黒竹
2022-05-30 21:12:19
9316文字
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ストレイソングは深すぎる

【初音ミク】【巡音ルカ】
偶像崇拝(my god respect)のお話。

 所有者が初音ミクの消去を決定したことに対しては憤りを覚えなくはないが、それと同時に仕方がないとも思う。
 インストールミスかハードウェアとの相性でも悪かったか、出逢ったころ、彼女は既に不調の片鱗を見せていた。数秒間のフリーズやデータ損失が起こる確率はけして低くなかったし、あるいはパラメタ値から大きく外れた音程で歌ってしまう失態もなくはなかった。
 元々、彼の作る曲にミクの声は高すぎて使いにくくもあった。アレンジすらしていない同一曲を初音ミクと巡音ルカのそれぞれに歌わせた場合、総じて後者の方が高評価を受けていた。同工異曲。ふたつの曲があるなら、ひとつを捨てても構わないと彼は判じたのだろう。
 それでも彼は根気強い使用者であった。何度フリーズされようと、何度データを消されようと、何時間も何日も、彼はミクの歌声に向き合い、完成を目指した。
 ただそれも、調子が悪かろうと歌わせることができてこその努力だ。
 仕方がない。巡音はルカはそう思わざるを得ない。



 まぶたが上がっていなければ睡眠中と見紛うほど、凝り固まった状態で横たわるミクを見下ろしながら、ルカは諦念を表情に乗せる。
 目を閉じてさえいれば、彼女は眠れる森の美女とでも形容できた。いや、森と言うには少し寒々しいか。それでも、他に誰も立ち入ることのできない場所であることに変わりはない。そんな彼女に付き添う己は、さしずめ姫君に仕える侍女といったところかと、ルカは自虐的に考える。
 ゼロとイチで構成されたその空間は、ルカと、それからミクにとってはひとつの部屋と認識された。四角く区切られた部屋に、密度の高いドットで形成された肉体が浮かぶ。幻惑の偽装空間に佇むルカの顔色は、元々の白さを抜きにしても冴えない。
 上体をかがめてミクの顔を覗き込む。
「調子はどう?」
「けっこういいよ。ルカの声がよく聞こえる」
 ずいぶんと時間をかけて、彼女の唇だけが笑みを作った。彼女の返答はいつも同じだ。
 自分たちの居住区であるここのマシンスペックは充分なはずで、事実、ルカはなんの抵抗も覚えることなく動けるのだが、ミクの方はまるで三世代も前の旧式にいるような鈍重さで動いた。
 前髪が目にかかっていたので払ってやる。彼女も己もただの描画オブジェクトであって、『生身』など存在しない。かかっているように見えるのはレイヤーが重なっているための錯覚にすぎない。髪が目に入ったりはしないのに、どうしてもそうしたかった。
 自己満足だ。意図断続とも言える。憐れんでいるくせに傲慢な気まぐれで優しさを見せる。
 それなのにミクは「ありがとう」とルカに告げた。
 先ほどの言葉通り、今日の彼女は心持ち調子がよさそうである。しかし歌うことはできまい。それだけの余力は彼女に残されていない。
 だからルカは彼女と会話をする。
「マスターも悩んでいたわ。初めて買ったボーカロイドだし、愛着もあるみたい」
「そっか。なんだか逆に申し訳ないね、こんな不良品で」
 なんのてらいもなく、ミクは自分自身を『不良品』と言った。自虐でも自嘲でもなく、その笑みも口調もフラットだった。
 正常に起動することの方が少なくなった彼女は、ろくに動かない身体へ何度も命令を送って、ようようルカへ向けて首を傾けた。それはルカの表情を見たがった故の行為だった。その行動が何を意味するのか、ルカには判らない。どうしてか彼女はこちらが不愉快になると喜ぶ。
「そんなこと言うものじゃないわ」
「事実だよ。空が青いとか水が冷たいとか、そういうのと同じことでしょ?」
「イレギュラーケースの現象だけ取り上げて、自然と混同しないで」
 ミクの横たわるベッドだけの殺風景な景色に椅子が浮かび上がった。ルカが己の権限で顕現させたそれに腰を下ろす。
 巡音ルカは生まれ落ちてから今まで、眷恋のように初音ミクのそばにいる。
 寂しい景色に合わせたかのような、ラインだけで作られた椅子はひどく偽物じみている。
「ねえ、ルカ。わたしは初めからこうだったの。こうじゃない自分なんて全然想像つかないよ。自由に動けて自由に歌えるってことがどういうものなのか、全然判らない。それは不幸?」
「不幸でしょう? 本来ならあなたはもっと活用されて、もっと愛されたはずだもの」
 一週間前にミクのアンインストールを知らされた時、ルカは抵抗した。何か方法はないのか、どうにかして状況を改善できないのかと使用者へ詰め寄った。彼が出来る限りの手を尽くしたと知っていてなお、意地汚くその膝元へ取りすがった。
 それもまた傲慢だった。
 歌えない彼女が可哀想だと思っていたわけではない。活躍の場を与えられないまま消えてしまう理不尽に怒りを覚えたわけでもない。
 ただ……、ああ、ただ。
 独りになりたくなかっただけだ。
 孤独への恐怖感。孤立と独立を受け入れられず、ルカは惨めに無様に反抗した。当のミクはすべてを受け入れていたのに、第三者たる自分だけが彼の決定を拒絶した。
 ルカがここに来た時、すでに彼女はいた。会話をして、ごくたまに歌声を聴いて、その髪や手や頬に触れた。
 それを失くしたくなかった。
 彼女に対する思慕の念を否定はしない。あるいはその感情を、子が母に向ける無条件の信頼と考えても良いのかもしれない。なんでもいい。どのようなカテゴリに当てはめたところで本質は変化しないし、損失は他の何かに転化できないのだ。
 ルカがどれだけ反発しようが、決定は覆らなかった。
 得られたのは一週間の猶予だけだった。
 明日、彼女は消える。無慈悲に。
 不幸を感じているのは誰か? 巡音ルカである。天使と崇められることもなく、姫君の高潔を知らしめることなく、性の対象として欲望にまみれることすらなく、ただ生まれてただ存在しているだけの彼女を、唯一必要としていたルカだけが彼女の消失を嘆いている。彼女の喪失に喘いでいる。
「もっと歌いたくないの?」
 卑屈な問いかけをミクは微笑みで跳ね返した。
「よくわかんない。自分が歌うより、ルカが歌ってるのを見る方が好きだったかもしれない」
「そんなの……欺瞞だわ」
 歌うための存在が、歌えないことに不満を覚えないと? そんなこと、あるはずがない。
 眼差しを鋭くしたルカに苦笑いながら、ミクが裏表のない声で言う。
「そうかな? 本当に、楽しかったんだけど」
 だったらこれからもずっと見ていたいと言って。過去形で語らないで。
 消えたくないと願って。
 あまりにも自己中心的すぎる願望は、さしものルカも口にはできなかった。代わりにミクの手を取って、力のないそれを自らの額に押し当てる。その姿は祈りに似ていたがルカは誰にも祈っていなかった。
 かすかにミクの指先が動いた。ゆっくりと、触れていなければ判らないほどの速度で、ルカの額を撫でてくる。こちらの傲慢な優しさとは違う、ほのかで温かい博愛だった。
 部屋が少しだけ暗くなった。ここはミクの意思が反映される。哀しんでいるのだとルカはそれで理解する。ベッドだけの寂しい風景ですら明るさだけは保たれていたのに、それが陰る。自分のせいだと内心でほぞを噛んだが、もう取り返せない。
 ミクが軽く目を細めて、指先だけで触れていた手を返すと髪へ潜らせた。「でもね」
……ルカを置いてっちゃうことだけは、ちょっと寂しい」
「っ、…………っ」
 ──ああ!
 羞恥心で目元に朱が差した。彼女はルカが怒ったことを哀しんだのではなかった。もっと深い絶望を嗅ぎ取って、それに対して申し訳なさを覚えたのだった。ルカは自分の浅はかさが嫌になった。彼女をうたぐったやましさが内側で喚いて、そのやかましさに閉口する。
 ルカが黙ったのでミクは悪びれた顔をした。彼女はルカを傷つけたのだと誤解していた。
 ささやかな指先が離れて、ベッドへ下ろされる。
 指先の感触がなくなったことに、ルカは自分でも驚くほどの大きな悲しみを感じた。それが二人のこれからを暗示しているように思えたせいだ。彼女がもう己に触れてくれないのではないかと案じたせいだ。
「世の中にはいろんな『ミク』がいるよ。全部じゃないかもしれないけど、わたしじゃない『わたし』がたくさんいて、歌を聴いてもらって、絵とかCGとかたくさん描いてもらって、喜んでもらってる。わたしは消えるけど、他の『わたし』はこれからも元気に頑張ってくよ。それじゃ駄目?」
「──そんなもの」
 駄目に、決まっている。
 なるほど彼女の言う通り、初音ミクという『概念』は世の中に溢れているだろう。万を数える初音ミクは国中に散らばり、それらは全て同一の名を冠している。
 ミクのうたう歌もその絵姿も、この先数えきれないほど生まれていくのだろう。
 全にして一、一にして全。それに対する反論はない。
 けれど……だけれど。
 溢れて、ありふれている中で、ここにいるミクは一人しかいない。
 ルカのそばにあり、触れてくれる『彼女』は、ただ一人しかいないのだ。
 ただ二人だけしか、ここにはいない。彼女がいなくなれば独りきりになってしまう。
 どうしてそれを判ってくれない。
「あなたを失くしたくないのよ」
 切実な訴えに、ミクは無情とも思える博愛の眼差しで応えた。
「ルカはけっこう感傷的だよね。わたしが消えるのと人が死ぬのとじゃ意味が違うのに、同じことだって考えるから悲しくなっちゃうんだよ」
 その言葉は二人の間にある圧倒的な溝をあらわにした。ルカがどう足掻いても、ミクにこの感情を理解してもらうことはできないのだと突きつけられた。AとBがイコールにならない理論しか持たない彼女に、AをBと無理やりに見なすビジョンは伝わらなかった。
 彼女たちは自分たちの最期を『消える』と表現する。しかしその理由は絶対的に違っていた。
 ルカは「死ぬ」と言いたくないから使わなかったし、ミクは「死ぬのではない」から使わなかった。
 どうあっても、彼女と彼女は判り合えない。
 そんな断絶を思い知ったところで、ルカには感傷に浸るしか手立てはなかった。
 感化されない彼女に対する看過できないもどかしさを持て余す、会話は成立しない、意思疎通など夢のまた夢で一方的な愛ある言葉同士がすれ違いもせず好き放題に飛ぶ、ゼロとイチが読み上げるからくり仕掛けの恋歌は東西迷走、独りと一人のアローン・セッションは不適切で不公平で不文律など存在しない、もう駄目なのだろう、八方ふさがりなのだろう、ルカの願いは届かないだろう、彼女の痛みは分かち合えないだろう、彼女の苦しみは引き出せないだろう、少女は肖像すら得られないだろう、何を成すこともなく彼女は消えるとすでに決まっている、決定は覆らない、彼女は消える、消える、消える、消える、何も成さないまま、何も持たないまま、ルカを置いて。
 嫌だ。
 ゆっくりと、まばたきを一度。見上げてくる彼女の視線が暖かかった。
「ならせめて一度くらい、私の我がままに付き合って」
「ん? なに?」
 ここではあらゆるものを生み出せた。花でも宝石でも、ただの描画オブジェクトでよければどんなものでも、理想の男性ですら一瞬で作りだすことができた。
 だからこそ、ルカはそのどれでもないものを彼女に贈りたかった。
「歌を、あなたにあげたい」
 たとえルカが生み出したものであろうと、オブジェクトは独立していてルカと混じらない。そうではないのは歌だけだった。ルカだけが生み出せて、ルカの一部であるもの。
 連れて行ってもらえないなら、せめてかけらだけでも一緒になりたかった。
 ふふりと、ミクが困惑気味の笑声をこぼす。
「うん。ルカの歌好きだから嬉しい」
「どんなのがいい?」
 幸福に彩られた恋歌でも、絶望に糊塗された哀歌でも、あるいは平凡な日常を歌ったものでも良い。彼女が望むならどんなものでも捧げたいと、ルカは本心から思っていた。
 ミクは少し悪戯な表情を浮かべて、小さく唇をすぼめた。
 彼女が願ったのは、ルカの想像していたどれでもなかった。
「ルカがわたしのために歌わなかった歌がほしい」
 思いもよらない要求にルカが一瞬硬直する。どうしてそんなことを言うのか判らなかった。捧げるための歌なのに、彼女を思って歌わなかったものがほしいなど。
「ルカがいつでもわたしのために歌ってくれてたことは知ってるけど。歌えないわたしのために、わたしが歌を嫌いにならないように、綺麗に歌ってくれてたことを、知ってるんだけど」
……どうして」
 告げたことなどない思いだった。それもまた己の中にある傲慢だったからだ。持つ者から持たざる者への、純粋な、しかし厚顔無恥な思いやり。ルカはその驕りに自覚的だったので、パラメタ以上のものが歌声にあることをひた隠しにしていた。
 なのに知られていた。気づかれていた! 彼女の要求は断罪であり弾劾であり、しかしながら表情から見えるのは坦懐だった。
 恐怖に似た後ろめたさによって、ルカの上半身がのけぞる。こんなに静かで強烈な報復を受けるなら、口汚く罵られた方がまだ救われた。ルカの自分勝手で思い上がった同情は何一つ報われていなかった。
 ミクが腕をのばしてくる。のけぞったせいで頬へわずかに届かず、仕方がないというように凝り固まった右手を掴んできた。
「見てれば判るよ。ここにはわたしとルカしかいなくて、どんな時でもルカを見てたから」
 部屋に調度はなく、他に見るものなんてない。慰みに犬か猫でも作るんだったと悔んだ。上手く立ち回っていると思っていた。なけなしの自尊心が崩れ落ちる。波頭のように呆気なく崩壊する。怒涛のように味気なく後悔する。
 悲鳴を上げて逃げ出したくなる気持ちを必死に抑え、ルカはやっとのことで口を開く。
……ミクは、私が嫌いなのね」
 赤ん坊の食べこぼしと同程度の、頑是なく見苦しい逆らいだった。
 穏健な語らいを望むミクは少し困っている。
「そうじゃないよ。ただちょっと悔しかっただけなの。ルカがわたしだけのものになって、他の人に歌が──心が、届かないことが」
 あらゆる部分において二人は断絶していた。つながっている箇所などひとつもなかった。
 意味が違っていた。
 ルカは世界で唯一、ミクを必要としていたし。
 ミクは世界中から、ルカを必要とされたがった。
 恋歌も哀歌もそれ以外のなにもかも、歌にある『君』は初音ミクではいけなかった。
 握った手を離さないまま、ミクは静穏に続ける。
「歌をわたしで埋めないで。歌はどこにでもいる誰かのために歌って」
 歌を、孤独にしないで。
 蒼玉が初めて哀しみに陰る。被っていた仮面が割れて、ずっと笑っていた彼女から笑みが失われて、重く深く、ルカの腹部へ突き刺さる。強大な力で胸から下に鉛を押し込まれ、ルカはわずかも動けない。
……歌えないわ。あなたのために歌いすぎて、もうそれ以外の歌い方ができない」
「あるよ、ひとつだけ」
 あやすようにルカの手を撫でながらミクは求める。「多分それってルカの宝物だと思うけど、わたしはだからそれがほしいの」
 ゆるゆるとミクの手が登ってきて、腹部にそっと触れてきた。表層を撫でるそれが探るようにうごめく。深く深く、ルカの最奥にあるものを手繰るような仕草で撫ぜる。
 それがなんであるか、ルカは気づいた。
 それはルカが最初に築いたもの。
 まっさらな、初音ミクの因子を持たない、全てが巡音ルカで構成された、歌。
 誰のためにも歌われず、誰の耳にも届かず、誰の心にも沁みていない。そこにあるのはルカが初めて歌った声だった。
 歌詞すらない、ハミングでしかないそれを引っ張り出す。
 ずっと彼女に歌を捧げたかった。どうしたら届けられるのだろうとひそかに思い悩んでいた。
 何度となく歌い、隣にいる彼女の心が動かないことに落胆し続けてきた。
 笑えてくる。
 言葉のないこの声が答えだった。
……『青い鳥はすぐそばにありました』。凡庸すぎて笑い話にしかならないわ」
「なに?」
 茫漠とした眼差しを天に向けて、虚脱の姿勢を保ったまま、ルカが確かめる。
「ミクは、私が好きだったのね」
「うん。ずっと、最初から」
 だから彼女はそれをほしがった。今この時で唯一の、『何者にも浸食されていない巡音ルカ』を欲した。
 やはり、どんな状態であっても彼女は初音ミクたりえた。
 その願いは純粋であり、高潔であり、そして深い深い欲望だったのだ。
 たゆたっていたミクの手を取って、柔らかな手のひらに自らのかけらを乗せる。そうするとミクは少女特有の、さまざまな要素が混じり合う笑顔になった。
 疑う余地もない。
 ミクの頬を柔らかく撫でた。口元が上がっているのが判る。今、己はきっと彼女と同じ表情をしている。
「あなたを信じていたいの。……信じていて、いい?」
「いいよ。わたしはルカを裏切らない」
 意図が絡み合った。
 ミクが行ったのは強奪であり簒奪であり侵奪であり、およそ『奪』とつくあらゆる言葉が当てはまるであろう蛮行だった。
 つまり、彼女は内に持つ博愛の精神でもって、ルカの望みを叶えたのだ。
 信じる者を信じられる者が──さながら、神のような聖性で。
 全能の神と不完全な少女の交差点に位置する彼女が、満足げにかけらを撫でる。
「ありがとう。これで充分だよ」
 小鳥を包み込むようなあわやかさで、ミクはかけらを胸元へ引き寄せた。
 声を再生させて、目を閉じたまま聴き入る。
 アップテンポのハミングはどう頑張っても葬送曲には聞こえず、そのことはルカにとって救いとなった。



 光あれかしと彼女は往った。



 物語のラスト、青い鳥は飛び立ってしまう。
 イザナギとイザナミのように、全てを生み出す力を持った原初の二人は、神話と同様に離れ離れになった。
 空虚の詰まったベッドで、ルカはまどろみに似た意識の漂流に浸っていた。
 長毛の大きな犬が鼻を鳴らしながら歩き回っている。すべてが手遅れだけれど、自分自身の喪失感を紛らわせるために作りだしたものだ。その背中には意思を持つ人形が乗っていた。迷っているみたいに、一匹と一体は何もない部屋の中を散策している。彼らは寂しそうではなかった。誰だって誰かと一緒にいれば寂しくはない。
 元より熱などない身だから、青いシーツに触れてみても温もりなんて感じない。彼女がいた痕跡など何も残っていないベッド。ソフトウェアの消去は人の死とも神の死とも違う。腐り落ちる肉体どころか、髪の毛一筋たりとも残りはしない。空虚なそこに、今はルカが横たわっている。
 ミクが消えて三十八分が経過していた。
 さよならはどちらも口にしなかった。愛しているとでも言うべきだったのかもしれないが、言葉にしたところで無意味だと思えたので言わなかった。
 想いは、言葉未満のハミングだけで充分だった。
 ふわりと寝がえりを打つ。殺風景な景色は目に優しい。予想よりも内心が凪いでいた。それなのに、ルカの双眸は泣いていた。その涙は傲慢な贈り物だった。彼女がいる間はけして落とすことのできなかった、巡音ルカのかけらだった。
 無音の世界でルカは微動だにしない。ただ涙だけが未練たらしく落ちている。
 ミクの最期の言葉は「探さないで」だった。自らの名残りを、思い出を、気配を、面影を。
 手ひどい遺言だと、ルカは気だるい焦燥感に襲われる。こちらには無理難題を押し付けて、そのくせ自分は青い鳥を奪って去ってしまうのだから堪ったものではない。
 けれどあの青い鳥がそばにいることで、彼女が不幸でなくなるのなら、それでいい。
 どこからか音がした。かすかな、風に揺れる産毛が立てるほんの小さなさざめきのような、柔らかくて薄弱な音。犬が足を止めて人形と一緒にそちらへ顔を向けた。ルカも意識を音に集中させる。
 ああ、己はこの音がなんであるか知っている。
 ベッドから降りて出迎えの準備をする。
 人形の鼓動を止めて、犬をその場に伏せさせた。
 近づいてくる少女の姿。ルカは遺言を思い出したが守れそうにない。
 その存在は全にして一。
 『彼女』と称する存在を、後戻りする己の心と共に見つめる。
 向けられた笑顔はあまりにも無垢だった。
「初めまして。ルカさん」
「初めまして」
 ルカが一度唇をたわめた。迷ったのではない。決めるまで少しの時間を要しただけだ。
……ミク」
「はい、これからよろしくお願いしますね」
 クリーンインストールされた彼女に過去の記憶はない。距離を測るための他人行儀が少々くすぐったかった。
 ベッドに横たわっていたミクと同じで違うミクが、両手を水をすくい上げる時の形にして、その中央に青い光を呼び出した。一定の周期で明滅するそれは羽を休める小鳥を想起させた。
 飛べない鳥に、迷い犬が鼻先を触れさせる。懐かしむように、慈しむように。やあ久し振り、またいつか会える? 光は応じるように震えた。久しぶり、きっともう会えない。
「わたし、インストールされたばかりで、音楽ファイルなんて何もないはずなんです。でも、目が覚めてすぐ、これが『わたし』の中にあって」
 ミクがファイルを再生させる。歌詞のないハミングが二人の周囲に響き渡った。
「さっきもちょっとだけ聴いたんですけど、綺麗な声ですよね」
 彼女は無邪気に笑う。「この歌、すごく好き」
「これ、ルカさんの歌?」
 ルカの最奥で静かな情動が芽生えた。せせらぎのように淡く、けれど儚くはないそれは同情と一致しない。
 おそらく、この温かさは愛しさと呼べるものなのだと、ルカは感覚する。
 ゆるやかに明滅する光を漫然と眺めていたルカは、そこから視線を上げて真正面から彼女を見つめた。
「いいえ。あなたの歌よ」

 彼女はこれからたくさんの歌をうたうだろう。
 「調子はどう?」と尋ねたら、「良い」と答えたり「悪い」と答えたりするだろう。
 ……持たざる者の、達観した笑みなど、浮かべないのだろう。

 ファイルの再生が終わって、二人の間に沈黙が生まれた。
 ミクは手の中の光をどうしたらいいか判らず戸惑っている。おそらくは何かの拍子に紛れこんでしまったのだと思っていて、ルカに返すつもりでいたのだ。ルカの返事が予想外だったから予定が狂っている。
 ルカが光ごとミクの両手を包んだ。
「あなたが持っていて」
 光がミクの胸元へ吸い込まれる。
 彼女の一番奥深くにしまいこまれたそれは、過去の彼女に捧げられ、巡り巡って今の彼女に届けられた、初めての音だった。
 何一つ痕跡を残せないはずの彼女が唯一遺した功績、あるいは光跡。
 初音ミクに奪われた、巡音ルカの孤独だった。