最近「先生」の様子がおかしいとアストルは思っていた。夜中にふと目が覚めて先生の仕事部屋を覗けば、デスクに向かって大きな天体図や古めかしい本に囲まれ、何やら書き込んでいる後ろ姿が見えた。二人してベッドに潜り込んでいる間も、アストルのことを見ているようでもっと違うものを見ているように感じる。
先生は研究熱心で、夜遅くまで仕事に夢中になるのも珍しくはなかった。自分を誰かの代わりにしているような節も、確かにあった。けれどこんなに輪をかけたような夜ふかしはなかったし、あそこまで自分の心の奥底を見つめるような目は知らない。
最近の様子と言うものの、夜通し作業のせいで昼間に寝てしまうことも多く、辛うじて起きていたとしても目の下に隈ができてせっかくの美人が台無しだった。先生、ちゃんと夜に寝たほうがいいですよとアストルが言っても「私は普段ちゃんとできるから」と聞き入れない。
そう言えばそうなのである。先生は夜なべして作業をしようとも、アストルが起きる頃には窓辺にあるテーブルで紅茶を啜りながら優雅に読書をしていた。錆びついた金髪を朝日が美しく照らし、「おはようアストル」と穏やかに微笑む姿はまるで後光が差す天使のよう。夜も美しいのに変わりはないが、どちらかというと若い娘を美貌で誑かす悪魔のようだった。月と星灯り、そしてベッド脇のランタンにうっすら照らされた先生の肉体にアストルは何度も息を呑んでいる。長い髪と腕に絡め取られ、自由と声を喪い、アストルは自分がどこかで先生の美に耽溺しているとすら思えてしまった。
しかし今はひどいものだ。髪は傷み、美白とは言い難い不健康な肌色。不摂生で元からほっそりしていた体は更にやつれて見える。常に美しく整った姿を見てきただけに、アストルは先生の現状を異常だと思っていた。
それでも先生は夜ふかしでの作業をやめる素振りは見せず、夜はアストルの心を見透かしたような目で見つめてくる。アストルは自分と同じ色の瞳で先生に見つめられると、心做しか先生と自我を共有しているような気持ちになった。不思議なことだが……そのせいで先生が「おかしく」なる前よりも充足感を覚えている。
先生がボロボロになっていくのは見ていて痛々しいけど、こんな先生ならずっと「僕」を見てくれるかもしれない……アストルはそう思ってしまえるのだった。
❋❋
「先生?」
ある日の朝、アストルは何時までたっても起きてこない先生が心配になり、彼の仕事部屋へ足を踏み入れた。勉強のときくらいしかこの部屋には入らない。何の気無しに入って先生の気が昂ぶっていたらろくな目に遭わない。経験済みであった。
しかし日が少しずつ天頂に向かいつつあるのに目を覚まさないとなると、さすがに心配になる。徹夜は体に悪いと言うし、年齢は不詳だが宮仕えをしているのだからそれなりの歳ではあるはず。先生にはあまり無茶をしてほしくなかった。
「先生……?」
相変わらずうず高く積まれた資料に囲まれて、先生はデスクに突っ伏して穏やかな寝息を立てていた。少しでも先生が身を捩らせれば、積まれた文献やら星図はあっという間に倒壊して先生を生き埋めにすることだろう。起こそうにも起こせないとアストルは戸惑った。
「あ、あの〜ぅ、先生?」
肩にちょんっ、と指先を一瞬つけてみた。だが起きる様子はなく、かなり深い眠りに落ちているらしい。顔を覗いてみれば、なんと涎まで垂らしているではないか。ここまで先生が「人間らしい」と、アストルの胸はなんだかジィンと熱くなる。人ではない美しさを纏っている先生の、その纏う薄布のほつれから素顔が見えた気がした。
「おやすみなさい、先生」
邪魔をしたくない、というのがアストルの至った結論だ。近くにあったブランケットを掴んで、肩からかける。
自分がベッドの上で気絶してしまったとき、先生はこんな風に優しくしてくれるていのか……と、アストルはふと思った。
「ん……、」
男は机や棚、床にまで雪のように積まれている資料にうずまって眠っていた。椅子に座ったまま眠っていたせいか、全身がギシギシと痛んでいる。もう体は若くないということを思い知らされ、男は寝起きにしがちのぼんやりした目をしながら後頭部を掻く。豊かだが錆びついた銅線を思わせる髪を指先で軽く通した。あとから櫛を入れればいいだろうと髪を緩めに束ね、フラフラとした足取りで自室から出た。
「……アストル?」
男は、同居している教え子の名前を呼んだ。あの子は今の自分と違って「特に何もしなかった夜」の翌日はきっちり朝から起きている。すべての部屋を確認して回ったが、教え子の姿はどこにも無い。
逃げられたか、と男の背中を悪寒が走る。これまであの子にしてきた扱いを思えば、ここから去っても同然ではないか。ほとんど無理やり、まるで拐うように連れてきたのだし、仕方がない。
母を喪ったあの子に自分が何を感じていたのか、最近はわからなくなってしまった。
「ぼくは、あの子を……」
「先生、今帰りました!」
屈託のない、朗らかな声に男はハッと顔をあげる。狭い廊下の向こうに……玄関に食材がパンパンに詰まった手提げ袋をぶら下げた少年が立っていた。
「アストル、一体どこに……!」
ドタドタと荒く床を踏みしめ、男は教え子の肩を強く掴んだ。アストルは驚いて身動きがとれない。怯えているのか、自分と同じ色の瞳が震えている。男はグッと息を呑んでからアストルの肩から手を退け、よりその小さな体に抱きついた。
「せ……先、生……?」
か細い背中に腕を回し、自分の胸板を少年の上半身に押し付ける。男は「アストル、アストル、」と少年の名前を呼びながら涙を流した。
「……心配かけて、ごめんなさい」
男は自身を先生と呼ぶ少年の手のひらを頭頂部に感じ、そこが傷口に水を注いだように心がじんじんと沁みてならなかった。
「これ以上内緒にするのは、君を心配させすぎてしまいそうだからね。観念するよ」
先生はそう言って、仕事部屋のデスクに備えられた引き出しを開ける。木の板を組み合わせた深めの引き出しに入っていたのは大きな箱。アストルはそれを手渡され戸惑っているが、「開けてご覧」と先生が穏やかに微笑むので開けるしかなかった。
黒い箱の中の蓋を開けると、金色の輪っかが幾重にも重なって出来た枠だけの球体が流線型の三脚の上に乗った、不思議な置物が入っていた。アストルはそれの正体を瞬時に見抜く。
「これ……渾天儀、ですよね?」
「あぁ、そうだよ」
「どうして僕に?」
「君は私の弟子じゃないか。星読みなら直接星を見ることが大事だが、見たものをこうして第三者の視点で構築し直す力も必要だ。私達には、欠かせないものだよ」
「……どうして、今?」
先生はクスリと笑い、本当はもっと先に渡すはずだったんだと言って暦を指さした。
「この日に渡すつもりだったんだ」
「えっ……?」
アストルは先生が指差す日にちにどきりとする。その日は紛れもなくアストルの誕生日だった。しかしアストルは先生に自分の誕生日を教えた記憶はない。
「調べるのに随分苦労したよ。特に君の性格や思考、好みから大別される人格傾向を割り出すのにね。君は本当に複雑で繊細な心を持っているみたいだから、あっちこっち振り回されてしまって。そこから更に季節と月を割り出して、日にちもピンポイントで当てる必要があるものだから、もう大変で」
「じ、じゃあ先生は、僕の誕生日を調べるために、ずっと夜ふかしを……?」
「……君を、驚かせたくて」
先生の頬が心做しか赤く染まっているように見えた。どうやら照れているらしい。不摂生から先生の容姿がひどく損なわれていることなど、今のアストルには気にならなかった。先生が自分のためにしようとしてくれたことがただただ嬉しくて、帰宅した自分に先生がしてくれたように、今度はアストルが先生に抱きついた。
「ありがとうございます、先生」
先生は何も言わなかった。けれどいつもと違う、温かい手のひらが頭を撫でる感触だけでアストルは満足だった。
終わり
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