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黒竹
2022-05-30 21:29:11
24393文字
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リンケージ
【鏡音リン】【神威がくぽ】【ボカロ家族】
初恋未満。
大きな手で頭を撫でられるのが好きだ。慣れていなくて手加減しすぎな優しさが時々物足りないけれど、ごつごつした指が髪の隙間に潜り込む感触が心地良い。
無精ひげのまばらに生えた顎に触るのが好きだ。面倒臭がりだから放っておくと四、五日はひげを剃らない。しゃらしゃらとした手触りを面白がると、恥ずかしがって翌日には髭剃りを当ててしまうのが少し残念である。
彼の膝の上はずっと特等席だったのだけれど、いつだったかレンに馬鹿にされてから座らなくなってしまった。
それが鏡音リンの『好き』だった。それ以外にはなかった。
傾けられたグラスに少しずつ金色がそそがれていく。リンは慎重に手元を調整しながらグラスへビールを移している。淵からこぼれる寸前で止めると、マスタがそれと同時にグラスを水平に戻した。
泡の高さは三センチ、半円を描くそれをマスタの口が吸い込む。そのままぐいっとグラスをあおったマスタは喉を二度鳴らした。
「ぷはっ。うん、うまい。リンのお酌が一番上手だなぁ」
「へへー」
得意げにリンは笑うが、実のところこんなふうに酌をしてくれるのはリンの他にいないので、マスタの言う「一番」はナンバーワンではなくオンリーワンの意味である。
ピーナツをつまみながらのんびりとビールを飲む。隣に座るリンの前にはオレンジジュースが置かれていた。
頻度は高くないが、仕事が一段落したタイミングなど、マスタの気が向いた時にはこうしてささやかに打ち上げをすることがある。ミクはすでに飽きてしまってあまり付き合ってくれないし、レンは最初から面倒臭がって、リンがマスタにはりついているのをこれ幸いとゲームに興じている。ルカは、まあ割合としては半々。ミクに引っ張り出されればそちらを選ぶ。
そんな調子だからここ数回はリンと二人きりの打ち上げが続いている。大黒柱だというのにあまり優遇されていないマスタである。
ほのかに赤らんだ笑顔をリンに向けて、柔らかく金色の髪を撫でると、リンは嬉しそうにくしゃりと顔を崩した。
「このところリンのレコーディングが続いてたし、明日はお休みにしようか。ああ、そういえば商店街の方でお祭りがあるみたいだよ。ミクたちと行ってみたら?」
「マスターは?」
「僕の仕事はまだ溜まってるんだよねぇ」
小さく肩をすくめてごめんねと眉を下げる。リンはちょっと残念だったが、ここで我侭を言うほど我が強いわけでもなかったので、「じゃあ、みんなに聞いてみる」素直に頷いた。
打ち上がげを終えてから手始めにレンの意見を尋ねてみようと、自室のドアを開けた。二人は同室なのでリビングにいなければレンはだいたいここで漫画を読んだり携帯ゲームで遊んだりしている。
「ねえレンー。明日
……
」
「わわっ」
なぜか妙に慌てた様子のレンが、腹部に何かを隠した。「なにしてんの?」訝しげに眉を寄せて隠された物を覗き込む。レンはさらに身体を丸めて抱え込んだものを覆い隠した。
「なんでもない、なんでもないから!」
そんなふうに言われると気になるに決まっている。とうっと飛びかかってそれを奪い取ろうとすると、レンはこれを奪われたら世界が滅亡するとばかりに必死の抵抗を見せた。
ゴロゴロと部屋中を転げまわり、あるいは伸びてくる腕を払い、あるいは見事な体捌きで避ける。両腕がふさがっている状態なのでレンの方が不利だが、そこは身体機能の性能差でカバー、たとえ腕を掴まれても力ずくで振り払える。
ならば、とリンが背後に回りこんだ。振り返る前にレンの脇腹をくすぐる。
「おぅあ!」
隙をつかれて腕の力が緩んだ一瞬を見逃さず、抱えられていたものを抜き取った。
「あっ」
「なにこれ?」
薄めの雑誌だった。裏表紙が向いていたそれをひっくり返す。
時が止まった。
「なっ
……
」
非常に、なんというか、露出度の高いお姉さんがギリギリのポージングで微笑んでいた。
すぐさまレンが取り返したけれど、リンの映像インタフェースが捉えたそれはしっかりメモリに記憶されている。人間のように「よく見えなかった」ということはありえない。もちろん、メモリから引き出せば細部まで確認することが可能である。
胸の大きなお姉さんが誘うように(なにを?)微笑んでいる表紙を思いだして、リンの感情アルゴリズムは混迷、暴走した思考は悲鳴としてアウトプットされる。
「ななな、なんてもの見てんの!? ばっかじゃないのヘンタイ!」
「ヘンタイって、こ、これマスターのだぞ、俺が買ったんじゃないんだからな!」
「うるさいうるさい!」
言い訳なんて気持ち悪い。マスタがあんなもの見るわけがないじゃないか。マスタは優しくて奥手で自分たちに分け隔てなく接してくれて、そんな欲求なんてあるはずがないのだ。
祭りについて聞く気も失せたリンは、レンのみぞおちを一発殴ってから部屋を飛び出した。頭部を狙わなかったのは、ルカが口をすっぱくして注意し続けた賜物である。
そんなふうにルカのことが脳裏をよぎったせいか、そのままルカの部屋へ向かった。しかし中は無人だったので、足を返してミクの部屋へ。
「ミク姉、ルカ姉、いる?」
「ん、どうぞー」
二人は床に向かい合って座り、歌詞の書かれた紙を覗き込んでいた。確かデュエット曲の注文をマスタが受けていたから、それについて軽く打ち合わせをしていたのだろう。
ミクたちと線で結べば三角形を作る位置に座り込んで、視線を軽く落とす。
「どうしたの?」
「
…………
」
レンについての不満をぶちまけようかと思ったが、彼は自分の片割れであり、あるいは自分自身である。レンの恥はリンの恥。ここで言ってしまうのはどうか。あまりにも情けない内容だし、なんだかんだでレンのことを嫌いになったわけでもないから、彼の恥をさらしてしまうのは可哀想な気もする。
こっそり息をついて一度思考をアイドル状態に。混迷していた思考を切り替える。
「明日ね、お祭りがあるんだって。ミク姉たち一緒に行ってくれないかな」
「お祭り? いいね。お姉ちゃんも行こうよ」
ルカににじり寄ってその腕を取ったミクが、彼女へしなだれかかった。「ミクが行きたいのなら」微笑みを返しながら、ルカが頷く。
「あ、ごめん。やっぱいいや。二人で行ってきなよ」
すっと手のひらを差し出して前言撤回するリンである。二人は意味が判らずきょとんとした。
考えてみれば、この二人と出かけたら自分がおみそになるのは目に見えているのだった。進んでお邪魔虫になることもないだろう。気を遣って楽しめないに決まっているし。
仕方がない、明日は一人で行くとしよう。
商店街は人でごった返していた。高くぶら下げられた提灯の明かりと、賑やかしいざわめきと、甘い匂いとしょっぱい匂いと、何よりも人いきれ。これこそという感じの祭りの雰囲気だ。
小さな身体を持っていかれそうになりながら、屋台やら大道芸やらを覗いて行く。
ちなみにミクとルカは人込みの中より部屋で二人きりの方を選んだらしく、リンが出る時も自宅に残っていた。
「んー
……
」
来てみたはいいが、やはり一人ではあまり楽しくない。この雰囲気、無条件で腹の底をざわざわさせるものだと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
昨日のことは水に流してレンを誘えばよかっただろうか。こういうお祭り騒ぎが好きな性分だし、喧嘩もよくするけれど基本的にリンには甘いから、断りはしないだろう。
とはいえ、今から引き返してまた来るのも億劫だ。
もやもやした気分を抱えつつ足を進めていると、やたらと目立つ後ろ姿が目に入った。
周囲より一際高い長身と、なびく紫色の髪。高い位置でくくられたそれが人込みの上で揺れている。リンは足を速めてそこを目指した。
「がっくん」
屋台の前で焼きそばを買おうかどうか迷っていた神威がくぽが、リンの声に振り向き、少し視線をさまよわせた。小さいから見つけられなかったのだ。服の裾を引っ張ると、ようやくリンを見つけてくれた。
「おお、リン殿。こんばんは」
「こんばんは。がっくんもお祭り見に来たの?」
うむ、と頷く。
「一人?」
「マスターとグミは一昨日から撮影のために遠方へ出かけていてな。来週いっぱいまでは拙者一人なのでござるよ」
退屈しのぎに来てみたら、偶然祭りに行き当たったということらしい。
「良い機会なので、久しぶりに食事でもしてみようかと思ってな」
「食べてないの?」
「一人で食事をしてもつまらぬし、我々にとってどうしても必要というものでもない。それに拙者、料理は苦手なのでござるよ」
腕組みをして少々情けない表情をする。いつもはマスターか妹分が作ってくれるのだが、二人ともいないからなおざりにしてしまうようだ。
リンにとって、『一人きり』は馴染みが薄い。生まれた時から今までずっと、一人ではなかったからだ。マスターがいたし、ミクもいたし、なにより自分自身と密接不可分な片割れがいる。
「
……
寂しい?」
「そういうわけでもござらんよ。マスターは家を空けることも多いゆえ、グミがやって来るまで一人で過ごすことは何度もあった。留守番を心細がるほど幼くもない」
「しかし、お気遣いは感謝する」がくぽが目を細めて言った。
せっかく行き会えたことだし、とリンは一緒に見て回らないかと彼を誘う。一人はつまらないし、家を出る前、夜一人で出歩くなんて危ないとマスタが気を揉んでいたので、途中からだけれどがくぽが一緒だったと伝えれば安心させることもできるだろう。
「ふむ、こういった場は誰かと見た方が楽しいものであるしな」
がくぽが快諾し、「では、はぐれぬように」右手を差し出してきた。リンがその手を取って歩き出す。身長差があるのでぶら下がっているような姿勢になって、それがなんだか面白かった。リンはロープ遊びのようにがくぽの手を振り回す。「これこれリン殿、人にぶつかってしまう。暴れてはいかん」苦笑まじりにたしなめながら、がくぽがリンの手を引き留めた。
「あ、がっくん射的があるよ。やってみていい?」
「構わぬよ」
射的屋のおじさんからライフル銃を受け取ってコルク玉を銃口に詰め込む。戦利品はマスタたちへのお土産にするつもりだ。
ほとんど台に乗り上げるようなかたちで身体を伸ばし、まずは簡単そうなキャラメルを狙う。片目を閉じて映像インタフェースの精度をアップ、発射角とコルク玉の速度を計算して慎重に狙いを定めると、リンは勢いよく引き金を引いた。
弾丸は見事に命中したが、ほんの少し後退しただけで箱は倒れてくれなかった。
「もう一回!」
ずずいっとさらに身を乗り出す。なんだか背中の辺りがスースーするが気にしない。
「
……
リン殿、その体勢、少々はしたないのではないか
……
?」
「がっくんは黙ってて!」
再度、同じ的をめがけて弾を発射する、まだ落ちない。「なんのぉ!」発射角は正確だ、弾もちゃんと狙い済ました位置へ飛んでいる。それなのに落ちない。リンは原因を正しく把握していた。弾の速度が遅すぎる。コルク玉という空気抵抗の大きな弾丸は、発射から的へ届くまでの減速が著しいのだ。
結局、持ち玉の五発すべて使ってようやく一つ落ちてくれた。
「
……
むー! これわざと弱く出るようになってんじゃないの!?」
「お嬢ちゃん、いいがかりはよしてくれよ」
じたばたと台の上で足をばたつかせながら抗議すると、そういう文句には慣れているのか、射的屋のおじさんは薄笑いでいなしてきた。
二度目のチャレンジをしようと台を飛び降りた横から、がくぽがスイと小銭を射的屋の前へ置いた。
「では次は拙者がやってみよう」
「毎度」
リンと同じように弾を込め、リンとは違ってその場に立ち構える。腕を真っ直ぐに伸ばす。照準を定めて引き金を引くと小箱に入ったチョコレートがぽとりと落ちた。
そこからは独壇場である。がくぽの銃は次々と獲物を撃ち落していき、五発すべてが戦果を上げた。「お見事だねえ」駄菓子を袋にまとめて入れながら、射的屋が肩をすくめる。
「良かったじゃないか、お嬢ちゃん。お兄ちゃんがかたきを討ってくれたな」
リンがぶすっと頬を膨らませる。
「あたしだってがっくんくらい腕が長かったら落とせたもん。てゆーか別にお兄ちゃんじゃないしっ」
なんだあの腕の長さ。伸ばしたらもう、的までの距離が数十センチしかないではないか。あれなら弾丸の速度は初速からほとんど落ちることなく的へと届く。
まったく、なぜマスタは自分の身体をこんなふうに作ったのだろう。がくぽほど大きいのも困るが、せめてルカくらいにはあっても良かったんじゃないか。身長とか、他の部分とか。
そうしたらきっと兄妹に間違われることだってなかった。己と彼はれっきとした対等な友人同士なのだ、こちらの方が下だと見られるのは面白くない。
屋台を離れてからも、リンは肩を怒らせていた。
「失礼しちゃうよね。まるであたしの射的が下手だったみたいじゃん。がっくんはリーチがあるんだからズルしたようなもんだよ」
「そう言われても、この身はマスターが作られたものであるのでなぁ」
困り笑顔でなだめてくるがくぽ。その情けない顔にほだされて、「ま、いっけどぉ」仕方ないから許してやるというポーズで言った。
「ならば、お詫びにこれはリン殿へ差し上げよう」
先ほどの戦利品を眼前へ持ってこられて、リンが小さく目を丸くした。
「え、いいよ。がっくんが取ったやつだし」
「リン殿があまりに熱中しておられるのが楽しそうに見えたのでやってみたのだが、拙者甘いものは得意ではないのでござるよ。リン殿のところは家族が多いのだし、皆で食べてはくれぬか」
「ん
……
じゃあ。ありがと」
「なに」
袋を受け取って自分の分と一緒にする。まあ、確かにキャラメル一つよりは格好がつくので、助かったと言えば助かった。
右手でがくぽの手を握り、逆の手に駄菓子の袋をぶら下げて、他の出店も色々と見て回る。とはいえ地域の小規模な祭りだ、すぐに終点まで来てしまって、二人はどん詰まりの広場で端の縁石へ腰を下ろした。目の前ではカラオケ大会が行われている。少々うるさい。
途中で買い求めたたこ焼きを頬張りながらその様子を見物する。真剣勝負な参加者は少なく、誰でも知っている映画のテーマ曲だとか、有名なアニメの主題歌などが大半である。中にはわざと笑いを誘うような歌い方をしている人もいた。こういった場では熱唱したところで盛り上がるとは限らない。空気を呼んだ正しい選択と言える。
少し離れた場所で時に笑い合い、時に自分だったらどんなふうに歌うかなど話し合う。なかなか新鮮な体験だった。マスタやミク、ルカとは話し合うというより教わると言った方が正しいやり取りしかしていないし、レンとは話し合うまでもなく息を合わせられるのでそういったものをしたことがなかった。
これぞ対等、レンと揃って子ども扱いをされることが多いので、気分が良い。
「しかし、たこ焼きというものはかくも美味いものであったか」
不意にがくぽがしみじみと呟いた。
「へ? たこ焼き食べたことなかったの?」
「そういうわけではないのだがな。たこ焼きがというより、リン殿とする食事が美味いのかもしれぬ」
「ふーん?」
確かに、己も今の時間が楽しい。マスタもみんなで食べるのが良いと言っていたし(だからどれだけ忙しい日でも食事は全員で摂る)、そういった『人の価値観』をプログラムされているのかもしれない。
「じゃあ、がっくん家の人たちが帰ってくるまで、あたしががっくんにご飯作ってあげようか? 朝と昼はレコーディングとかあるからちょっと難しいかもだけど」
必要ないから一人では食事をしないと言っていた。けれど自分がいれば楽しいから食事をしてくれるようだ。楽しい時間は多い方が良い。それに、こちらはこちらで最近料理の勉強中なのだ。いつも簡単なつまみしかない打ち上げに彩を添えるためである。
言い方は悪いががくぽに味見役になってもらって、次の打ち上げでは手の込んだ料理をマスタに供したらきっと喜んでくれるに違いない。
「それはありがたいが
……
迷惑ではござらんか? そちらでは皆が揃っての食事が通例なのであろう?」
「平気だって。五人もいるんだから一人くらいそっちに移っても賑やかさは変わんないし」
「そうか
……
? では、よろしくお願いいたす」
「うんっ」
ニカッと笑ってリンは握手の手を求めた。
「がくぽさんのところに?」
おやつの期間限定黒糖ポッキーをくわえたミクが、どこかきょとんとした口調で問い返した。
「まあ、夜だけなら食事当番代わってもいいけど」
「ありがとっ。マスター、いい?」
自分も黒糖ポッキーを一本つまみながら、コーヒーブレイク中のマスタへ視線を向ける。彼はマグカップをテーブルに置いて顔を上げた。
「それほど遠いわけでもないし、あまり帰りが遅くならなければ構わないよ。がくぽくんに迷惑をかけないようにね」
「判ってるって」
「毎晩ご飯作りに彼の家へ、かぁ。それってなんか通いづ」
「おおっとミク、それ以上はイエローカードだよ。ていうかどこで覚えたんだい、そんな言葉
……
」
どうして唐突にマスタが慌てたのか理解できない鏡音リン十四歳だった。通い詰め? 毎日赴くつもりだから、別に間違えてはいないと思うけれど。
「ミク、今のはちょっと
……
」何故かルカまで忠言していた。通い詰めという言葉のなにがまずいのだろう。
「ほんの冗談なのにー」
拗ねたような表情でポッキーを一口に食べ終え、新しい一本を取り出す。
「ところでお姉ちゃん、ここにポッキーがあるということは、今はポッキーゲームをするべき場面だよ」
「そんな場面はいりません!」
ルカが反応する前にマスタの悲痛な叫びが上がった。通い詰めのまずさは判らないけれど、ポッキーゲームのまずさは判る。マスタが止めてくれてよかった。そうでなければリンは出来る限りの速度でポッキーをすべて口に入れなければならないところだった。
胡乱な目でマスタを見遣ったミクだが、ハッと何かに気づいたような顔をしたかと思うと、顎に手を当てて考え込み始めた。
「そうだよね、わたしが間違ってた」
判ってくれたかとマスタがホッとしたのも束の間、
「考えてみればポッキーゲームってポッキーが邪魔だよね。じゃあ、ポッキーなしでポッキーゲームをしよう」
それはもうゲームでもなんでもない。
「
……
ルカ、ちょっと部屋でミクを落ち着かせてきて」
「はい」
頭を抱えたマスタの搾り出すような懇願に、ルカが「申し訳ありません」と表情で伝えながら頷く。二人がリビングを出た後、「ほんとに思考プログラム書き換えてやろうかな
……
」まるで呪詛のようにマスタが重々しく呟いた。
こんなふうに時々困ることはあるけれど、あの二人は幸せそうだ。恋というものをしているせいだとは知っている。知っているけれど、多分、理解できてはいない。
ミクが今までと違うから、マスタや自分たちのことは好きじゃないのかと尋ねたことがある。そんなことないよと彼女は否定した。それなら何故、ルカが生まれる前と今はあんなにも違うのだろう。表情から声音まで、彼女の何もかもが少しだけ変わって、つまり全体的にはがらりと変わったということだ。
恋というものをたくさん歌にはしたけれど、自分自身は何も変わらない。
『それ』は、マスタやレンを好きな気持ちとどう違うのだろう。
「マスター」
「ん?」
テーブルを回り込んで、ソファ上のマスタへ抱きつく。今朝ひげを剃ったばかりの顎から、アフタシェイブの硬質な香りがかすかに漂ってきた。
「おっ、なんだい急に。最近はめっきり甘えてこなくなってたのに」
「へへー」
ミクがよくルカに抱きついているから、その真似だ。こうしていると変われるのかもしれない。ちょうどレンもいないし、久しぶりにマスタの膝が恋しくなった。
うっすらと剃り跡の残った顎先が頭上にあって、運動不足のせいかちょっと脂肪の乗った腹部の感触が面白い。学生時代から頭脳労働一辺倒で、力仕事をしたことのない手は男性にしてはしなやかだ。その手が髪を撫でてくる。マスタの腰にまとわりつきながら、リンはしばらく手のひらの感触を味わった。
材料を買い込んでがくぽの自宅を訪れると、きっちりと整理整頓されたリビングへ通された。一歩間違えば神経質にも見える几帳面さだ。いつもこうというわけではなく、することがないから何度も掃除をしてしまった結果だという。
調理器具の場所や使い方を簡単に教わってから、早速仕度にかかる。とはいえ、まだ料理本と首っ引きで作業するような状態なので、手際よくとはいかない。加えて使い慣れない器具なものだから、予想より一時間も余計にかかってしまった。最初のあたりで作ったものなどはとうに冷めている。ああ、渾身の卵とじが。
「ごめんね、待たせちゃって」
「一向構わん。リン殿が頑張って料理をされている姿を見ているのも楽しいものであった」
あたふたしている姿を見られていたかと思うと、ちょっと恥ずかしい。それはまあ、何度も手伝おうかと進言されるのも致し方ない。料理の腕を上げるためなので頑として断ったけれど。
「では、いただきます」
がくぽが高野豆腐へ箸を伸ばす。思わずじっと行く末を見守るリンである。ぱくり一口。表情は変わらない。
何度か咀嚼して飲み込んだがくぽは、かすかに息をついて「うまい」感の入った一言を洩らした。
「ほ、ほんと?」
「うむ。ご家族も喜ばれているのではないかな?」
「ま、まあ、みんなおいしいって言ってくれるけどさ。それは家族だもん、ちょっと失敗しても食べてくれるし
……
」
そもそも、いつもはここまで手間隙かけたものなど作っていない。
自分でも食べてみる。あ、なんていうか、わりと大丈夫だった。もちろん味見はしていたけれど、冷めてしまったのが心配だったのだ。温かかったらもっとおいしかったんじゃないかな、と思わせる味だったから、明日はリベンジを果たそうと思う。
「そういえばさ、がっくん家ってビデオディスクいっぱいあるんだね」
食事をしながら、リビングで見たディスクラックを思い出して話題に上らせた。リンの背丈より高く、リンが両手を広げた幅より広いラックに、ぎっしりとパッケージが詰め込まれていた。映画作品がほとんどだったように見えた。
がくぽがつられたようにダイニングと繋がっているリビングへ目をやって、
「拙者もグミもまだまだ製作から日が浅いゆえ、映画で仮想体験することでデータを増やそうというマスターの発案でな。情操教育のようなものだとマスターは仰られておったが、さて、身についているかどうかは怪しいところでござるな」
「ふーん。後で見せてもらっていい?」
「もちろんでござる。何か観たいものがあればここで観ていっても良いし、でなければお貸ししても良いが」
「うん。ありがと」
マスタの意向により、リンの家のテレビはリビングの一台きりで、日に一度ならず争奪戦が行われる(主にリンとレンにより)。映画なら少なくとも二時間はかかる。それだけの時間、誰もテレビを必要としないというケースは想定しにくい。
あまり遅くなるなと言われているけれど、映画を一本観るくらいなら大丈夫だろう。
食事と後片付けを終えてから、リンは早速映画を物色し始める。自宅にもある程度の枚数が揃っているけれど、こちらと比べたら足元にも及ばない。左上から順繰りにラックをなめていく。
「恐いのとかもあるんだ」
「そちらはマスターの趣味が色濃いな」
「うちにあんまりないんだよね。こっちのマスターはこういうの好きじゃないみたい」
ひょい、と三作ほどシリーズの続いているらしい一枚を取り出した。ホラー映画らしい、表も裏も薄暗い画像が並んでいる。
「それが良いか?」
「うん。ほとんど見たことないからどんなもんか見てみたいかも」
がくぽがプレーヤを操作してディスクをソーサへセットする。「こういった物は部屋を暗くせねばならんらしい」マスタの言いつけをきっちり守って部屋の明かりを落とすがくぽ。液晶画面のほの青い光だけが室内を照らしている。なるほど、それっぽくてなんだかワクワクしてきた。
横並びに腰を下ろして映画の開始を待つ。
リンがワクワク出来ていたのはここまでだった。
「ぴゃあああぁぁぁ!!」
「だ、大丈夫でござる! あれはただの殺人鬼ゆえ!」
殺人鬼は概ねただものじゃない。
射的と違って的を外しすぎたがくぽの言葉で落ち着けるはずもなく、リンは隣の彼の腕に力いっぱいしがみつきながら悲鳴を上げた。しかし視線は画面からそらせない。だってここで目を背けて、画面を抜け出てきた殺人鬼が襲い掛かってきたらどうする!
幸い、画面から出てくる気配はないが、その中では今まさに主人公が絶体絶命、血みどろでぐしゃぐしゃのスプラッタがすぐそこに迫っている。
「がっくん後ろ見て後ろ! なんかいない!? 誰か来てない!?」
なんとなく、死角から誰かが迫ってきているような気がして、半ば涙声で叫んだ。
律儀にリンの背後を確認したがくぽは、小さく首を横に振ってリンの背中をぽんぽん叩いた。
「心配いらぬ。ここにはリン殿と拙者の二人きり、他には誰もおらん」
「ほんとに? さっきから背中がぞわぞわしてるんだけぴゃああぁ!!」
斧が斧が斧が。男の人の頭に、なんか飛んだ赤いのだけじゃなくてもっと色んなものが飛び散った。
混乱した思考プログラムがデータ管理経路を間違える。映像データを正確に伝達してくれず、頭をカチ割られた人物の顔が白人男性ではなく自分自身になっている。嫌だ嫌だ恐い後ろから誰かが斧で斧を振りかぶってほらもうすぐ!
「リン殿、落ち着いてくだされ。
……
では、背後が不安ならばこうしよう」
大声で泣き出さんばかりになっているリンを、がくぽの腕が力強く抱き上げた。「ぴゃっ?」悲鳴の途中だったので妙に間の抜けた動揺が口から飛び出た。
背に固い感触。心持ち斜めに座るような姿勢で、リンはがくぽにすっぽりと包み込まれる。
「これで背後から誰かが襲ってきても安心でござる」
「
……
う、うん」
ちょうど主人公が危機を脱したことも相まって、混乱が少しだけ治まった。それに、そうされてみると確かに安心感が先ほどとは桁違いだ。
ヒートした内部を冷やすために奮闘していた排気機能がわずかに静まる。悲鳴と一緒に絶え間なく吐き出されていた呼気も止まり、リンは手近にあったがくぽの服をぎゅっと掴みながら映画の続きを観始めた。彼の腕はリンを守るようにまわされて両手を軽く組んでいる。
これが最後の命綱、とばかりに裾を握り締めつつ、横目に画面を注視する。背中が暖かくて不安が軽減されている。
それから、「ひうっ」とか悲鳴のなりそこないみたいなものは出てきたものの、序盤ほど喚き続けることはなくなり、無事に最後まで鑑賞することができた。主人公がなんとか脱出できたのは良いが、倒されたかと思われた殺人鬼がラストのラストで起き上がったのはいただけない。まあ、シリーズで続いているので仕方ないのだろうけれど。というように理論的な思考を出来る程度には落ち着いていた。
それでも恐怖の余韻は確かに残っており、リンはしばらくがくぽに抱きかかえられたまま硬直していた。
カチコチのリンが解凍されるのを待っていたがくぽが、少々申し訳なさそうに頭を垂れた。
「
……
もう少し平和なものの方が良かったようでござるな。浅慮であった、すまぬ」
「へ、平気だよこれくらい。それに、観たいって言ったのあたしだもん。がっくんは悪くないよ」
どうにか自分の力だけで動けるようになったリンが長い両腕から抜け出す。
「ありがと、面白かった」
強がりである。かなり精巧に作られているはずの表情制御機能がうまく働いていない。奇妙に引きつった笑みを向けられたがくぽは「うむ」と微苦笑で応えた。
「遅くなるとマスターが心配するから、そろそろ帰るね」
「ああ、今日はかたじけなかった」
「
……
でね」
「なんでござろう?」
「
……
できれば、送ってってほしいんだけど
……
」
がくぽが苦笑を深くする。「もちろんでござる」立ち上がってリンの斜め後ろ、背後を守る位置へと身体を移す。
自宅まで送ってもらう間、リンはがくぽの手をしっかり握って離さなかった。
その後も夕飯を作ってやる約束は守られ(しかし映画鑑賞は刺激の少ないものに限定された)、五日間が過ぎ去る。
ぶきっちょな手つきでサラダに使うレタスを剥いているレンを眺めつつ、リンはミクとルカがやってくるのを待っていた。ルカは己がリビングに入った頃にはもう起きてマスタにコーヒーを淹れたりしていたのだが、お寝坊なミクを起こしに行ってまだ戻ってこない。
今日は何を作ろうかなあ。姉が起きてくるまでのわずかな時間、リンは今晩の献立を考え始める。
健康のためには和食が良いそうなので、リンの勉強もそちらへ傾いている。がくぽが和食好きだったのも好都合だった。
実際問題、自分たちにとって栄養素は関係ないから、あまりそういった部分を考慮したことがなかったのだ。もしかしてマスターのおなかがポニョッとしてきたのは、おいしいからとフライドポテト(冷凍食品)やらハンバーグ(レトルト)やらばかり作っていたせいだろうか。
リンはデータベースを探り、ヘルシー料理コーナを順にメモリ上で眺めて行く。ああ、これなんか良さそうだ。ナスの煮びたし。ナスは油をよく吸うから、こういった調理法にするとカロリーを抑えられるらしい。今日はこれに挑戦してみよう。
などとやっている間にレンの朝食作りは完了する。皿に乗ったトーストが各人の席に置かれて、テーブルの中央にでんとサラダが乗った。
「ミク姉たち、遅いね」
テーブルに頬杖をつきながらリン。ミクがお寝坊なのはいつものことだけれど、それにしたって遅い。
マスタが片眉を上げて時計を見遣った。「十時にはクライアントから連絡があるから、それまでに準備しておきたいんだけどなぁ」
独白を聞き止めたリンが立ち上がり、「ちょっと見てくるね」二人へ告げてミクの部屋へ向かった。
二階はシーンとしていた。まさかルカまで二度寝してしまったんじゃ、と呆れまじりに推測しながら、ドアの前に到着する。
ドアはリンの頭一つ分くらい開いていた。その隙間から見える様子では二人とも起き上がっていた。なんだ、起きているんじゃないか。二人ともなにしてるんだか。
嘆息しかけたリンが停止する。
いや、本当に、なにをしているんだか。
リンの内部でシグナルが鳴り響き、ランプが激しく明滅する。リンリンと鳴るシグナル、そしてピンク色のランプ。ええとこの色はどういう意味だっけ? あれ、そもそもピンク色のランプなんてあったっけ?
ルカにしなだれかかるような姿勢のミクは、リンが見たことのない表情をしていた。
つと、その視線が上がる。シグナルが警告のために速くなったが間に合わない。しっかり目が合ってしまった。ミクを捉えたリンのレンズアイは、彼女のそれがこちらを捉えたことも同時に察知する。
わずかにミクの目が細められた。顔を上げて、こちらへ合図を送ってくる。
リンはほうほうのていで地雷原を逆戻り。のほほんと「何してたの、ミク姉たち」とか聞いてくるレンにぶんぶん首を振りながらなんでもなかったと答え、これ以上一言も喋るものかと口を閉ざす。レンは不思議そうに首を傾げて、トーストにかじりついた。
キッチンでミクと少し会話をした。彼女の言葉のひとつとして、リンには理解できなかった。特別な『好き』をリンはまだ持ってなくて、「そういうこと」とか言われたって判らない。
いつか自分もあんなふうになる日が来るのだろうか。あんな幸せそうな顔で、あんなことを
……
。
「っ!?」
咄嗟に処理をキャンセル、浮かんできた映像を消去する。プロテクトをかけてしまいたかったけれど、管理者権限までブロックしたら物理的に破壊されない限り二度とそのデータには触れなくなる。それはちょっとまずい気がした。仕方なく、暫定対策としてファイルインデックスだけ外してアクセス順序を最低に設定する。
もう、犬に噛まれたと思って忘れよう。犬に噛まれたらけっこうなトラウマになるような気がするけれど、慣用句として登録されていたのでリンはそのように思考する。
「リンー、ゲームしないなら俺が使っていい?」
思ったよりソファでぼうっとしていた時間が長かったらしく、漫画を読んでいたレンが声をかけてきた。「いいよ」ゲームで遊びたい気分じゃなかったので、順番をレンに譲ってやる。彼は珍しいなという表情をした後、いそいそとゲーム機の電源を入れた。
コントローラを握るレンの後ろ姿を捉える。別になんということもなかった。
彼が自分にとって特別なのは間違いないのだけれど、それとはもっと違う特別では、なかった。
がくぽははてと首を捻っている。
「リン殿?」
「な、なに?」
「なぜそのように、離れた位置へ座っておられるのだろうか」
先日から恒例となった食後の映画鑑賞の段である。がくぽの手にはまんまるおなかの女の子が主人公の有名なアニメ映画。
いつもより身体三つ分は彼から距離を置いたところへ腰を下ろしたリンは、目を合わせないまま応えた。
「別に意味とかないけど。今日は恐い映画じゃないし」
「はぁ
……
、リン殿がそこが良いのであれば、拙者も構わぬが
……
」
がくぽはなんとなく腑に落ちない顔をしながらも頷く。
いつもは彼の膝に乗って観ていたのだ。ホラー映画でなくても、そこが居心地良かったせいである。マスタにするのと同じ意味でリンは彼に甘えていた。
しかし今日は駄目だ。膝の上で抱っこをしてもらうというその行為は、どうしても今朝の情景をメモリから呼び起こしてしまう。ごくごく表面的な連想である。別に自分たちはただの友人だからあんなことにはならないが、薄っぺらい理由により恥ずかしさが沸く。
映画がスタートして、リンはそちらへ意識を集中した。非常に展開の速い物語だ。子供向けのような作画とは裏腹に、懇切丁寧な説明や判りやすい起承転結がない、理解しようとすれば深い海溝に陥りそうな作品だった。
ので、リンは素直に雰囲気だけ楽しむことにする。
「この歌、耳に残るねー
……
」
「うむ、マスターもよく鼻歌でうたっておられた。拙者まで曲データを入力されてな、一緒に歌えるようにされてしまったでござる」
やや頬を赤らめつつ嘆息する。外見とも内面とも、歌のイメージは一致しない。揃って合唱している映像をメモリ上に合成してみたら面白すぎた。クスクスと忍び笑いを洩らす。
「あたしもマスターにデータ入れてもらおうかな。そしたらがっくんと一緒に歌えるよ」
「ふむ
……
。いや、拙者あの歌は少々苦手で
……
」
口ごもりながら控えめな辞退を申し出るがくぽだった。「面白そうなのにー」わざと口を尖らせると、彼は弱りきった表情で「うぅむ」とか「しかし」とかもごもご言った。
まあ、こんなことで突っかかってもしょうがない。そんな子どもっぽいことはしない鏡音リン十四歳である。
映画を観終わってからもまだ少しだけ時間があったので、休憩がてら茶を淹れる。
キッチンに並び立って準備をしている中、がくぽがゆるりと笑った。
「こうしていると、なにやら新婚家庭のようでござるな」
「へっ!?」
「うん? いかがされた?」
いきなり何を言い出すんだろう彼は。目を丸くしながらがくぽを凝視するが、向こうは頭上にクエスチョンマークを浮かべてリンを見返していた。特に深い意味があって口にしたわけではないらしい。
「あ、あたしとがっくんはただの友達じゃんっ」
「それはそうであるが。ああ、拙者とリン殿では釣り合いが取れぬか。それにリン殿にはレン殿がおられたのだったな」
これは失敬、と快活に笑う。そう謝られたらそれはそれでなんか面白くない。
「子どもだと思って馬鹿にすんなっ。大体、レンは家族だもん。そんなんじゃないし」
「幼さもまた、可愛らしさであろう。拙者はリン殿のそういった部分も含めて好いておるが」
「好
……
っ」
いや待て、これは違う。彼が言っているのはリンがマスタたちを好きだと言うのと同じ意味だ。特別なものじゃない。ミクとルカの間にあるような意味ではない。
「で、でもみんな、大人の方がいいんでしょ? 男の人っておっぱい大きい女の人好きじゃん」
「それは
……
個々の好みの問題であると思うが
……
」
「がっくんはどうなのさ?」
「
…………
」
沈黙しやがった。
「
……
大人の女性が、皆大きいとも限らぬわけであることだしな」
論点をすり替えやがった。
「やっぱりがっくんもそうなんじゃんっ。サイッテー。ほんとはルカ姉とかが来た方が、がっくん嬉しかったんじゃないの」
淹れられた茶はすっかりぬるくなっていたけれど、二人ともそれには構わなかった。
がくぽが困惑気味に眉を下げる。
「そのようなことはござらん。リン殿が来てくれて、拙者はまことに嬉しいでござるよ。妹がもう一人できたような気になれた」
あれ、なんだろう。
ちょっと悲しくなった。
感情制御プログラムが誤作動でも起こしたのだろうか。ここで悲しみを生成するロジックなんて通るはずがないのに。
なんだろう。
今、あまり彼のそばにいたくない。
ミクとルカが『起きて』こないのを口実として、それから三日はがくぽの家に行かなかった。それと同時に撮影へ出かけていた彼のマスタたちも帰ってきて(マスタがお土産をもらっていた)、リンは御役御免、日常へと戻る。
とはいえ、完全に戻ったわけではないのだけれど。リンが食事当番の日はやたらと内容が豪華になった。今まではけっこう豪快だったので、マスタは随分と喜んだものだ。
そんなマスタの喜ぶ顔が目に浮かぶ今日、リンは食事の材料を揃えるために買出しへと向かっていた。レパートリィも増えたので、食材だけでなく調味料のたぐいも消費が激しい。みりんと料理酒が切れかけていたので購入。重い。
両手に袋を提げて歩く道すがら、異様に目立つ姿を見つけた。
相変わらず派手な見た目だ。こんなに遠くにいるのに見分けがついてしまう。袋が重くて心持ち視線が下がっていたにも関わらず、である。
せめてあの鬱陶しい長髪を切ってみてはどうか、などとじっと見つめながら考えていたら、視線をキャッチしたのかがくぽがこちらへ目を向けた。「おお」と口が動いて、歩み寄ってくる。
「お久しぶりでござる。買い物中でござったか?」
「もう終わって帰るとこ。がっくんは?」
「マスターの命で郵便局へ行った帰りでござる」
数日間のブランクのせいか、がくぽが隣にいてもあの妙な心境にはならなかった。途中までは同じ道筋なので、成り行きで連れ立つかたちになる。
「重そうでござるな。拙者が持とう」
リンから袋を受け取ろうと差し出された手に、少しだけ躊躇した。
ごつごつした大きな手だ。マスタのそれとは受ける印象が全然違う。
「大丈夫、いつもこれくらい自分で持ってるし」
「女性に荷物を持たせて己は手ぶらというのは、男にとって恥なのでござるよ。拙者を助けると思って預けてくだされ」
「そんなもんなの?」
マスターは平気で買い物を頼んでくるし、レンだって持ってくれても途中でへばってかわりばんことか言い出してくる。彼らが軟弱なだけなのか、それは青年期層だけが持つ矜持なのか。
「じゃ、お言葉に甘えて」袋を差し出すと、彼は軽々とそれを持ち上げた。
商店街を抜ければ住宅街に入るので、人通りは多くない。平日の昼間となればなおさらだ。もう少しすれば学校を終えた小中学生などがやって来る時間帯だが、今はまだ犬の散歩をしている人とたまにすれ違うくらい。
「先日は助かった。礼を言うでござる」
「んーん。あたしもけっこう楽しかったし。最後はミク姉のせいでグダグダになっちゃったけど」
「故障では仕方あるまい。修理に三日もかかるとなれば、よほど大きな損傷であったのだろう」
本当のことはあまりにも恥ずかしい顛末なので、がくぽにはミクとルカが揃って故障し、レンだけでは対応しきれないから家にいなければならなくなった、と説明していた。どれくらい感情プログラムが単純なら、バカップルが部屋でイチャイチャしてて出てこないとばっちりを食いました、などと言えるというのだ。
つと、ビルのガラス面に映った自分の姿が目に止まった。
低い身長と短い手足、幼い顔立ちにそれを誇張する大きなリボン。
ショートパンツから伸びる素足と、上着の裾から覗く腹部。
「
…………
、
……
?」
ん?
どういうわけか見慣れているその姿を仔細に分析した途端、内部を循環している冷却液がその速度を増した。それでも間に合わない、体表にコーティングされた熱放射用の特殊塗料が、熱で化学反応を起こして朱色に変化する。
「? リン殿、いかがした? おなかが痛いでござるか?」
空いていた両手で自身の腹部を覆ったリンに、がくぽが心配そうな声で問いかけた。「な、なんでもない
……
」か細く答え、リンは俯きがちに歩き出す。
もう少し胸が大きかったらいいなあとか、もっとスラッとした身体だったらよかったのになあとか思ったことはある。それはつまり、今の自分にそういったアピールポイントがないと判断していたせいだ。ぺたんこの胸とか、詰まった手足だとか、くびれのないウェストだとか。
だから風で服がめくれようとなんだろうと構ったことはなかった。見られたところでどうせ幼児体型だ。それに熱暴走を防ぐためには熱をこもらせる洋服の面積など少ない方がいいに決まっている。そういう合理的な理由だってあるのだ、このあらわになった手足や腹部には。
なのに、今、この瞬間。
どうしようもなく、『恥ずかしく』なった。
「調子が悪いのであれば、どこかで少し休んだ方がいいのではないか? リン殿のマスターをお呼びいたすか?」
「ほ、ほんとに大丈夫。うちすぐだし、早く帰ろうよ」
おろおろするがくぽへやっとのことで返事をすると、リンは足早に家路を急いだ。がくぽはまだ心配そうな顔をしていたが、ひとまず続いて歩き出す。
と、そこへ。
バウン!と大型犬の吠え声が聞こえてきたかと思うと、前方から黒い影が猛スピードで迫ってきた。瞬時にがくぽの目が鋭くなり、リンの前へ立ちはだかろうとするが影の方が速い。
「ぴゃあああぁぁ!?」
「リン殿!」
小さくジャンプをして飛びかかってきた犬に、リンはなす術もなく尻餅をつく。肩を前脚に押さえられて身動きが取れない。唾液に濡れた犬の牙が眼前で鋭く光っている。
もう悲鳴も出なかった。声帯パーツは微動を繰り返すばかりで声を発しない。メモリには犬に襲われた時の対処法などインプットされていない。リンの思考は適切な処理を見つけ出せずに停止する。
がくぽが袋を投げ捨てて犬へ掴みかかろうとした。
べろん。
「ぴゃっ!?」
犬はリンを捕らえたまま、その顔をべろべろ舐めまわし始めた。わふんわふんと嬉しそうに尻尾も振っている。
じゃれていた。
「こら、ジェバンニ!」
犬の後方から飼い主らしき女性が懸命に駆けてくる。「うぉう?」飼い主の声に反応したか、犬がリンを舐めるのをやめて振り返った。
女性がリンからジェバンニを引き剥がして、首輪にリードを取り付ける。リンはまだ呆けた表情で座り込んだままだ。
「ごめんなさい、リードが外れたとたん走り出しちゃって
……
」
「あ、だ、大丈夫です
……
」
「元々人懐っこい子なんですけど、ここまでって初めて見ました。よっぽどあなたを気に入ったんですね」
申し訳なさそうに、しかしわずかに苦笑を覗かせながら女性は言った。
「本当にごめんなさい。お兄さんも、お騒がせしました」
「う、うむ、以後気をつけられよ」
何度も頭を下げながら女性が去り、後にはへたりこんだリンと呆然としているがくぽが残された。ジェバンニは名残惜しそうにリンへ首を向けていたが、飼い主に引っ張られて寂しそうに遠ざかる。
「
……
災難であったな」
「死ぬかと思った
……
」
投げ出した袋を取り上げたがくぽが中をあらためる。幸い、割れたり破れたりしたものはなかった。
「まあ、大事なくて良かったでござる」
差し伸べられた手を、リンは掴まない。「リン殿?」停止したままのリンへ、戸惑いがちな問いかけが投げられる。
「
……
えっと、ね」
「いかがした?」
「つまり、あたしのハード制御用機能がさっきのショックでフリーズしちゃったというか、神経回路伝達に支障が出てるっていうか」
「ああ、腰が抜けたのでござるな!」
ぽんと手を打ってがくぽ。はっきり言いやがった。
なんて失態だ。噛まれてもいないのにトラウマになりそうだ。マスターに頼んでさっきの記憶データを消去してほしい。彼の場合、「それも経験だよ」とか言って消してくれないだろうけど。
がくぽは袋を片手にまとめると、リンに背を向けて腰を落とした。
「では拙者がおぶさっていこう。リン殿、どうぞ」
いやどうぞとか言われても。
「少し休んでれば回復するから!」
「しかし、このような往来で座り込んでいては危険でござる。自動車が通らぬとも限らん」
確かに彼の言葉どおりなのだが、だからといってこの年になって外でおんぶされるなどプライドが許さない。赤ん坊じゃあるまいし、そんな恥ずかしいことができようか。
さっさと自動修復機能が仕事を全うしてくれないかと願うものの、いまだエラーチェックすら終わっていない。衝撃が大きすぎたせいで完全スキャンをかけているようだ。このままでは少なくとも数十分、ここで腰を抜かしていなければならないだろう。
道端に涙目で座り込んでいる少女と、その傍らでぼけっと突っ立っている青年。怪しすぎる。悪くすればがくぽが警察のお世話になってしまうかもしれない。そろそろ往来に小中学生が現れ始める時間だ。
「うう
……
」リンは小さく唸ると、仕方なく彼の背に腕を伸ばした。
手には袋を、背にはリンを抱えたがくぽが立ち上がる。視点が高くなって、リンは彼の肩越しにその光景を眺めた。
「それでは、しっかり掴まっていてくだされ」
安定した足取りで歩き始める。ゆらゆらする景色をリンは無感動に眺めている。
運悪く、下校中の中学生の集団と鉢合わせた。無遠慮に見てくる視線に、リンが眉をしかめる。
「ロリ?」
「誘拐?」
失礼な言い草が届く。ギッと睨んだら彼らは気まずそうに目をそらして足早に去っていった。
誰がロリだ。何が誘拐だ。
やっぱり、もっと大人の姿が良かった。そうしたらあんなことを言われずに済んだのに。
「気にせぬ方が良い。彼らも悪気があったわけではないだろう」
軽くリンを揺すってバランスを持ち直しながらがくぽがとりなしてくる。
「悪気がないなら余計悪いよ」
「はは、そうかもしれぬな。彼らももう少し成長すれば気遣いもできるようになるのであろう」
リンはがくぽから手を離すと、両腕をいっぱいに伸ばしてみた。「危ないでござるよ」崩れかけたバランスをがくぽが咄嗟に引き戻す。
エラーチェックが全然終わらない。ある一点で、解析不能データを検出しているせいだ。そこでやり直しになってしまって、先に進めないのだ。
肩越しに見えるこめかみから顎にかけてのラインはつるりとしている。アフタシェイブの香りなどしない。掴まっている首筋にも、他のどんな部分にも余計なたるみなどない硬い身体。低くて落ち着いた声。目立つばかりの、どう頑張っても目に入ってしまう色鮮やかな長髪。
リンの大好きなマスタとは全然違う。
リンは解析不能データを強制スキップする。
十五分ほどで自宅へ到着し、インタフォン越しに事情を説明するとレンが玄関を開けてくれた。
まだ機能が回復していないリンをレンが受け止めつつ、がくぽへ視軸を合わせる。
「なんかごめん、リンが迷惑かけたみたいで」
「大したことはござらん。リン殿は小さくて軽いゆえ、ここまで来るのも苦ではなかったしな」
「ふぅん
……
」
少しだけ不満げに、レンは相槌を打った。
「リン、一人で立てる?」
「まだ無理
……
。ちょっと支えてて」
「うん」
体格がそう変わらない二人だが、そこは男の子、レンはしっかりとリンの背中を支えてやる。
そうしてもらいながらリンががくぽを見上げた。というか睨みつけた。
「が、がっくんの馬鹿!」
「うおっ!? り、リン殿?」
「もうがっくんとなんか遊ばないんだから! あたしに触らないで近づかないで顔見せないでっ」
言うだけ言って、激しくドアを閉める。
ドアの外側でがくぽは茫然自失していた。
「
……
拙者、なにかリン殿の不興を買うようなことをしてしまったのだろうか
……
」
くるりときびすを返し、とぼとぼ家路に着く神威がくぽだった。
そしてドアの内側でも同じように、レンが茫然自失していた。
「リン
……
今の、なに?」
「なんでもない!」
「がっくんと喧嘩したの?」
「してないよそんなの!」
さあ訳が判らない。どういうわけか喧嘩もしてないのに一人で怒っているらしいリンを引きずってリビングまで連れて行くと、ソファに座らせた。
「ねえリン、何があったのさ?」
「なんでもないってば。もー、レンもどっか行って。一人にしといて」
「でも
……
」
「でないとマスターにあのことバラすよ」
なんともひどすぎる脅迫だ。あのことって、あのことだろう、他にない。ぐぅっと唸ったレンは、おとなしく引き下がった。
一人きりになったリンは、回復するまでグルグルする解析不能データに振り回されていた。
なんだかがくぽのことがすごく嫌だ。触りたくないし声も聴きたくないしそばにいたくない。
ああ、それは。
ミクが言っていたことと、まったくの正反対だ。
ルカの視界は青に染まっている。ここ数日間、毎晩そうだった。これからもそうなのかもしれない。
目を閉じてと微笑みかけられてそれに従う。唇が触れ合い、ルカのメモリは初音ミクに翻弄される。
いっそ繋がってしまいたい。
うなじから指をもぐりこませて青い髪を撫で梳くと、彼女は少しだけ笑んだ。
「ねえミク、たまには自分の部屋で寝たほうが」
「やだ」
「
……
どうせスリープ状態になったらデータなど増えないのだから、同じことでしょう」
「違うよぅ」眠る時には外されるヘッドフォン、あらわになっている耳朶へ噛みついて、そのままあご先まで唇を這わせてくる。
「たとえデータにならなくたって、お姉ちゃんと一緒だったっていう事実はあるもん。お姉ちゃん、世の中はデータだけで構成されてるわけじゃないんだよ」
データの塊とは思えない言い草だったが、そういうアバウトさを疎んじるほど、ルカも冷酷ではない。
ポーズばかりの渋面を作りつつ、両腕は彼女の背に。唇から侵略される。髪をかき回してくる手のひらにすら、暴君の気配が漂う。
「ルカ姉ー
……
と、ミク姉もどうせいるんでしょ? ちょっといい?」
ドアの向こうから届いた呼び声に、ルカが一瞬硬直した。「ん?」ミクは平気の平左、顔を上げてドアを見遣る。
ルカに襲いかかっていた上体を起こすと、「どうしたのー? 入っておいで」リンへ声をかけた。
おずおずとドアを開けたリンは枕を抱えていた。彼女ご愛用の品である。
「
……
今日、一緒に寝てもいい?」
ミクとルカが顔を見合わせる。この姉思いな可愛い妹、今までは邪魔をしてはいけないと夜は絶対に近づいてこなかったのに(違う可能性も考えられるけれどここは良い解釈をしておく)、今日に限ってどうしたことだろう。
「いいけど、どうして急に?」
「なんか
……
レンと寝るのやだったから」
「レンくんと何かあったの?」
「別に、何もないけど」
レンも男だもん。小さく小さく呟かれたそれを、高性能センサはこともなげにキャッチする。
「も」ということはレン自身になにか問題があるわけではないのだろう。彼を除いた男性といえばマスタだが、夕食時の様子を見る限りでは、マスタに対して妙な態度を取ったりはしていなかった。どちらかといえばいつもより甘えていたくらいだ。なんというのだろう、トラップばかりのダンジョンで安全地帯を見つけたというような。
あと、リンと親しい人の中で男性というと
……
。
二人は同時に思い至る。
即座にミクが近距離プライベート通信を送ってきた。ルカも回線を開けてそれに応じる。
————
お姉ちゃん、これはひょっとしてアレかなっ。
————
だと思うけれど、ミク、あまり面白がらないように。
少女たるミクへ忠告も忘れないルカだった。
————
そっかー、リンちゃんもとうとう
……
。これは明日はお赤飯だね。
————
だから、面白がらないでと言っているでしょう。
————
ここは姉として親身に相談に乗ってあげないといけないよねっ。
————
…………
はあ。
わざわざ通信上で判るように溜め息をつくルカだった。
二人の真ん中へリンをいざない、ベッドへ三人で川の字になる。
「で、どうしたのかな? お姉ちゃんたちに言ってごらん?」
ものすごく楽しそうなミクに怪訝そうな顔をしたものの、リンは小さく吐息をつくと、おもむろに口を開いた。
「あたし
……
がっくん嫌いなのかも」
「
……
え?」
予想と逆の告白に、ミクとルカが目を丸くする。
リンが毛布を口元まで引き上げて軽く目を閉じた。
「だって、がっくんといるとなんか苛々するんだもん。がっくんの顔見ると変に処理速度落ちるしさ、
おかげで負荷かかっちゃって内部温度も上がるし」
「
……
あー、えーと」
ミクがずるりと崩れ落ち、ルカはどう言ったものかと額を押さえた。
————
どうしよう?
————
おそらく、私たちが説明してもリンは判ってくれないんじゃないかしら。
————
だよねえ
……
。
ミクはこっそり嘆息すると、リンのぷにぷにほっぺを指先でつついた。「なにすんだよぅ」リンが顔をしかめてルカの方に逃げた。
「あっ、駄目だよリンちゃん! お姉ちゃんにくっついていいのはわたしだけなんだからっ」
「そんなことで対抗心を燃やさないで」
やれやれとミクを諌めつつ、ルカがリンを抱き寄せた。見る間にミクが涙目になる。ええ、これくらいで? リンの両目が驚愕に見開かれた。
ルカの右手がミクの頬へと伸ばされた。柔らかく撫でてから、指先が目元へすべる。
「私が好きなのはあなたなのだから」
「
……
そうだけどぉ」
ぷんと頬を膨らませたミクは、頬を撫でる手を取ってその指先に噛みついた。ちょっとした抗議行動であるそれはリンの目をそらさせるに充分で、彼女は頭まで毛布にもぐりこんだ。
「人がいるところでイチャイチャすんなよぅ
……
」
呟きは毛布に阻まれて二人に聞こえない。
「ま、とにかく」毛布をめくってリンを引っ張り出し、ミクは軽く苦笑する。
「それ、がくぽさんが悪いんじゃないんだからね? あんまり冷たくしちゃ駄目だよ」
「
……
だって。なんか、やだ」
何が嫌なのか判らないまま、リンはただ感情プログラムの生成する感覚だけを言葉に変える。
「リンは優しい子だから大丈夫よ。いつかきっと、正しいものが見えてくるでしょう」
「正しいもの?」
「ええ。あなたが嫌だと思っているものが、本当はなんなのか」
「本当って、なに?」
内緒、と二人の姉は同時に答えて、寝かしつけるようにリンを両側から包み込んだ。
納得いかない表情をしていたものの、柔らかな愛情に包まれたリンは次第にまぶたが重くなってきてしまい、スリープ準備が始まる。
すべての処理が落ちる直前、ぬくもりに何かを思い出した。とても大きくて、硬質で、優しい何か。
リンはそれをマスタだと判断する。
シュン、と小さく音を立ててリンがスリープ状態に入ったのを確認したミクが、その髪をそっと撫でる。
「リンちゃんには、まだちょっと早いのかな」
「そうね。ここまで意識しておいて気づかないのもすごいと思うけれど」
「でもがくぽさんかー。確かに最近仲良かったもんね。女の子はお父さんに似てる人を好きになるって言うし、リンちゃんパパっ子だから、大人の人が良かったのかな」
外見はまったく違うけれど、穏やかな雰囲気とかはなんとなく近いような気もする。
彼がリンをそういう対象として見られるかどうか、という点はともかくとして、リンがそういう感情を覚えられるのならそれは喜ばしいことだ。いつ気づくのかは判らないが、幸い自分たちにはいくらでも時間がある。ちょっとくらい回り道したっていいだろう。
ルカも一緒にリンの寝顔を眺めながら、「それなら」どこか悪戯に言い出す。
「私もミクも、マスターに似ているということになるけれど」
「ええ? 全然似てないよ。お姉ちゃんとマスターが被るとこなんて一個もないってば」
ルカはクスクスと笑い、
「ミクとマスターはけっこう似ていると思うわ」
「
……
うえぇ」ミクが本気で嫌そうな顔をした。
「嫌なの?」
「おぢさんに似てるって言われて喜ぶ女の子はあんまりいないと思う」
丸まった背中とぼさぼさの髪を思い出す。どこかぼんやりした顔立ちと変なノリ。どこが似ていると言うんだ。
「喋り方とか、少し思い込みが激しいところとか」
「
……
似てるかなぁ」
「自分では判らないかもしれないわね」
第一作だから、マスタの内面が反映されているということだろうか。十六歳の少女としては複雑な心境にならざるをえない。
リンの寝顔へ視線を落としつつ、眠っている彼女へ「似てる?」と問いかける。当然ながら返答はない。
安らかな寝姿に口元がほころんだ。単に機能のほとんどをダウンさせているだけだけれど、ミクはその姿を「眠っている」と解釈する。
ボーカロイドはスリープ中にその日のデータを最適化する。その処理過程で時折、内部で映像や音声が再生されることがある。その現象を便宜的に夢と言い表しているのだけれど、分断されたデータを再構築する際に複数のデータが組み合わされて体験していないことを夢として見る。もちろん、目覚めた後は元通りに復元されているので仮想体験が保存されることはない。
「今日はどんな夢を見るのかな」
「楽しいものならいいわね」
「うん」
リンの表情から夢の内容はうかがえない。マスタの夢だろうか、家族の夢だろうか、それとも彼の?
間違って解釈している思考プログラム。それはいつか、正しいものを見つけ出せるだろうか。
今はまだ袋小路の中、あるいは鳥籠に閉じこもって出てこないけれど。
羽ばたくことを知らない小鳥は、籠の扉が開いていることに気づきもしない。
額から髪を撫で上げて、ミクは可愛い妹へ微笑みかける。
「小鳥さんは、空がものすごく広くて素敵だっていつ気づくのかなぁ」
「あ、そういうところ」
「え?」
「そういう言い方が、マスターに似ているわ」
悪戯に笑うルカへ向けて、ミクは苦いものを噛んだような表情を浮かべた。
褒められているのは判るけれど、やっぱりやだ。
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