ダベミ
2021-09-20 08:56:09
16234文字
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こうであってほしいと願うダブルハンターXの4話の妄想

相方も動物NGなので初投稿です

水音。
熱すぎる温度のシャワーを浴びながら、あの日のことを振り返っていた。
果たして自分に、一体何ができたのだろうか。
何かをできたとして、この結末を回避することはできたのだろうか。

ずっとずっと悩んできたことだ。
あの時自分が、もしもあの時状況がこうなら。
ひょっとしてひょっとするのか?
……いや、いや、いや。
考えても仕方がない。とっくのとうに理解はしている。
蛇口を捻り、熱湯を止める。静寂と水の音だけが世界に残り、男は幻影の声を聞いていた。


「せん、……ぱ、い……はは、助かって……よかった」

「ばっ……かやろ、俺の部下が、俺より先に死ぬな!」

「すんません、命令……破っちまいました……

…………、了……!!」

「うるせぇ先輩っしたけど……ゴフッ、か……ガサツで、機械も使えねえ、駄目な先輩したけど……

「もう、もう喋るな……!助ける、だから……逝くな、俺を置いて……逝かないでくれ……

「ま、アンタに、会えて……悪かなかった……かな……

「了ーーーっ!!」


耳に残る絶叫。未だ身を焦がしている絶望。
前を向かなきゃな、なんて言いながら、一番後ろ向きなのは自分じゃないか。
わかっている。わかっているとも。

過去に戻る事はできないのだから。
過去に戻ってしまってはいけないのだから。
人ができることは、過去から学ぶことだけだ。

シャワールームを出て、バスタオルを肩にかけながら誰もいないリビングに移動する。賃貸の小さな部屋だが、窓だけはやたらに立派で、家族もそれを気に入ってここに越したのだったっけ。
それにしても、こんな冷たい夜には月が綺麗だ。
なのにも関わらず、ちらりと時計を見て、時間の進みの遅さに溜息を吐いてしまった。まだ真夜中だ。きっと今この月を見ている人は限られているだろう。
妙に手の中がぬるりと滑るような感触を覚え、視線を月から両手に戻すと、真っ赤に染まっていた。───正確には、真っ赤に染まっているような錯覚を見てしまった。
消したくても消えない記憶がずっと脳を支配している、トラウマになっている。忘れかけていた鈍痛が蘇り、苦虫を噛み潰したような顔をしてしまう。
最近、処方される錠剤の量が増えた。
……やはり、このままではだめだと、わかっているのに。リビングで家族が使う大きなテーブルの上には、署から家に送られてきた郵便物が雑に丸めてある。カウンセリングを急かす文言を、かき消すみたいにくしゃくしゃに握りつぶしてあった。


「了さんって……
「平原さんが言ってくれなきゃ、僕は聞きませんよ」


この痛みを共有できないとしても。
そう、だよな。彼には、話さなければいけない。
かつて、そこにいたひとりの男の話を。

けれどそれがどんな意味を持つのかは、誰も知らない。


◆◆◆


.4:しーきんぐ[さがしまわる]


いつもの、特殊犯罪捜査課。

………」『分かってるな?分かっとるよな?俺が言いたいこと、伝わってるよな、金髪コラ。あと平原、お前も顔見てわかるわな?』

いつもの、ではない来訪者。

「いや、あの……

「俺は被害者よ!?なんでそんなキレてんですか!」『いやいやいや俺が謝るのはおかしい、絶対おかしい。ていうかそれ以上に相川にキレるのもおかしいだろ。これのおかげで助かったってのに』

二人して正座させられて、薮茂さんの前でしょんぼりしていた。朝からこの体たらく、もちろん分かっている。捜査一課に無理言ってパトカーを走らせた件だ。
事件から数日して、直接何も言いに来ない、と薮茂さんがわざわざここに来たのだった。電話で感謝を述べたくらいでは、人の道理には適っていないと言うことだったのか。
……あれは仕方がない、仕方がないのだ。平原さんを見つけるためには必要なことだったんだから。
けどまあ、よくよく考えたら一課じゃなくても良かったし、なんなら急ぎの用でもないのにパトランプ鳴らすのは基本NGだし……あ、でも急ぎの用ではあったの、それはほんとなの。

「まあ?署長からは?『まあ、そうでしょうね。分かったわ、住民の皆さんには私から説明をしておきます』って言われて?特にお咎めはないんやけど?そういうことちゃうってわかるよね?」
『そもそもが、お前がその変な【組織】言うとこに狙われてへんかったら全然なんも問題ない話やねんぞ、金髪コラ。お前、自分の立場分かっとんのか?』

ちょっとちょっと、ダブルで。物理と心理の両方から僕をえぐる攻撃がやってくる。何を言っても取り付く島もない。
いよいよどうしようもなくなり、平原さんの肩を抱いてぐるんと反対を向いた。この場を収めなければマズイ。

「流石にマズイですよ……ま、ここは謝っときましょう?」

「相川、お前な……」『いや、なんで俺が、ほんとなんで俺が!?』

「分かりますよ、気持ちは。けど、確かにお礼も言ってませんでしたし」

………」『お礼は確かに、ちゃんとは、言ってない……気がする……

「じゃあ、はい、いいですね?」

ぽん、と背中を叩いて向き直った。途端に薮茂さんの強烈な視線に晒されて、ぶるりと体が震え上がる。つう、と冷や汗が背中を垂れていくのがありありわかった。

「なんや?」『言いたいことあるならさっさと言えタコ。だんまりが一番嫌いやねん』

「「………」」

そして。

「「……すみませんでした……」」

最終的にふたりとも気圧され、ペコリと頭を下げる。

「「協力してくれてありがとうございました……」」

続けて感謝の意を述べさせられる。

「分かってんなら宜しい。」『素直にそう言うたらよろしいやろに』

あっさりすぎるくらい、それで薮茂さんの癇癪は収まった。当然っちゃ当然ではあるものの、僕達としては呆気にとられてしまう。あんなに怒ってた人が、こうも簡単に人を許すとは。
……いや、いいや、そういうところが薮茂さんのいいところだし、だからこそ部下達も薮茂さんを慕うんだと思う。悪いことは悪い、いいことはいい、こうしてちゃんと区切りをつける。正しい人だ。
ああ、よかった、なんて二人で胸を撫で下ろしていたところに、コンコンコン、とノック音が聞こえる。みんなでそちらを見ると、見覚えのない人が立っていた。
ぱっつん、まで行かないけれど、前髪を神経質に切りそろえた、メガネをかけた男性だった。はて?

「あ、あのぅ、平原地域課長補佐代理は……

「平原さん、そんな微妙なポジションだったんですか」 

「非公式よ?」『いじり方が絶妙過ぎてもはや反撃できないんだよ……

正しくは【平原 新立 地域課副課長】、だった、らしい。現在はその立場も奪われたので、ほぼヒラと同じ扱いらしいのだが。え、悲しくない?他の課に移動したからって副課長の座を奪われることあんの?かわいそう。
(確かに辞令が出た時点で副課長から特殊犯罪捜査課課長にはなったけどね?)

「絶対ちゃんと反論したほうがいいです、マジで」

「あの?」

ところで、声をかけてきたその人はおずおずと頭を出して、部屋に入ろうかどうしようか、扉のすぐ近くで迷っているようだった。
パッと見は明るく気さくで、とてもいい人のように見える。やや関西弁のイントネーションが混じった標準語で喋っているようだ。これで性格が本当によかったら信用に値するのだろう。ただ、

「平原さぁん!もー、なんで地域課手伝ってくれないんですか。頼みますよお」

───ああ、もしかしたらこの人は【終わっている人】かもしれない。心の声が、聞こえなかった。

「あーはいはいはい、わかったわかった。俺らも出動要請さえなかったら地域課サポートに入るから、な?」『ちなみに相川よ、署長から何か連絡は?』

「ないっすね。つまり今日も地域課サポートです」

……地域課行くわ」『ねえんかい』

「平和なら平和でいいじゃないですか」

「その方がいいけど!その方が怖いんだよ!」『いつ変なやつに襲われるかとか考えながらあちこち行かなきゃなんねえの、怖くて怖くてしゃーねーんだからな!?わかるかおま、いや、お前は分かんねえよなぁ、人の思考が聞こえるんだから!』

「僕だって怖いですよ。いつ組織が来るともわからないですし」

「その組織とやらが犯罪者集団ちゃうとは言い切れへんしな」『言うてこんな凶悪な能力者がおるんやったら、絶対事件起こしてるやろ。喜々津の時みたいな、な』

薮茂さんが怪訝そうにこちらを見ながら思考を働かせている。組織に関しての情報が少なすぎる上、実際喜々津……と言うか笹塚は人を殺していたし、名前はわからないけどマイクロ波の能力者に雁乃も殺されている。
特殊能力を犯罪に使われたら、普通の人間では太刀打ちできない。多分僕だって勝てない。日本の法律で罪に問えるかどうかも怪しいところである。
……しかし、笹塚に関しては正直まだ余罪がありそうだったのでちゃんと話を聞かなきゃいけなかったんだろう。一体誰に撃たれたのか、そもそも本当に撃たれたのか、そこもまだいまいちはっきりとしていない。

「そろそろ、いいですか?」

「ん、ああ、すまん。俺もそろそろ戻るわ」『しかし目え離されへんなコイツ。あん時みたいにならんやろな』

じろ、と。
薮茂さんが平原さんに向けた視線が何なのかは分からなかったが、まあとにかく。地域課配属の警察官が薮茂さんと入れ替わりで部屋に入ってきた。
そして、入ってくるなりキレイな敬礼をして。

「そちらの方ははじめましてですよね?自分は、地域部地域課の【都 規夫《ミヤコ ノリオ》】巡査長と言います、よろしくお願いします!」

巡査長。僕より階級が上の人だ。

「あ、ええ……はい、相川 終です」

「お噂はかねがね聞いています!なんでも当署では『二人目』だとか!」

……はい?」

『あーあーあー、こいっつほんっといつもいつも要らねえこと言いやがって』

何を言っているのかはよく分からないのだが……ええと、とりあえず悪い人ではなさそうだった。敬礼を解いた都さんが、何かの資料を出してくる。ご丁寧に見出しまでつけられてファイリングされた、ちゃんとした資料だ。
普段平原さんに手渡されるものが、どれだけ適当なものなんだろうかと少し悩みそうになるくらいには、ちゃんとしていた。
しかし、表紙をめくって、拍子抜け。

「本日ご助力いただきたいのは、犬の捜索です」


◆◆◆


資料の内容と、都さんの話を統合するとこうだ。

三日前、✕✕市警察署へ届け出があった。
依頼人は【百々目鬼 沙空《ドドメキ サガラ》】さん。
この【✕✕市三大企業】のうちの一つで、食品製造と加工を中心として街を支える【ドドメキフーズ】の社長の長女であり、次期ドドメキフーズ社長とも噂される敏腕の人物だ。
どどめき。とんでもなく文字が仰々しい。その上めちゃくちゃ名前読みにくいな、キラキラか?と思ったけれど、そんなの言えるわけないので黙っておこう。
沙空さん曰く。その日の昼間、愛犬の【エド】と散歩に行っていたらしいのだが、道を歩いていた時に突然車が飛び出してきて、その拍子にリードを離してしまい、あまつさえエドも驚いて逃げてしまったそうだ。

「そのエドが、もう三日も帰ってないのよォ〜ん。探しても探しても、見つからないしィ〜。」

というわけで捜索願が来た。正確には遺失届か。

ちなみにだが、犬が人を噛んだ場合、刑法第二百九条の過失傷害罪に該当する場合がある。過失傷害については親告罪なので、噛まれた人が「訴えてやる!」と法律相談所に行列を作らない限りは問題になることはないのだが、相手がドドメキフーズの社長令嬢と分かれば強気に出る人間がいないとも限らないだろう。
また民法にも「動物の所有者は、その動物が他人に加えた損害を賠償する責任を負う」とあり、(怪我の度合いにもよるが)数百万の賠償に及ぶ可能性もある。
犬を放置すると言うのは、飼い主にとっては大切な家族の安否がわからず不安であると同時に、こうしたトラブルを引き起こす可能性のある、非常にリスキーな行動なのだ。

「首輪に付けてたGPSもォ、なんか取れちゃったァ?みたいで〜。見つからないのよォ〜。」

財閥の娘以前に彼女も一人の女の子、自分で探す方向で最初は頑張っていたのだが、どうにもこうにもならず、ついに警察署に届け出たと言うわけだ。
日本には遺失物法と言う、いわゆる落とし物を警察に届け出る法律がある。犬猫含めた動物も、法律上はモノと同じ扱いのため、同じく遺失物法に基づき、拾ったら速やかに交番に届け出る必要がある。
改正により、交番ではなく愛護センターのような専門施設に持ち込むことが可能になったとはいえ、交番には年間で千件ほど、飼い主不明の動物が「遺失物扱い」で持ち込まれるようだ。
そういうわけで、✕✕署は市内の愛護センターと各交番に連絡を取ったが、エドの特徴にあった動物は見つからなかった。そうして最終的に話が地域課に回ってきたところだった。……地域課は取得物や遺失届を処理、管理する役割を担っているので普通の話だ。

これが三日前の話。つまり、三日経ち、まだ見つかっていないと言うことになる。

「ちなみに、これがエドの写真と、特徴をまとめた資料です。」

都さんが指差して視線を誘導してくれた。
エド、四歳オス。犬種はバーニーズ・マウンテン・ドッグ。長毛種で、つややかな体毛が写真でも美しい。ブラウンの毛並みが爽やかに揺れているようだ。口元のだらしなさが気になるが、それが大型犬の特徴なんだろうか?
首には真っ赤な革の首輪がある。何かのブランド……らしいが僕にはひと目では分からなかった。資料を見るに、✕✕市で有名な革の加工業者の作品らしい。沙空さんの友人が務めているそうで、特注で頼んだものだと言うことだった。
素材から何から最高級品、そして何よりも職人の手作りで加工されているらしく、数百万はくだらないらしい。
沙空さんは、この首輪に更にGPS機能のついたカメラを装着していたそうなのだが、探してもそのGPSの位置情報が読み取れないということで、エドの場所は不明であった。
なるほど、これはちょっと大変そうだ。そこまでじっくり犬の写真を見てから心の声に耳を傾けてみたところ、平原さんがめちゃくちゃ引いていた。

……」『うわ、うわうわ。殺せるじゃん、人を殺せるやつじゃん、やばいってこれ』

えらい引きようである。
というか、人んちの犬捕まえて『人を殺せるやつ』はひどい言い草だな、と思った。

「大丈夫ですよ。さすがにこの大型犬はしつけがなってるはず、ですから」

「やーだーよー、俺……」『犬つか、動物はマジ無理。俺ほんとむり。見てるならいいけど触るのはガチ無理、動物NG出してんだから。ガチの』

「なんでそんな怖いんですか」

「噛むじゃん!吠えるじゃん!絶対俺死ぬじゃん!」『いくらペットだっつっても野生よ野生、あいつらのスイッチが入った瞬間を見たことないからそんなこと言えんだよ、あんなん最悪だぜ?襲いかかられたらなんにもできない、首筋噛まれて死ぬだけなんだから!体重エグいじゃん、避けらんないじゃん!人間って脆弱だぜ……

「うるさいな!」

ほんとにうるさいな。大体『や↑せい↓』ってなんだそのイントネーション。
しかし割と意外だった。人には優しいのに、動物にはなんかあんま優しくないんだ。いや、本当に意外なんだ。
平原さんが動物苦手なのはとりあえずさておいて(今すぐどうにか出来るわけではないのでさておくしかなかった)、どうも僕達くらいしか動ける人間がいないらしい。そこがなんか納得行かないけれど、まあ、それは仕方がないことだと飲み込むことにした。

「とにかく……行きますよ平原さん。さっさと見つけて、終わらせましょう」

「やだやだやだ」『行くならお前一人で行け、俺は動物ぜってー無理なの、マジで、いや、ほんとに。シャレじゃなくて。マジで。ほんと、勘弁して』

「平原さんは触んなくていいですから、そのへん僕がやりますから……

どんだけ拒むんだよ。
散歩してる最中に頑として動かなくなった大型犬みたいに嫌がる平原さんをなんとか説得し、僕達は町中に繰り出すことにしたのだった。


◆◆◆


まずは最初に、エドとはぐれてしまった場所に来た。

「暗いな」

交通量がそこまで多いとは言えない路地だった。車が飛び出してきた、と言う方向には一時停止の指示看板があるため、おそらく飛び出して来た車は一時停止不履行、つまり道交法違反で普通に取り締まれる。犯人が見つかれば、だが。
残念ながらこの道には監視カメラのたぐいはない。また、エドが逃げ去った方向はそこそこ治安の悪いと噂されている場所との境目だ。カメラの普及率もそこまで高くない、信用できるかは不安になっていた。
資料を見ながら、現場の様子を確認していく。

「車がこっちから出てきたと……

「突然出てくりゃビビんだろうな」『一時停止無視か。そりゃ車側が悪い』

「車種までは覚えてないって言ってましたっけ」

……だな。」『トラックとか、デカい車じゃねえってのは確かなんだが』

でしょうね。大きな車なのだとしたら、記憶に残らないってことはない、と思う、ちょっと自信はないけど。そもそもこの道じゃトラックは多分通れないだろう。細すぎる。
確かタクシーの運転手が裏道として使う場所、と言っていたような気がするような、しないような。

「近くの人達には既に聞き込み調査が済んでます。……大型犬、ですから見ればすぐにわかると思うんですけど」

育てば七十キロほどにもなる大型の犬種なのだ。飼っている人も少ないし、一目見ればその存在を把握することなど容易だろう。そのくらい大きくて、そのくらい分かりやすく犬だ。

「相川。今だから改めて、いいことを教えてやろう」『ここはちょっと年長の言葉を傾聴してもらわねえとな』

……めちゃくちゃ嫌な予感しますけど、なんですか?」

「捜査の基本は足だ」『とにかく走る、とにかく聞き込む。これ大事、マジで大事よ。お前にもやってほしい、俺はそう思ってるからな、相棒……

………

閉口。なんにも反論が思いつかず、僕は一瞬気を失いそうになる。忘れていたことがいくつかあったが、そのうちの一つが今思いだされた。
そうだ、平原さんは、いわゆる昭和の熱血系刑事なんだったよ……


◆◆◆


数時間後。

『どうだ相川、進捗は』

僕達はあのあと、ふた手に別れていろんな場所に聞き込みに行っていた。
近くのコンビニ、家の人々、道をよく利用するタクシーの運転手達。しかし、そのどれもが犬なんて見ていない、なんて言うのだ。
つまり、あんなに大きなバーニーズ・マウンテン・ドッグが、まるで煙か忍者か、突如として姿形もまるごと消えてしまったということになる。まさか、そんな。

………なんにも、手がかりなしです」

『うっそだろ……

電話の向こう側で平原さんが頭を抱えているだろうな、と言うことがわかる。なんとなく、なんとなくだが。
まあ、これとは関係なく、平原さんが自分からスマホを操作して、僕に電話をかけてきたというところになによりも驚き、感動してたんだけれど、それは言わなかった。
一体いつの間に覚えたんだろうか、操作。

「どうします?一度集まります?」

これは一度、対策を練らなければ行けない気がする。このまま闇雲に探しても、きっとエドは見つからないだろう。

『なあ、相川。犬の心の声、聞いてみてくんない?』

……え?」

一旦捜索を諦めようとした僕に対して、平原さんが提案をしてきた。つまり、人が知らないならもう動物を、なんならエド本人の声を探して辿っちゃえばいいじゃん、と言うなんとも安直な作戦である。
これで僕の能力が人間限定だったらどうするつもりだったんだろうか。

『いや、なんか前にお前、ひとりでににゃあにゃあ言ってた気がしてな』

「あ。」

それは先日、二人で地域課の職務として街のパトロールに出ていた時のこと。
野良猫が集まるのが困る、という近隣住民の声に答えなければならず、無許可で他人の敷地に餌を撒いているおばさんに注意しに行ったことがあった。
その時たまたま、あまりにも集まった猫が多すぎて、拒絶しきれずに彼ら彼女らの『声』が僕の脳に侵食してきたのだ。僕の脳に猫が入りました……
おばさんは追い払えたものの、そこから数分間の記憶がない。はっと意識を取り戻した頃には、既に集まっていた野良猫達の影形もなく、僕の隣で平原さんが笑いをめちゃくちゃ堪えているところだった。スマホも構えてたな、あの時。写真も動画も撮ってたな。
動物の心の声が聞こえていたことには既に気が付いていたものの、何があったのか、どうしてそうなったのか、僕がそこで何をしていたのか、全く記憶していない。
分かっていたはずなのに、まあ大丈夫だろうと対策をおこたってしまい、結果的に平原さんに弱みを握られるということに……。悔しいな、これ。

ちなみに記憶がないはずの一件をなぜ知っているかと言うと、その後に平原さんから口頭でその有様を伝えられ、さらに動画を見せられたからである。
動画内で僕は完全に野良猫になっていた。
自分のことなのに、自分で見てドン引きして、隣で平原さんが爆笑するのをわなわな震えながら見守るしかできなかった。

(うわ、やっちゃった)

僕の能力の弱点の一つだ。
【心の声を聞きすぎると、引き込まれる】。
その人の声が自分と重なり、混ざり合い、まるでその人になってしまったかのような錯覚を起こすのだ。流石に動物でそうなったのは恐らくその時が初めてだ。

「いや、まあ……、多分できないことない、とは思いますけど……

しかしだ。それは、エドが近くにいれば出来るんだろうけど、どこにいるか分からない犬を探すのに使えるかどうかは不明だった。
以前の平原さんを探すのとはわけが違うんだぞ。

『やってみるっきゃねえだろ。頼むぜ、相川』

「はぁ……

勢いが強い。まあ、試すだけ試してみるか。
と、周りに溢れている心の声に耳を傾けると、妙なものが聞こえてきた。

『たすけて……こわいよう……

「ん……?」

そう、妙なのだ。
ここには怖いものはない。ここには困っている人らしきものは見受けられない。
ならば、この声は何を怖がって、何に困っている?

『かなしいよう……

その声に集中する。他のことを取り止めてまで全ての意識を向け、精神を研ぎ澄ます。すると自分の輪郭がほどけ、溶け落ち、聞こえてくる『声』と自分の声が混じり合うような感覚に陥ってくる。
底のない沼、足元が消えたエレベーター、どこまでもその『声』の感覚に落ちていくようにすら思える。
足元から頭のてっぺんまでもが染まっていく。思考の隅から隅まで、読み取る。聞き取る。そして。

「貴方の脳に、入りました。」

『お?相川、まさか』

そのまさかだ。
それでもまだ、謎の残る展開ではあるのだが。


◆◆◆


さらに三十分後。

ぱぷぱぷ。

「ほんとにこれでいいのか?」『にわかに信じがたいんだけど……

「貴方の相棒が言うことですよ、信じてください」

僕は、恐らくエドであろう、と思わしき声に接触し、その声を辿り、思考、脳の中に侵入した……多分。というか一瞬の間、『僕がエド』だった。

『僕』は小さい頃、白い服を着た人に囲まれていた。
ある日、『いえ』がすごいことになって、壊れちゃった。
『おじさん』に別なところに連れてかれたが、一緒に住めないと言われてしまった。
悲しい、悲しい。悲しい。
でも、『おじさん』の『おともだち』が、『ぼく』と一緒に住みたいと言っている。
うれしい。
『おともだち』の娘さん、『さがら』ちゃん。だいすき。
『さがら』ちゃんといっしょにお散歩、大好き。
でも、こわいぷーぷー、って音にびっくりしちゃった。
それから『さがら』ちゃんは『ぼく』をぎゅってしてくれなくなっちゃった。ここだよ、ここだよ。
悲しい、悲しい。悲しい。
へんなところに来ちゃったよう。こわいよぅ。

概ねそんな感じだ。

───さがらちゃん、ぼくはここだよ。

エドは、自分の居場所をずっと伝えていた。現場からほとんど離れていない場所にいるらしい。しかし、どうしても視認できない。
これ以上は僕の精神にも悪いし、平原さんも間もなく笑い死ぬ、笑死とか言う新しい死亡方法でカルテを書いてもらわなくてはならなさそうだったので、とにかくエドの居場所を特定することにした。
そのために、沙空さんに連絡を取ってもらい、エドが好きなおもちゃを購入すること、三十分ばかし。

ぱぷぱぷ。

……エドー?どこだー?」

「エドよ、さっさと出てきたまえよ。あ、飛び出してくるのは無しね?」『マジで終わらせたい、さっさと終わらせたい』

さっきまで僕ことエドの説明に爆笑して呼吸困難になっていた平原さんだったが、さすがに職務には真面目というか何と言うか、僕の言いたいことを理解し尊重してくれたらしい。
エドがおもちゃに釣られて出てきてくれたらこれ幸い、しかしもしも出てこなかったらいかがしましょうか?と言うところまで来た。
さて、可愛らしいボールのようなおもちゃを鳴らしながら街を練り歩くおじさんと金髪、しかもふたりとも警察官。怪しすぎることこの上ない絵面だがやらなきゃいけないこともある。頼むから誰もこの姿を見ないでおくれ、と願いながら僕達は歩く。

『なあにこれ、あ、あ!すき、だいすき!』

「! 平原さん、エドの反応が!」

どこかから足音がしている、気がするのだが、やはり視認できない!どうしてか分からない。ええい、ままよ。
僕は自分が持っていたおもちゃを、エドの声がする方に転がしてみる。
なんとなく嫌な予感がしていて、そのなんとなくの予感が外れることを祈りながら。

「おま、」『何してんだよバカ、それ高かったんだぞ!?経費で落ちるからいいけどほんと、財布がエライ目に……あ?』

次の瞬間、僕達は目を疑った。
転がしたボールが……宙に浮いた。

ぱぷぱぷ。

『うれしい、うれしい!たのしい!だいすき!』

「あ、あの、平原さん、これって」

「い、いやぁ、まさかなぁ……」『特殊能力ってなんなの、組織ってなんなの、お前らほんとなんなの?』

平原さんが呆れるのも無理はなかった。
ボールのおもちゃで遊んでいる、見えない姿の何者かが僕達の前にとうとう現れた。
現れた、と言うか、視認できないままなんだけど。


◆◆◆


「いや、実際僕もめちゃくちゃびっくりしてますよ」

思うじゃん、作られた子供が云々って話だったじゃん。なのに、え、なんで?動物までもが?
じゃあエドが四歳っていうのも嘘なの?それとも、僕よりもあとに作られた動物なの?なんかもう、よく分かんないんですけど!?
僕の混乱と、平原さんの驚愕と、そのどちらをも無視して、『透明なエド』はボールで遊んでいた。

……ちょ、っと待ってろよ」『ええと、確か……

平原さんがポケットに手を突っ込んでハンカチを取り出すと、ボールの浮いているのより少し上の方にそっと置いてみる。……やっぱり、浮いている。
僕は意を決して、手を伸ばしてみた。ふか、と温かい毛皮が手に触る。しゃがみ込んで見てみると、ハッハッ、と犬らしい呼吸音がして、それからボールを落とした何者かが僕をべろべろなめ回す。
ああ、これきっと、時代が時代なら妖怪のしわざにされたりしているんだろうなあ、とまるで他人事みたいに思いながら、僕はがんがん舐められていた。
触感はあるのに、見えない。
つまり、エドは───『透明になる能力』を持っている犬、というわけだ。……多分だけどね。

「特殊能力者でしたね……

まだなめられている僕を尻目に、『そこに犬がいる』という事実を認めた平原さんが一歩二歩、じりじり下がるのがわかった。え、ちょっと。

「特殊能力犬、だな」『つまりそこに犬がいるんだな、怖い怖い怖い怖い怖い』

「ちょっと、待ってくださいよ。僕を置いてかないで……

流石に一人でどうにか連れていける大きさじゃないので、できたら手伝ってほしいところである。
しかし平原さんは残念ながら動物が苦手だ。もちろんリードを持たせるなんてことはしないけれど、せめて僕を支えるくらいしてくれていいんじゃないかな?と思った。
ぽんぽん、とエドらしきものを軽く叩くと、ようやく落ち着いたらしく、そいつは次第に姿を見せ始めた。……透明から半透明、そして不透明へ。何もない空間から、突然犬がじんわりと滲み出し、そこに現れた。
平原さんがヒッ、と大仰に悲鳴を上げる。完全に視認してしまった。SAN値減少、ダイスロール失敗。

「ウワーッ!!!」『デカい怖いデカい怖いデカい怖い』

「ちょちょ、ちょ!ちょっ、待って平原さん!!」

逃げるようなことはしなかったが、それでも距離を取ってどこかに行ってしまいそうな様子だった。
僕の腕力ではどうしょうもないので、本来なら彼に引っ張って欲しいが仕方がないか……

『どうしたの?』

純朴な目を向けてくるエドが、少し愛らしく見えてきた。

「飼い主さんのところに返してやるからな、エド」

ぽん、と再び頭を撫でてやると、嬉しそうに尻尾を振っていた。やっとこれで一安心だ。さんざん手こずらせられたが、ようやく全て終わることができる。

と思った次の瞬間。それは起きた。

ここはそう、現場だった。
一時不停止の車が現れた場所だ。
エドは結局、透明になってしまっただけで、現場からそう離れていなかった。
水はどうやら、付近の民家が庭に置いていたスプリンクラーから出たものを飲んでいたし、なんなら庭の草を食べていて、元気は元気だった。
けれど、原因が取り除けていなかった。

つまりどういうことかって?

ぷぷーっ!!とクラクションが鳴る。不停止の車が悪いのに、この辺にいた僕達に当たり散らすように。

「あ。」

「それって、あ。」『事件の時と、一緒……

再び去来した、嫌な予感。

『うわーっ!へんな音、へんな音!こわいよう……やだよう!』

やっと現れたはずの大型犬は、今度はびゅんと走り出したと同時に、その姿を夕焼けの中に溶け込ませてしまったのだった。
って、また透明じゃないか!一回見つけるのも大変だったっていうのに、二回目は流石に辛いものがある。しかし、心の声はもう特定した。走るだけなら簡単だ。

「そこの車ァ!テメェこら、一時停止は守れ!車止まれバカが!」『こいつは止める、お前はエドを!』

平原さんがいろんな意味で僕に託してきたので、やむを得ず、僕は声を探りながら走り出したのだった。


◆◆◆


それにしても、街にはルールを守っていない人間の多いこと、多いこと。
一時停止の無視もそれなりにまずい。しかし、他にも色々問題が浮上して来た。

リードを付けずに放し飼い状態の犬なんかも見たし、フンを片付けない飼い主もいる。どちらも注意した。
歩道は歩行者優先なのに、我が物顔で走り、さらには自分が走れないからという身勝手な理由でベルを鳴らして歩行者をどける自転車を見た。
交差点付近の駐車はご法度だ、危険だから法律でも禁止されている。それなのに停めている車があった。道を邪魔する車も、明らかに不当に停めているものもある。

その間もエドは猛ダッシュしたり、止まったり、吠えたり、色んな挙動をしながらどこかに走っていく。
何も見えないのに、突然吠えられた犬が可哀想に思えたが、それをフォローする間もなかった。少しでも目を離し、声を聞きそびれれば、どこに行ったか分からなくなりそうだったのだ。
一体どこに行こうとしているんだ?などと考えていたところ、ようやく行き先がわかった。

目の前にそれが見えてきたからだ。

「あれ、確か……

最初にもらった資料で見た気がする。そうだ、ここって確か、百々目鬼家じゃなかったっけ?ドドメキフーズの社長含め、家族が住んでいる豪邸だ。
なんせ、庭には大きなプールが……プール?すごいなあ、自分専用のプールがある豪邸なんて、初めて見た。

『おうち、かえってきた?』

「そうだよエド……はあ、はあ、ここは……はぁっ、家だ。お前、自分で帰ってこれたんだよ……!」

とうとう成し遂げたエドと、息が切れそうな僕が、開け放たれて誰でも入れる大型の門の前に立ち止まった。
えらいよ、エド。色々あったとはいえ、自力で自宅まで戻るとは流石である。まだ姿は見えないまま、透明なままではあるので、帰宅したと言えど沙空さんになんて報告したらいいかわからない。
しかし、そういう時に限ってまあタイミングってのは悪いもので、玄関が開く音がした。
……沙空さんだ。

『さがらちゃん!』

次の瞬間には、エドが走った音と、嬉しそうな心の声が聞こえた。
エドは目の前のプールのことは忘れているようだ。つまり、このままではエドは冷たい水の中にドボン、というわけで。
それはまずい、本当に……ああ、もう、本当に。
最後まで世話の焼ける!

「っ……エド!」

最後の力を振り絞って走り出す。僕とエドの距離はそこまで離れていなかった。だからこそ走って、エドのリードを捕まえようと、して、指を伸ばし……手を出して……

「エド………あれ?」

スカッと、空を切る。
そこには、なかった。なにもなかった。

簡潔に言えば、賢いエドはちゃんとプールを回避していた。なんなら、沙空さんに会えた喜びで透明化を解除していた。いや、できるんかい、と言う僕の声は届かないだろう。届いてどうなるわけでもないので、もはやどうでもいいっちゃいい話だ。
空間から突然現れた飼い犬に、沙空さんは大いに驚いただろう。───それと、その次に聞こえた水の音にも。

………うわ。」

オフシーズンとはいえ、水は清潔に保たれている。それでも今入るにはちょっと、冷たかった。
バシャン。


◇◇◇


それはどこかであったかもしれない会話。

「俺、犬好きすよ。平原さんは?」

「あ?俺はあんまり」

「なんでぇ?絶対好きそうなのに。つか、多分飼い出したら可愛いて可愛いてしゃーねぇ、みたいになりますって」

「ないない。触れないんだから」

「ギリどのへんまで行けます?」

「むーりーだって。絶対ヤだ」

「いや、んなこと言って。ぎりぎり頑張ったら!みたいなライン、あるでしょ?」

「え?あー………

……どうすか?」

……柴犬……くらいかなぁ」

「可愛いな」

「ギリよ?それ以上でかいのは絶対無理」

それはいつか、あったかもしれない、とりとめのない会話。思い出したところで、胸があたたまることはないし、何かの足しになるわけでもないのだけれど。
ただ、かつてこんな会話があったかも、しれない。

「つか、なんで、犬駄目なんすか?」

「だってさぁ、アイツら噛んでくるじゃん、頸動脈を。俺を殺そうと虎視眈々と狙ってるでしょ?」

「考えすぎですよ!」

「ペットだ、っつって、全権を委ねるのが危険だって言ってんの」

「ペットは人の大事なパートナーよ?」

「パートナーはお前がいるからいいんだよ!」

………今なんか、すげぇいいこと言った、みたいな顔しました?言えてないすよ?」

「え、嘘」

本当に、なんてことはない会話。
もう二度と、できない会話。


◇◇◇


それから、それから。……ああ、ここは、どこだ?
いつの間にか意識を手放していたらしい。気が付いた時には、僕はパジャマ姿になって、横たわっていた。大きく息を吸って、吐いて。なんとか意識をはっきりさせようと努力したが、なんだかうまく行かない。
水に入ってから……あれからどうしたっけ?頭が上手く回らない。

「目ぇ覚めたか?」

はぁ、と溜め息をつく平原さんが僕の前にいた。
あ、はい。無事です。目が覚めました。
あれ、あのあと僕はどうしましたっけ、と言おうとして、その前にくしゅん、とくしゃみが出た。あれ、おかしいな、寒い。
脇に体温計を差し込まれており、それを引き抜くと、三十八度を超えている。……こんな数値は初めて見た。体が猛烈にダルい。なんだこれ、いつもと何かが違う。頭にモヤがかかったみたいに、ぼんやりとしていた。

「僕……なんか、へんな攻撃……受けました……?」

「あ?風邪だろ、多分。この時期にあんな冷たい水なんか入るから、体が変になってんだろ」

ああ、ええと、ええっと……。頭を整理しようとして、全然働かない。だめだ、全然だめだ。
よくわかんないけど、なんかふかふかするな、と思っていたら、いつの間にか布団に寝かされていたのか……というか、ここって、僕の家では?

「署長に住所聞いて運び込んだんだよ。ったく、なんでプールに突っ込んだって?」

「ああ、それは……

言えるわけないじゃないか、エドがプールに入る気がして、それを止めようと思ったのに、まさかエドはそこにいなくて、走ってしまった僕だけが止まれずにプールに突っ込んだなんて……ちょっと、なんで笑ってるんですか、平原さん。

「マジかよそれ、お前ってユーモアセンスもあるんだな」

「笑い事じゃない、ですよ……

「あはは、すまんすまん」

「ひどいなぁ、僕はエドを止めたいって……それだけを思って………………

……………ん?


そこまで来て、ようやっとこの違和感に気付く。
ああ、どうして気付かなかったんだ。頭が回らなさすぎて全く理解してなかったぞ。
ちょっと待て、なんだこれ?

「あ?どうした?」

いや、えっと、その。

「なんだよ、言えよ、なんかあるなら。」

僕は、今平原さんの心の声が聞こえません。

……は?そんなことあるのか?」

あるんですね、そんなこと。

「へえ、珍しいこともあるもんで」

でついでに、平原さん。

「ん?」

僕、今喋ってないですよね。

……ん、ん?」

小説で言えば地の文、心の声、ってやつ、を……

そこまで考えて、顔を見る。平原さんもだんだん目を見開いて僕を見る。僕の唇がミリも動いていないのに、僕の声が脳内に聞こえていることに驚愕している。
あれ、えっと、え?
情報を処理しようとして脳が拒む。
今まで風邪なんて引いたことないから分かんなかったんだけど。
いや、むしろ、初めて引いた風邪に体が驚いて、特殊能力が暴走していると考えたほうがいいのか?ああもう、全然分かんないな、なんなんだこれ?


「僕の心の声、が……

「俺に……聞こえてる……?」


二人で愕然とする。
あるんだ、実際、こんなこと。
当然、今回が初めてのケースなので、いい学びになったね、くらいしか今は言うことがないわけだが。
どうやら僕の思考は、『声』という形を持って平原さんにすべて伝わっているらしい。困惑の様子で平原さんが頭を抱える。いや、困惑しきりなのは僕も同じだ。
幸いなのは、どうやら僕の『声』が聞こえているのは平原さんだけだってことだ。両隣にも誰か住んでるはずのこのアパート、僕の思考が全部漏れ出ているのなら両隣から苦情が来ていてもおかしくないのだから。

………どうしよう、これ」

途方に暮れる平原さんに、僕からは生ぬるい視線を送ることしかできなかった。