夜空を映す大河の如き髪を肩まで切り落としたアストルだったが、スッパはその魂を縛り付ける呪いが解けたとは思えなかった。夜な夜な苦しみながら譫言を呟いているのを石の壁越しにスッパは知っている。アストルはそれを覚えていないのか、はたまた知られたくないのか平然としていた。
自分の腕の中で号泣したあの姿を忘れられない。アストルは明らかに何かしらの傷を負っている。だからこそ、スッパはアストルに追及できずにいた。辛く悲しい記憶など、態々思い出す必要も無い。けれど何があったのかどうしても気がかりだ。話せば多少は軽くなることもあるはず。
アストルに与えられた部屋を覗く。どうやら部屋主は留守にしているらしい。厄災が宿っているという小さなからくりもアストルと共に出払っているのか姿がない。失礼致すと思いつつ、スッパは誰もいない部屋の中を探索し始めた。
部屋の中は至極整っている。彼がここを使い始めてから初めて訪れたときは陶器が割れ、椅子がひっくり返り、シーツがグシャグシャになっていた。今ではそれらの出来事など最初から無かったかのように見える。
だが唯一部屋から撤去されたものがある。全身鏡だった。
割れたり破損したものは処分しなければならないが、全身鏡は特に壊れたというわけでもない。アストルは忌むようにそれをここから追い出した。彼は鏡を嫌ったが、化粧をするのには必要だ。そのため自分以外が映ることのない手鏡だけを置いている。鏡に何がいるのかスッパにはわからない。アストルは占い師であることから何か恐ろしいものでも目にしたのだろうかと勘ぐるが、それにしてもあそこまで取り乱す理由とは……。
あれこれ考えたところで答えは出なかった。アストルが今のスッパを見たとして、その始まりの姿を想像できそうにないのと同じで。
「やはり聞かねばわからぬか……」
「何を聞くのだ?」
一人呟いた言葉に返事が来て驚き、スッパは振り返って部屋の入口の方を見る。そこにはニヤニヤしながらこちらを見据えるアストルの姿があった。先日号泣しながら自分の腕に収まっていた者と同一人物とは思えない態度だ。
「お前、私の部屋で何をしていた?」
「じ、自分はただ、占い師殿の心配を、」
「私の心配?……あぁ、もう何も気にすることはない。もう見えないからな」
「やはり、占い師殿には何かが見えていたのでござるな?もののけの類か?」
スッパの問いかけにアストルは口をつぐんだ。余裕ぶった姿は消えて、目を泳がせている。
「自分が思うに、占い師殿はその何かしらに呪縛を受けているようなのだ。もちろん、無用な心配ならば良いとは思うのだが」
「……やめてくれ」
「……占い師殿?」
「その話はしないでくれ、頼む」
アストルは頭巾を深く被り、スッパの言葉を拒絶した。アストルにはやはり何かある。そしてそれに触れられたくないのだ。
「取り乱した私を落ち着けてくれたことには感謝する。だが、それに関して話されるのは別問題なのだ。この話をするために来たのなら、出ていってくれ」
「そうか……すまなかった」
スッパはアストルの様相に謝罪以外の言葉をかけられなかった。そもそも不在の間に部屋に侵入するということ自体間違っていたのだ。
「失敬した」
アストルに深々と頭を下げ、スッパはその場から立ち去る。アストルはそれに返事をすることもなく、寝台の上に身を投げるとようやく頭巾をぱさりと外した。
「あ奴……」
唇を引き締め、脳裏にぼんやりと浮かぶ影を振り切るように首を強く振る。もう鏡のどこにもいなくなった。そのはずだった。それなのに、その姿がいつまでも瞼の裏に貼り付いている。剥がしても剥がしても、それを嘲笑うように彼は現れる。
「もう、もうやめて……もうやめてください……先生……!」
啜り泣くアストルの声を、扉の直ぐ側でスッパは聞いた。
❋❋
(アストル、どうして髪を切ったんだい?)
貴方にそっくりな僕を見たくないだけです。
(アストル、どうして私から離れたんだい?)
貴方が僕にしてきたことが、どんなことなのか知ったからです。
(アストル、どうして私を見殺しにしたんだい?)
それは……それは……
(アストル、どうして、どうしてなんだい?)
どうして、どうして。どうして、どうして。四方八方から責めるように声が吐き掛けられた。まるで喀血を浴びているよう。あの人はどうやって死んだったか。気味の悪い正体を明かした小さな厄災が、あの人の体をどう処理したんだったか。
覚えていない。いや、思い出したくない。あの人から噴き出した血は一体どんな温度だったか。春の終わりかけのようなぬるい血は、紛れもなく終わりゆく彼の命を象徴していた。
『アストル、たすけてくれ』
あの人の手を拒んだ。厄災は自分を選んだのだから、もう彼のところにいる必要はないと。
あの人の星が死んでいくのを、自分は見届けなかった。
「占い師殿!」
「スッパ……?」
アストルは自分が汗びっしょりになっているのに気が付いた。真っ暗な部屋の中にいるのは布面をつけた筆頭幹部。目の前にいるこの男はどうしてここまで自分に気を使ってくれるのか、とにかく理由がわからない。
理由がわからないのが、怖い。意図が読めない。あの人のように。
「魘されていた故……起こさせてもらった。恐ろしいものに見入られ取り憑かれているのかと」
「ぁ……」
「良くないものが近くにいるのではないか?」
アストルはスッパから視線を逸らす。いや布面をつけているのだから視線がどこに向かっているのかは厳密にはわからない。それでも彼と視線を合せるのが怖かった。彼の行動理由がわからない。それだけで。
「団には祈祷師がいる。相談すれば祓ってくれるやもしれぬ。だから話してくれぬか、占い師殿。そなたは何かに取り憑かれている。そうとしか思えぬ」
「……何故お前はそこまでして私に入れ込む」
アストルは俯く……が、顎を太めの指でゆるく掴まれて持ち上げられた。その先にいた彼の顔は、自分と近い年の青年の形をしていた。
「そなたが自分と似ているように思えたからだ」
続く
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.