黒竹
2021-07-31 23:39:35
4209文字
Public プロセカ
 

はい、なんでしょう

【みのはる】

「で? わざわざうちに来て相談したいことってなに?」
 アイスティーとお茶請けのスコーンを勧めつつ、桃井愛莉は対面でうなだれる後輩に尋ねた。
 尋ねられたほうはテーブルの上で両手を組み、愛莉と目を合わせないように視線を斜めに逃している。お茶の間で人気だったアイドルとふたりきりなことに照れているわけではないらしい。
「あの、ですね」
「なによ?」
 組まれていた手がほどけて、今度は指先がせわしなくうごめいた。なにごとか言いあぐねて喉まで出かかった言葉を何度も奥に戻している。牛の反芻じゃあるまいし、と愛莉が呆れたように息をついた。
「なんなのよ、みのり。言いたいことがあるならはっきり言いなさい」
「うう……
「どうせ遥絡みでしょ?」
 図星だったようで、花里みのりがズルズルとテーブルに崩れ落ちて突っ伏す。愛莉はスコーンをひとつ手に取ってかじりついた。先日、雫と一緒に並んで買った有名店の新作だ。間違いのないおいしさに舌鼓を打つ。
 スコーンがふたつ、愛莉の胃の中に収まって、コップのアイスティーが三口分減ったところで、みのりがズルズルと上体を起こした。目は伏せられたままだ。
「は、遥ちゃんがね?」
「うん?」
 これで毎日可愛くてつらいとか言われたらさすがに怒ろうと心に決めながら愛莉が相槌を打った。
……電気を、消してくれなくて」
 今はこれが精一杯とばかりにまたテーブルに額をつけるみのり。顔は見えなくなったが、髪の隙間から覗く耳と首は燃えそうなくらい赤い。愛莉はスコーンを食べておいてよかったと思った。きっとこれから食べても味がしない。
 「……あー」間がもたなくて無意味にうなる。なるほど、電気ね。要は照明ってことね。なんの時の? いや分かってるけど。
 バラエティアイドルとして活躍していた頃もあれこれ相談を受けることが多かった身だけれど、さすがにこういうのはなかった。後輩からの信頼の証と受け取るべきか、たった一年の差が彼女にはひどく大きく見えているのだろうか。
「別に、遥だって鬼じゃないんだから、みのりが嫌がったら明かりくらい消すんじゃないの」
「だ、だって、何度もお願いしてるのにいつも『だめ』って聞いてくれないんだよ。しかもその『だめ』の言い方が、もう、あの、色っぽくて……
 思い出したのか両手で顔を覆って打ち震えるみのり。愛莉としてはもう帰ってほしい。
「みのり。あんたのろけたいだけじゃないでしょうね?」
「違うよ! ほんとに困ってるんだってば」
 そう言われても。先輩から注意するような話ではないし、そもそも言ったところで遥が聞くとは思えない。みのりが何かしら対策を取らねばならないということだが、別に愛莉だって百戦錬磨なわけではない。むしろ少ないほうだ。なにがとは言わないけれど。いやだってひとりだし。そういう目にあったこともないし。言えばだいたい素直に聞くし。
 そうじゃない。そんなことを思い出している場合ではなかった。
「そんなこと言われても、あんたと遥の問題でしょ、それ」
「そうだけどぉ〜」
 みのりが絶望的な口調で呟いた。
「あの顔をずっと見ながらする身にもなってほしい……
「まあ、そうね……。それはちょっと分かるかも」
「だよね?」
「顔がいいのが相手だとこれだから……
 結局、お互いにのろけているような状況になってしまって、ふたりともはたと気づいて沈黙した。
 BGM代わりにかけている洋楽チャンネルの歌声が静かに響いている。知らない曲だけれど、バラードのなにか物悲しい雰囲気の曲だった。つられて気分が落ちそうで愛莉が部屋の隅に視線を移す。
「Alexa、アイドルチャンネルに変えて」
 棚に置かれたスマートスピーカーから応答があり、途端、可愛らしいアイドルソングが流れ始めた。おお、とみのりが興味深そうにそれを見やった。
「すごーい。便利だね」
「みのり持ってないの? あると何かと楽よ、エアコンとか声で操作できるし……あ」
「なに?」
 愛莉が人差し指を立てた。
 先輩としての面目を保てるかもしれない。



 合図みたいなものがあるわけではなかった。どちらかの家に泊まりに行って、そうなることもあればそうならないこともある。みのりがすごく疲れている日とか、翌日が忙しいと分かっている時とかは、遥は優しい恋人の気配だけを放っていて、それはみのりに安心感をくれる。
 そうじゃない時は、少し、気が張る。
 今日も遥はみのりの部屋でゆったりとリラックスしている。もう寝るだけのふたりはそれでも、眠るのを惜しんでベッドに並んで寄りかかって、他愛もない触れ合いや会話を続けていた。そんな中で、みのりが愛莉の家に遊びに行ったことは遥も知っているから、なんとなくその話題になった。
「ああ、あのお店のスコーン? 前に差し入れでもらったことがあるけど、おいしいよね」
「すっごくおいしかった。今度わたしも買いに行こうかな」
「付き合おうか?」
 みのりの髪をすくいながら遥が微笑む。近い。そんな至近距離でそんな顔をしないでほしい。他になにも見えなくなってしまう。
「す、すごく並ぶって愛莉ちゃん言ってたよ」
「それだけみのりと一緒にいられるなら嬉しいな」
……もぉ〜……
 どうして彼女はこうなんだろう。
 好きが止まらない。
「遥ちゃん、ASRUNの頃から神対応だったよね……
「今のはそういうのじゃないよ?」
「分かってる……ただの照れ隠しなので、あの、気にしないで」
 抱えた膝に顔を隠すと、耳元で忍び笑いが聞こえて、頬に軽くキスをされた。
 あ、これは。
 そういうキスだ。
 もっとさせてっていう、お願いのキス。
 そういった機微が分かる程度には愛され慣れてしまったみのりだった。だからといって精神を平静に保てるかといったらそんなことはない。いつだって鼓動は早鐘だしめまいみたいにクラクラする。
 顔を上げて、遥のほうを向いてから目を閉じた。ちゅ、とメレンゲみたいなキスが降ってきて、それから角度を変えてもう一度。伸びてきた腕に抱き込まれて軽く唇をなぞられる。
「みのり、明日ってなにかある?」
……ない、です」
 じゃ、いい? 綿菓子のように、ほんの少しの湿り気で消えてしまうような声だった。みのりがそういう声さえ出せば。甘く甘く溶けて消えて、その縁だけが金色に光る。
 ベッドに引き込まれて首筋を遥の唇が這い始めた。うう、とみのりが小さくうなる。
「ねえ遥ちゃん、電気、つけたままじゃないとだめ?」
「だめ」
「すごーくすごーく、恥ずかしいんですけど……
「だーめ」
 そんなに見えないのがいやなんだろうか。見えてたほうが楽しいのかな。みのりは止まらない唇と指先に翻弄されながら必死に呼吸を整えようとする。
 どうしたって遥の眼差しと声に逆らえなくて、どんな表情もつぶさに見られながら夜を越えてしまう。
 唇をふさがれると引き換えみたいに涙が浮かんだ。いやなわけじゃない。その逆だ。彼女が好きで、気持ち良くて、嬉しくて、そんな感情だけがみのりを支配していく。
 けれど今日はそれじゃいけない。
 みのりが最後の力を振り絞って遥の肩に手を置き、唇を離させた。
「みのり?」
「っ、あ、Alexa、電気を消して!」
 ふっと部屋の明かりが落ちた。「え?」やや間の抜けた声が暗闇の中から聞こえる。急に明かりが消えたから、目が慣れるまでは何も見えない。遥の手のひらが戸惑うようにするりとすべった。
「みのり、いつの間にこんなの買ったの?」
「あ、愛莉ちゃんに借りました」
 試しに使ってみる? と借りたスマートスピーカーをこっそりセットしておいたのだった。見つかったら怪訝に思われるかもしれないから目立たないところに隠して。
 指示用の声はみのりのものしか登録していないから、たとえ遥が同じようにして明かりをつけようとしても無駄である。これから遥の下から抜け出せなくても、リモコンに手が届かなくても関係ない。あとは意思の力だけだ。そしてそれは見事に達成された。遥だって、一度落ちた明かりをつけに離れるような、そんなムードのないことはするまい。
 暗闇から遥の小さな息つきが聞こえた。
「ここまでするほどいやだった?」
「い、いやっていうか、恥ずかしいというか……
「そっか」
 遥の身体が覆いかぶさってきて、耳たぶを噛まれる。んん、と密かな声が洩れた。見えなくてもというか、見えないせいで余計に触覚を強く感じる気がする。
 耳朶を噛まれ、外側をゆっくりと舌でたどられて、内側に入り込んできて形を確かめるみたいにひとつひとつの窪みに先端を差し込んでくる。音が。鼓膜に直接音が響いて、あまりにも淫靡なそれに羞恥心を引き出された。
 静かに静かに、唇を離さないまま遥がささやく。
「私としては、気を遣って明るくしてたんだけどな」
「え?」
 耳から唇を離した遥が少しだけ身体を起こす。暗闇に慣れてきた視界の中、彼女が見下ろしているのが分かった。
 窓から洩れるわずかな光を受けた遥の双眸が鈍く光っている。
「目線とか、目の潤み具合とか、指の動きとか。そういうの見て、引き時を判断してたんだけど」
「え? え?」
「見えないと」
 遥の声がいやに平坦で、かえって裏側に押し込められた彼女の激情を強く感じさせた。
「手加減できないよ?」
 ぞわ、と、背中があわ立った。
「え、ちょ、遥、ちゃん」
 ゆるゆると抱き寄せられて、頬に唇が落ちる。
「みのりの様子が分からないからちゃんと教えてね? やめてって言ってくれたらやめるし、やだって言われたら謝る」
 みのりは自分が開けてはいけない扉を開けてしまったことにようやく気づく。
 その要請、つまりは。
 手加減なしに愛されて、それでも嫌だと言えなくて。
 してほしかったら、そうねだれと、言われているに等しい。
 暗闇の中、彼女の唇の両端が引き上げられたのが見えた。
 唇をふさがれて、電気をつけてと言えなくなったみのりはなにもかもを諦めた。



 数日後、桃井愛莉は花里みのりに貸していたはずのスマートスピーカーを桐谷遥が持ってきたことですべてを察し、ひっそりとみのりの無事を祈ったのだった。