わんほり
2024-01-07 18:15:25
4007文字
Public 小説
 

悪い子の味

Xにあげた『悪い子の味』『悪い子の味 SideM』に少しだけ加筆修正したもの。
宵朝成人済み同棲設定。
甘え方を忘れ、我慢することに慣れてしまっても、本当の想いを殺さずに、二人が寄り添って幸せに歩んでいけますように。

 紫煙を燻らせながら、思考を宙に投げる。
 細く儚い糸のようなその煙が、緩やかに踊って揺蕩う様を眺めながら、抱えている案件をどのように処理していこうかと考える。大抵、答えなど出ない。ただ何となく、一度自分の中が空になってリセットされるだけだ。

 奏のそばに居て、奏以外のことを考えたい時、ふとベランダに出て煙草を一本だけ吸うようになった。この悪癖のきっかけが何だったのか、もう覚えていない。ひとりになって気持ちを切り替えられる装置が欲しかった。それだけだったと思う。だけど、こうやって煙草を吸う時、奏を遠ざける理由だけは、いつまでも私の中から消えてくれない。

 外は冷えるから。
 副流煙は体に悪いから。

 そんなありふれた理由を並べ立てて、ベランダで私がひとりになろうとするのは、ただ寂しかったからだ。寂しかったから、奏に同じ思いをさせないように、幾つもの理由を並べた。いつだって出来るだけ私のそばに居て、私のことを知ろうとしてくれる奏を部屋に置き去りにしておきながら、何を言っているのかと絵名あたりには怒られてしまいそうだが、そう思ったのだから仕方がない。

 身勝手なのだ。
 幾つになっても。
 心がわかるようになっても。
 いや、わかるようになったからこそ。

 奏がどんなにそばに居てくれても、そのぬくもりを信じていても、寂しさが消えない。奏が私の知らない仕事先の人と電話している時、見も知らぬ遠い誰かに向けて、その幸せと救いを願う曲に思いを馳せる時――頭では理解しているのに、どうしようもなく寂しい。いつだって助けになりたい、寄り添って手を差し伸べていたいのに、私の隣で、奏が私以外のことに気を取られていることが、私の胸にしんとした影を落とす。

 同じ寂しさを、私の言動で奏に感じさせたくなかった。
 私と奏は、どこか似ているから。
 だから、家に居て奏以外のことに思いを馳せる時、私が奏を切り離してしまう時――きちんとした理由をつけて、ひとりになろうとした。

 理由があるのなら、許される気がした。奏の蒼い瞳が切なげに揺れても、その口元が物言いたげに引結ばれていても、納得してもらえるような気がした。
「そこにいてね」と「すぐに戻るからね」と言って良いのだと。
 
 ――そういうやり方しか、私は知らなかったから。


 ❄︎


 最近、まふゆが煙草を吸い始めた。

 部屋の中では絶対に吸おうとしない。ベランダにふらりと出て行って、ひとりで煙を燻らせている。後を追ってわたしもベランダに出ると「寒いよ」とか「副流煙は体に悪いよ」と言って、部屋の中に追い返されてしまう。その時の、煙草の灰と一緒にぽつりと灰皿に落とされる低い声や、すぐに空に向かう虚ろな視線から、「まふゆはこれをひとりで味わいたいんだ」と感じる。だから、しばらくしたらわたしは煙草を吸いに出るまふゆの後を追わなくなった。
 邪魔をしてはいけない。まふゆだってこの家の中でもひとりになって、何かを考えたい時はあるだろう。わたしにもひとりで作業に集中したくなる時はある。だから、わかっている。理解している。

 だけど、それが時々、どうしようもなく寂しくなる。窓を隔てたすぐそこにまふゆが居るのに、たった一本の煙草を吸い終わればまふゆはわたしの隣に戻ってきてくれるのに、その距離が時間の空白が、わたしの心にしんと沈み込む。

 どうしようもない孤独が、青くわたしを浸していく。

「欲張りだなぁ、わたしは」
 眉を下げて自嘲の言葉を空に投げた。
 幾つもの見つけられなかった想いも、ぬくもりも、心と体の手触りも、殆ど全てと言っていいくらいに、まふゆはわたしに与えてくれているというのに。

 ふとベランダを見ると、薄っすらと赤く滲む空の上に、深い藍色の夜が降りようとしている。もうすぐそこに夜が近づいてきている。
 少し風にあたりたくてベランダに出る。
 まふゆが置いている灰皿に、煙草の長い吸い殻が一本、残されていた。いつもは翌朝には片付けられていて、灰皿も綺麗にされているのに珍しい。少し仕事が立て込んでいると言っていた。その表情はいつもと変わらないものだったけど、わたしが思っていた以上に、まふゆは忙しくて余裕がないのかもしれない。

 吸い殻をそっと手に取る。フィルターにのこされた赤色は、まふゆの彩られた唇の名残りだ。今日は帰りが遅くなると言っていた。遅くなっても、まふゆはここに帰ってきてくれる。わかっているのに、ちゃんとこの家に戻ってきてくれる筈の人の不在が……どうしてだろう、こんなにも苦しい。

 フィルターの赤い跡を指でなぞって、そっと咥えてみる。煙草の箱はどこかに仕舞われているのに、なぜかそれだけが置き忘れられていた水色のライターを手に取って、吸い殻に火をつけてみた。まふゆがしていたように、種火を当てたまま軽く息を吸う。
 口の中に粉っぽく感じる苦い煙が広がる。肺にまでは入れなかったからむせずにすんだけど、わたしは思わず顔を顰めた。

 煙草の先から、わたしの息から広がっていく香りは、いつもベランダから戻ってきた時のまふゆの香りと似ているようで、どこか違っていた。わたしの寂しさを埋めるあの香りは、まふゆの体臭と混ざらないと再現されないのだと知る。

 似て非なる香りが、またまふゆの不在を濃くしてしまう。鼻腔から直接わたしの脳を揺らして、まふゆを恋しがらせる。

「はやく帰ってこないかな……
 掠れた声でそう呟いた瞬間、インターホンが鳴った。
 今日は来客の予定も、荷物が届く予定もない。まふゆからも何も聞いていない。

 ――だとしたら。
 
 どきりと跳ねた心臓が、そのまま早鐘のように打ち続けて、うるさいくらいに鳴り響く。
 振り向いて部屋の中を見ると、上着を脱ぎかけたまま固まっているまふゆと目が合った。綺麗な紫紺の瞳がわたしの顔を、そして指先の煙草をゆっくりと辿り、僅かに細められる。眉間には軽く皺が寄っていた。

 まふゆは上着をソファに置くと、ベランダに出てきて、わたしの手から煙草を奪い、灰皿に押し付けて火を消した。

「ただいま……奏、煙草は体に悪いって言った」
 まふゆが言い含めるように低く呟く。
 
 怒られているわけじゃない。
 それでも何故かわたしは悪戯を見つかった子どものような、勝手に遊びに行って迷子になってしまった子どものような、そんな後悔と心許なさを感じて、泣きそうになる。見つけてもらった安堵に、その瞳にもう一度射抜かれた喜びに、泣きそうになる。

「ごめんなさい。まふゆが……居なくて、それで――
 寂しくて、という言葉は最後まで言えなかった。
 ふいにまふゆに抱きしめられて、その柔らかさで息がとまる。

「奏……おかえり、は?」
「あ……おかえり、まふゆ」
 首元に強く顔を押し付けながら、まふゆが言う。
 その背中を抱き返しながら、わたしがこたえる。

 言葉にせずにぬくもりで――会いたかったよ、さみしかったよと伝え合う。

 そっと唇を合わせて、呼吸を分け合った。
 まふゆの舌がわたしの舌をなぞって、ゆっくりと離れていく。

「煙草を吸ったからかな、少し苦い。これが悪い子の奏の味なんだね」
 その唇は赤く彩られて、淡く弧を描いていた。

――嫌い?」
「まさか」
 まふゆの紫紺の瞳が揺らめく。
 わたしはその瞳に手を伸ばして、柔らかな頬を撫でる。
 癖のあるふわふわとした紫の髪に指を絡ませて、そっと引き寄せる。

――じゃあ、もっと」
 蒼い目を細めて、唇に笑みを浮かべて。
 悪い子の味を貪ってくれるよう、子どもみたいにまふゆにねだった。


 ❄︎
 

「今日は遅くなる」そう言って仕事に出た日。予想していたよりも早く帰宅できた。今夜は思っていたよりも長く奏と過ごせる。奏の作業の邪魔はしないが、少しでも奏の気配のそばに居られるのは嬉しかった。胸があたたかくなる。逸る気持ちを抑えながらインターホンを押し、部屋に入った時に、私は自分の間違いに気づいた。奏に救われるまでの、間違ったまま生きてきたことの、その弊害に気づいた。

 暮れゆく空を背にして、奏がベランダにいた。
 泣きそうな、迷子のような顔をして、寂しそうにその瞳を揺らして。
 私の煙草に火をつけて佇んでいた。

 結局、奏を寂しがらせていたと、宵闇に溶けていきそうなその儚げな色と線で思い知る。

「ただいま……奏、煙草は体に悪いって言った」
 それでも私の口から最初に出たのは、小言のような一言だった。奏がごめんなさいと重ねる言葉ごと、強く抱きしめる。

 どうしようもなく、身勝手なのだ。

 私はただ、私のそばで奏を寂しくしてしまっても仕方がない理由を、自分に対して並べ立てていただけだ。理由もなく私を寂しがらせる奏のことを、「本当は寂しい」と口にせずに、どうして我慢する理由をくれないのかと、勝手に言外で責めていただけだ。

 どうしたって寂しい。
 好きで好きで仕方がないから。

 ただ、それだけだというのに。

 これ以上ないくらいに信じあっているのに、私も奏も、我慢する癖が染みついている。おかしなところで素直に自分を吐き出せずにいる。

 抱きしめた華奢な体は、少しだけ震えていた。
 くちづけは甘く苦く、悪い子の味がした。

 臆病な私たちは、間違えては傷つき合い、そしてまた誰よりも貴女でなければだめなのだと気づいて、ぬくもりを手繰り寄せてはそっと寄り添い合うのだ。そうやって、互いを重ねて生きていくのだ。
 
 子どものように私をねだる奏を、ただ心のままに愛そう。
 全てを奏に傾ける私の鼻腔を、煙草の香りがくすぐっていた。