黒竹
2022-05-30 21:44:33
13280文字
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さよなら、ツインテール

【ルカミク】
現パロ。どうしようもないものはどうしようもないよね、というお話。

 夢を見た。子供の頃の記憶だった。母親に叱られていて、父親がまあまあと宥めている。そうだ、昔からそんなことが何度もあった。猫や犬やカブトムシやセミ、とにかく生き物を見つけると家に連れて帰ってしまって、それについてよく叱られていた。トカゲを持って帰宅した時は絶叫された。
 夢の中で両手に閉じ込めているもの。これは、鳥だ。おそらくどこかの家から逃げ出して迷子になってしまった小鳥。種類は忘れてしまったけれど青と白に別れた美しい色味をしていた。綺麗で可愛くて、だから連れてきたのだった。このままでは死んでしまうなどと、殊勝な考えはなかった。ただ手元においておきたかったのだ。子供だった。夢を見ている自分自身が、やれやれと夢のなかの母親と同じ心持ちになる。
 目が覚めて、どうしてあんな夢を見たのだろうと不思議に思ったが、横を見たら疑問が氷解した。目が冴える。うそだ、と声に出さずに呟いた。鳥の種類の話ではなく、単純な感想として。嘘だ。
 ベッドの隣に女の子がいた。
 白い肌と、透き通るような天色の髪。見覚えは……ない。目を閉じて、少し身体を丸めた姿勢でくうくう寝ている。母親の叱責が頭のなかで回った。ルカ、あなたはまたそんなものを拾ってきて。自分じゃ面倒を見られないくせに。
 頭が痛い。二日酔い? いや違う。確かに昨日は酒を飲んだがそこまでじゃない。記憶を慎重に手繰り寄せる。
 歓迎会、そうだ歓迎会だった。今年の春に入社した新人の歓迎会が居酒屋で開かれた。幹事は一年後輩の男性社員だったが慣れていないせいか段取りが悪く、仕方ないのでルカも手伝った。座っていると課長がやけに肩を抱いてきたり先輩社員がチラチラ胸のあたりを盗み見してくるのがうざったかったというのもある。そのうち総務部にメールしようと思う。
 そのせいでろくに飲んだり食べたりできなかったので、二次会として気の合う同期と三人でちょっと洒落た感じのバーに向かったのだった。一緒だった同僚はかなりの酒豪だが度数の強いカクテルを七、八杯空けたあたりで酔いつぶれ、彼女と社内恋愛中の男性社員が抱えて帰ったのが午前一時くらい。それから一人で一時間ほどいただろうか? とにかく深夜だった。始発まで待つかタクシーをつかまえるか悩んだ末、眠かったのでタクシーを呼んでもらった。そうだ、その、タクシーが来るのを待っている間に見つけたのだ。
 ビルとビルの隙間にうずくまる、天色の髪。
 綺麗で可愛かった。
 神様になろうかと誘いをかけたら頷かれた。タクシーに乗せて、自宅のドアを通らせて、一緒に風呂に入って、それから、寝た。
 謎はすべて解けた。ベッドで女の子が寝ている理由。拾ってきたから。証明終了、QED。
 頭が痛い。
 犬や猫やカブトムシやセミやトカゲ、小鳥は拾ったことがあったが、家出少女は初めてだ。
 起き上がり、少女から目をそらす。正確に言えば現実から。唯一の救いは互いにちゃんと服を着ていたことだ。相手を起こさないようにこっそり起きて下着を身につけるあのむず痒さ、恋人ならともかくこんないたいけな少女に対して感じたくない。
 さしあたり、現状打破の方法を考える。見なかったことにする。今すぐ少女を起こして叩き出す。これは夢だと言い聞かせてまた寝る。どれもひどい。そしてルカはそこまで非情ではない。
 結局、遠慮がちに少女の肩を揺すった。はっきりと起きてほしいという意思表示をするでもない、なんとも中途半端な力の入れ方だった。
 安心しきった表情で眠っていた彼女は、それでも小さく唸って意識を浮上させてきた。「おはよ……」開ききっていないまぶたの隙間から澄んだ碧眼が覗く。
「お、おはよ」
 なんと言えばいいか判らなくて、ひとまず挨拶を返した。少女が身体を起こして両腕をこちらに巻きつけてくる。甘えた仕草は手馴れていて、なるほどこうして『神様』を捕まえてきたのか、と苦い納得をする。
 ふあぁ、と耳元であくびがひとつ。仔猫の寝言みたいな甘やかで可愛らしい吐息だった。
「ルカさん早起きだね。あ、今日お仕事なんだっけ」
「え?」
 今日は土曜日じゃ、と手元の携帯電話を見ると金曜日だった。にわかに慌て出す。眠ったのは午前五時に近かったはずだ。慌てて時刻の方も確認するが、いつもの起床時間より早いくらいだ。内心少しほっとする。あれだけ飲んだ挙句暴挙に出たというのに、よくこんな時間に起きられたものである。
 少女が巻きつけた腕を持ち上げてルカの後頭部を撫でてくる。
「平気?」
「え、な、なにが?」
「気持ち悪いとか、どっか痛いとかない?」
 労るような視線に居心地の悪さを覚える。心配されるほど酔ってはいなかったと思うが、しかし彼女をお持ち帰りしたのは酔った勢いだし、確かに頭が痛い。めまいまでしてきそうだ。現実を直視するのがつらい。
「だ、大丈夫……
「そう? ならよかった。でもほんと気をつけてよー? ルカさんけっこう考えなしに行動しちゃう人でしょ?」
 お前が言うな、と思ったけれど口には出さない。
 家出少女はようやくルカを解放してベッドから降りた。「今日はミクさんお手製フレンチトースト作っちゃおうっかなー」独り言のように言いながらキッチンへ向かう。彼女はミクという名前らしい。
「あれ? ルカさーん、菜箸どこー?」
 本当にフレンチトーストを作るつもりらしく、食パンと牛乳、卵を見つけた後でキョロキョロと菜箸を探している。これも一種、神様へのご奉仕なんだろうか。ルカも話しに聞いたことがあるだけで実態をよく知らないので、それが『彼女たち』のルールなのか、それとも彼女だけのサービスなのか判断できない。
 止める理由もないので菜箸の場所を教えてやって、自分もベッドを這い出る。ミクは料理好きなのか割合慣れた風に卵を溶いていた。
 フレンチトーストは甘くて、疲れた脳によく沁みた。
 スーツに着替えて出社準備をしていると、ミクはその様子をしげしげと見てきた。何が楽しいのか知らないが妙に気になる。
……なに?」
「んーん。働く女の人ってかっこいいなーと思って」
「別にかっこよくもなんともないから。どうせあなただって、あと何年かしたら就職するでしょ」
 不意にミクが小さな笑声を洩らした。うん?と眉を上げると彼女は笑い顔のまま、対照的に眉を下げた。
「あなたって。なにその呼び方。ミクって呼んでよー」
 パーソナルスペースの狭い子のようだ。こちらが遠慮しているのに、もっと近寄れと気楽に言ってくる。社交的でなければ神様を見つけられないのかもしれない。
 椅子の上に片膝を立てて、もう一方の足をぶらぶらさせながら、ミクが小首を傾げている。甘えることに慣れた仕草。さっきから、無防備なほど彼女は甘えてくる。
……ミク」
「はーい」
 懐が浅すぎて距離を掴みにくい。だからうっかり、そう、本当にうっかり、本来なら聞きにくいはずの質問がルカの口からするりとこぼれた。
「いつ帰るの?」
 そこで初めて、ミクの表情が軽く曇った。
「夜には出てくよ。それまで大人しくお留守番してるからさ、仕事終わったらまっすぐ帰ってきてよ。最後、一緒にご飯食べよ?」
「いいけど」
「ん。ありがと」
 ほのかで儚いほほ笑みが、ミクの口元に浮かぶ。
 行ってらっしゃい、と見送られたのが、なんだか少しくすぐったくて、同時になぜか寂しかった。



 汗だくの額をハンカチで押さえながらオフィスに入る。暑い、暑すぎる。まさに酷暑だ。こんなに暑かっただろうか? 昨晩は肌寒いくらいだったような気がするのに。しかし近年は異常気象が続いているとニュースで見た気がする。ゲリラ豪雨は全国各地で猛威をふるい、かと思えば雨量が足りずに取水制限される地域があったり、おかしなものだ。
 オフィスはさすがに冷房が大活躍していた。節電などどこ吹く風。汗が急激に冷えて身震いする。
 自席の隣はすでに同僚が仕事の準備をしていた。二次会に付き合ってくれた彼女は、あれだけ飲んだとは思えないほど涼しい顔だった。
「おはようございます」
 椅子を引きながらバッグを下ろす。同僚がパソコンの画面からこちらへ視線を移してきた。
「おはようございます。あれ、顔色悪いけど、調子悪いの?」
「ああ、ちょっと頭が痛くて。大したことないから」
「ふぅん。具合悪くなったら早退したほうがいいよ。別に今そんなに忙しくないし」
「ありがと。メイコこそ大丈夫なの?」
「あたし? 別になんともないけど」
 首を傾げる。二日酔いとは無縁の人生なんだろう。あまり強くないルカとしては羨ましい。
 予定表を確認して、届いていたメールに返信を打つ。いくつか進捗を忘れてしまっているものがあったので手帳を読み返した。暑さにやられたのか、ここ最近の作業を思い出すのに苦労する。
「にしても今日は暑いわねー。ずっと真夏日だし嫌になるわ」
 ぼやくメイコに苦笑しつつ相槌を打つ。
「仕事する気も起きない?」
「ちょっとね。早く上がってビール飲みたい」
「今からそんなこと言ってどうするの」
 しかしまあ、彼女の言うとおり、よく冷えたビールでも喉に流しこみたい気分ではある。アフター5の誘いをかけようか、と思ったところで今朝のミクとの約束を思い出した。
 これからも力を合わせて仕事をしていく同僚と、たまたま行き会って今晩にはいなくなる通りすがりの家出少女。一瞬、天秤にかけたがすぐにどちらの錘も下ろした。いくらなんでもこれはない。
 ビールは諦めるとして、代わりにルカはメイコをランチに誘った。
「十字路のところにあるお店、冷製パスタがおいしいよ。一緒に行かない?」
「お、いいわね。行こう行こう」
 午前中に済ませておくべき仕事を片付けて、昼休みのチャイムが鳴ると同時に二人揃って席を立つ。
 エレベーターホールで待っていたら、背の高い影が視界に入ってきた。
「あ、お疲れ様。神威くんもお昼?」
 長身で整った顔立ちの青年が口元を緩めながら会釈してきた。神威がくぽ。一風変わった名前の彼は二人の後輩である。「お疲れ様です」ちょうど打ち合わせが終わったのだと言いながら足を止める。近すぎず遠すぎず、心地良い距離感の立ち位置だった。文句なしの美形なうえ物腰柔らかく、妹がいるせいか女性の扱いもなかなか上手くて人気があるのだが、いかんせんルカとしては新人歓迎会の思い出があるので色っぽい感情は抱けない。彼が今年の幹事だった。あと名前が面白すぎる。
「なんだったら一緒にどう?」
 メイコの言葉に爽やかな笑みを見せる。歯が光りそうだった。
「ありがとうございます。お邪魔じゃなければご一緒させてください」
 スマートだ。エレベーターが到着してさりげなく最初に乗り込むあたりもよく心得ている。女性社員がきゃあきゃあ言うのは実に納得なのだが、ルカ自身はまったく心躍らない。今朝、ミクに抱きつかれた時の方がよっぽど動揺した。
 目当ての店は多少混んでいたものの、テーブルの間隔が広めに取られているせいかランチタイムにしては落ち着いた雰囲気だった。四人がけのテーブルに案内されてルカとメイコが向かい合う形に席を取る。
 メニューを眺めながらメイコが小さく唸った。
「ワインが……
「駄目だからね?」
「メイコさん、さすがに仕事中ですから……
 葛藤するメイコを二人がかりで止めたりしつつ、和やかに食事を進める。仕事の話とか、家族の話とか、そんな他愛もない会話が続く中で、ふと、ポークソテーを切り分けるがくぽの手に目が留まった。
「神威くん、指どうしたの?」
「え? ああ」
 ナイフを持つ手を軽く上げて、これですか、というように人差し指に巻かれた絆創膏を見せてきた。「インコを飼い始めたんですけど、小松菜をあげようとしたらつつかれまして」照れ笑いと共に言ってくる。
「インコ? へー、なんか意外。神威くんだったら大型犬とかが似合いそうなのに」
「僕じゃなくて妹がほしがったんですよ。ほんとはオウムがほしかったみたいですけど、さすがに親から反対されて、それで」
「オウムって確か五十年くらい生きるのよね。そりゃ大変だわ」
 うんうん、とメイコが頷く。
「二人ともまだ高校生ですけど、そのうち結婚して家を出るわけですからね。そういうことも考えると難しいですよ」
「女の子だもんねー」
「まあ、飼ってみたらなんだかんだ可愛いみたいで、よく面倒見てます」
 ぼんやりと二人の会話を聞きながら今朝の夢が脳裏をよぎる。
 思い出した。あれはインコだった。近所の公園に迷い込んでいた小さな鳥。珍しい柄だったから鳥類図鑑で調べたのだ。
「うちも昔、インコ飼ってた」
「そうなんですか? なんて名前ですか?」
 ちなみにうちはぴーちゃんです、となんの捻りもない命名を堂々と言い放つがくぽに胡乱な眼差しを向けながら、幼い日の記憶をたどる。
 名前、名前は、なんだったっけ。
……忘れちゃった」
 がくぽが軽く鼻白む。「すごく小さいころだったから」言い訳がましくもごもご言うと、彼はとりなすように微笑した。
 パスタの味がよく判らない。サイコロ状に切られたチーズは何の味もしない。
 あのインコは、なんて名前で、何年生きたんだろう。
 頭が痛い。
 忘れたなんて嘘だ。



 ドアを開けた時の彼女の視線は少し怯えていて、けれど入ってきたのがルカだと判るとすぐに頬の緊張が解けた。それから、戸惑いが目尻のあたりに浮き上がる。
 特徴的なツインテールを揺らしながら立ち上がった彼女は、戸惑いを隠さずにルカへ目線を送った。
「おかえり……っていうか、まだ三時だよ?」
「ん、頭痛がするから早退してきた」
「やっぱり具合悪いの? どうしよ、病院……
「ううん。もう治ったから」
 それより、と、ミクの手を取る。
「せっかくだから遊びに行こう。ミクの行きたいところに連れてってあげる」
 一秒でも長く、彼女といなければならない気がしていた。理由? 知らない。
 薄い膜が一枚、彼女の瞳にかかる。
「それって、デート?」
「違うと思う」
「そうだね」
 頭痛はずいぶん治まっていた。まだいくらか靄がかかったような、中心に綿を詰められたようなあやふやな感覚があったけれど、問題としては些細なものだと思えた。
 たぶん、握っている手を離すことよりは、ずっと。
「じゃ、遊園地」
「捻りがないなあ」
「いいじゃん、定番で王道。一番間違いがないよ」
 クリスマスでもバレンタインデーでも、どちらかの誕生日ですらないけれど、だからこそ二人には相応しいような気がした。
 たまたま居合わせただけの、軒下で雨宿りをしていた見ず知らずの他人と交わすぎこちない会話のような、どこか噛み合わない不自然な選択。
 曖昧で不自然なくせにそれしか選べないのだ。沈黙は耐えられないから。
 
 
 着替えもせずに彼女を連れ出した。電車を乗り継いで郊外に作られた巨大なテーマパークに到着し、二人分の入場券を購入する。
「自分のお金くらい出すってば」
「いいの。子供なんだから甘えときなさい」
「むー。……ありがと」
 腕を絡めてくるのが少々鬱陶しいがそのままにさせる。
 平日のせいか、思ったより混雑はしていなかった。確か学校はまだ夏休みの期間だったはずだが、学生の姿もそれほど見えない。
 「まずはジェットコースターだよね!」意気揚々と宣言するミクに引っ張られてアトラクション乗り場へ。有無を言わせない。テーマパークに来た者として正しい攻めの姿勢だった。ところでルカは絶叫系が得意ではない。
 ひゃーとかぎゃーとか楽しそうに叫ぶ横で、ルカは安全バーをしっかりと握りしめながら歯を食いしばった。ちょっと涙目だ。
 落ちたり回ったり登ってまた落ちたり。三分程度のはずだが体感時間はその数倍はあった。気を失いそうだった。ミクの晴れやかな笑顔が恨めしい。
「面白かったー! ねえねえ、こっちは今のより最高速度が二十キロも速いんだって! 次これに」
「却下!」
「えぇ~。じゃあフリーフォール」
「なんでそういうのばっか乗りたがるの!?」
 半ば悲鳴と化したルカの詰問に気圧されたか、ミクは渋々ながら上げた手を下ろした。
 頬がくっつくくらいの距離でパンフレットを覗きこみながら、面白そうなアトラクションを二人で探す。
 なんだかそういう距離感になっていた。遊園地マジックかもしれない。
「はっ! ルカさん、その前にポップコーンだよ」
「ポップコーンは重要ね」
「だよねっ。しかもキャラメル味だよね!」
 そこは異論がなかったので、ぐいぐいと手をひかれるままに売店へ急ぐ。ホルダーを欲しがるミクに辟易した。どうせ二度と使わないのだから買わなくていいだろうと思うのだが。
「いらないって、そんなの」
「だって可愛いんだよぅ」
 唇を尖らせてアピール。世渡り上手な家出少女は、後輩の好青年と同様によく心得ている。彼女たちのような器用さを持っていたら、もう少し楽な人生を歩めたのかもしれない。
「持って帰ったって邪魔になるだけだってば」
……そだね。じゃ、やーめた」
 意外にもあっさり引き下がったミクは、普通の紙カップでポップコーンを購入して、早速ルカの口に押し込んできた。
「どう?」
「普通」
「おいしいでしょ」
「うん」
「わたしがあーんしたもんね?」
「関係ないかな」
 今度が頬がふくらんだ。コロコロとよく表情を変える少女である。こんなに表情豊かな子だったろうか。昨日はもっと、なんというか世のすべてを儚んでいるかのような、固く閉ざされた扉のような、鬱蒼とした森の中を思わせる薄闇の眼差しをしていた気がするのに。
 そうだったろうか? 本当に?
 昨日の彼女は、どんな面差しをたたえていたっけ?
「ルカさん?」
「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「暑い? 休憩する?」
 頷いて、飲食店エリアに移動する。こじんまりとしたカフェに入ってアイスコーヒーを飲んでいると、すこし頭がすっきりした。やはり暑さに当てられてしまったようだ。
 早々に自分のオレンジジュースを飲み終えたミクがじっとこちらのコーヒーを見てくる。「ひとくちちょーだいっ」否も応も待つことなく、身を乗り出してストローをくわえた。
「苦いっ。もう一杯」
「あげないから」
 肩をすくめてストローを奪い返す。一気に減ったコーヒーを吸い上げながら、同じものに口をつけることに抵抗感がないことに今更気づく。別に気にすることではないかもしれないけれど、そこまで気安い間柄ではないはずなのに。
 少し気になっただけで深くは考えなかったので、そのままストローをくわえていると、「へへー」ミクが邪気のない笑みを浮かべた。
「ラブラブなカップルみたいですねー」
「そーですねー」
 独特の抑揚をつけて答えるルカに、ミクは「流されたー」と冗談交じりの不満声を上げた。
 コーヒーを飲み終えて、次はルカのリクエストでスクリーンタイプのアトラクションを楽しみ、それからパレードを横目にしながらお化け屋敷に入った。
 こちらはミクが苦手だったようで、ルカの後ろにへばりつきながらおっかなびっくり進んでいる。ルカはここでいきなり走り出したら面白いだろうなあと思ったが、それ以上に彼女から離れたくなかったのでゆっくり歩いた。
「ルルル、ルカさん、まだ? まだ出口つかない?」
「もう少しじゃない?」
「長いってこれひゃああぁぁ!」
 飛び出してきた腕に驚いてますます強くしがみついてくる。ミクは既に顔をルカの背中に押しつけており、前も横も見えていない。「やだやだもう無理ルカさぁぁん」涙声と指の跡がつきそうなほど強い力に軽く罪悪感を刺激されるルカだった。
「ほら、もう出口見えてきたよ。もうすぐだから」
「終わり? もう終わる?」
「うんうん」
 そっとルカの肩越しに前方を覗いたミクが、出口から洩れ出る光を見つけて俄然勢いづいた。出口だああぁぁ! 掠れた歓声と共にルカを放り出して全力で走る。ツインテールがどんどん遠ざかっていく。罪悪感が綺麗に流れ去った。
 外に出た直後にへたりこんだミクを見下ろし、ルカは腕組みをして不満を表明する。ミクが上目遣いにこちらを見てきて、まばたき三回分の沈黙を挟んでから「てへ☆」と可愛く舌を出した。もう一回中に放り込んでやりたい。
 半眼で睨んでいると、ルカの機嫌が治らないことを察知したか、もじもじ立ち上がって幼子のように抱きついてくる。
「ごめんってばぁ。怒んないでよ」
「怒ってない」
「怒ってる」
「怒ってないから離れて」
「やだよ」
「なんで」
 至近距離にある彼女の双眸。その紺碧がわずかに濁る。口を開きかけてやめるその一連の動作がスローモーションのように細部まで見えた。そんな幻視を、ルカはする。
 一度閉じた唇がまた開いた時、その形は誤魔化すような影を作っていた。
「バカップルの喧嘩みたいですねー」
「そーですねー」
「観覧車でも乗ろっか」
 ああ、うん。それは、カップルらしくて良い。
 自分たちには全然似合ってなくてお似合いだ。
 観覧車のてっぺんでは夕暮れがよく見えた。沈んでいく夕日をのんびりと眺める。なんとなくノスタルジックで、寂寥感がどこか快い。
 きっと夕陽を見ている人はみんな、こういう気持ちになるのだと思える。寂しいのは自分だけではないと思えるから、それが慰めになって心地よいのだ。
 ミクは残り少なくなったポップコーンを一定のリズムで食べていた。ひょい、パク、ひょい、パク。時々ひょい、の後にルカへ差し出してきて、ルカはそれをパク、と食べる。変拍子。
「そろそろ帰りますかー」
「あ、もうこんな時間なんだ」
 帰宅する頃には真っ暗になっているだろう。楽しい時間はあっという間だ。
「でも最後にフリーフォール乗りたいなー」
「却下だってば」
「ぶー」
「なんであんなの乗りたがるの」
 ルカとしてはさっぱり理解できない。わざわざ高いところに上げられて、そして落ちる。それだけだ。シアターアトラクションならストーリーがあるし、観覧車はゆっくり景色を楽しめるし、お化け屋敷は仕掛けの妙を堪能できるではないか。落ちるだけの乗り物がどうして楽しいのだろう。
 ミクは透明な眼差しで街並みを眺めながら、平坦な口調で言った。
「しょうがないじゃん、好きなんだもん」
 スイッチ。頭痛が雷鳴じみた閃きを見せる。悟られないように目を閉じる。長い髪の内側で、こめかみを汗が伝った。
 違う。今じゃない。この閃きは過去のものだ。



 甲高い怒鳴り声。二重に響く。片方は母親だ。ヒステリックな怒声。鳥。小鳥が手の中で丸まっている。だって綺麗だったから。可愛くてそばにおいておきたかったから。一人きりだったから。ねえお願い、この子を取らないで。



 甲高い怒鳴り声。二重に響く。片方は知らない人だ。ヒステリックな怒声。少女。少女が腕の中で縮こまっている。だって綺麗だったから。可愛くてそばにおいておきたかったから。独りきりだったから。お願いします、この子を守らせて。



 好きなんだからしょうがないじゃない。ミクが泣き叫ぶ。そうだ、出逢ったのは昨日じゃない。あれは春の始まりだ。新入社員がやってくる季節。ミクを見つけたのは春に行われた歓迎会の帰りだった。
 神様なんかじゃなかった。見返りもなしに少女を救う、そんなことはできなかった。愛されたくて離さなかった。隣人など愛せなかったが彼女を愛した。罪だと判っていたのにつないだ手を離せなかった。
 罪は、人が犯すものだ。
 曖昧に靄がかかっていた記憶が晴れる。そうだ。彼女を守れなかった。彼女は連れ去られる。そちらが正当だ。こちらは正しさを主張できなかった。愛情は無意味で無力だった。一日だけ猶予を与えられて、目が覚めたら全て夢だったらいいと願って眠った。
 そのせいか? 夢でもなんでもない。ただの現実だ。家出少女はもとの家に戻る。それを受け入れられなかった。だから。
 だから……
「ルカさん? 顔真っ白だよ? 大丈夫?」
 くらくらする。視界が狭い。後悔と憤りと愛しさが押し寄せてきて目を開けられない。
 どうせ面倒見切れないんだから拾ってくるんじゃない。ああ、その通りでしたママ。気に入ったものを考えなしに持ち帰って、自分が間違っているくせに奪われたと嘆く。原罪のような悪癖。
 あの小鳥がどんな名前だったのか、どれだけ生きたかルカは知らない。
 連れて帰った数日後、本来の飼い主が引き取りに来たから。
 繰り返す。どうしてだろう。どうしていつも、見つけてしまうんだろう。
 どうして彼女に出逢ってしまったんだろう。
「ね、ルカさんしっかりして。どうしよ、救急車……
「──平気。ちょっとめまいがしただけ」
 脂汗はとめどない。誤魔化せる量ではなかったが無理やり優しい声を作る。ミクは何も言えなくてただルカを抱きしめた。
 きっと、ミクがキスをしてくれたら治る。
 そう思ったけれど、あまりにも下らないので奥歯でその願いを噛み潰した。
 そんなおこがましい贖罪、虫が良すぎて虫酸が走る。



 逃げるように帰宅した。遊園地は非日常の演出を与えてくれる。すべてを思い出したルカにとっては針のむしろだった。
 楽しい非日常は、残酷な日常を際立たせる。
 ソファに深く腰かけて、深呼吸しながら鈍痛に耐えていると、ミクが冷たい水を持ってきてくれた。「ありがとう」か細い声で礼を言うが掠れすぎててほとんど音にはならなかった。
 ゆっくりと、一口ずつ水を流し込む。冷たさに刺激されるかと思ったが、存外調子が落ち着いた。ミクが入れてくれた水だからかもしれない。
 「ミク」手招きで呼んだ彼女を膝に導く。向き合う形で抱いて、頬を撫でた。
 彼女は唇を噛み締めてまっすぐこちらを見ていた。自分のせいでルカが苦しんでいることに気づいている風だった。ルカは全身の倦怠感のせいで笑うことすら難儀していたが、それでもわずかに口角を上げて怒っていないとアピールした。
 あと何時間もしないうちに、彼女はここを出て行く。
 髪を指先で梳いたら甘えるように擦り寄ってきた。
「幸せなカップルみたい?」
……あはっ」
 精一杯の空笑いをしてくれる彼女が愛しくて、両手を背中に回すと深く息をついた。
 名前も、髪の感触も、唇の柔らかさも、様々な声も、肌の滑らかさも全部知っている。
 ああ、充分だ。あの小鳥よりずっと幸せな蜜月だった。
 そう自分に言い聞かせてみたけれど、胸の中心で膨らむ痛みが消えない。消えないどころかどんどん大きくなって、声が出せなくなりそうだ。
 だから。そうなる前に言いたいことがあった。
 好きとは何度も言ったけど、その言葉は伝えたことがない。
 もっと後に、彼女にその言葉が似合うようになったら言おうと思っていた。
 まだきっと彼女にはふさわしくない。
 全然似合わないんだけれど、今しか言えない。ここでしか言えない。
 顔を上げて、ミクの目尻をそっとなぞる。
「ミク。──」
 あ、の形に開いた口を彼女の両手に塞がれた。
 碧眼が海のように波打っていた。
「ゆったら、泣くぞ」
 なんともひどい脅し文句だった。スマートさのかけらもない、荒削りなカウンターパンチ。
 ノックアウトされたルカは今しか言えない言葉を飲み込んだ。
 それからのことはよく覚えていない。
 ただ、自分で作ったフレンチトーストが焦げたことだけが鮮明だった。



 四年という月日は長くもあり短くもあり。
 昇給はあったが昇格はなく、後輩が増えて先輩が減った。
 メイコは社内恋愛の末、二年前に結婚して今は産休中である。がくぽは新人の教育係に任命されてはりきっているが相変わらず段取りが悪い。課長は頭髪が薄くなってきて内心いい気味だと思っている。
 恋はしていない。するつもりも、今はない。
 髪の感触も、唇の柔らかさも、様々な声も、肌の滑らかさも、あまりにも鮮やかで。
 自己陶酔の一種だということは判っているし、このままだと婚期も逃してしまうのだろうが、それでもいいかと思っている。
 出社して、今日の作業を確認して、メールチェックをしていると、総務から朝礼の連絡が来ていた。昨日届いていたが見逃していたようだ。時間を見ると開始まであと五分もない。慌てて席を立ち、会議室へ向かう。
 会議室はもう粗方の社員が集まっていて、ドア付近にがくぽが姿勢よく立っていたので隣に滑りこむ。「あ、おはようございます」がくぽがいつも通りの好青年スマイルで会釈をしてきた。
「おはよう。メール見逃してて焦っちゃった」
「僕も電車が遅れてギリギリでした。そういえば新入社員の挨拶って今ぐらいでしたよね」
「ああ、そっか」
 日時だけ確認したから、朝礼の内容まで把握していなかった。なるほど季節は春、初々しい新入社員がやってくる時期だ。ルカもそろそろ中堅どころなので後輩指導を任されるかもしれない。もしそうなったら素直な子に当たりたいとそっと願う。
 おそらく前方に新人たちが並んでいるのだろうが、前の社員が壁になっていてまったく見えない。会議室はそれほど広くないので、全員が集まると椅子など置けないのだ。ルカは女性としてはそこそこ身長のある方だが、それでも男性社員が前に並んでいると視界は阻まれる。
「神威くん、見える?」
 ルカより頭ひとつ以上大きい青年は「なんとか」と頷いた。
「今年は三人ですね。男二人、女性一人」
 中小企業としてはそんなものだ。毎年多くて五人程度なので、今年はちょっと少ないかな、という感じか。
「女の子一人だけで残念だったわね」
「いや、別にそういう期待とかしてませんよ」
 僕、年上好みなんで。さらりと言ってくるあたりがすごい。こんなことばかり言っていると勘違いされて大変なんじゃないだろうか。
「神威くんって天然だよね」
「よく言われます。自分じゃ全然わかんないんですけどね」
 心外だ、という顔でコミカルに眉を上げる。自分で判らないからこそ天然なのだ、と突っ込みたくなったが社長の挨拶が始まってしまったので口をつぐんだ。
 社長のありがたいお話が終わり、新入社員が一人ずつ壇上に上がってスピーチし始めた。飽きてきたのかがくぽがこそこそと話しかけてくる。それに小声で答えている間に、男性社員二人の挨拶が滞り無く進んだ。
 最後の女性社員が壇上に上がると、頭のてっぺんだけが視界に入る。天色の長い髪がなびく様子が一瞬映って、思わず肩を震わせた。
 顔は見えない。けれど見間違うはずがない。
 マイクを通して彼女の声が届く。
「初めまして、初音ミクです」
 とろけそうだった。
 緊張のせいか思い出より硬い声。それでも、高めの涼やかな声音はルカの一番深い中心を存分に撫で回す。
 今すぐ駆け出して彼女を抱きしめたくなるけれど、みぞおちに力を込めてこらえた。
 何度かつっかえながら挨拶を終えた彼女が最後に一礼して壇上から下りる。その動きをずっと追っていた。彼女が視界から消えてしまわないよう位置を変える。壁際ギリギリ、もたれかかるような姿勢で落ち着くと、両手を前に合わせて佇む彼女の姿がなんとか見えた。
 記憶よりずっと大人びた顔立ちと佇まい。あどけなさは多少残っているが、凛とした眼差しとうまく融合していっそう美しい。トレードマークだったツインテールはほどかれて、まっすぐに背中へ下りていた。
 総務の社員が三人の所属や参加するチームの説明をしている。これっぽっちも耳に入らない。視覚以外のすべてを失ってしまったようだ。こっちを見てほしい。岩を砕けそうなほど強く念じる。お願い、私を見つけて。
 す、と、視線が絡んだ。
 澄み切った碧眼が、ルカの中心を射抜く。
 唇が、音もなくゆっくりと動いた。
 ──隣にいる人、かっこいいね。
 ルカは慌てて首を激しく振り、がくぽに不審がられた。
 
 朝礼が終わってオフィスに戻るまで、清涼な風が吹いているような感覚があった。窓という窓を開け放ってもこんな清々しい気分は味わえないだろう。
 神様なんていないし運命なんて信じていない。
 願いを叶えるのは、いつだって人の想いだ。
 夢見心地で、ルカはあの日言えなかった言葉を伝える最良のタイミングを考え始めた。