。
 たぶんそれは、解けない呪いだった。
 恋、とも、言える。


 桜の香りがする。
 双葉は川べりを歩いている。
 春にしては風が身を切るほど冷たくて日差しが淡い。
 どこで拾ったのか、前方を導くように舞うように進んでいる香子が桜の枝を振り回している。
 どういうわけか彼女の背丈は双葉の腰ほどで、しかし不思議と違和感がない。
 ああ、夢かこれ。双葉は口の中だけでつぶやく。夢は夢と気づけば目が覚めると聞いたことがあるが、さて一向に目覚める気配がない。
「ちゃんと前見て歩けー。転ぶぞー」
「平気や」
 言ったそばから砂利に足を取られてすっ転んだ。「ああ、ほら、言わんこっちゃない」慌てて駆け寄り、うつ伏せに倒れ込んだ香子を抱き起こしてやる。受け身も取れなかったのだろう、可愛らしいおでこが赤くなっていた。両目に涙を溜めて唇を引き結んでいる子どもは「双葉はんが急に声かけてくるからやろ!」と理不尽に怒った。
「あたしのせいかよ」
「そうや、双葉はんのせいや」
「はいはい、あたしが悪かった」
 ただでさえ泣く子は強い。しかも花柳香子なので最強だった。
 抱き上げて家路につく。懐かしさがこみ上げてきた。気づいてみれば、そこは二人でよく遊んだ川べりだった。せせらぎも砂利を踏む音も桜の香りも、どれも深く覚えのあるものだ。
 こんな夢を見るなんてホームシックかな、と首をかしげると、バランスが崩れたのか香子が腕の中をずるりと滑った。身体を揺すって戻してやる。
「おでこ、ちゃんと消毒してもらうんだぞ」
「わかっとりますぅー」
 子どもの足で通えた距離なので、高校二年生にとってはさらに近い。香子を抱っこしたまま慣れ親しんだ花柳のお屋敷までたどり着いて、玄関前で下ろしてやる。
「おおきにな、双葉はん。ほなさいなら」
「え?」
「どないしたん? 双葉はんも帰るやろ?」
 小首をかしげる香子に、双葉が一瞬フリーズした。
 帰るって、どこに?
 香子はここにいるのに。
 そんな様子を見ていた香子が、ふいに得意げな顔になった。小さい身体を精一杯反っくり返らせて腕組みをする。
「なんや、双葉はん一人で帰られへんの? いくじなしやなぁ」
「なっ」
 自分は悠々と送ってもらったくせにずいぶんな言いようだった。
「しゃあないな。ほな、これあげるわ」
 ぷくぷくした小さな手が桜枝を押しつけてくる。「うちの代わりや」振り回していたから花びらも半分ほど落ちていて、今もはらはら数枚落ちた。儚いけれど、不思議と心強い。
 初めて見下ろした香子は、非現実的な身長差など気にも留めずに尊大な態度でいる。
「これで寂しくないやろ?」
 双葉は小さく肩をすくめた。受け取った桜枝をためつすがめつ、空いている手で香子の頭を撫でる。
「ああ、寂しくないよ。ありがとな、香子」
 その時、枝から花びらが一枚はがれて、双葉の口に飛び込んだ。
 花びら一枚のはずなのに、むせ返るような香りが口腔を覆う。花びらが二枚四枚八枚と飛び込んでくる。すぐいっぱいになって息ができない。何が起きているのか理解できずその場に膝をつく。「双葉はいくじなしやなぁ」あどけない声が花びらの向こうから聞こえる。
「いくじなしは、桜に呑まれてまうで?」
…………っ」
 出せない言葉。
 言えない名前。
 左目から涙が落ちた。


……なんつー悪夢だ……
 目が覚めて早々、苦みばしった口調で吐き捨てる。無意識にてのひらで左目を押さえていた。濡れた感触はあるけれど、涙ではない。額からつたってきた汗だった。ぐいと乱暴に拭う。口の中がおかしい。夢に影響されて、まだ花びらが入っている気がする。大きく口を開けて深呼吸。
 まだ夜は明けきっていない。薄明のぼんやりとした青がカーテンの隙間から見える。彼女の髪の色に似ているから好きな景色だったが、今日ばかりは腹立たしい。
 なんだかひどく消耗していて起き上がる気力がない。左目を押さえたまま天井を見据える。なんら面白みのない天井だった。細長く吐息をつく。首を巡らせて、右目だけで逆側のベッドを見た。こちらに背を向けているから彼女の顔は見えない。
……誰がいくじなしだ、誰が」
 実に心外である。しかしあれはただの夢だ。いくら意識の表層で心外だと憤慨しても、その源は双葉自身でしかない。
 自分でそう思っているだけだし、自分で桜に呑まれて消えてしまいたいと思っているだけなのだ。
 前髪が額にはりついて気持ちが悪い。シャワーでも浴びるかとノロノロ起き上がる。
 浴場でシャワーを浴びて、いつもの三倍くらい時間をかけて歯を磨いたらずいぶんスッキリした。切り替えが早いのは自覚的な長所だ。
 アラームが鳴るまでストレッチなどしつつ、いつもどおりに香子を起こして身の回りの世話をする。夢見の悪さはすでにかけらも見えない。
 仕上げに練り香水を耳の裏側に塗ってやって、蓋を閉じようとしたら横からかすめ取られた。
「香子?」
「ちょぉ動かんといて」
 しなやかな指先が練り香水の表面を撫でる。短く整えられた双葉の髪をもぐるように侵入してきて、耳朶をかすめて内側の輪郭をなぞった。
 思わず息を飲む。初めて味わう感触だった。
 だって耳の裏側なんて、生活の中で誰かに触れられる機会なんてない。そのことに、その特別に、双葉はいまさらのように気づいてしまった。
 両耳を同じようになぞった香子が得意そうに笑う。
 伏し目がちに練り香水の蓋を閉じて、
「あんたはうちの匂いが一番似合うわ」
 誰も太刀打ちできない傲慢さで、宣った。
 それは紛れもない執着。
 桜の香りがまとわりついて離れない。
 それを望んだのは。
「双葉はん? なにぼーっとしてはるの。はよ行くで」
「あ、ああ」
 心臓が強く脈打っている。左目のふちに花びらがはりついていて取れない。
 双葉の内側で、桜の香りが激しく荒れくれていて、二人の世界はただ平和だった。