ナスカ
2021-07-30 14:11:00
11124文字
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甘ったるい猛毒を 下

前回のお続き。ちょっとアレなシーンはあるけど直接な描写は特に無いからたぶん平気……のはず(((

温かくふんわりとした、しかしどこかざらついた感触。肌をうっすらと焼くように優しい熱を孕んだ空気。下半身を撫でるように寄せては返す、冷たい……けれど慣れ親しんだ波の肌触り。
ロベリーが目を覚ますと、目の前には赤い蟹が歩いていた。肌が濡れていないことに気がついた。髪はたゆたっておらず、重力に従って毛先が下へと向かう。何よりも、さっきまであったはずの尾ひれが無くなって、立派な二本の足が腰から生えているのである。
「なっ、なっ……!これは……!」
上半身を起こし、腰は浅瀬に浸かった状態でそっと足を動かす。左右別々に動くし、足の指まで自由自在だ。ロベリーの表情は驚愕から歓喜に変わる。
「ヒューマンの、体……!してくれたんだ、あの人は、本当に……!」
思わずはしゃごうとしたその時、代わりに自分は何を失ったのかということを考えた。見た所、特に何かを失った様子は見られない。もしかするとあれはコーガが自分の覚悟を試すために話した嘘だったのかもしれない。そうだったとしたら、それほど幸運な事はないだろう。自分は何の犠牲も無く人間に変わることができたのだ。
「けど……まずはどこへ行けばいいのでしょう……
これまで作ったものを誰かに見せようにも、作ったものは全て海の底に置いてきたままだ。海に戻ることは今のロベリーにはできない。早速八方塞がりだ、と人間になれた喜びはどこかへ飛んでいってしまった。
「おーい!お前、どうしたんだ!」
ふと海とは反対の方から知らない声が聞こえてきた。ロベリーは振り返る。そこにはやや高い崖が何段かあり、人間の男が一番低いところに立っていた。もしかし自分に向かって言っているのかと思い、自身を指さして首を傾げる。そうだお前に言ってるんだ、と声の主は立っていた場所をピョンと乗り越えて浜辺へと降りてきた。軽い身のこなしにロベリーは驚く。
「こんな夕方に素っ裸で、何してたんだお前」
「そ、その……。スイムしてました」
「スイム?泳いでたってことか?にしたって、全裸はマズイだろ全裸は……
人通りは少ないほうだけどこんなところに全裸の男がいたら露出狂って言われるぞ、と注意を受ける。露出狂とは何ですか?と聞けば、男は目を丸くした。そんなに変なことを聞いただろうかとロベリーは頭の中が疑問でいっぱいになる。
「お前、どこから来たんだ?」
「ミーは……ミーは、その……
海の底から、など間違っても言えない。頭がおかしいと思われると考えたが、露出狂が何なのかと尋ねた時点で頭がおかしいと思われたことにロベリーは気がついていないのである。
「言葉がちょっとここと違うな。もしかして、別の国から来たとか?」
「い、イエス!イグザクトリーです!ミーはちょっと遠いところから来ました」
「じゃあこっちの言葉を知らなくても仕方ないか。旅行……って感じでも無いしな……。何かあったのか?」
「ランナウェイ、した、感じです」
家出か……と男は唇を尖らせた。見知らぬ人に世話になるのも申し訳なく、ロベリーは立ち上がって男の元から去ろうとした。
「おいおい!どこに行くんだお前!」
「とりあえずブラブラします。やっとここに来れたんですから」
「だからそのままだと露出狂扱いされるっての!」

❋❋

「ワンダホー……これがヒューマンの住処なのですね……
……なんかお前が人間じゃないみたいな言い方してんな」
「き、気にしないでください!」
結局ロベリーはこの男に連れて行かれることになった。服はとりあえず男が着ていた上着を貸してもらい、靴まで借りるわけにもいなかったので裸足で。男の家はロベリーが漂着していた浜辺のほど近くで、見事なオーシャンビューの屋敷だった。木造ではあったが塩害対策で何かしらの塗装がされており、要所要所にはセメントが使用されている。細かい装飾やレリーフがさりげなく使われた外観は気取らない造りで、控えめながら豪華さを感じさせた。が、ロベリーの関心は「これがどうやって作られたのか」というところに向く。
「こんなヘビーなものをどうやって上に持ち上げたんです?ヒューマンはそんなに力持ちなのですか?ユーよりも身長がトールな方がいるということなのです?それにこのディティールはどうなって」
「質問は一つにしてくれるか?オレの口は一個しか無いんだ」
玄関の扉を開けながら男は苦笑する。ロベリーは自分はどこにいても変わり者なのだと思うしかなかった。人魚だろうと人間だろうと、自分の性は変えられないのだと。
「さ、入った入った。ウチはオレ以外住んでないから、遠慮はいらないぞ」
「お邪魔、します……
大きな玄関ホールに入ると目の前には二階へと続く大きな階段がある。その階段の手摺の端と端には小さなランプシェードが置かれ、天井にはクリスタルで作られたシャンデリアが揺らめいている。外は日が暮れ始めているというのに部屋の中は明るい。海は日が沈んで暗くなればそれで就寝だったが、これならば日が沈んだあとでも好きなように活動できる。人間の技術は目を見張るものばかりでロベリーはもう二人分の目がほしくなった。いや、それでも足りないかもしれない。見るものはたくさんあって、一生かかっても自分の知らないことは世界のどこかにあるのだろうと思える。
「くしゅっ……!」
「おっといけねぇ。このままだと風邪引くな。風呂に行こう」
「風呂……?」
お前の国には風呂も無いのか?と男はもう慣れたように笑った。ロベリーの国はどんなものだと思われているのだろう。風呂も無ければ露出狂という言葉も無い。この国の常識が当てはまることはまず無いと思われているに違いない。
風呂場も大きく、ツヤツヤとした巨大な一枚岩をくり抜いたような湯船がドンと置いてあった。大人二人が余裕で入れる大きさを誇るそれに湯を張りながら男はロベリーを見ていたが、ロベリーはどこか恥ずかしそうに借りた服を脱げずにいた。別に男同士なんだから恥ずかしくもねぇだろ、と言う男にロベリーは少々言いづらそうに男を見る。
「その……あまり、驚かないでほしいのですが……
「ん?もしかしてブツがちっさいのを見られるのが嫌だったか?これは失敬失敬」
そう言うと男はクスクス笑いながらロベリーに背中を向けた。ホッとしたロベリーは貸してもらった服を脱いで籠に入っていたタオルを腰に巻きつける。そしてもわもわと湯気が立ち上る浴槽にそっと足をつけた……が、思わぬ温度に驚いて足を引っ込めた。
「ひっ!?ホ、ホット!?」
「そりゃそうだろ、風呂なんだから」
「ホワイ……どうしてウォーターがあったかいのでしょう……?」
「これはお湯だ。水を温めるとこうなるんだ」
「水を、温める……?」
水だらけのところで生きてきた。確かに多少水温が温かいところはあったがぬるいにも届かない程度で、こんなに温かな水に触れるのは初めてだった。全てのことにおっかなびっくりな反応をするロベリーを男は面白がる。
「まあまあ入ってみろや」
ごくんと息を呑み、ロベリーは意を決して湯船の中へ足を入れる。もう片方の足も。そして腰を、腹を、胸を湯の中へと沈めた。
「あー……なんか、気持ちいい……です」
ロベリーは自分でも気が付かぬ内に目を閉じた。全身の血管が広がり、血の巡りが良くなる。収縮していた筋肉がほぐされて体から力が抜けていった。温かい水がこんなに心地良いなんて、と思わず笑みを浮かべる。
「風呂はいいもんだぞ。毎日入っても飽きない」
「エブリデイ?毎日入れるのですか?」
「おう。この国は上下水道がしっかり整ってるからな」
「ジョーゲスイドー……?」
今度は上下水道とは何ですかという問いが飛んでくるかと思って男は身構えたが、ロベリーは一人考え込んでいる。人に聞いてばかりではなく自分で考えてみることにしたのだろうか。けれど風呂もない国で水道という考え方があるのな甚だ疑問だ。考えてもわからなければ教えれやればいいと男は思った。
「知りたいならオレが教えてやるよ」
……なんだかユーは、ミーの知り合いによく似ていますね」
「知り合い?」
「イエス。ミーの知らないことをたくさん知っていて、色んなことを教えてくれました」
「ほーん……
ロベリーはそのあとも、ヒーはとても物知りで、でもちょっと風変わりで、面白い人で、と知り合いのことを楽しそうに語った。話を聞くほどに、男はその知り合いと自分の共通点を考えてしまう。
「そういえば、ミーはまだユーにネームを言ってませんでしたね。ミーはロベリーといいます」
「これまた変わった名前だな。オレは   だ」
ロベリーは今も、男の名前を思い出せずにいる。

❋❋

男に服を借り、食事も共に済ませ、ロベリーは客室に滞在するよう言われた。どうして知らない人間相手にここまでしてくれるのかと問えば、「家出坊やを放っておく訳にいかないだろ?」と言われた。ミーはボーイではありません、一応アダルトです!と答えれば「ハイハイ」と受け流される始末。絶対に大人だと思われていない、とロベリーはむくれた。男はおやすみを言ってロベリーに与えた客室から出ていった。
初めて人間になった特別な日。なのにロベリーは窓から海を眺めてしまう。自分が住んでいたのはどの辺りだったか。コーガの住処はどこにあったか。暗い部屋から暗い海を見つめる。満月の光が海面に映って、キラキラと輝いていた。海の中からは絶対に見えなかった景色だ。
……コーガ。ミーは今とても嬉しいのです。ヒューマンになれて、色んなことを知ることができています」
こんなに素敵なことを代償無しで経験していいのかと、ロベリーは申し訳なくなった。けれど自分はもう海には戻れない。考えても仕方が無いとベッドに潜り込む。木で作られたそれは巨大な貝殻のベッドに似ていたので、用途はすぐにわかった。
今日はもう疲れてしまった。あらゆるカルチャーショックを経験して、ロベリーはもうクタクタ状態。明日はまたどんなことが待っているのかと思うとワクワクしたが、それよりも今は眠気が強い。ふわふわの布団にくるまり、陸の上だから得られる幸せを噛み締めて眠りについた。


翌朝。ロベリーが起きると部屋の中に今日のための服が用意されていた。サイズは微妙に大きかったが、服を用意してもらえるだけでもありがたいものだ。着替えてダイニングに向かうと、既に食事がテーブルの上に置かれており、男は昨日と同じ席に座っていた。ロベリーは男と向かい合うよう椅子に座る。
「おはようロベリー」
「グ、グッモーニン……
「どうした?よく寝れなかったのか?」
「い、いえ。こんなに広い住処で、ユーはどうやって生活しているのかと思って……
朝からよくできた食事だとロベリーは思う。ロールパンにベーコンエッグ、コンソメスープもあればサラダもある。それに部屋中に埃一つ落ちていない。
「ここで生活してるのはオレ一人だが、ハウスキーパーが通ってきてくれてるんだ。ま、お前の世話はオレがやってるけどな」
「ユーはベリーリッチなのですね」
「若い頃に結構稼がせてもらって、その時の利益でダラダラ暮らしてるだけさ」
「それでもとても立派だと思います」
食事をしつつ、二人はあれこれ話をした。質問に対するロベリーの回答は少々ズレたところがあったが、きっと育った国が違うからだろうと男は思っておくことにした。ロベリーからすれば、聞いたこともないことを自分の知識を絞りに絞って必死に答えたのにあまり納得してもらえてないようで、自分がまだまだ無知であることを思い知らされた。やはりもっとここでたくさんのわからないことを吸収せねばならない。そう思えば、ロベリーのすることは唯一つである。
「あの、お願いがあるのですが」
「ん?どうした?」
「ミーにここ近辺をナビゲーションしてほしいのです」
ロベリーの言ったことを、男はニヤニヤ笑って聞いていた。また変なことを言ってしまったかと落ち込みかけたとき、男は言った。
「最初からそのつもりだったさ」
二人は食事を終えてすぐに出かけた。男の屋敷は町の中心から少し離れたところにあるため、賑やかな場所までは歩くことになったがロベリーは歩いて走れるのが楽しくて堪らなかった。町中に張り巡らされた水路からは潮の香りがして、陸の上なのに海を感じて不思議な気持ちになる。白い壁に朱色の屋根の家々が連なり、青空とのコントラストがスッキリとして心地よい。広場や市場に足を運べば多くの人が行き交っていた。仲間たちは皆どうしてこんなに素敵なところを恐れるのだろうかとロベリーは思う。見たこともないものが溢れ、何もかもが輝いて見える。海の底よりもずっと素敵だと。
「おや?旦那、どうしたんだいその坊や」
ロベリーと男が連れ立って歩いていると、男の知り合いらしき中年の女性が声をかけてきた。ここでも坊やと言われてしまったのを考えると、自分はまだ子どもに見えているらしい。
「異国から来た家出少年さ。今ウチで預かってんだ」
「家出ェ?しかも異国から?大丈夫なんかいそれ」
「平気だよ。悪いことは何もしてないし、故郷はあまり文明が発達してないのか色んなものに興味津々だ。言っちまえば、びっくりするくらいの純粋無垢だよ」
次はこっちへ行きましょう、とロベリーは男の腕を引く。どうやら自分の紹介のされ方が恥ずかしくなったらしい。耳まで赤くなったその様子に男は笑う。
「そんなに恥ずかしがるこたぁねぇだろ」
「ミーはもうチャイルドでは無いんです!」
「んじゃあどこから来たかくらい言ってくれよ」
言えるわけがない。言ったところで信じてもらえるはずがない。ロベリーはそんな思いから口を噤む。住んでるところもわからないなんてやっぱり子供じゃないかと言われるが、反論しても自分が答えを告げぬ限りこうやってイジられ続けるのだろう。
……こんなところでは言えません」
「どこならいいんだ」
……ユーのホームで」
「じゃあ帰るか」
コクンと無言で頷く。男の手を握って連なって歩くと、まるで男の子どもになったような気がしてロベリーはあえて繋いだ手をほどいた。


出歩いた時間はそう長くなかったはずなのに、帰ってきたときには昼を過ぎていた。男の書斎で二人は向き合い、男はロベリーがいつ話をしてくれるのかと待っている。しかし本人は何をどう話せばいいのか考えてばかりで、普段は冴えているはずの頭の中はぐるぐると堂々巡りを繰り返すばかり。自分が人魚であることを告げたら、彼は自分をどうするのだろうか。他の人魚たちが言っていたように見世物にされるかもしれない。いや、それでも陸に行ってみたいと言ったのは自分だ。自分で責任を取らなければなるまい。それに、大人は責任を取るものだ。自分は大人だと言い張った以上、それを反故になどしたくない。
「いつまで待たせる気だ?オレもそこまで気長じゃ無いんだぜ」
少し苛立った声色にロベリーは肩をビクリと震わせる。早く、早く何か言わなければ。
「ユ……ユーは……
「ん?」
「ユーは人魚を見たことがありますか?」
「人魚?なんで人魚の話になるんだよ」
もっとおかしくなってしまったのかと、男はロベリーを訝しげに見つめてくる。当たり前の反応だ。人間にとって人魚など、架空の生物でしかない。童話や伝説、神話に登場する存在なのだから。けれどそれは実在するのだと、ここにいるのだと伝えなければ。
「その……ミーが実は人魚だからです」
……は?」
「本当なんです」
男は目を丸くしている。とうとう言ってしまったと、ロベリーは俯いた。プライドを殴り捨てても、ずっと子供扱いしてもらうべきだったかと今更ながら悩み始めた。だがもう後戻りはできない。
「ミーは、海に住んでいたのです」
……だから風呂も知らないし、ありとあらゆるものを珍しがったのか?」
……!ミーの言うことをトラストするのですか!?」
思わぬ肯定の言葉に下に向けていた顔を上げた。男はどこか合点がいったという表情をしている。
「お前みたいなピュアな奴が嘘を言うとは思えないしな」
「っ……!」
「どっかのお姫様みたく、海にいるのが嫌になったんだろ?だから人間になってここに来た。違うか?」
「違く……ない、です」
ロベリーは理解されていることが理解できなかった。こんなにあっさりと非現実的なことを飲み込めるわけがないと、勝手に思い込んでいた。
「行き場が無いなら、オレが世話してやるから。何も心配すんな」
「ホワイ……何故……何故ユーは見返りも無くミーに……
「見返りなんて気にすんな。お前は若いんだから、年寄りに甘えていいんだよ」
「ユーはまだ言うほどオールドではありません」
「お前のそういうのが良いところだと思うぜ」
ロベリーは座っていたソファから立ち上がり、向かいに座っている男の隣へ腰を下ろした。そしてくったりと男に体重をかける。懐かしそうに微笑むロベリーを見て、男は思わずロベリーの顎に手を伸ばす。
「おいおいどうしたんだいきなり」
「やはりユーはミーの知り合いにそっくりです」
「その知り合いとやらも人魚なんだろ?」
「ノー、彼はオクトパスです」
「蛸!?蛸と似てるのか……
「ヒューマンで言う足がオクトパスなのです。上半身は人間ですよ」
隠し事をしなくていいのは良いものだとロベリーは思う。だがまだ一つだけ、どうしても打ち明けられないことがあった。

❋❋

ロベリーが男のもとで世話になり始めてから一週間ほどが経った。自分が人魚だったことを忘れて、ロベリーは毎日を過ごしていた。けれどガラクタを見つけるのは決まって浜辺で、それを見かねた男はロベリーに知り合いの研究者たちを紹介した。ゴミも同然のもので何かを作るより、最新鋭の科学を学ばせた方がいいと思ったのである。
最初は興味を強く示したロベリーだったが、「何かが違う」と思い始めた。自分が楽しいと思い、面白いと感じるのは使い方もわからないものを組み合わせて想像し創造することだったのだ。確かに文明の先を行く研究は素晴らしいものだ。けれどそれがいつでも正しいとは限らない。
そのことを口にすると、研究者たちは腹を立てロベリーを締め出してしまった。アイツらはプライドが高いから、と男は落ち込むロベリーを慰めた。怒らせてしまったことにロベリーは申し訳なく思ったが、たったそれだけのことで嫉妬し怒る人間のことが少し理解できなくなった。自分はどうしたって人魚だから人間の情緒を完全に把握するのは難しいのだと、そう思うことにした。
……ヒューマンとは難しいものですね」
「相互理解は人間同士でも難しい。ましてやお前は人間になったばかりだ。無理もないさ」
ロベリーは屋敷にいるときは男と共に、彼の書斎で過ごすことが多かった。機械いじりをしつつ、男が本を読んでいる様子をチラチラ観察する。わからないことがあれば尋ね、男は誤魔化すこと無く教えてくれた。
「まあ、わかりあう方法が無いわけでもない」
「コンセンサスが取れる方法があるのですか?」
「ロベリー、こっち来い」
レンチを机の上に置いてロベリーはチェアに腰掛けた男に近づく。男は立ち上がるとロベリーの後頭部を掴み、反対の手で顎をクイと軽く上げる。そして自分は屈んだ姿勢になり、ロベリーの唇に自身のそれを重ねた。
何をされたのか、一瞬ロベリーはわからなかった。口と口をくっつけるのは親しい間柄ですること。それは人魚たちの間でも変わらなかった。確かに自分と男は親しい仲ではある。しかしそういう意味で親しいわけではない。彼と自分は、恋人同士ではないはずだ。
口は離してもらえたが、どうにも空気が足りなくなったのか頭がぼんやりとした。
「んっ…………
「おっと、キスだけで疲れちまったか?」
男は邪魔に思ったのかロベリーのゴーグルを外した。厚ぼったいレンズに隠れていた瞳は潤み、頬は赤く染まっている。
思っていたよりもそそられると、男は思わず唾を飲んだ。
「ここじゃ雰囲気もねぇな。行くぞ」
「どこ、へ……?」
「決まってるだろ。寝室だ」
「スリープにはまだアーリーですが」
……お前、本当機械いじり以外に関しては頭の中が子どもだな」
ロベリーのクタッとした体を抱え、男は書斎をあとにする。すぐ隣の部屋が男の寝室で、ロベリーをベッドに寝かせてカーテンを閉める。もうすぐ夕方になろうという時間。まだ強めの日の光は遮られてしまった。男はロベリーが寝転がるベッドに乗り上げ、貸した服を暴いていく。そのことにギョッとしたロベリーは思わず男の手を止めようとする。
「な、なにを考えてるんです?」
「手っ取り早くわかりあう方法さ。教えてやるよ」
「脱ぐ必要がどこにあるのですか」
「脱がなきゃヤれねぇだろ」
「やるって、何を……
男の手が自身の股に触れるのを感じて、思わず喉がくっと締まる。こんな感覚は知らない。こんなところを触る意味がわからない。そのはずだった。
「あぁ、お前は魚だったんだもんな」
「ミっ……ミーはドルフィンで……一応、哺乳類です……。フィッシュ、では……
「そうか。どおりで頭がいいわけだ。なら、これの意味がわかるな?」
ノー、ノーです、とロベリーは必死に首を横に振る。知りたくない。理解などしたくない。わかってしまえばきっと、ここから滑り落ちてしまう。
「ストップ、してください。どうか、どうか……
「知りたいんだろう?人間とわかりあう方法を」
「ぁ……
「それなら、人間のやり方を学ばなきゃいけないな」


これが、ヒューマンのやり方。

知りたくなど、なかった。

メモリーを全てデリートしてしまいたかった。

ボディもハートもブレイクしそうな痛みに、ひたすら耐えるしかなかった。

逃げられそうにないと思ったから。


「ひっ……うっ……ぅ、あ……
ロベリーは男が寝付いたところで一人泣いた。暴かれた体は軋み、胸はズキズキと傷む。これが人間のやり方なのだとしたら、自分はこんなことを続けることなどできない。今すぐにでも海に帰りたい。ベッドから這い出て脱がされた服を羽織り、着のみ着のままロベリーは屋敷から逃げ出した。
「はっ、はっ、うっ…………
腰は砕けたように痛く、足どりも覚束ない。それでも連れ戻されるかもしれないと思うと、前に進むしかなかった。夜の海は人間にとって恐ろしいが、人魚だったロベリーにとっては格好の隠れ場所である。自分が流れ着いていた浜辺に辿り着いたところで服を脱ぎ捨てた。二本の足で海に踏み入れば冷たい海水が迎え入れてくれる。ここがお前の居場所なのだと。
「コーガ、やっぱり、やっぱりミーが間違っていました。ミーは海の生き物。陸にいるべきではなかったのです。ミーを人魚に戻してください、お願いです……
真っ暗な大口を開ける海に向かって歩き続ける。背後から聞こえるのは、自分を連れ戻しに来たであろう男の声。ロベリーは捕まって堪るものかと、海の一層深いところに潜り込んだ。ここならば入ってこれまい。だがその代わりに、海の生き物でなくなった自分は息ができない。このまま海の藻屑となるのか。その前にまた一度だけコーガと話をしたかったと思う。あの時ユーが反対したのは、こういう訳だったんですねと、人間になりたい道を塞いできた彼に自分の過ちを詫たかった。
(もうワンステップ、足りなかった、ですね……)
ロベリーは冷たく暗い海の中で、意識を手放した。沈んでいく自身の体を、ぬめりのある八本足が受け止めたことに彼は気が付かなかった。


「やっぱ陸になんか行かせるべきじゃなかったな……
そうボヤきながら現れたのは、下半身が蛸で、上半身は恰幅のいい中年の男だった。これがロベリーの言っていた「知り合い」かと、男は思わず身を竦ませた。さっきまでロベリーにあったはずの二本の足は無くなり、かわりにイルカの尾びれがダラリと垂れ下がっている。
「お前……あぁそうか。俺様の置き土産がまさかこんなことになるなんてなぁ」
仮面に隠れていない口元が皮肉な笑みを浮かべる。自分が不気味な蛸男と何か関係があるのかと、男は思わず「アンタは誰だ」と声を投げた。
「誰かって?知って何の意味がある。今からお前は、海の藻屑になるのに」
蛸男は長い足を男の首に巻き付け、そのまま目の前に引っ張ってきた。その筋力は凄まじく、抵抗などできないほどであった。
「子孫は先祖の尻拭いをさせられると言うが、今回は逆だ。俺様がお前のしたことの責任を取ってやる。お前の命をもってしてな」
ロベリーを抱えていない方の手で、蛸男は仮面を上にズラす。その顔を見て、男はハッとした。

……なんだかユーは、ミーの知り合いによく似ていますね』

その瞬間、男は足を首に巻きつけられた状態で海に放り込まれた。水中で暴れているのが海面の様子からわかったが、しばらくすると大人しくなり、やがて何の音も波紋もしなくなった。

❋❋

俺様もその昔、人間になりたかったのさ。

リアリー?

そしてお前みたく、海の魔法使いと契約をして人間にしてもらった。だが絶望したのさ。自分が憧れた人間ってやつは、こんなものだったのかってな。おまけに願いを叶えた反動で、人魚だったのに蛸になっちまった。

ではユーはヒューマンがどんなものか、よく知っていたのですね。知っていたのに、どうして教えてくれなかったのですか。

社会経験させるのも悪かねぇなって思っただけさ。それと強いて言うなら、賭けたところもあるかな。

何に賭けたんです?

「お前が人間に失望して、俺様のところに帰ってくることに」


コーガにはロベリーが陸でどのように暮らしているのか筒抜けだった。ロベリーは人間になるのに何も代償を払っていないと思っていたが、それは大きな間違いである。代償としてコーガの手元に残ったのは、ロベリーの魂だった。肉体とそこまで距離が離れていなかったため、生きる分には支障が無かったというだけのことである。コーガは手元にあるロベリーの魂を通して、何が彼に起こっているのかを常に把握していた。結局の所はロベリーが心配だったのである。
コーガは直接男と会うまで、確証が得られなかった。所詮ロベリーの魂を介して見ているものは映像に過ぎないからだ。しかし眼前に現れた彼を見て、疑念は確信に変わった。あれは昔の自分の罪に対する罰だったのだ。それがロベリーを傷付けたなら、それを自分で葬り去るしか無い。コーガはロベリーに真実を言うことはできなかった。そうすれば今度は自分自身がロベリーを傷付けてしまう。根性無しとどこからか聞こえてきそうだったが、聞こえないふりをした。
「ミーは、デッドエンドにはならないのですか?」
「泡となって消えるか、それとも永遠に俺様のものになるか。そのどちらかだ」
ロベリーはコーガのものになる道を選んだ。一度死んだかと思ったが、コーガが救ってくれたのだ。きっと彼は自分に生きていてほしいと思ってくれているはず。ならば死よりも、彼に報いれる生を選んだほうがいい。

そんなロベリーがコーガへの本当の思いを自覚するのは、まだ少し、先の話。


終わり