黒竹
2022-05-30 21:30:17
22417文字
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アインフューレン

【鏡音レン】【ボカロ家族】
「たいせつ」の話。

 二十分くらい前から強い雨が降り続いている。外は薄暗く、雨だれが弾丸みたいに窓を叩く。ゲームに集中出来ないのでレンはヘッドフォンのノイズキャンセル機能をオンにしていた。そういう用途のために搭載されたものではないが、ボーカロイドといえど雑音は不快なのだ。これもまた自然が奏でる音楽である、などといった情緒に溢れた感性は持ち合わせていない。
 レンはリビングに一人きりである。ミクとルカはそろって買い物に出かけているし、リンはラボでメンテナンスを受けている。少しばかり解放的な気分だった。別に彼女らを疎ましいと思っているわけではないが、女の子の集団に一人囲まれると、それだけでどこか息が詰まってしまう(人間のように呼吸をしているのではないから、これは比喩として)。
 セーブポイントに到達したのでレンはそこでゲームを中断した。セーブデータを間違えないように一度確認するのも忘れない。ボーカロイドは忘れない。データが消えてしまわない限りは。二度とセーブ箇所を間違えてリンを怒らせるようなことはしない。
 丁度本体の電源をオフにしたところで、玄関ドアの開く音が聞こえた。どうやら姉二人が帰ってきたようだ。
「うひゃー、まいっちゃった。急に降ってくるんだもん」
 ぼやきながらミクがリビングに入ってきた。出かける時は晴天だったし、降水確率も高くなかったので傘を持っていかなかった。帰る途中で雨に見舞われたのか、ミクも後ろから続いてきたルカもびしょ濡れである。防水加工は充分にされているからショートしてしまうようなことはないから、二人とも表情に深刻さはない。風邪も引かないし。
 しかしレンの表情は深刻だった。深刻に困っていた。
「みっ、ミク姉っ。ルカ姉も、タオル持ってくるからそこ動かないで! てゆーか玄関にいて!」
「え? ああ、汚れちゃうもんね。ごめんねレンくん、お願い」
 床に水滴が落ちて水溜りを作っていることに気づいたミクが一歩引いて、ルカと玄関へ逆戻りした。レンは足早に大判のバスタオルを引っ張り出して玄関へ向かう。
 待っていた二人へ、顔を背けた状態でタオルを差し出した。
 のほほんとタオルで拭いている二人に対して、レンはひそやかに歯軋りする。
————も、もうちょっと気ぃ遣ってくれよ……
 ミクもルカも、季節を問わず軽装である。通気性を考慮した薄い布地は軽く、濡れてペッタリと貼りついている。つまり、ボディラインがいつも以上にあらわとなっているわけである。加えてわずかに透けている。
 鏡音レン、十四歳。
 男の子。
 二人ともレンのことは『弟』としか見ていないから気にしていないのだろうが、こちらは実のところそうでもないのだ。『姉』であるという認識はしているけれど、それと同時に『女の人』という認識も存在している。もう少し、こっちの微妙な心境を考えてくれてもいいのではないか。ただでさえ、事あるごとにミクのスカートがひらっとしたり、ルカの太ももがちらっとしたりするから、気まずい感じを覚えているというのに。
 リビングへ逃げ帰ったレンの耳に、ミクとルカの会話が入ってくる。
「濡れちゃったし、丁度いいからお風呂入ろう。そうしよう。ね?」
「それなら、ミクが先に」
「違うよ一緒にってことだよ! お風呂で裸の付き合いでキャッキャウフフな展開しようよ!」
 なんでノイズキャンセラはこれ通しちゃうのかな。
 レンは人知れず深いため息をついた。
 なお、ボーカロイドは新陳代謝がないので厳密には入浴の必要などないが(アルコールで表面を拭く程度で汚れは落ちる)、「女の子ってお風呂好きじゃない?」というマスタの奇妙な固定観念によって、日常プログラムとして組み込まれている。レンもリンと基本アルゴリズムは同じなので、なんとなく入浴は毎日するものだと認識していた。
 ルカは結局ミクに押し切られたようで、ドア越しにシャワー音とキャッキャとした声が聞こえてきた。ウフフはまだのようである。というかその場合声は聞こえないかもしれない。
 妙に疲れてしまって、床へ大の字に倒れこんだ。と、そこへドアが開く。「なにしてんの?」メンテナンスを終えたリンが訝しげにレンを見下ろしていた。
「あ、おかえり」
「ただいま。マスター、今日は夜ご飯までずっとラボにいるって」
「んー」
 「とうっ」リンが寝転がったままのレンにボディアタックをしかけた。避けるつもりがなかったレンはそのままリンのおなかに押しつぶされる。
 リンの手が床を三回叩いた。スリーカウント。
「カンカンカーン! リン選手の勝利です!」
「わけわかんねえ」
 唐突に始まり、あっという間に終わったプロレスごっこに、レンが思わず苦笑いする。
 少し前、リンの態度が妙に他人行儀っぽくなったことがあったけれど、今はもう元通りだ。レンの上に乗ったまま、リンは足をバタバタさせている。
「重いって」
 無理やり身体を起こすと、リンがコロンと転がった。「重くないっ」同じように起き上がって噛みついてくる。
「レンの方が重いじゃん」
「そりゃ、男の方が重くなるよ。筋肉素地の生体パーツ、リンより多いし」
 素材によってはいくらでも軽量化できる機械部分と違い、人体より培養された生体パーツはどうしても水分を含むので重くなる。実際、新型であるためミクより生体パーツの割合が多いリンは、彼女より重量がかさんでいるのだが、そこは禁句なのでレンは冷静にさけた。
 つと、リンが自身の腹部と二の腕のあたりを撫でさする。何か具合を確かめるようにふにっとつまんでみたりしながら、俯いて考え込み始めた。
……や、やっぱり重い、かな……
「は?」
「もっと細い方がよかったりするのかな……
「いや、別に見た目太ってないじゃん。むしろ痩せてると思うけど」
 なんなんだ、と頭をかきながらレンはフォローを入れる。元々、プロモーションビデオの撮影なども目的の一つとして開発されているから、自分たちの外見は非常に整った形で作成されているのだ。そんなことを気にする必要などない。
「でも、街とか歩いてるとすんごい細い子とかいっぱいいるんだよ」
「そうだけど、俺ああいうのあんま好きじゃない。骨ばってて別に綺麗だと思わないけどな。がっくんだってリン軽いって言ってたし、気にしなくていいんじゃん?」
「なっ、なんでがっくんが出てくんの!?」
 「へ?」レンの片眉が上がった。なんでも何も、以前リンが不調になって、がくぽに送ってもらった時の発言を思い出しただけなのだが。
「がっくんがどう思うかとか関係ないから! 別にがっくんに良く見られたいって思ってるわけじゃないもん!」
「あー……そう」
 墓穴を掘った。彼の名前にリンが過剰反応することは知っていたのに。
 リンは彼のことが好きなんだと思う。
 思う、というか、確信している。本人から直接聞いたことはないけれど、態度を見ていれば丸判りだ。
 その『好き』は、きっと特別な『好き』で、レンはそれが面白くない。
 レンにとって、リンは『姉』でも『女の子』でもない。
 リンはリン。固有名詞がイコール説明。自分と合わせて二人で一つの存在。半分と半分同士の、離れてはいけない存在。
 なのに、リンはどこかへ行こうとしている。
 自分から離れようとしている。
 それが嫌だから、レンは教えない。
「人間みたいにダイエットできるわけじゃないんだから、気にしたってしょうがないじゃん」
「そうだけどさぁ」
「そういえば、こないだマスターがお客さんからもらったブリオッシュ、あと二個残ってたよ。ミク姉たちがお風呂入ってるうちに食べちゃおうぜ」
 きひひ、と悪戯に笑いながら持ちかけると、リンは一瞬にして顔を輝かせて「食べる」と応じてきた。レンの言葉どおり、高カロリー食品を摂取したところで体型に影響はない。
 ブリオッシュのおかげで無事に話をそらすことができたレンは、上機嫌でキッチンからブリオッシュの入った箱を持ち出した。「お待たせしました、今日のおやつでございます」「うむ、ご苦労」悪い笑みで小芝居をする二人。
 まさに悪の娘と悪の召使であった。
 オレンジとバターをふんだんに使ったブリオッシュをぱくつきながら、リンがドア越しにリビングの向こうを見遣る。
「ミク姉たち、お風呂長いねー」
「髪洗うのに時間かかってんじゃないの?」
「あれ大変そうだよね、二人とも」
 肩にかかる程度の長さしかない二人には判らない苦労を想像する。特にミクはほぼ身長と同程度の長さなので大変だろう。
 おやつを終えて、証拠隠滅も済ませ、暇だったのでトランプで遊び始めて、ババ抜きの一戦目が終わったところでようやくミクとルカが戻ってきた。なぜかミクは異様につやつやしていた。どれだけ念入りに洗ったのだろう。対してルカはちょっと疲れているように見えたが、どうしてだろうか。
「さっぱりしたー。あ、トランプ? 一緒にやってもいい?」
「ん、ババ抜きって二人でやってもつまんないし」
「お姉ちゃんもね」
「ええ」
 途中まで進んでいたゲームはノーカウントにして、四人で車座になったところで札を配りなおす。
……ミク、そんなに近くにいてはこちらの手札が見えてしまうわ」
「どんな状況でもお姉ちゃんと離れたくないっていう、わたしの一途な気持ちを汲んでほしいな」
「嬉しいけれど時と場合によるわね」
 頬と頬がくっつくほど密着した状態ではババ抜きの意味がない。どうにもルカはミクに甘く、何度かお願いをするだけで引き剥がそうとはしない。はああぁっと重苦しく嘆息したリンが、無理やり二人の間に割って入ることで事態の解決を見た。
 ミクを基点として、時計回りにリン、ルカ、レンの順に座った状態でゲームがスタートする。それぞれ自分の左側にいる相手の札を抜き、みんな順調に手札を減らしていった。
「レンくん、この札を取るといい事あるんじゃないかなー?」
 残り二枚となった一方を押し上げてアピールしてくるミク。わざとらしい言い方が非常に怪しい。わざとらしくすることで、これはジョーカーですよとネガティブアピールをしているような気がする。もう一枚の方を選んだら、そちらこそがジョーカーなのかもしれない。レンはじっとミクの目を見つめた。ニコニコとした人の良さそうな笑みだった。しかしそれが偽りだとレンは知っている。彼女、常識人のように見せかけて傍若無人なのだ(主にルカが絡んだ時)。
 す、とミクが押し上げている方へ指先を伸ばす。それを取るかと見せかけてもう片方へ。表情は変わらない。
 レンはそのまま札を引き抜いた。ハートのA。
「うーん、迷わなかったね、レンくん」
「いつまでもミク姉に遠慮してると思うなよ。勝負は勝負、俺とリンが勝ってほえ面かかせてやる。鏡音の下克上だ!」
「あ、上がり」
 リンから札を取ったミクが、スペードとクローバーのJを場に捨てて一抜けを宣言した。
 「なんだそりゃああぁぁぁ!」レンが思わず絶叫する。
「ミク姉、ババ持ってたんじゃないのかよ!」
「わたしそんなこと一言も言ってないよ?」
 下克上、完。
「Aはもう一組出てるから、Jの方が引く確率上がるじゃない。ほら、ちゃんといい事あったでしょ? わたしに」
「卑怯者……!」
 ギリギリと歯軋りをするレンを慰めるように、ルカがその背中を優しく叩いた。「ただのゲームなんだから、あまり熱くならないで」
 そう言われたって納得出来ない。ミクの方が一枚上手だった、というその事実はレンを大いにへこませた。
……レン、かっこわる」
 リンにまで呆れ口調で言われた。
 泣きたい。
 その後もゲームは白熱した。普段はテレビゲームでばかり遊んでいるレンだが、こういう昔ながらの遊びも楽しいものだ。ルカはそれほど熱中しているようには見えなかったが、他の三人がやめようとしないので律儀に付き合ってくれた。
 いつもは各々好きなように過ごしているから、みんなで集まって遊ぶのも新鮮だった。レンにとって一番大事な存在はリンだけれど、ミクとルカのことだって大切なのだ。そう、こんなふうに四人で……
 四人?
 レンがふと時計を見遣ったのと同じタイミングで、マスタがやって来た。
「夜ご飯はそろそろできそう? 根詰めて作業してたからおなかペコペコだよ。今日の当番はミクだったっけ?」
 時が止まった。ボーカロイドは空腹を覚えないし、雨が降っていて日差しがないからすっかり日が落ちているのにも気づかなかった。
 ミクがゆっくりとマスタへ向き合った。彼はすでに状況を察してげんなりしている。
「マスター」
「なんだい? 言い訳なら手短にしてもらいたいな。君たちと違って僕はご飯を食べないと死んじゃうんだからね」
 うんうん頷きつつ、ミクは両手を合わせてにっこりと笑う。
「昔の人は言いました、『パンがないならお菓子を食べればいいじゃない』。こないだもらったブリオッシュ、まだあったよね?」
 まさかの展開。
 リンとレンは食事ができるまでの一時間弱、交代でマスタの肩を揉んだ。
 
 
 
 昨日の雨は深夜まで止まなかった。そのせいか、埃などをすべて洗い流された街はなんとなく清々しい。
「うわあ、一大事一大事!」
 こけつまろびつマスタがリビングに飛び込んできた。すわ火事か泥棒か、と色めき立った四人がいっせいに視線をマスタへ向ける。
「どうしたのですか、マスター!?」
「ルータがお亡くなりになった!」
……なんだ」
 ふうやれやれと肩をすくめ、ミクは浮かせていた腰をソファへ戻した。お亡くなりになったのがバックアップ用の記憶装置などであれば確かに一大事だが、ルータの一つや二つ壊れたところで、ちょっと通信ができなくなるだけではないか。どこが一大事なんだか。
 ルカも予想より小さな事態だったことに安堵したか、ほっとした表情でミクの隣に落ち着く。それを好機と寸時も与えずミクがまとわりついてきたが、いつものことなので気にしない。
 肩口に彼女の呼気を感じつつ、マスタへ向けた視線を緩める。
「それくらいであれば、新しいものを買ってくれば良いだけだと思いますが」
「あと二時間でタイムリミットなんだよ。それまでに復旧させておかないと
 クライアントが厳しい人でね。マスタが肩を落としてぼやく。
「じゃあ、あたし買ってくる。同じのでいい?」
「ありがとうリン!」
 涙を流さんばかりに感謝してくるマスタにちょっと引きつつもリンが頷いた。
 リンの頭をぐしゃぐしゃ撫でながら、マスタは相好を崩す。
「ほんとにいい子だね、リンは。ありがとう、すごく助かるよ」
……へへ」
 相変わらずパパっ子なリン、褒められて照れくさそうに身をよじらせる。
 それを見ていたレンが立ち上がり、さりげなくリンのそばに立つことでマスタの手を外させた。
「俺も行く。新しいメモリカードほしい」
「ついでだから買ってきてあげるけど?」
「いいよ。自分で選びたいし」
 「うん……?」少し不思議そうな顔をしながら、しかし固辞するようなことでもないのでリンが承諾し、二人は一緒に買い物へと出かける。
 目的地の家電量販店は少し離れたところにあるので、レンはガレージから自転車を引っ張り出してサドルへ腰かけた。流線型のシルエットを持つそのクロスバイクは彼の愛用品である。レンの体勢が落ち着くのを待ってリンが荷台にまたがった。格好悪いので荷台をつけたくないレンだが、こういう場合にあった方が便利なのでリンに押し切られている。
 買い物をする時間を加えても、一時間もあれば帰ってこられるだろう。送るデータはほぼ準備できているそうだし、それほど急ぐ必要もあるまい。
 レンは一人で走る時の半分くらいのスピードで走り出す。
「ルータとか売ってんの三階だっけ?」
「うん、前に三階で買ったし、レイアウト変わってなかったら同じとこにあると思うよ」
「おっけ」
 クロスバイクは軽快に走る。二人乗りの経験は数え切れないし、そこはレンとリン、体重移動のタイミングなども完璧である。歌う際に使用される同調機能はそれ以外の状況でもいかんなく発揮される。機能をオフにすることはできるけれど、二人ともそれを切ったことは生まれてから一度もない。だからこその半分ずつ、リンはレンであり、レンはリンである理由だ。
 川べりに来ると増水して勢いの増した水流が目に入った。昨日の雨の影響だろう。クロスバイクの走る防波堤は高く、水が溢れ出す気配などどこにもないが、レンは念のため、少し端から離れた位置にタイヤを移した。
「あ、レン、あれ」
「え?」
 不意に声をかけられてスピードが落ちた。
 リンが肩越しに指差している先へ目をやると、小学生くらいの少年が三人、ガードレールから身を乗り出すようにして川を覗いている。何か落としたのだろうかとレンはそちらへ近づいた。
「なにしてんの?」
 少年たちが振り向く。「あ、ボーカロイドだ!」ネット配信されている映像でも見たことがあるのか、二人を見るなり少年の一人が言った。
「あれ、あれ!」
 少年が指し示す先には箱が見えた。その中でうごめく小さなものも。
 二人の表情に針のような陰が射した。
「レン、子犬が……
「うん……
 流れを操作するための突起部にかろうじて引っかかっている箱は、今にも激しい水流に押し流されてしまいそうだ。このままでは遠からず、子犬はもっと下流へ流されるか、箱がひっくり返って飲み込まれるだろう。
 リンとレンが顔を見合わせた。少年たちはまだ幼い。迂闊に手出しできず、しかし見捨てることもできずにここで見守っていたのだろう。
「あの犬、助けてやってよ!」
 少年にしがみつかれたレンがかすかに眉をゆがめた。
「いや、そう言われても……
「お前ら人間じゃないんだから、溺れたって死なないだろ!」
「なっ……!」
 レンが気色ばんで少年に掴みかかろうとするのを、咄嗟にリンが止めた。「そんなこと気にしてる場合じゃないよ。早くなんとかしないと」
 諌められたレンは強く呼気を吐いて、なんとか平静を取り戻す。
「あたしが下りてあの子助けるから、レンは先に行ってて」
「なんの死亡フラグだよ、それ。いいから二人でやろうぜ。時間なら間に合うはずだから」
「ん」
 階段状になっている防波堤の端からリンが慎重に下りて行く。レンは少し上で待機して、リンが子犬を掬い上げたら一緒に引っ張り上げる手筈だ。レンは自分が下りると主張したが、引き上げるなら力の強い方がいいとリンが譲らなかった。
 川のふちギリギリの位置でリンが手を延ばすが、惜しいところで届かない。
「リン、気をつけて」
「平気平気。もうちょっとなんだけど……っ」
 じりじりした気持ちを持て余しながら、レンはリンを見守っている。
 もう一歩。まだ届かない。
 片足を川へ突っ込んだ。指先が箱に触れる。いけるか、と思った瞬間、
「っ!?」
「リン!」
 バランスを崩したかリンの姿が一瞬消えた。しかしすぐに箱を抱え、川底に打ち込まれている杭を掴んで持ちこたえる。レンは急いで彼女の近くまで寄って子犬を受け取ると、彼女の腕を掴んで引っ張った。
 ずぶ濡れのリンを安全地帯まで引き上げて支えてやる。リンは髪留めが外れたせいでまとわりついてくる前髪をかき上げながらレンと視線を合わせた。
「あはは、びっくりした、足滑った。わんこは?」
「ほら」
 レンが子犬を見せてやると、彼女はホッとしたように息をついた。
 子犬は小さく震えていたが衰弱しているわけではないように見える。ただ怯えているのだろう。ぬいぐるみのように固まって逃げ出そうともしない。
 安心させるために優しく撫でてやりながら、リンはわずかに目を細めた。
「よかった。この子、うちで飼えるかなぁ」
「マスターのことだから、頼めば許してくれるんじゃないの?」
「そうだね」
……リン?」
 レンの内側で警告が鳴っている。アラート、アラート。これはなんだろう。警告を出しているのはなんの機能だ?
 レンは自身をスキャンする。異常なし。範囲を広げて再スキャン。
 スキャンの結果を待つ必要はなかった。
 リンの目が閉じている。
「リン? おい、どうしたんだよ」
「ごめん、ちょっと落ちる。今もうやばい」
 その言葉を最後に、リンの一切が停止した。
 焦燥感にかきたてられて、レンは持ちうる限りの筋力と瞬発力を駆使して防波堤の上までリンと子犬を運ぶと、待っていた少年たちへ子犬を押し付けた。それからすぐさまリンのボディチェックをする。
 同調機能をフル出力まで上げる。途端、脇腹に異常を検知した。リンの同じ箇所を確認すると、服をめくり上げたことであらわになったそこが鈍くえぐられていた。体表コーティングと外装が突き破られ、内部機関が露出している。滑った際に川の中で何かに激突したようだ。防波堤の角か、廃材のたぐいか。
 ボーカロイドは雨に降られようと入浴しようと問題ないほどの防水機能を有している。
 けれどそれは、外的損傷がない場合においての話だ。
 内側に直接水が入ってしまえば、機械は当然ショートする。
「リン……リン!!」
 激しく揺さぶるが、異常事態に緊急停止している彼女は何も応えない。
 子犬を抱えた少年が恐る恐るリンを覗き込んだ。
……壊れたの?」
「違う!」
「あ、でもロボットなんだから、修理すれば直るじゃん。大丈夫だよ」
 それは彼なりの慰めだったのかもしれないが、レンの憤りを加速するという結果しか生まなかった。
「黙れよ!」
 リンを抱えてクロスバイクへ乗り込む。リンがバランスを取らないからペダルに足を乗せることすら困難だったが、片手でリンを支えながら力任せにペダルを踏み込んだ。
 映像インタフェースが滲んでいる。
 
 
 
 全身から水滴を滴らせ、ぐったりと動かないリンを見たマスタの表情が凝り固まった。
 視線が忙しなく動き回って、リンの損傷箇所を探す。すぐに視線は彼女の脇腹に留まり、さらに表情が引き締められた。
 レンは力なく顔を上げると、重く閉ざされていた口を開く。「助けて」
「リンが……
「ああ。ラボに運んで。できるだけ水を拭いてもらえるかな」
「それと、ごめん。ルータ、買ってこれなかった」
「そんなことどうでもいいよ」
 切りつけるような返答は、彼らしくない、無表情な声だった。
 ミクに手伝ってもらいながらリンをラボに運び入れる。リンをおぶってきたせいでレンも背中一面が濡れていた。ルカがタオルを持ってきて拭いてくれる。
 マスタが準備を済ませて、寝かせられたリンのチェックを始めたのでミクはラボを出た。「マスター、俺ここにいてもいい?」「構わないよ」レンの問いにマスタは無表情のままで頷く。
 ラボの前で待っていたルカがミクを迎える。さすがのミクも、ルカと視線が合った瞬間に抱きついたりはしてこなかった。
「リン、大丈夫かしら」
「ん、大丈夫じゃないかな」
……心配ではないの?」
 おや、というふうにルカの眉が上がった。
 どういうわけかミクの表情は落ち着いており、笑ってこそいないが悲嘆に暮れているわけでも焦燥に苛まれているわけでもない、穏やかな顔をしていた。
 「心配は心配だけど」ミクは苦笑まじりに言って、自身の首筋を撫でさする。
「でもマスターがいるから」
……時々、ミクはマスターのことが本当に嫌いなんじゃないかしらと思うことがあったのだけれど。信頼しているのね」
「あはは。喧嘩みたいなやり取りばっかしてるもんね。うーん……、わたしにとって、マスターは好きとか嫌いとかっていう次元の人じゃないんだよ」
「そうなの?」
「うん。ねえお姉ちゃん、お姉ちゃんにとって、マスターは何?」
 問われてルカは逡巡する。
「私たちの開発者……まあ、『父親』かしら」
「わたしはね、違うの」
「違う? 私たちを家族だと言っていたのはあなたでしょう? それならマスターが父親の役割になると思うけれど」
 ううん、とミクが首を振る。
 視軸をドアに固定して、その向こうまで視通した。
 ああ、その目は。
「家族なのはわたしたち。わたしとお姉ちゃんとリンちゃんとレンくん。マスターはね」
 立てた人差し指が天井を越えてその先の天上を指し示す。
「神様だよ」
 彼女が表すその心は。
 信頼でもなく、親愛でもなく。
 信仰だった。
「ずいぶんと大げさね」
「だってお母さんもなしにわたしを産んだんだよ? そんなの神様くらいしかできないよ」
「そのわりに、扱いがひどい気がするけれど」
「わたしの神様は優しいから、お祈りしたり感謝したり、そういうのしなくても許してくれるの」
 クスクスと笑って肩をそびやかす。
 なるほど。ルカは胸中で一連のやり取りについて納得した。
 ルカのように敬意を払うのでも、リンのように子どもらしく懐くのでも、レンのようにさっぱりした態度を取るのでもないが、あのぞんざいな交流方法はミクなりの甘えだったらしい。
 確かにそれは敬虔な信者の静謐な思いに似ている。
 疑う余地もなく、他者に理解させる必要すらない、『神はわたしをお見捨てにならない』という確信。
「だからわたしがお願いしなくたって、マスターはリンちゃんを助けるよ」
……そうね」
 さやと笑ってルカがミクの髪を撫でる。
 震えはまったく伝わらなかった。
 
 ラボの壁に腰をつけ、膝を抱えた格好で、レンは座り込んでいる。作業台にはリンが寝かされていて、マスタがその脇に立って修復作業をしていた。
……マスター」
「ん?」
「リン、助かる?」
 マスタは小さく苦笑を浮かべた。「心配なのは判るけど、もう少し僕を信用してほしいな」
「大丈夫だよ。緊急停止機能が働いたおかげで重要な回路がショートする前に停まったし、記憶データもさっき無事に吸い出した」
 工具片手に作業を続けながら、安心させるように殊更穏やかな口調で答える。
 その返答を受けてなお、レンの表情は晴れなかった。
 生まれて初めて、リンと『離れた』。スリープ状態であっても同調機能は連動している。だからたとえ眠っていてもリンと一緒にいる実感があった。二人で一つの、まさに一本の緒でつながっているという感覚。
 それが今は、どこにもない。
 だから、不安で仕方ない。
 リンが何を考えているのか、どういう状態なのか、何も判らないこの状況が怖い。
……もしリンが治らなかったら、俺も壊してよ」
「ふざけたこと言うと怒るよ」
「本気だ。リンがいないのなんて耐えられない」
 ますます強く膝を抱えて、そこへ顔をうずめる。
 リンと一緒じゃなければ嫌だ。どんな意味であれリンが『いなくなってしまう』のが嫌だ。それは二がすなわち一である自分たちの崩壊だ。
「あのね、リンは治るし、君もそんなことにはしない。馬鹿なことを言うんじゃない」
 溜め息をついたマスタがやや硬質な声で言ってくる。珍しく苛立っているのだと判ったけれど、だからこそ、レンはますます意固地になっていった。
「いいじゃんか。俺たちを廃棄したってまた新しいボーカロイド作れば同じことだろ。どうせ人間じゃないんだから」
 マスタは川に浸されて駄目になったパーツを取り出す手を止めてレンへ目を遣った。その眼差しはどこか無表情で、ともすれば哀れみすら存在していそうな眼だった。
 作業台の隅に工具を置くと、ポケットから個包装された飴玉を取り出してレンへ放る。コツ、と音を立てて飴玉はレンの腕に当たり、床に転がった。
「それでも食べて少し落ち着きなさい。誰かにそんなことを言われたんだね?」
 マスタはすぐに作業を再開した。レンは転がった飴玉を拾い上げて、カリリとそれを噛む。
「俺たちはロボットだから川に落ちたって死なないし、壊れたって修理すればいいだけなんだって」
「ま、それはそうだね」
…………
 世間話のようにマスタが応じ、作業の手を休めないまま続ける。
「君たちは人間じゃない。当たり前だよそんなの。僕が作ったんだから」
……じゃあ、マスターも俺たちを人間の代わりだって思ってんだ。人間の代わりに歌わせて、人間の代わりに危ないことさせて。それなら、壊れたら用無しだろ。リンももうほっといて捨てちまえよ! 人間じゃないんだから!!」
 力任せに壁を殴りつけて怒鳴ると、マスタは唇を真一文字に引き結んでレンを直視した。その視線に気圧されてレンの方が目を逸らしてしまう。
「僕はね」
 パーツの交換を終えたのか、一旦リンから離れてパソコンを操作し始める。いくつかデータをチェックしながら声はレンに向けて発していた。
「僕と関わりのない人とレンが崖から落ちそうになっていたらレンを助けるよ」
「え……
「人間じゃないからなんだっていうの? どうしてそんなことで価値の軽重を決めなきゃいけないのさ」
「だ、だって、人間は死んだら生き返らないじゃん……
「そうだね。僕だって死んだらそれまでだ。だからできるだけ長く君たちといるために君たちを助ける。僕の知らない人がどうなろうと知ったことじゃないよ。文字通りにね」
 気圧されて、呆気に取られて、レンはずるりと崩れ落ちた。
 それは。
 それは、おかしい。
 人間は利己的で身勝手だけれど、困っている人に手を差し伸べたり、危機に陥っている人を助けようとしたり、そういうものだろう?
 そんなの、ゲームでだって描かれている。
「なら……もしマスターの大好きな人と俺が、死にそうになってたらどうするの?」
「状況によるね。より助けられる可能性が高い方を助ける」
 損傷箇所を確認してまた作業台へ。
「君たちは人間の代わりじゃなくて『ボーカロイド』という確立された存在だよ。生きてない、壊れたら直せる、データがあれば新しいボディに移して復帰させられる、だからなんだっていうの。冷蔵庫やパソコンは壊れたら買い換えるけど、それは僕にとってそれらがその程度の価値しかないからだ。君たちはそうじゃないよ。君の記憶、身体、心は今そこにいる『君』のものだ。僕はレンが大事だからそれを守りたいと思う」
……でも、きっとみんなそんなふうには思ってない。俺たちは人間の代わりで」
「堂々巡りだなぁ」
 ぷかりと困り笑いになったマスタがいよいよ作業の手を止めてレンへ歩み寄る。軽く頭を叩かれてレンは顔を上げた。
「レンはリンのことが大事だよね?」
「うん」
 即答すると、彼は静かに眼差しを軟化させた。
「良いお返事だ。それは、リンが自分と同じボーカロイドだから?」
「違うよっ。ボーカロイドとかそういうことじゃなくて、リンはリンだから……
 レンの目がハッと見開かれた。「うん。それと同じことだよ」口元を緩めたマスタが頷く。
 価値基準をどこに置くかという問題への答えは、それぞれで違うのだろう。存在のあり方に重きを置く者、それ以外の何かを重視する者、あるいは単純な好き嫌いであったりもするのだろう。どれが正しいとか間違っているとか、一概に言えるものではない。
 レンがリンを大切だと思うように、マスタは自分たちを大切にしている。
 それだけだ。
「でもマスター、やっぱり人と俺たちだったら、人を助けた方がいいと思う」
「そうだねぇ。まあさっきのは、机上の空論ってところかな」
 うん?と訝しげに眉を上げるレンへ、マスタは胸を張りながら言った。
「だって僕、高所恐怖症だもん。崖になんか近づかないよ。そもそも出歩くこと自体ほとんどないし」
……なんだよそれ」
「証明する方法がない仮定ならなんでも言えるってことだよ。本音ではあるけどね」
 さてもうひとふん張り。袖を捲り上げてマスタは作業へ戻った。
 レンは予備の椅子に腰かけてその背中を見ていた。
 彼は何がなんでもリンを助けるだろう。そう思った。
「あ、お客さんはどうしたの?」
「ぶっちぎってる。いやー、怒られるだろうなぁ」
……いいのかよ、それ?」
「全然良くないけど、リンの方が大事だからねぇ」
 破損していた脇腹の表面樹脂を貼り直してコーティングをほどこす。見た目はすっかり元通りだ。まだ目は閉じたままだし、同調もされてはいないが、先ほどの痛ましい姿よりはずっと安心感がある。
 本体の修理が終わったのでマスタはデスクに陣取ってキーボードを叩き始めた。自分たちを構成するものではあるけれど、そのすべてを理解できるわけでもない(人は己の内臓がどのような仕組みで活動しているかということを知悉しているだろうか?)。意味の判らないアルファベットと数字、時々記号の羅列をレンはマスタの背後から覗き込む。
「どんな感じ?」
「さてはて」
 曖昧な返答だった。マスタの手が何度か同じキーを叩いている。画面下部に表示されたウィンドウがエラーメッセージを吐き出していた。気色ばんだレンが身を乗り出した。
「ちょっ、なんかエラーって出てるじゃん!」
「いや、データ破損とかの致命的なものじゃない。どうも……うーん。リン自身がロックをかけちゃってるわけでもなさそうだ。それなら僕の権限で通るはずだし。リンの思考プログラムがマッチングエラーを起こしてるっぽいね」
「どういうこと?」
「リンの中に、リンの知らないことがある」
 意味が判らない。自分たちの持つデータはつまり、自分自身の経験だ。経験は知識となる。レンがセーブデータを間違えなくなったように、経験を解析して最適解を覚える、それが自分たちにとっての成長である。見識、見て識ることが基本なのだから、『見たのに識らない』というケースがあるとは思えないのだが。
「いつかは判らないけど、リンの奴、どこかで解析をスキップしたな。それがジャンクになっちゃって不具合を引き起こしてるんだ」
 これは困った、とマスタが弱り顔になった。管理者権限を行使して無理やり該当データを消してしまうことは可能だけれど、それはリンの記憶をいじることに他ならない。良いものでも悪いものでも、出来る限り記憶にはタッチしない信条のマスタとしては悩ましいところである。
 腕組みをして考え込み始めたマスタの後ろで、レンも同様に腕組みをした。
 知っているのに知らない。あるのに判らない。
 『芽生えているのに、自覚がない』。
 思い当たる節はひとつだけ。
 レンは瞑目して思考を巡らせた。
 消すのが良いのか、それとも。
 消えるのが、良いのか。
 細く息を吐く。
 いつだって二人で一つで、それがずっと続くと思っていた。マスタがいて、ミクとルカがいて、自分たち。そういうくくりですべて片がつく、そう信じていた。
 レンにとって、一番大切な存在はリンだから。
 だから。
「ねえ、今の状態でも起動はできる?」
「起動だけなら問題ないけど、いかんせん思考部分が走らないからスリープとほとんど変わらないところまでしかいかないよ」
「それでいいよ。起動さえすれば同調も使えるから」
 首を傾げるマスタへ向けて、レンはどこか照れくさそうな、寂しそうな笑みを浮かべた。
「最大幅でシンクロして、ちょっとリンたたき起こしてくる」
 マスタもレンの言いたいことが判って微妙に口の端を上げた。こちらは特に寂しそうではない。
「なるほど。じゃあよろしく頼むよ」
「うん」
 マスタがホストマシンからリンの起動命令を発行する。レンは作業台の脇に座り込んでリンの起動を待ち、それから手馴れた様子で同調を始めた。コール、コール、コール……レスポンスオーケイ。
 ケーブルという媒体を使わなくても、自分たちはつながる。
 レンはリンの中にダイブした。
 
 『そこ』を精神世界と言ってしまって良いものか。
 マスタやミクなどは自分たちに心があると言うけれど、それはあくまで便宜上の表現であって正しくはない。あるのは思考プログラムと感情プログラム、それから各種の制御・管理機能だ。マスタにしてみれば、「人間の思考だって脳みそから出てる電気信号なんだから違わないよ」ということらしいが。
 とにかくレンはリンの情緒制御野に降り立った。実際には同調機能と自身の思考プログラムが組み立てたイメージオブジェクトを認識しているだけなので、そこには電気信号しかない。しかしレンはそこを『部屋』だと見る。
 人であれば目が痛くなるような真っ白い壁に四方を囲まれた部屋には、いくつかのオブジェクトが散財していた。ある物は床に置かれ、ある物は宙に浮き、ある物は壁や天井に貼りついている。どういう規則性があるのかは判らなかった。規則性などないのかもしれない。
 オブジェクトのいくつかはレンにも見覚えがあるものだ。アイコン化されたマスタたちがいる(ある?)し、ゲームのキャラクターがぬいぐるみの形を取って置かれているし、それ以外にもさまざまなオブジェクトが存在している。
 アイコンは沢山あった。どうやら人物、あるいはリンがヒトと捉えている相手をアイコン形式で表示しているようだ。マスタが一際大きく、次いでミクとルカ。そこから多少の差はあれどアイコンは小さくなっていった。おそらくリンの好意の大きさが反映されているのだろう。
 そんな中でレンを表すようなものはない。当たり前だった。リンはレンでありレンはリンなのである。自分自身の姿を客観的に見れないのと同じように、リンは半ばレンをレンとして認識しない。
 部屋の中央ではリンがロードローラの玩具を走らせて遊んでいた。片手に持てるサイズのコントローラを操って、部屋中を縦横無尽に走らせている。
 と、ロードローラが停まった。リンの指はボタンを押しっぱなしにしている。そこには黒いオブジェクトがそびえ立っていた。古い映画に出てくるモノリスに似ている。それをどうしても突破できなくて、リンは諦めてロードローラを迂回させた。
「リン」
……レン?」
 呼び声に気づいたリンは、こちらを振り向くとちょっと驚いたように目を瞠った。コントローラを置いてレンに向き直る。
「なんでレンがここにいんの?」
「今、シンクロ率百パーセントだから。俺とリンがリンの中に同時にいる感じ」
 「ふぅん」リンはさして興味を持たないような素振りで相槌を打った。
「てゆーかお前、いつまで寝てんだよ。さっさと起きないとマスターたち心配してるぞ」
「うん。マスターに呼ばれてるの聞こえてるから、起きようとしてるんだけど。あれが邪魔してるんだよね」
 リンが指差したのは先ほどロードローラが吶喊を仕掛けたモノリスだった。レンは首を伸ばしてモノリスの向こう側を覗く。ドアのオブジェクトが見えた。
「なんなんだろうね、あれ。壊せないし消せないし、動かすのも無理」
「へえ」
 それはきっと、リン自身が壊したくなくて消したくなくて動かしたくないからだ。
 リンの隣に腰を落ち着けて、立てた膝にダラリと両腕を乗せる。
 視線だけを巡らせて方々に散らばるオブジェクトを一つずつ確認した。
 思ったとおりのものがないのを確認してから、レンは目線をリンへ向ける。
「あれ、がっくんだよ」
 薄っぺらいけれど巨大なモノリス。大きさはマスタと同等か、あるいはそれ以上だった。
 リンが新種の動物でも見るような目をよこしてきた。レンは斜めにそれを受け止める。「ちょっと嫌だけど、リンがこのままの方が嫌だから」溜め息を混じらせながら言って彼女のリボンをいじる。
「教えてあげることにした」
「なにを? あれががっくんって、レン何言ってんの?」
「判るんだ。だって俺、リンの半分だもん。リンが嬉しかったり悲しかったりするの、俺、判っちゃうから」
 だからリンの中で通らないプロセスがあることも知っている。
 ある条件下で、リンの無意識が避けるルートがあることを、リンであってリンではないレンだけが気づける。
 頭上にクエスチョンマークを浮かべつつ、それでもどこか不安そうな表情をしているリンへ、ほのかに笑いかける。
 ずっと一緒が良かったなぁ。そんなふうに笑って、レンはゆるりと彼女のヘッドフォンを撫でた。
 肉体と同じように、心もずっと変わらないまま過ごしたかった。増えても構わないけれど、今いる家族みんなが揃っていて、そういうくくりがあって、その中で日々を送りたかった。
 あのモノリスを破壊してしまえばそうできた。口を閉ざしてマスタに願って、そうすれば彼女の想いは跡形もなく消えて、うたかたのように消えて、元通りになるはずだった。
 レンはリンのことが大事だからそうしたかったし、リンのことが大事だからそうできなかった。
「リンはさ、がっくんが好きなんだよ」
 告げられた半分が停止する。一瞬後、首から上を紅く染めながら両腕を振り回した。
「な、そ、そんなことあるわけないじゃん! がっくんのことなんてなんとも思ってないし! てゆーかどっちかっていうと嫌いだし!」
「ホントに? お前、ホントにがっくん嫌いなの? だからあんなふうに真っ黒くガードして見ないようにしてんの?」
…………
 がくぽは折を見て連絡をしてくる。直接尋ねてきたことも一度や二度ではない。リンを怒らせてしまったと誤解して、謝罪をしたいと申し出ているのだ。彼女はそのすべてから逃げていた。
 そんな時のリンの心境も、レンには伝わってしまう。
 そしてレンは客観的にその心境を分析できてしまうのだ。
 本当に嫌いなら、逃げ続ける必要などない。「許すつもりはないから二度と近づくな」と、そう言えばいいだけのことだ。
 足を伸ばして遠くを見つめる。
「特別な好きって、そういうこともあるんだって。恥ずかしくって顔見れなかったり、簡単に触ったりできなくなったり。別にみんながみんな、ミク姉みたいになるわけじゃないと思うよ」
 正直なところ、彼女の方こそレアケースなのではないだろうかとレンは踏んでいる。
 リンはいつの間にかこちらににじり寄ってきていて、二人の肩が触れていた。彼女の視線は下に落ちている。唇が少々尖っているのは不機嫌なせいではなく、迷っているからだ。傍らに転がっていたロードローラを手で押して遊びながら、レンはぽこんと泡のような息を吐いた。
「リンはがっくんのことが好きだよ。俺が言うんだから間違いない」
 ミクとルカはリンが自分で気づくまで待っていたかったし、マスタはそもそも気づいていなかった。レンは気づいていたけど言いたくなかった。だから誰も教えてあげなくて、リンの想いはジャンクとして追いやられてしまった。
 でもそれは、やっぱり駄目なんだ。レンは思う。
 がくぽが来てくれたことに喜んだり、自分が意地を張ったせいでしょげながら帰る後ろ姿をカーテンの隙間から覗いて自己嫌悪したり、そういうのを誰もいないところでしていちゃいけないんだと、レンは思う。
 不意にモノリスの一部が剥がれた。少しずつ少しずつ、真っ黒なコートが落ちていって、その下にあったオブジェクトが形を取り戻す。
 レンはあえて、そちらを見なかった。
 ずっと遠くを名残惜しそうに見つめていて、その手はずっとロードローラで遊んでいた。
 
 
 
 ミクにネクタイを締められながら、マスタはものすごく嫌そうな顔をしていた。
「うう……、スーツって動きにくいし、革靴は硬くて歩きにくいし、良いとこひとつもないよ。ネクタイだって首が苦しいし。いったい誰が考えたんだろうね、こんなの」
「マスター、わたしに喧嘩売ってるの?」
 常にネクタイ着用のミクが、きゅっとマスタの首に巻きついているネクタイを締め上げた。「く、くるし……っ」わりと遠慮なく力を込めたらしく、マスタが慌ててミクの手を外させる。
 ぐいぐい捻ってネクタイを緩めると、ひとつ息をついて恨めしげにミクを睨んだ。
「ひどいじゃないか。殺す気か……!」
「あーもう、せっかく締めたのに崩れちゃったじゃない。やり直しだよー」
「シカトだっ。しかもなんか僕が悪いみたいになってるよ!?」
 クライアントへの謝罪に向かう準備中の二人を、レンと隣のリンはぼんやり眺めている。
「そうやってると新婚さんみたい」
 あはは、と笑いながらリンが言ったら、二人は同時に「冗談じゃないよ!」と喚き返してきた。気が合うのか合わないのか判らない彼らだ。
 ルカもバッグに必要書類などをまとめる手を止めて二人に見入っている。視線を察したミクが振り返った。
「なに?」
……いえ。私もミクのネクタイを結んであげたいなって……
 ぽろっと本音を出してしまったルカは、次の瞬間失言に気づいて口を閉ざした。しかしもう遅い。途端にミクが破顔一笑して、マスタを放り出すと一足飛びにルカへ抱きついた。
「そんな、言ってくれればいつだってウェルカムオーケイだよ。というかお姉ちゃんにはむしろほどいてほしいんだけど」
「え、ちょ……
「ネジの飛んだ発言もいい加減にしてくれないか」
 ミクの脳天にチョップをかまし、首根っこを引っつかんで引き剥がすマスタ。「ああっ、お姉ちゃん、お姉ちゃ〜ん!」涙ながらの訴えは誰にも届かず、哀れ二人は引き裂かれた。
 「なにやってんだか……」三文芝居を見物していたリンが苦笑する。
 そんなこんながありつつ、マスタは久しぶりのスーツに身を包んでクライアントの元へ向かっていった。事情があったとはいえ、穴を開けてしまったのは事実なのでその足取りは重い。しかしまあ、ミクが完成した当初からの付き合いだし、酒の席でも設けたらなんとかなるのではないか、とマスタは言っていた。
 マスタを送り出したミクとルカは、早速ネクタイを結ぶ練習を始めている。
「こうこうこう。で、ここに通して完成。簡単でしょ?」
「えぇと……こう、こう……あら?」
 ささっとお手本を見せた後にルカが挑戦するが、初めての挑戦なせいか上手くいかない。
 ぐちゃぐちゃになったネクタイを一度戻して再チャレンジ。ミクが手順を一つずつ指南していく。
「あ、違うよ、そっちじゃなくてこっち。そこじゃちゃんと通せないよ」
「こっち?」
「そうそう、その太い方をこっちに持ってきて、この穴に通してあげるの」
「ここを押さえて……あら、穴が小さくて入らないわ」
「太めだし、でっぱりが引っかかっちゃうんだよね。もうちょっと広げてみたら入るんじゃないかな。さっきまで締まってて固くなってるから、揉んだり擦ったりして柔らかくすると入りやすくなるよ」
「こう?」
「うん、指で押し開くみたいにして。そうそう」
「あ、もう少しで入りそう」
「いいよ、その調子。いけそうだよお姉ちゃん。もっと強く、奥まで押し込んで」
 つと、レンが顔を背けた。
 鏡音レン、十四歳。
 人間で言えば中二。
「あー! リン、お前もほら、準備しないと」
 おおっとこいつは重要なことを忘れていた! という態でレンが勢い良く立ち上がった。「へ?」不意をつかれたリンが一瞬身をすくませる。
「がっくんに謝りに行くんだろ?」
「あ……うん……
 がくぽにこれまでの非礼を詫びたいとリンに相談されたのは昨晩のことだ。自分が拒絶した手前、どうにも行きにくいと渋るリンを、ついていってやるからすぐに行こうとけしかけていた。
 マスタのように酒の席を手配するわけにはいかないが、そもそも彼は怒っているわけではないので、手土産の一つも差し出して今回のことはちょっとした不運なすれ違いだったのだと説明すれば、きっと判ってくれる。
「リンだってこのままなの嫌だろ。がっくんに謝って、また遊んだり一緒にご飯したりしようよ」
……うん」
 手を差し伸べるとリンは素直にそれを取った。レンは満足げに頷いてその手を引く。
「ん、もうちょっと……! あっ」
 ドアを開けたところでミクの声が上がった。
「時間かかったけど、ちゃんとできたね」
「やっぱり、初めてだとなかなか上手くできないわね。途中で力が入りすぎてしまったけれど、痛くなかった?」
「平気だよ。一生懸命わたしに優しくしようとしてくれた気持ちだけで充分」
「ありがとう。これからはもっと上手にできるように頑張るわね。ミクに痛い思いをさせてしまうのは嫌だもの」
「ミク姉たち、わざとやってない!?」
 思わずがなりたてたレンに、無事に結べたネクタイを弄びながら二人は首を傾げた。
 リンを引っ張って自室に入ったレンは、そのままベッドへジャンプしてリンの準備を待った。髪に櫛を通したり、リボンの結び目を整えたり、姿見に背中を映して汚れていないか確認したり。何度確認しても不安なようで、リンは姿見の前で三度ほど回転した。
「やっぱ着替えようかな……
「そのまんまでいいじゃん。別に特別な日じゃないんだから、めかしこんだってがっくんに変だと思われるだけだよ」
「へ、変ってなによ」
「リンはいつも通りで充分可愛いって言ってんの」
 むすりとしながら言ったら、彼女は照れて、けれどそれを隠すために仏頂面を作ろうとして失敗し、結果いびつな笑顔になった。
「今日は謝りに行くだけなんだから。別に告白とかするわけじゃないだろ」
「あ、当たり前じゃん! こ、告白とか、そんなの、まだ全然……
 わたわたしているリンを半眼で見遣りつつ、ひとつ嘆息。
 まだ先の話のようだけれど、それでもいつかは、彼女の想いが彼に届けられる日が来るのだろう。
 その時、どんなふうになるんだろうか。寂しくて泣くのか、嫉妬で怒るのか、心構えが済んでまったく平気だったりするのか。
 最後のはさすがに希望的観測だな、と我ながら思った。
「リンはさ、がっくん好きじゃん」
……う、うん……
「俺は……ホントは、がっくんになんかやりたくないけどさ。しょうがないよな」
 我が身を半分削られたところを想像してみよう。
 意識もせずできていたことが出来ない。あるはずのものがない。見えていたものが見えなくなる。聞こえていたものが聞こえなくなる。
 レンにとって、リンを失うというのはそういうことだ。
「ずっとリンの一番近くにいたかったけど、リンがそうじゃなくなるなら、仕方ないよな」
「何言ってんの? なんでそんなに悲しくなってんの?」
 同調機能はレンにリンを伝えて、同時にリンへレンを伝える。
 気がつけば、彼女はこちらの足元に屈みこんで顔を覗き込んでいた。
「レン、あたしから離れちゃうの?」
 どこか悲しげに彼女は言う。その哀情はレンのものが伝染したのか、それとも彼女自身のものか。
「違うよ、リンが俺から離れるんだろ」
……なんで?」
「だって、お前がっくんが好きなんじゃん。それってがっくんのことが一番大事ってことだろ。俺じゃなくて、がっくんのそばにいたいんだろ……
「なんで!?」
 せっかく整えたリボンがゆがむのも構わず、リンは激しく首を振った。駄々っ子のように暴れるリンを、レンが慌てて押さえ込む。掴んできた腕を強引に振り解いて、リンはまっすぐにレンを睨みつけた。
「がっくんは好きだよ! レンが教えてくれたから、あたしもがっくんが特別に好きなんだって判ったよ! でも、なんでそれがレンと離れることになんの!? あたしは」
 ひとつ、涙がリンの頬を滑り落ちる。レンはギョッとしてしまって、彼女を抑えようとする手の力を抜いた。
 ひくっと喉を震わせてから、リンが濡れた声を放つ。
「レンが一番大事だよ。がっくんを好きになったって、それは変わんないよ」
 手の甲で涙を拭い、切れ切れに告げられたその言葉は、レンにとってあまりにも予想外で、油断したせいか彼の双眸にも薄い膜が張り出した。
 これは同調しているせいだ。彼女の涙とリンクしてしまって、勝手に流れてきたものだ。
 そうだ、同調しているのだ。
 レンがリンを一番大事だと思っているのなら、『同じ』である彼女もまた。
 この想いは、本当はどちらのものなのだろう。
 二人の、ものだったのだろうか。
 何度もしゃくりあげながら、リンが弱々しく首を揺らす。
「やだ。レンと離れ離れになるの、やだよぅ……
「お、俺だってやだ。リンと離れたくなんかないよ」
 堪え切れなくて、二人はまったく同時にべえべえと声を上げて泣き出した。
 降りしきる雨のように二人は泣いた。
 リンが背中に腕を回してきて、レンも同じように彼女の背を抱く。
 同じように頼りなくて小さな十四歳の身体は、分かちがたくお互いをしっかりと抱きしめた。
 
「がっくん家に行ってくるー!」
 足音高らかに階段を下りて、リビングの二人に一声かける。
「行ってらっしゃい。リンちゃんも一緒?」
「うん。一緒」
 ひひ、と笑いながら頷いたらミクは「うん?」とわずかにきょとんとした。
 追いついたリンがレンの背中から顔を出してくる。「行ってきまーす」
「はい、リンちゃんも行ってらっしゃい」
 ミクがひらひらと手を振る。「行ってらっしゃい」ルカも見送りをしてくれた。
 愛用のクロスバイクを引き出して乗り込み、リンも後ろに。いつもの二人、いつもの位置。
「どっかでお土産買ってかないと」
「お菓子とか?」
「がっくん甘いもの好きじゃないんだって。お煎餅とかの方がいいのかなあ」
「それじゃ俺たちがおいしい思いできないじゃん」
 当然のように土産を自分の腹にも入れるつもりのレンだった。
「あ、前にめー姉が買ってきてくれたチーズケーキ。あれあんま甘くなかったから、がっくんも大丈夫なんじゃないの?」
「あれかぁ。うん、いいかも。お店の場所判る?」
「任せとけって。調べたからデータ入ってる」
 「ナイス」リンがコトコト笑った。
 それでは出発。レンがペダルを漕ぎ出して、クロスバイクは二人分の重みなどものともせず軽やかに走り出した。
「飛ばすぜー!」
「おっしゃー、行けー!」
 なんびとたりとも俺の前は走らせねえとばかりにスピードを上げて、レンとリンは疾走する。
 バランスは完璧、後ろのリンはしがみつくでもなく自然にレンの肩へ手を置いて、風にあおられるのを楽しんでいる。加えて天気が快晴となれば、誰だって気分が良くなるものだ。
「レーン!」
「なにー!」
 風切り音に負けないよう声を張り上げながら会話をする。
「あんたはあたしで、あたしはあんただからー!」
「あったりまえだろぉ!」
 下り坂に入ってクロスバイクはますます快調、レンが漕ぐまでもなく風を切る。
「だから、この先なにがあったってずっと一緒じゃん!」
「おー、ずっと一緒だ!」
 天気は快晴。
 いつかの雨のなごりか、高い樹に広がる葉についた水滴が、日差しを反射して煌いている。
 二人の迷いなき光を湛えた双眸が、揃って弓なりのアーチを作った。