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黒竹
2022-05-30 21:45:37
9786文字
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∞
【ルカミク】
現パロ。春は別れの季節ですね、というお話。
ルカが指輪をくれた。
ずっとほしくてねだっていたものだ。細い金色のリングで、途中で一度ねじれている。それがちょっと珍しくて好きだった。
一六歳の頃からほしいと言い続けていて、一八歳になったらくれた。二人で食事をした帰り際、「あげる」とそっけない言葉とともに手の中に落とされた。
家に帰ってから右手の薬指にはめてみたらぴったりだった。「いつの間にサイズ調べたのかなー」独り言を呟いてみるが、別にそれは疑問ではなかった。
石もなにもついていない、ただ一度ねじれただけのプラチナリング。指にはめたまま明かりにかざしたら煌めいて綺麗だった。
メビウスリングのようだからといって、それが二人の永遠の証だなどとは思わないし、そんな情緒的な願いを込めるような対象でもなかった。ただデザインが好きだったからほしかった。
「どうせくれるなら二年前にくれればよかったのに」
ベッドに寝転がり、外した指輪をクルクル回しながら眺める。こちらはそう思うのだけれど彼女の方はそうもいかない理由があったのだろう。
今度のデートはこれをつけていこう。何の気負いもなく一八歳の初音ミクは決める。
社会人というのは思っていたより大変で、思っていたより大変ではなかった。
大学を出てすぐに入社した小さな広告制作会社の仕事で、巡音ルカは朝から街中を走り回っていた。
といっても移動は主に自動車である。自分で運転するから多少疲れはするが、今のところはまだ先輩のアシスタント業務がほとんどで、内容は要するに雑務と運転手だ。フリーペーパーの制作を担当しているがまだ自分で取材したり記事を書いたりはしていない。そういう意味では単純作業の側面もあり、徹夜などもこの半年は経験していない。
だから、仕事としてはあまり大変ではなかった。
大変なのは取引先や先輩と懇意にしている取材先との交流である。将来的にはルカ自身の顧客となるかもしれないし、この業種では人脈がそのまま仕事量に反映したりもする。だから紹介してもらったら必ず食事の席を設けたりこまめに連絡を取ったりしなければならず、おかげで睡眠時間はぐっと減った。
首に電話を挟んで誰かと会話をしながら休みなくキーボードを叩いている向かいの先輩の、デスク上に並ぶ栄養ドリンクの空き瓶を眺めながら、来年くらいには自分もああなるのかと暗い予想を立てる。三年目だという彼は今週ずっと着ている服が同じだ。明日は休日だが帰れるのだろうか。
その先輩に渡すための資料をまとめていたら、パソコンのディスプレイにショートメッセージが表示された。窓際の席にいる室長から夕食のお誘いだった。少し考えて、明日は休みだし、と了承の返事をする。
室長は超がつく大手制作会社から引きぬかれてこの会社に来たやり手である。ルカより何歳か上の女性だが、彼女が来てから一年で業績が倍近くになったらしい。入社以来、どういうわけか気に入られてよくこうして誘ってくる。
ルカとしても仕事の話はためになるし趣味もけっこう合うので一緒にいるのは苦ではない。むしろ楽しい。
それでも了解するまで少し考えたのは、彼女の酒癖が悪いからである。
完璧な人間などいないのだ。
終業時間の午後六時になった途端、室長が席を立った。それを見てルカも慌てて帰り支度を始める。資料は渡したし、今日の分の作業は終えているし、週明けの取材に必要な準備も済ませた。ひとつずつ確認して抜けがないことを確かめると、バッグをかけながら足早に室長を追いかけた。
「お疲れ様です」
室長の隣に並んで会釈する。「お疲れ様」ショートボブの切りそろえられた髪を揺らしながら室長が答える。
「今日はどうしましょうか?」
「んー、ちょっと行きたいお店があるのよね。アメリカンスタイルだけどいい?」
ルカはアメリカンスタイルが具体的にどのようなものかは知らなかったが(なにせ学生時代は居酒屋に大人数で行くばかりで、バーと呼ばれる場所など室長に連れられて初めて足を踏み入れた)、なんとなくのイメージで大丈夫だろうとあたりをつけて頷いた。
室長の案内で向かったのは会社から歩いて二十分くらいの、大通りから一本外れた通りにあるカフェバーだった。入口のドアが大きい。そこから見える室内は明るくてテーブル間が広く取られていて、なるほどアメリカンだった。
ドアを開けるとカウベルの音が大きく響く。「いらっしゃい」髭面のマスターがカウンターの向こうから出迎えてくれる。
それと犬だった。
「ひゃっ!?」
死角になっているカウンターの裏側、そこから真っ白い犬が三匹飛び出てきて、ルカと室長に飛びかかった。文字通り、だ。ジャンプした。一抱えはある犬に突進されてルカが尻もちをつきそうになる。隣の彼女は慣れているのか腰を落として犬を受け止めていた。
「おーよしよし、みんな元気ねー。ちょっと大きくなったかな?」
「一週間で二キロ増えたからな」
マスターが自慢気に言ってくる。犬は中型犬くらいの大きさだったので成犬かと思ったが、落ち着いて見ると顔が幼い。
一匹の首筋を撫でてやりながら上目遣いに室長を見上げる。
「あの、この子たちって
……
」
「ピレネー犬の子犬。これでまだ三ヶ月なのよ」
「おーよしよし、君は一号かな?」「残念、三号だ」犬と戯れる室長。よく見れば柱の根元や床の一部にリング上の金具が設置されている。おそらく犬のリードを取りつけるためのものだろう。入る時は気付かなかったが、外の看板にも犬のシルエットが描かれたシールが貼られている。ペット同伴OKのマークだ。
店内には常連風の三人組。犬は連れていないがルカに飽きて歩き回り始めた子犬を慣れた手つきで撫でている。他の一人がデジタルカメラでそれを撮影していた。誰もリードを持っている様子がないから、三匹はこの店で飼われているのだろう。
子犬たちが離れたので二人はようやくテーブルにつく。「可愛いでしょ」メニューを広げながら室長が朗らかに笑った。
「は、はい。最初は驚きましたけど」
「まだ子どもだからねー。人が来ると遊んで欲しくて寄ってくるのよ」
「室長、犬好きなんですか?」
一緒にメニューを覗きながら尋ねると、彼女は目線だけを上げて微笑んだ。
「好きだけど、巡音さんも好きかな」
え、と喉まででかかったが「と思って」と続けられて必死にこらえた。
「犬、好きじゃない? 前にペットサロンの取材から帰った時に楽しそうだったから」
「ああ、はい、好きです。動物はなんでも」
「でしょ? あ、何にする? あたしコロナー」
「じゃあキティで」
「あはは、犬のいるバーで
子猫
キティ
か」
そういうジョークのつもりではなかったが、ここは空気を読んでブルドッグでも頼むべきだったか、と思案したら顔に出てしまったのか「真面目に取んないでよー」と呆れ混じりに笑われた。恥ずかしくて思わずうつむく。
真面目すぎるとよく言われるのだ。それを長所だと言う人もいるし短所だと言う人もいた。どちらが正しいのかは自分では判らない。
マスターがコロナとキティ、それから深皿に盛られた落花生を運んでくる。落花生はお通しのようなものだろうか。どうするべきか判らず見つめていたら室長の細長い指がそれをつまみ上げた。赤く塗られた短い爪が妙になまめかしい。
パチンと殻を割って中身を口に入れる。室長はその殻を床に捨ててしまった。予想外の行動に思わず目で追うと、彼女は愉快げに笑った。
「アメリカンスタイルね」
「
……
はあ、アメリカンスタイル」
これがアメリカンスタイルらしい。
デモンストレーションのつもりだったらしく、それきり落花生には手を付けずにコロナの瓶を持ち上げて、軽くこちらへ差し出してきた。ルカもグラスを手に取る。
軽く触れ合わせて乾杯。片方は杯ではなく瓶だけれど。
「あれ、指輪どうしたの?」
グラスを持ち上げた、装飾のないルカの右手を目線で示しながら室長が問いかけてくる。どう答えるか逡巡した。「
……
朝、急いでて忘れちゃって」あげてしまったとは言えず、結局そう言って誤魔化した。
室長は指輪くらい忘れることもあるだろうと思ったのかそれ以上は聞いてこなかった。来週も再来週もずっと忘れたことにはできないから、いずれ言わなければならないのかもしれない。むしろ彼女が指輪のことを忘れてくれないかと願う。
フライドポテトやチキンナゲットをつまみつつ、二人とも順調に酒杯を空けていく。ルカが気に入られた理由はこれだった。今まであの会社には、室長と同じペースでアルコールを摂取できる人材がいなかったのだ。
子犬が一匹、ルカの膝に前足を乗せてきた。抱っこをせがまれているようだが子犬といえども大きい。マスターに体重を聞いたら十二キロだそうだ。「大丈夫、いける!」室長が無責任に煽ってくる。それでも迷っていると、待ちきれなくなったのか子犬が「そぉい!」とばかりに飛び乗ってきた。あわやテーブルごとひっくり返りそうになるのを、火事場の馬鹿力で耐える。
抱っこしてもらえて子犬はご満悦、尻尾を振りながらルカの顔を舐めてくる。
ルカが転びそうになった時は真剣な表情だったマスターも、すでに柔和な笑顔になっていた。
「二号、きれーなお姉さんに抱っこしてもらえて良かったなー」
「こ、この子さっきも私にじゃれてきてましたよね」
「三匹の中でそいつだけオスなんだ」
「こらー二号ー、なんであたしには来ないんだー」
犬に絡みだす室長。「だから二号はきれーなお姉さんが好きなんだって」マスターの軽口に睨みをきかせる。ルカの目には、どう贔屓目に見ても室長は美人に映る。
そう思ったからそう言ったら、「よーしよしよしよし、ルカはいい子だねー」犬みたいにわしわし撫でられた。そろそろ区別がつかなくなってきたらしい。
二号はルカの膝から降りようとしない。モフモフの体毛をモフモフしてみるとすごく気持ち良かった。思わず延々とモフモフする。癒される。アニマルセラピーの効果は抜群だ。
室長の真似をして落花生の殻を床に捨てるとこれも存外気持ちが良かった。ヒールで踏むと良い音がする。パリパリと軽い音が響くたびに、心臓の裏側あたりにあった澱みのようなものが少しずつ消えていくようだ。
犬と戯れ、落花生を踏み散らして、満足するまで酒を飲んだルカは室長に肩を貸しながら店を出た。やはりショットグラスが出てきた時に止めるべきだった。一緒になって「テキーラ!」とか叫んでいる場合ではなかった。
それでも久しぶりに良い夜を過ごせたと思った。明日は起きられないかもしれないがどうせ休日だ。前後不覚の室長をタクシーに押しこめば、もう憂いは何もない。
千鳥足の手本みたいな歩き方をしている室長は、顔を上げないままへへえと笑った。
「ルカちゃん、今日は楽しかった~?」
呼び名がまったく統一されない。しかしこれもまた、来週には「巡音さん」に戻っているだろう。
「楽しかったですよ。一号たちは可愛かったしお酒おいしかったし」
「そっか」
よかった。独白のように呟く。
「何があったか知らないけど元気出しなさいよー」
瞬間、身体の中のどこかが凍った。
けれど次の瞬間には溶けていた。きっとアルコールのせいだ。
「
……
ありがとうございます」
「お礼はちゅーでいいのよ」
「いえあの、そういうの間に合ってるので」
意味が判らなかったらしく室長が首を傾げた。
目覚まし時計のアラームで初音ミクは飛び起きた。
「土曜日だ!」
手刀一閃でアラームを止め、掛け布団を跳ね上げる。時刻は午前六時半、平日と変わらない起床時間だった。
ミクはいつもこんな時間に起きているわけではない。むしろ休日は昼まで寝ている事が多い。今日は特別だ。
顔を洗って歯磨きをして、服を着替えて髪の毛をセットする。普段は高めのツインテールにしているが、今日は結わずにそのまま下ろす。メイクをしようか迷ったが結局は色つきリップだけにした。
それから、右手薬指に指輪。
ボディバッグに最低限の持ち物だけ詰めて家を出る。裏手に回ってガレージに入れば、そこには相棒が待っていた。
400ccのフルカウルバイク。中古で購入して二年が経つが、故障らしい故障をしたことのない頼れる相棒だ。
ハンドルにひっかけていたヘルメットをかぶり、スターターで火を入れる。軽く吹かすとエンジンは調子よく吠えた。
グローブの下で指輪の違和感。少しくすぐったくて口元が緩んだ。
「さ、今日は海に行くよ」
相棒に告げてミクは走りだした。
「さ、今日は海に行くよ」
見るからに寝起きなルカが全身で「おまえは何を言っているんだ」と告げている。
聞こえなかったのかな? ミクがもう一度同じ台詞を繰り返した。
「
……
は?」
「海。綺麗だよー。ほんとはもっと早い時間の方が澄んでて綺麗なんだけど、あんま早くても迷惑かなーと思って」
「朝八時に押しかけるのが迷惑じゃないと?」
「わたしとルカの仲じゃない」
二年も育んだ強い絆があるよ。胸を張って言うミク。ルカは言い返す気力もないのか、がっくりと首を落として玄関ドアを閉めた。また開くのを待っていたが五分経ってもドアは動かない。ノブに手をかける。動かない。鍵をかけられていた。
「ちょっとルカー。海行こうよー。爽やかな朝日の下で波の音を聞きながらクレープ食べようよー」
目的地のそばにあるクレープ屋さんのキャラメルアップルパイクレープが絶品なのである。
遠慮会釈なしにドアを叩いていたら、近所迷惑を考えたのか渋々といったていでドアが開けられた。半眼でねめつけられる。ミクはどこ吹く風でドアが開いたことを喜んだ。
「あのね、昨日上司と遅くまで飲んでて二日酔いなの。こんな状態でバイクに乗ったら確実に大変なことになるから今日は無理」
「やだなあ、ルカが二日酔いになるわけないじゃん」
爽やかに笑いながら受け流す。バイト先が一緒だった頃、仲間内の飲み会でルカが成し遂げた数々の偉業を目にしてきたミクにそんな言い訳は通用しない。ちなみにミクはこう見えて常識は持ちあわせているのでソフトドリンクのみだった。
もちろん、ルカも数々の偉業をミクに見られていることは知っているので、すぐに嘘を認めた。
「えーと、じゃあついさっき実家のおじいちゃんが危篤だって連絡があって」
「ルカのおじいちゃんもう亡くなってるよね?」
「急な仕事が」
「あったらこんなにのんびりしてないでしょ」
「借りてた映画のDVDを見ないと」
「じゃあわたしも一緒に見るー」
「ていうかいい加減あきらめなよ」半笑いの忠告。ルカは苦々しい顔でドアの縁を睨んでいる。
判っているのだ。彼女はプライドが高い。ミクの言う通りに
……
ミクの思い通りになるのが嫌なだけだ。
グローブを外した右手でルカの手首をつかむ。反射的に引かれた手をミクは離さない。彼女の指のどれにも装飾はない。
多分、これからもその細長い指が飾られることはない。それを彼女が望んでいないから。
「ちょっとだけでいいよ。海行って、クレープ食べてあとは帰ろう。ただの気分転換だよ。わたしがバイクを走らせたくて、ルカに付き合ってほしいっていう、それだけ」
無意識だったけれどミクの声はずいぶん優しくなっていた。むずがる子どもをあやすような声だった。
ルカの視線はいつの間にか落ちている。まつ毛が伏せられてその長さが際立つ。綺麗だな、とミクは思う。
「ルカ」
ねえもう、指輪はわたしのものなんだよ?
伏せられたまつ毛、そこには確かに、何かが宿っていた。それが何なのか、どんな意味を持つのかは判らないけれど、ミクは意味なんてなくていいと思っていた。
「
……
少し、待ってて」
「うん」
ドアが閉まり、今度は五分でルカが戻ってきた。部屋着からカットソーとジャケット、タイトジーンズという服装に変わっていたが、予想通りノーメイクだった。
それは彼女のささやかな反抗だ。
初音ミクに対して、巡音ルカは飾らない。
ずっとそうだった。二年前、バイト先で出会って彼女を好きになって告白してから、ずっと。
予備のヘルメットを渡してサブシートにルカを乗せる。
「さ、海に行くよ」
「どこへでもミクの好きなところへどうぞ」
投げやりな返答を聞き流してミクはバイクを発進させる。
季節を少々外しているせいか、海には誰もいなかった。
近くの駐車場にバイクを止めて遊泳場まで辿り着いた二人は、最初から泳ぐつもりなどなく、かといって砂遊びをすることもなく、ただぼんやりと、陽の光に照らされて煌めく水面と、一定のリズムで寄せる波を眺めていた。
「いやー、綺麗だねー」
「そうね」
「大きいねー。広いねー」
「そうね」
「こうして海を見てると、人間なんてちっぽけな存在だって思い知らされるよね」
「それで?」
ミクが作ろうとしていた話の流れを、一言で断ち切られた。その流れを続けたらただではおかない、という気迫が「それで?」の一言にはあふれんばかりに込められていた。
だからミクは口を閉じた。
海の匂いがする。
腐った何かのような、あるいは生まれたての何かのような。
いのち、の、ような。
飲み込まれそうだ。飲み込まれてしまえ。ちっぽけな人間のちっぽけな悩みなど、このいのちみたいな広大なものに飲み込まれて消えてしまえばいい。
それを言いたかったのにルカに抵抗された。
言ったら泣くぞ、と脅しをかけられた。
ミクはルカを泣かせたくなかった。
「う、海は大きいけどさ、人間は小さいけどさ、けど、たくさんいるよね」
「それで?」
たじろぐ。でもやめない。
「だから、世の中にはたくさん人間がいて、ルカだって社会人になって色んな人と知り合って、あでも、一応ほら、私とももう知り合ってるわけで」
「だからなに」
「だから
……
だから
……
」
バイクに乗っている間、背中に感じる柔らかさとか腕の強さとか今こうやって隣にいると鼻先をくすぐってくる良い匂いだとか、泣かせたくないのに泣きそうな横顔を綺麗だと思うことだとか。
自分の指にはまっていた指輪を押しつけてくる傲慢さとかも。
そういうもの全部ひっくるめて、どうしようもなく、彼女が好きだ。
だから。
右手の薬指から指輪を外す。
こんなものに意味はない。
永遠
∞
なんてありはしない。
∞
ずっと
なんて、なんの
力
証
にも、なりはしないのだ。
ギュッと、強く指輪を握りしめる。
「だから、だからさあ」
唇がわななく。きっと彼女を泣かせてしまう。
泣かせて、後悔して、それでもきっと、涙を流す彼女を美しいと思うのだ。
「あんな嘘つきな男のことなんか、さっさと忘れちゃいなよ」
外せなかった指輪。外しても捨てられなかった指輪。初音ミクがほしがった指輪。
誰かからの果たされなかった約束。
海に投げ捨てられたらどんなに良かっただろう。
「っ、勝手なことを言わないで
……
っ」
掴みかかりそうな勢いでルカが詰め寄ってくる。ミクは目をそらさない。指輪を握りしめてまっすぐにルカを見返す。
彼女の双眸には薄い膜が張っている。揺らめいて、まるで海のようだ。
「好きだったの」
震える声と水面。ルカが両手で顔を覆う。
「信じたいと思えるくらい、好きだったの
……
」
永遠を。約束を。∞を。
けれど。
ミクにとってはそんなもの、知ったことじゃなかった。
「ルカ」
ポトリとミクの手から指輪が落ちる。指輪は砂浜に半分埋まった。
両手を彼女のそれに添える。嫌がるようにルカは首を振る。
「好きだよ」
「聞きたくない」
「ルカのことが好き」
「やめて」
「世界中の誰よりも、ルカを愛してる」
「お願い」
「聞かない」
ルカが誰を好きでも、永遠を信じていても。
まぶたに唇で触れる。海の味がした。
いのちの。
ルカの。
「子供のくせに知ったようなことを言わないで」
「知らないよ。何も知らない」
まだたったの一八歳で、一人で生きる力もなく、誰かと歩む方法も知らない。
永遠を約束なんてしない。証を立てたりもしない。
それはできない。知らないから。
何も知らないけれど。
「でも、『あなたが好き』とは言えるよ。それだけは、誰に否定されてもわたしは言える」
目の前で泣いている彼女がとても可愛いことは知っている。
ミクの前では何一つ飾らない
――
何の保証も求めない。彼女は、それをミクに対して何の期待もしていないことの表明だと思っていたけれど、だけれど、不変を求めないそれは、言い換えれば。
受容、だろう。
変わらないことを望むのではなく、変わり続けることを受け入れること。
それはきっと、どんな約束より強い。
ルカの手をそっと降ろさせる。涙に濡れた彼女の面差しは悲痛で、美しかった。
「ねえ」
「聞きたくない」
「やだよ」
「言わないで」
「愛してる」
「安っぽい」
「誰と比べてるの?」
「
…………
」
誰とも比べてなんていない。
知ってる。
風が吹いて砂浜を均す。永遠の証は埋もれて消えた。
ここには海と砂と何もない二人しかない。
そんなところで告げられる「愛してる」にどれだけの価値があるというのだろう。
どれほどの価値があるだろう。
「明日はどこに行こうか」
今日は土曜日で、明日は日曜日だ。
当たり前の不変。
それくらいなら信じられる。
ルカは泣き顔のまま答える。
「
――――
どこへでも。ミクの好きなところへ」
「うん」充分すぎる返答だった。
「あー、そういえばクレープ食べてないじゃん。買いに行こ」
はっと気づいて天を仰ぐ。すっかり忘れていた。
涙を拭ったルカは心持ちすっきりした表情だったが、ミクの言葉でまた軽く顔が曇った。
「朝ごはんも食べてないのに甘いものなんて入らないわよ」
「じゃあこのまま帰る?」
「その方がいい」
ミクも実は慣れない早起きのおかげで胃の調子が悪い。キャラメルアップルパイクレープを食べたら確実に胃が持たれる。
どうしても食べたいというほどでもないのでクレープは諦めてもいいが、わざわざここまで来たのにこれでは薄ら寂しい。
「せっかくだからなんか記念っぽいことしたいな。ルカがちゅーしてくれてもいいよ」
「そういうの間に合ってるんで」
「いい加減あきらめてよ」
「なにが」
「めでたくお付き合いが始まったんだし」
「え?」
「え?」
思わず聞き返したら、きょとんとした顔でさらに聞き返された。
「私、別にミクのこと好きじゃないけど?」
「えっ」
「えっ」
「いやさっきの流れだったらどう考えてもそういうことでしょ」
「勝手に決めないで」
一度でもあなたを好きだって言った? 詰問調で言い返されて記憶を反芻すれば、なるほどそんな台詞はどこにもない。
しかし、言葉にしなくても通じるものはあるだろう。
通じたと思ったのだけれど。
「デートはしてくれるのに」
「それくらいはしてもいいって程度」
「えー」
「今のところはね」
「てことは、これから変わるかも?」
「変わるかもしれないし変わらないかもしれない」
ふむ、とわずかに肩をすくめて、ミクは挑発的な視線をルカに向けた。
「じゃ、変わってくれるのを気長に待とうかな」
不変でいることはありえない。
お互いに変わり続けて、その変化の結果、いつかは望むものが手に入るかもしれない。
信じていない二人が、信じていないまま、『今』、お互いのそばにいることを決めた。
今、二人は並んで歩いている。
「ミク」
「んー?」
「ありがとう」
彼女の手が触れて、重なる。
思わず口元がほころんだ。
まずは変化の第一歩。
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