生暖かな夜風がさらさらと男の髪の隙間を通っていく。今日は星明りだけの良い夜だった。月は美しいが、過ぎたる輝きは多くの星々の瞬きを阻害する。男は私室の灯りも消し、バルコニーで独り星の光を浴びていた。
……と、部屋の扉を叩く音がした。丁寧に五回のノックがなされる。男は返答しない。だが鍵をかけてはいなかった。来訪者が誰なのかわかっている。
ドアノブが回る音がして、ブーツが床を叩く軽やかで厳かなリズムを数拍聞き届けてから、男は振り返る。
暗闇の中に浮かぶ眩い光。その正体はカンテラではあるのだが、カンテラを持っている青年そのものこそ、男にとっての光であった。
「あぁ……待っていましたよ、リンク君」
「遅くなり大変申し訳ございません、閣下」
「おやおや、堅苦しいのは無しにしましょう? 今ここにいるのは、私と貴方だけなのですから」
「では改めて……。遅くなってすみません、先生」
呼ばれ方に男は満足してニコリと微笑み、こちらへと愛弟子を自身の隣へ案内した。弟子はカンテラをバルコニーの手すりに置いた。
「それで、どうでしょう。私の申し出を、受けてくださりますか?」
男は抱えた緊張を、扱い慣れた余裕の薄布で隠しながら弟子に訊ねる。
申し出。それは男にとって大きな賭けだった。
才能溢れる信仰心の厚い少年は見事、男の信念と技術を受け継いで誇り高き騎士に成長を遂げた。男はこの結果に満足した。
あまりに満足しすぎて、それがかえって男の不安を煽ることになったのは皮肉である。
「とても……とても有り難いと思っています、先生。けれど、ごめんなさい」
弟子の返事に男は急に息苦しくなった。賭けに負けたという現実が喉につっかえて、うまく喋れない。その間にも弟子は自分の想いを打ち明けていく。
「おれが騎士になったのは先生の庇護下で甘えるためではありません。ハイリアの地を、そして民を守るためで、それをハイリアの騎士として一番大切だと教えてくれたのは貴方です、先生」
申し訳無さそうにしかし硬い意志を貫く弟子の横顔が眩しくて、男は目を逸した。
思い通りだ。いや、想像よりも遥か立派に育った。
権力に媚びず靡かず、常に誇り高くあれと教えてきた。常に弱者の側に立ち、彼らを守りなさいと教えてきた。力の振るい方を間違えぬよう、重ねがさね教えてきた。
その姿を憎らしいと感じてしまう自分が、ひどく醜く見える。
「だからおれは、これからも騎士団の一員として在りたい。……本当に、ごめんなさい、先生」
弟子の声が暗くなった。顔を逸らしたので、落胆させたと思ったのだろう。確かに落胆はしていた。だがこれはずっと前に答えはわかりきってきたはず。それなのに、改めて突きつけられるとこうも苦痛を伴うものなのか。
男はひとつ深呼吸をしてから、師としての自分でいようとした。
「い、いいえ……良いのです……。そうで在ってこそ、私は君を育てた甲斐があるというものですから」
「……先生も騎士団に入れたらいいのに」
それは弟子の、ほんのささやかな望みだった。
けれどそれは男にとって、途方もなく残酷な一言だった。
保護者の仮面に亀裂が走り、男は弟子に向かって両手を伸ばす。
「……? 先生……? ……ッ!」
男の節くれ立った大きな両手が、弟子の美しく生白い首を絞めつけた。
この子は何故こんなに綺麗なのだろう。
この子は何故こんなに気高いのだろう。
この子は何故こんなに美しいのだろう。
見た目の話ではない。その心の在り方が眩しくて目が潰れてしまいそうだった。
自分は何故こんなに汚れているのだろう。
自分は何故こんなに堕落してしまったのだろう。
自分はなぜこんなに醜いのだろう。
この子が美しいばかりに、自分の醜さが際立ってならない!
「せ……ん、せッ……、なん、で……ッ」
弟子の苦し紛れな呼吸の狭間の声も、男には届かない。届いたとて、今の男にとって弟子の哀れな喘鳴は興奮剤にしかならなかった。
この子の命は自分の手のひらにある。生きぬも死ぬも自分次第。なんて心地よい、なんたる快楽!
と同時に男は、巨大な鉄の塊……その鋭角が自らの額にぶつかるような衝撃を受けた。目が覚めた。自分が愛弟子にしていることに気がついたのである。
ありったけの愛憎を込めていた手を放す。弟子は支えを失ってゴロリとバルコニーに倒れ込んだ。男は自分が恐ろしくなり、体をガタガタと震わせながら部屋の中へと逃げた。
「せん、せ……?」
「来ないでください」
恋など一度もしたことがなかった。それなのに、自分の口ぶりときたらまるで恋破れた女のようだ。来てほしくない、顔も見たくない。来てほしい、慰めてほしい。矛盾する感情が男の中でぐしゃぐしゃに絡み合い、しかし決して一つになることはなかった。
「来ないでください、リンク君」
「でも、」
「次に君を見たら、私は今度こそ君を殺してしまう」
弟子は落ちてその役目を喪ったカンテラを拾い上げ、寝台にうずくまって啜り泣いている師を見た。この人はこんなに弱い方ではないはず、これはきっと何かの間違いだと……そう思いたかった。
「行ってくださいリンク君。私の中の醜さが君を手にかけぬ内に!」
「先生、おれはッ……」
「早く!」
男と弟子の視線がかち合った。弟子は戸惑いながらも男の部屋から出ていった。
これで良い。こうしなければ自分は我が子も同然のあの子を亡きものにしてしまっていた。
そのはずなのに、こんなにも後悔している。
どうして君は私のものにならない。
私の側にいてほしいだけなのに。
私の側で、いつまでも可愛い君でいてほしかった。
何も知らない、無垢で無知な子でいてほしかった。
私の庇護が必要な、私の弟子でいてほしかった。
私を上回る才能を、私のものにしておきたかった。
あぁ、これが、『嫉妬』
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.