調子が狂ってしまったのか、とアストルは自分の行動を振り返りながら考えた。あれほど憎らしくて堪らなかったはずの彼女に対して、それに準ずる感情が日に日に目減りしていくのだ。彼女に抱きしめられたあの瞬間、アストルの心の中を何かが満たした。それからというものの、明らかに自分は彼女への悪感情を失っていっている。
下らんと一蹴しようとした。だがどうしても忘れられない。自分より細いはずの彼女の柔らかな感触が、同じ目にあってきたはずなのに優しすぎるその心が……母に似た温もりが。あんなに甘くされては、自分が彼女にしてきたことの冷たさが際立って仕方ない。
「なあ」
距離を置き始めてから、初めてアストルは彼女に声をかける。こちらを向いた彼女は花が綻んだように嬉しそうな笑みを浮かべていた。何をそんなに喜んでいるのか、アストルには理解できない。あれほど自分を傷つけた相手が目の前にいるというのに。
「……何故そんな顔をする」
「ご、ごめんなさい……貴方の方から声をかけてくれたのが嬉しくて……つい」
不可解だと眉を寄せれば、彼女はまたおどおどビクビクとした態度を取る。その顔を見てアストルはこれまで腹を立てていただけなのに、少しばかりの焦りが生まれた。そんな顔をさせたい訳ではないと。
「す、すまぬ。怒っているわけではないのだ。ただ、お前の思うことが理解できぬだけで」
「わからない、のですか?」
「ついこの前まで自分を傷つけていた奴に対して、どうしてそんな言葉をかけられるのか……私にはわからぬのだ」
「……そっか」
彼女の方から一歩、また一歩とアストルに近づいてくる。彼女が何をしたいのか、アストルは少しだけ理解してこわごわと腕を広げる。ただ彼女を正面から見つめる気にはなれず、やや視線を横に逸らす。彼女はそれに残念そうな様子は微塵も見せず、ニコリと笑ってアストルを抱きしめた。痩せた体をしているお陰で、彼女の腕の長さでもアストルの背中を覆うことができた。
「答えは簡単よ。私は貴方のことが、大好きなだけ」
「……だからといって、あんなことを許して受け入れることができるなど……」
アストルは自分と造りが異なる体に触れて、少々気恥ずかしくなった。自分とよく似ているとはいえ女の体をここまで意識したことなど無い。以前受けた抱擁は戸惑いのほうが大きかったが故に、そこにまで頭が回らなかった。うっすらと存在している胸の双丘、さわり心地の良い柔肌、ほんのりとした甘い香り……。それを堪能できたらどんな楽園が見えるのだろうと思ったところでアストルはハッとする。馬鹿な、これは私だ。自分に対してこんな感情を抱くなど、倒錯もいいところ。そう考えても、彼女はとても美しい見目をしていた。自分以上に彼女は母に似ている。
「……お前は母上にそっくりだ」
「お母さんの顔、知ってるの?」
「私が齢十を迎える前に亡くなったがな」
「そう……羨ましいな」
「どういうことだ?」
「私、お母さんの顔を見たことがないの」
「は……?」
「産後の肥立ちが悪くて、そのまま死んじゃったから」
そんなバカな、とアストルは星色の目を見開いた。彼女が自分ならば母に慈しんでもらったはず。だからあのような母の真似事をできたのではなかったのか。では彼女の行動は一体何を基としているのか。アストルは恐る恐る問いかける。
「ではお前は誰に育てられた」
「お父さんだよ」
「父親を知っているのか」
「うん。でも、お父さんは私を憎んでた」
「何故」
「私が生まれたせいで、お母さんが死んじゃったから」
彼女はアストルからそっと離れ、俯いて唇をキュッと引き締めた。きっと泣くのを堪えているのだろう。辛そうな顔を見てアストルはジクリと胸の奥が痛んだ。これまでのことを考えればそんなのありえないはずなのに。
「なんと愚かな……生まれたばかりの子に罪があるわけなかろう」
「そうだよね。でも、ずっと私が悪いと思ってた」
「そんな父親に育てられて、よく生きていたものだ」
「私の面倒見るの、嫌々やってる感じだったよ。悪さをした覚えもないのに家の中に入れてもらえなかったし」
酷い親だ、と言おうとしたがアストルは自分にその資格が無いということに気が付いた。むしろアストルの方がたちが悪い。ただ姿を見て腹が立ったという理由だけで彼女を虐げ、罵倒し、殺そうとした。そしてそれで快楽を得ていた。まるで自分は彼女の父親のようだと思った。
「家は村にあったはずだろう。そんなのを村の者たちが放っておくわけが無い」
「お父さんも何かやらかしたらしくて……そんな人の子どもだからお前もロクな人間じゃないってレッテル貼られて、あちこちでいじめられたの。子どもからも、大人からも。守ってくれる人は、だぁれもいなかった」
これが自分だと?アストルは更に疑う。彼女は自分よりも真っ当な人生を送れていないではないか。村の者との交流こそ殆ど無かったが、自分には守ってくれる人がいた。それを喪い狂っていったのは事実だが、彼女の方がよっぽど狂いかねない人生。こんなことでは常に怯え、周囲の目を気にし、謝ることしか知らないのも仕方が無いではないか。自分はそんな彼女に何ということをしていたのかと、遅すぎる後悔をしていた。
「でも私を救ってくださった方がいたの。私はここにいてもいいのだと認めて、私のすることを褒めてくださる方がいたのよ」
「……まさか」
「ええそう!ガノン様よ!」
彼女は恍惚とした表情で厄災を思い浮かべていた。しかしここにいるということは彼女も厄災に食われたのでは無いのか。それでいて尚、彼女は厄災を慕うというのか。自分も厄災に対して盲目だった時期はある。それを鑑みてアストルは彼女にもう少し訊ねる。
「厄災は何を以てしてお前を救った」
「あの方と出会ったのは……そう、とても寒い日のことだったわ……」
お父さんに締め出されて、私は寒空の下で震えていたの。満足に服も与えてもらえなくて、ボロボロになった布切れをなんとか重ねて寒さをごまかしていた。肌を刺すほどに空気は冷たくて、そんな私に対して誰もが見て見ぬ振りをしていたの。
外で私が唯一楽しかったのは、星を見ること。星を眺めている内に、その意味を読めるようになったの。そして星たちは、私に起こる新しい運命を告げていた。そこで出会ったのが、ガノン様だったの。
小さなからくりのお姿だったからそのことに気がつくはずも無かったんだけど、あの方は家のドアの前で膝を抱えて震えている私に手を……いえ、蛇腹の足を差し伸べてくださった。機械熱が出てるのかあの方はほんのり温かくて、寒くて凍えそうだった私は今思えば無礼にもあの方を抱きしめていた。最初は不思議なからくりが私を慰めてくれたんだと思っていた。けど違ったの。あの方は私を選んでくださったのよ。
村の近くの小さな林が私とガノン様の逢瀬の場だった。あの方と出会って、私は本当に楽しかった。ずっと一人ぼっちだったから。けど村の子供達にそれが見つかって、私はからかわれた。何も言い返せなくて、やっぱり怯えることしかできなかった。そしたらガノン様は、目の部分から光線を出して威嚇したの。びっくりした子供達は逃げ出して、それを見た私はあの方にこう言ったの。
この村を焼いてください。そうすれば私は貴方に付き従います。
ガノン様は私の願った以上に、お父さんも村の人達も巻き込んで村を焼いてくれた。私がガノン様と一緒にいるのを見て、今すぐやめるように言ってくれってみんな懇願した。でも私を助けてくれなかった人を助ける義理なんて無いわけだし、私はその言葉を無視してガノン様が村を焼いてくださるのを見つめていた。あいつらの悲鳴はとっても心地よかった。
それから私は焼け野原になった村を捨てて、ガノン様と道を共にしたの。
「……俄には信じがたいな。厄災が人の子を慰めるとは」
「でも本当よ。あの方は私を教え導いてくださったの。あの方のお陰で、今の私がいる」
「だがここにいるということはお前も奴に食われたのだろう?それでも未だに奴を慕うのは何故だ」
アストルからすればその疑問は揺るがない。いくら窮地を救ってくれた存在とはいえ、復讐を手伝ってくれたとはいえ、結局厄災は彼女を駒としてしか見ていなかったはず。彼女は首を横に振った。
「道具として選んでくれただけでも、私は十分幸せよ。あの方のためになれた。その事実は変わらないもの」
彼女の横顔に、アストルは自分と違う強さを見た。確かに彼女は弱い。だが弱いなりに彼女は強かだ。利用されてもそのことに憤らず、ただただ運命を粛々と受け入れている。きっと彼女のことだから、食われるときも喜んでその身を差し出したのだろう。情けなく悲鳴を上げていた自分とは大違いのはずだ。
「……訂正させてくれ、お前は強い」
「ううん、私は弱いままでいいの。弱いまま生きていく。それが私だから」
その覚悟がもう大したものだとアストルは言いたかったが、言葉を飲み込む。借り物の力に溺れていた自分と弱さを受け入れた彼女には、天と地ほどの差があった。
❋❋
あれから二人は色んな話をした。星の話、占いの話。二人は「同じ」だったから、当然話は合った。自分と話していて楽しいと思うのは少々イカれていると感じたが、生きていく上では常に自身との対話の連続。アストルはこれまで自分を優先しながらも自分を無視していたことに気がつく。何故もっと早くこんな態度を取れなかったのだろうとアストルは悔いた。彼女へ暴虐を働いた自分を恐ろしく感じ、それをなかなか謝れない自分に苛立っていた。悪いことをしたら謝らなきゃだめよ、と母から教わっていたはずなのに。彼女に謝れば彼女はいなくなってしまう気がして、アストルはずっと二の足を踏んでいた。
「お前」
「どうしたの?」
「……その、お前を抱きしめても、いいか?」
彼女はパッと明るい笑顔を浮かべ、その場にしゃがんで両腕を広げた。アストルは「ふ、」と微笑ましい気持ちになり、膝を曲げるとそっと彼女を抱きしめた。彼女の体は温かく柔らかい。それだけで充分だった。
「あんなことをしてすまなかった」
「大丈夫。私のこと、嫌いだっただけなんでしょう?」
「否定できぬな。だが今は違う。お前が愛しい」
アストルは彼女の顔に垂れている三つ編みをそっと退かせて、薄桃色をした唇に自分のそれを重ね合わせた。触れるだけのキス。それ以上はいらない。愛と肯定を示すだけならばそれだけで足りた。口を離せば彼女はとろけそうな笑みを浮かべ、その頬に手を添えれば向こうから頬ずりをしてくる。
「……よかった、貴方が私を……"自分"を好きになってくれて」
「本当にすまなかった。お前を蔑ろにして」
「ううん、いいの。……もう大丈夫ね」
「何がだ?」
「戻るときが来たわ」
これからはずっと一緒よ
目を覚ますと、アストルは見覚えのないベッドに横たわっていた。
終わり
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.