きゅう、と小さく腹が鳴った。アストルは困ったものだと頬杖をつく。野獣に向かって棘のある態度を取ってしまったがために、今更食堂に行くのは気まずいものがある。それでも空腹には勝てず、こっそり静かに扉を開けた。この宮殿はどこでも自由に歩き回っても良いと、あの野獣は言っていた。散歩名義でほっつき歩いても罰は無いはずである。
それにしても、この宮殿は見たことのない変わった建物だ。土だか岩だかで作られた建物など、アストルの住む村にも近隣に点々とする家にも存在していない。指先で壁に触れてみれば痛いほどに冷たく、すぐに手を引っ込めてしまう。これほどまでに険しく雪が吹き荒ぶ中では木材とするための木も育つはずがない。かと言って豪雪が積もった中をわざわざ掘り起こして土や岩を使うよりも、雪を集めて固めて積み上げたほうが良いのでは無かろうか。
あまりにも不可解な事が多すぎる。それに関する探りを入れたいとも思うが、今は空腹に耐えられそうにない。猛吹雪の中でどうやって食材を調達しているのかがまた謎だが、しばらく過ごせば何かがわかるだろう。
「キミ、こんなところで何をしているんだい?」
アストルは誰もいないところで話しかけられてドキリとした。しかしこの宮殿には、野獣もいれば喋る絵筆に喋る水晶玉もいる。姿は見当たらなくとも、この近くには誰かがいるはずだ。今度は何が現れるのかと辺りを見回した。
「ここだ、ここにいるよ」
壁に立てかけられていた棒がひとりでにくるりと回転してその顔をアストルに見せてきた。つり上がった目は強気そうで、しかし己を優雅に見せようという心がけが口元に浮かんでいる。よく見てみればそれは喋る棒ではなく、喋る剣だということがわかった。
「今度は剣が喋った……」
「フフ、こんばんは。こんな時間にお散歩かな?」
「はい。なんだかお腹が空いてしまって、寝付けないので」
アストルの言葉を聞いた剣は一度背を向けると、ギリィと金属音を立てて歯ぎしりした。お腹が空いただと!? マスター直々に御夕食のお誘いがあったにも関わらず、それを断っておきながら、腹が減ったというのか!? 無礼にもほどがある! ……とその場で暴れまり地団駄を踏みたい気持ちをグッと呑み込んだ。そして他人向けの大衆受けする『自称』美しい笑顔を作ってから、再度アストルの方を向く。だがアストルは俯いていた。
「すみません、貴方がたのご主人様からお誘いを受けていたのに……」
心底申し訳無さそうに黄玉の瞳を睫毛の下に隠して、アストルは小声で言った。だがその程度の態度で絆されると思ったら大間違いだとギラヒムは腹の中でツンとする。
「どうしても、怖いかったんです。もしかすると私のことを食べてしまうんじゃないかって、思ってしまって」
「注文の多い料理店じゃあるまいし、我らがマスターがそんなことをするものか。それに……」
ギラヒムはアストルの頭頂部からつま先にかけてをゆっくりスクロールするように観察する。無駄な肉どころか必要な肉も削がれた細い身体からは、せいぜい薄味の出汁が取れればいいところ。
「キミはあまり美味しくなさそうだ」
アストルは安堵してホッと一息ついた。そこで怒るのではなく安心しているのが、またこの客人のおかしなところである。ギラヒムは正確には人間ではないが、その社会に紛れて暮らしているだけあって彼らの感性を理解しているつもりだ。アストルはその感性からややズレていた。
「マスターはハイリア人など食べない。だが外にいる肉食獣に食われたくないのであれば、キミも何も食べないことだな」
何も与えないということをオブラートに包んだつもりだった。アストルは今にも背中とくっつきそうな腹を手で擦り、「……ですよね」とギラヒムの真意を理解しているかのように残念そうに頷いた。その時であった。
「ちょーっとお待ちなさい!」
頭髪部分である毛束で床をズザーッと滑りながら、ユガがやってきた。ギラヒムはチッと舌打ちをしたが、ユガが滑走してくる音に掻き消されている。ユガは逆立ちの姿勢から半回転して毛束を上に向け、ズイッとギラヒムに詰め寄った。
「ギラヒム、アナタは何を言うのですか? 彼はお客人。饗すのが一番でしょう」
「マスターが何もやるなと仰ったではないか!」
「そんな事をしたら、彼が飢え死にしてしまうではありませんか。……そしたら呪いはどうするのです」
ユガは最後の一言を、アストルに聞こえないよう小声で言った。ギラヒムは的を射られたとばかりに唇を思いっきりへの字に曲げる。そんな剣を余所に絵筆はアストルの白く細い手を取った。
「アストル様、さあどうぞこちらへいらっしゃってください。あの偏屈金属片は放っておきましょう」
「で、でもそうしたら貴方がたのご主人様に……」
「怒鳴られるのは一人ならキツイですが、他の者が一緒であればそんなに怖くはありませんよ。きっと空腹になるはずと思って、一同ご用意してお待ちしておりました」
扉を! とユガが声を張り上げると、いつの間にか目の前にある食堂の扉が勢いよく外側に開いた。アストルはおずおずとした様子で入っていく。すると本日の主役と言わんばかりに、アストルはまばゆい照明に照らされた。色ガラスで作られたランプに火を灯しているのだ。強い光に軽く目が眩んだが、照らされた側から見えるものもある。
食堂は広いのだろうが、今は所狭しと意志を持ったカトラリーや皿や器、サービングカートがアストルのことをうずうずとしながら見つめている。ユガの言ったことは嘘でなかったのだ。アストルは彼らは自分を歓迎してくれていると知って、途端に嬉しくなる。
「黄玉の瞳の君」
そうアストルを比喩したのはユガだった。彼は目の前のテーブルに堂々とした佇まいで立ち、アストルに対し恭しくお辞儀をした。先程まであっけらかんとしたノリの絵筆は何処へやら。その変貌ぶりに思わず目を奪われる。
「今宵貴方をお迎えできましたことは、最高の誇りであり最大の喜びでございます。さあ、ゆっくりお掛けになってくださいませ」
突然アストルの尻が掬われた。プリンのために誂えられたスプーンのような優しさを感じる。それはユガたちのように喋れはしないが、意思を持って動く椅子であった。アストルは安心して腰と背中を委ねる。
「宮殿の炊事場が腕によりをかけて作りました御夕食をどうか、お召し上がりくださいませ」
一人で使うには長すぎるテーブルを滑り、アストルの膝に飛び込んできたのは幼く純真そうなナプキンだった。きっとこの柔らかく上質な厚手生地であるクリーム色の彼ないしは彼女にも、心と呼べるものがあるに違いない。アストルは子どもの頭を撫でるようにナプキンを膝に広げた。視界の隅にチラチラと同じものが映ると思ったら、アストルに撫でられるのをたくさんのナプキンたちがウズウズして待っている。アストルは少し呆気に取られたが「じゃあ一人ずつ交代だよ」と笑って告げ、ナプキンたちは嬉しいやらでその場で弾み始めた。約束通り食事中、アストルは何度も膝上に置いたナプキンを何十枚と取り替えることになった。
最初は喋る絵筆を見て腰を抜かしたと言うのに、この不思議で魔法のような状況をアストルは楽しみつつあった。料理を盛られた皿は跳ね回りながらも、決してソースやトッピングをこぼすことはない。振りまかれるスパイシーな香辛料の薫りで一気に食欲が増す。見たことのないフルーツを使った輝く太陽の色をした黄色い飲み物を一口飲めば、甘くもスッキリとした味わい。とても寒い大雪に覆われた場所で食べられる料理ではなかった。まるで砂漠の街にいるような気分である。
色鮮やかな食器はまるでサーカス団のように飛び交い、アストルを楽しませるだけでなく割れるんじゃないかとハラハラさせた。こんな経験、村に住んでいるだけだったら絶対にできなかった事! ユガも褒め称えたアストルの黄玉色の瞳が、全く新しい文化を反射してキラキラと星のように輝いた。
自身の頭で指揮をとっていたユガが再びアストルの前にやって来る。彼と会ったのは数時間前だが、今は毎秒喜びの頂点が更新され続けているといった様子なのが理解出来た。
「あぁ、なんて嬉しいのでしょう! やはり誰かが来てくれるということは、とても幸せなことですねぇ」
「ずっと、誰も来なかったのですか?」
アストルはチキンピラフを頬張りつつユガに訊ねた。ユガはコクリと頷き、それから無念そうにべチャリとテーブルにへばりついた。テーブルの天板に向かって喋っているので声がこもっている。
「何年だかもう忘れてしまいました! ワタクシは宮廷画家! しかし美しいもののプロデュースはなんでもしたい! だから晩餐会や宴会の取り仕切りもワタクシがしていたのです! それなのにそれがパッタリと無くなってからは……はぁ……」
深いため息を吐くユガを見ていると、この宮殿で不親切なのはあの野獣だけなのではないかと思えてならない。彼以外は、少なくともこの食堂にいる全員はアストルがここにいることを喜んでいる。
「けれど突然、アナタが来てくださった! お客人がいることの、なんと幸せなことでしょうか!」
「だからこんなにおもてなしをしてくださっているのですね……」
アストルは給仕をしてくれるサービングカートや、本日何枚目かわからないナプキン、更にはたった今口をつけたばかりのスプーンですら嬉しそうにしているのに合点がいった。大はしゃぎな炊事場の雑技団のテンションはいよいよピークに達し、最初は乗り気ではなかったギラヒムですら酔っ払ったかのように陽気に奇妙な踊りを披露していた。
「消化に良いお茶を一杯どうぞ」
デザートとして出されたフルーツケーキは最早ダメ押しである。アストルの胃にはやや重たかったので、アグニムが注いでくれたお茶が有り難かった。そうでなくてもこんなに豪華な饗しを、たった一人の自分のためだけにというのが生まれてはじめて。心も体もすっかりお腹いっぱいになってしまった。
「とても楽しかったです! 素敵な時間をありがとうございます」
「いえいえこちらこそ。こんなに楽しいひとときを過ごしたのは、本当に久しぶりでございましたから」
アストルとユガが礼を言い合っていると、食堂の時計が時間を告げる。そろそろ眠らなければいけない時間だが、アストルは浮き足立っていた。この宮殿は自分の全く知らないもので溢れている。幼心が顔を出し、少しだけ探検したくなったのだ。
「では、ワタシが彼を部屋まで送ろう」
先程までくねくね踊りを見せていたギラヒムが見た目通りに真っ直ぐな態度を取っていたので、アストルはそれが面白く思わず笑ってしまった。だが噴き出した直後に失礼だと思い直し、宮殿への関心に話題を移す。
「ここはまるで魔法がかかったような場所ですね。寝るのが勿体ないくらいです」
「なに!? 誰が魔法なんてことを教えたんだ?! ……キサマだなユガ!」
ギラヒムが誰かに持たれずとも自ら素振りのようにザクザク空気を切りながらユガを追いかけ回す。申し訳ないことをしたと思い、アストルが「自分で気がついたんです」と眉尻を下げながら言うとギラヒムは気まずそうな顔をして即座にユガを追いかけるのを止めた。ユガは軽くギラヒムを睨んでいる。
「せっかく部屋までご案内してくださるとの事ですがすみません、あちこち見て回ってもいいでしょうか?」
ユガとギラヒムは互いを見合う。アストルが少年のように目を輝かせているのを無碍にはしたくないが、自分たちの主人にとってアストルとは……否、ハイリア人とは『敵』だ。それはこの宮殿に閉じこもりがちになってから幾年と経った今でも変わらないはず。入られたくないところへ侵入されたり、見られたくないものを目撃されれば困るのは言うまでもない。
「ならツアーのようにすればいいのではないですか?」
片付けに精を出しながら名案を投げかけたのはアグニムであった。ユガもギラヒムも「そうだそれがいい!」と頷く。
「宮殿の案内はワタシに任せなさい! 何しろこの絵筆は、ぐちゃまらな部屋に籠もってばかりで……」
「つまり、貴方の方が宮殿の中に詳しいって事ですね。権威みたいなものでしょうか?」
「フフン、よくわかってるじゃないか!」
アストルにおだてられていると、ギラヒムは気づいていない。
「はぐれないようワタシに付いてきなさい! 中を周るなら順路はこちらから!」
❋❋
「……迷った……」
好奇心は猫を殺すと言うが、まさにそんな状況である。ギラヒムの案内に従えばよかったものを、あっちには何が、こっちには何が……といった具合にどんどん逸れていった。気がつけばすっかり戻り方がわからなくなっている。
こんなに広くて入り組んだ『宮殿』があるなど、アストルはこれまで聞いたことがない。それこそ、魔法をかけられた宮殿など。ハイリア人にとっての宮殿とはそれ即ち王族が住まうハイラル城であり、それは国の中心に鎮座するもの。決して雪深い場所にあるものではなかった。
「どう戻ろうかな……」
そう口にしながらも、アストルの足は更に奥へと向かっていく。時に冒険心とは、歯止めをかけるのが難しいもの。もしここの主人である乱暴な野獣に怒鳴られても『迷子になっただけだ』と言い訳をすればいいと思ってしまった。
……ここが入ってはいけないと言われていた、西の部屋だと知らずに。
宮殿の大きな玄関よりも、食堂よりも、アストルに与えられた部屋よりも、そこはひどく荒れ果てていた。たくさんの調度品が壊されたまま放置されている。廃棄することもできず山積みになり、まるで墓場か廃屋を歩いているかのように不気味な場所だ。アストルはキョロキョロと視線をあちらこちら頻りに動かし、今に何が飛び出してくるものかと警戒する。
ふと視線を感じてドキリとし、振り返ればそれは壁に飾られた肖像画だった。哀れなことにその肖像画は大ぶりな刃物で切り裂かれたのかキャンバスが剥がれ垂れ下がり、元の顔がわからない。絵の中で無事だったのは、目の部分だけであった。アストルはこの肖像画が湛える目の色に見覚えがあった。覗き込むように見つめているが、それが誰のものだったのか思い出せない。恐らくは、一度見たことがあるだけ。
誰だったか……と思案していると、今度は視界の隅に輝きを感じた。薄暗い部屋の中で明かりの存在は有り難い。アストルはそちらに惹かれて肖像画に背を向け、光源の方を見た。
「わぁ……!」
アストルは透明なガラスのケースに護られながら咲いている薔薇を見つけた。自ら光り輝いており、これは魔法の花なのだろうか。棚や衣装箪笥その他の家具たちが無事で済んでいない中、薔薇が置いてある小さな円卓だけは無傷である。この部屋の主は、よっぽどこの薔薇を大切にしているに違いない。円卓の周りをゆっくり歩きながら、その薔薇が植物ではないことに気がついた。
これは、石だ。正確には、鉱物と呼ぶべきだろう。鉱物の中には、時としてこんな形になるものもあると、いつか読んだ図鑑で齧ったような記憶があった。
「そうだ! デザートローズ! ……でも、どうして砂漠の薔薇がこんな雪まみれの場所に……」
アストルは更に詳しく観察しようとガラスケースに触れ、そっと持ち上げ……ようとした。急に暗くなったので何事かと思い、顔を上げればそこには部屋の主が……いや宮殿の主である野獣が……怒りの形相で睨みつけながらアストルを見下ろしていたのである。
「ここには来るなと言ったはずだ」
「では……ここが、西の部屋ですか?」
「とぼけるな!」
野獣はアストルを押しのけ、ガラスケースをひったくると後生大事そうに薔薇に被せた。アストルは床に尻餅をつきながらその様子を見て、『大切なものだと察しがついていながら』と後悔に襲われる。
「早く出て行け! この部屋から、すぐに!」
言語と獣の咆哮がぐちゃぐちゃに入り混じった怒鳴り声に追い立てられ、アストルは足をもたつかせ壊れた家具にぶつかりながら逃げ出した。
してはいけないことをした! 今回ばかりは自分が悪い。入ってはいけないところに入り、そればかりか『大切なもの』に手を出そうとしたのだ。怒られて当然だろう。今のアストルの頭の中は恐怖と羞恥で埋め尽くされており、一刻も早くこの宮殿から抜け出したかった。
「ど、どうしたんだい!?」
宮殿ツアー中にいなくなったアストルを探していたギラヒムは、大慌てで階段を駆け下りていくアストルに声をかけた。だがアストルはそれを聞き取れなかったらしく、ギラヒムに気づくことなく宮殿から出ていってしまった。ギラヒムはその細い背中を追いかけるが、猛吹雪は剣でしかない彼を室内に押し戻してしまう。
「あっ! おい待ちやがれ! この! キサマが出ていったら……我らの、マスター、は……」
背後から何やら声がしたような気がしたが、アストルは聞こえなかったふりをして雪深く道が失われた道を必死で進んでいった。ここまで至る道を引き返していけば、きっと家に戻れる。だが凍てつく暴風が吹き荒れ、視界は真っ白。どこまで歩けばいいのか見当がつかない。それでもアストルの頭の中は『帰りたい』『あんなところに居たくない』という強固な思考だった。最早これでは『思考停止』と言ってもいいかもしれない。
どの程度歩いたのか確認するため振り返ってみるが、宮殿の影も形も見えなかった。今自分が何処にいるのか、アストルはわからなくなってしまった。寒さで膝を地面に付け、沸騰していた脳内が冷静さを取り戻す。出てきてはいけなかったのだ。こんな天候では、家に帰ることも宮殿に戻ることも出来ない。どんどん身体も心も冷えていく。まるで氷になっていくかのようだ。
項垂れるアストルは、自分が不気味な影に囲まれていることに気付けていない。ひとつ、またひとつと増えていく。雪の下から滲み出るように現れた影は人間によく似ていたがひどくガリガリに痩せており、動く人骨と呼んだほうがよかった。その手には朽ちた武器が握られており、アストルの命を狙っているのは確かである。ヨタヨタとした歩みでありながらも、狙われた者は逃さないという執念を感じた。
アストルは雪を踏みしめる音が複数聞こえたのを不思議に感じた。こんなところに自分以外の人間がいるはずがない。重たげに眠たげに顔を上げると、砂埃を纏った骸骨が何体も自分のことを取り囲んでいたのだ!
『死……ネ、ハイ、リア人』
流砂のような呻きの中に、アストルは呪詛を聞いた。骸骨が武器を振り上げていることにも、やっと気づいた。アストルは冷え切った脚をやっとの思いで動かし、骸骨の輪から逃げ出した。
だが逃げても行く手を阻まれる。別の方向へと切り換えればまた骸骨の兵士たちが姿を現す。それを繰り返す内に全包囲されていた。
『ハイリア人……憎イ……』
『ハイリア人……皆、死ネ……』
「私が、私が何をしたっていうんですか!? 確かに、入ってはいけない場所に入りましたし、人の物に勝手に触ってしまいましたし……。けど、殺すだなんてあんまりですよ!」
アストルは己へ向けられる殺意に困惑しながら、必死に訴えかけた。だが話を聞き入れてくれそうにない。亡者に生者の話など通用するわけがないのだ。生前の未練や執着が、死者であるはずの存在をこの世に顕在させているだけなのだから。物事の道理を異とする者同士が、話し合えるわけがない。
(あぁ、母さん。本当に、二度と会えないなんて)
アストルは目を瞑った。もうどうすればいいのかわからない。逃げられない。このままこの化け物たちに殺されるしかない。これが自分の星回りだと、運命だと、アストルは諦めた。
「お前たち、ここで何をしている」
言い聞かせるような、諭すような、穏やかな語り口だった。そしてその言葉を発する声が、自分を怒鳴り立てた野獣のものだということをアストルは信じられなかった。
『……』
『……』
骸骨たちは何も喋っていない。何を以て彼は意思疎通しているのかはわからないが、目を開ければ無数の骸骨の虚ろな眼孔は野獣へと向けられていた。多くの視線を注がれても堂々とした佇まいは、まるで一国の王である。
「もう戦いは終わっておる」
『デスガ……』
「これ以上刃を向ける必要など無い。その末路が、我も此処も、『此れ』なのだ」
悲壮感すら感じさせられた。アストルの中に、疑問が芽生える。
この野獣は、何者なのだろうか。ただ恐れ、時には口ごたえをしてみた。けれど自分は、この野獣の事を何も知らない。知ろうとしてすらいなかったではないか。
「お前たちも、楽になれ」
野獣の言葉を聞き届けた骸骨たちは、眼孔からサラサラと崩れていった。その様子は涙を流しているようにも見える。砂埃を固めた体は、いつの間にか緩やかになった雪風に攫われるように散っていった。残った骨も砂と化して、白い雪の上に黄土色の小さな山を作る。化け物がいたとは思えぬほど、静かな雪景色が広がっていた。アストルは野獣に話しかけようとするも、口が上手く動かない。ようやっと出せた「……あの」という問いかけも、野獣の言葉に遮られた。
「部屋から出ていけとは行ったが、宮殿から出て行けとまでは言っておらぬ。お前は、我の囚人だ。出ていくことは許さぬ」
「……ごめんなさい」
「立てるか」
すっかり冷たくなったアストルの体は、立つことも歩くこともできなくなっていた。このままでは凍傷になるのも時間の問題だ。野獣は不本意そうな顔をして、アストルの体を抱きかかえた。
「わっ……!」
「暴れるなよ。……まあ、お前のような非力な痩せっぽっちが、我に抵抗できるとも思えんがな」
野獣の口先はぶっきらぼうであったが、アストルの細い体を自身の胸板に押し付けて、落とさぬよう注意を払っているようであった。見かけは剛毛だと思っていた野獣の毛皮は温かく、冬場に欠かせない毛布を思わせる。アストルはその温かさに身を寄せ、そのまま宮殿へと運ばれていった。
続く
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.