ナスカ
2021-07-24 19:16:14
6577文字
Public
 

美しき素顔 第8幕

ガノアスオペラ座パロの続きです。

翌日に計画を控えた日の夜、アストルは私室で一人紅茶を飲んでいた。ポカポカハーブを使ったそれは体を温めることで心を落ち着ける作用があり、緊張が走る心身を解すのに最適だった。にも関わらず手はカタカタと震えており、どこか心も冷えていた。理由はわかっている。ファントムが昨日きり何も連絡を寄越してくれないからだ。アストルの計画を実現するために地下で一人作業に没頭しているのだろうということはわかる。だが、連絡をしてくれないもう一つの理由があるに違いないとアストルは思っていた。
王太子妃が告げたファントムの過去は壮絶で筆舌に尽くし難く、恐らくそれはファントム本人ですら知らなかったはずのことだ。彼がその話を壁越しに聞いていたかどうかはわからないが、その話を振られたときにアストルは何と返事をすればいいのかわからなかった。きっとそんな自分を見越して、ファントムは自分に何も言わずにいるのだとアストルは考えていた。ならば自分の方から声をかければ良いではないかとも思ったが、ファントムが集中しているのを邪魔することはできない。何よりも、彼の方から声をかけてくれるのをアストルは待っていたのだ。無論そんな自覚などアストルには無いわけだが。
ため息を吐き、アストルはソファに寝転がる。天井から吊るされた明かりをジッと見つめていたが、しばらくしたら目が痛くなってしまった。アストルは起き上がり、窓を開ける。星が見たくなったのだが、まだ城の警備用の松明があちこちで燃えているのもあり夜空はよく見えなかった。仕方ない諦めようと思って部屋の中に視界を戻すと、そこにはファントムが立っている。アストルは驚いて思わず声を上げようとしたが、周囲に何事かと思われないよう手で口を抑えた。そのままファントムの元まで歩み寄り、ポフンと彼の胸に顔を埋めた。その様子にファントムは意地悪そうにニヤリと笑う。
「驚かせたか」
「驚きますよ」
アストルは顔を上げ小さな声で言った。軽くムッとしているアストルに、まあ落ち着けとファントムは肩を軽く叩いた。するとアストルは俯いてぽそりと呟く。
「何も仰ってくださらないから……どうしたのかと思ったんですからね……
……心配をかけたな」
心配というか、不安というか、抱いていた感情が何だったかと言うと、寂しさだったとアストルはファントムが側にいてくれたことで気がつく。何を持ってしても埋められない孤独感が、彼がいるときはどこかへと消えていくのだ。
「寂し、かったんです……
「アストル?」
「貴方が側にいてくれないと、私は寂しい、です」
口をキュッと結び、今にも目元の涙は弾けそうなほどに溢れている。懇願するような表情を見たファントムはそっとアストルを抱きしめた。自分はまだ彼の元にいることを許されている。アストルは自分と同じ思いを抱いてくれているかもしれないとすら思えてしまう。
「ならば、今夜は我とともに過ごさぬか?」
「え?」
ファントムの言葉にアストルは目を丸くして、軽く距離を取った。ファントムに会えなくて寂しかったのは事実だが、夜を共にすることの意味を知らぬ子どもではない。自分は何に誘われているのだろうとアストルの胸はドクドクと鳴る。人肌目的にファントムが自分に近づいたことなどありえ無いと思いながら、彼の真意がわからなかった。
「お前に話したいことも山になっておる。ただ明日は大事な日。そこまで夜更しはさせぬつもりだ」
何を考えていたかは知らぬがな、とファントムは面白おかしそうに笑った。からかわれたとアストルは顔を真っ赤にして、今にも頭から湯気が出そうなほどになる。
「さあこっちだ。おいでアストル」
アストルはファントムに歩み寄り、その身を委ねる。彼の身を隠すほどの外套が翻り、アストルの視界を隠した。

❋❋

「もういいぞ」
「は、はい!……!わぁ、すごい!」
アストルが目を開くと、古代の天体観測室と言われた巨大な部屋に大小様々な装置が幾つも置かれていた。この数を短期間で製図から切り出し、組み立てまで行っている彼は本当に天才なのだとアストルは実感した。
「これは何に使うんですか?!」
「あぁ、それは……
訊ねればファントムは用途を筋立てて説明してくれた。それにテンションの上がったファントムは構造の工夫や物理の理論を持ち出してあれこれ語り始め、アストルは何がなんだかわからなかったがとりあえずファントムが楽しそうにしているので頷いて話を聞いた。
「天使様、こんなにすごいのが作れるならきっと色んな方のお役に立てますよ」
「我はお前の役に立てればそれで良い」
相変わらずファントムは頑なだ。アストル以外の世界の全てを諦観している。それはこれまで彼が話してくれた通り、自分の醜い左半分の顔が原因なのだが、アストルはファントムが自分で自分を地下に閉じ込めているように思えた。亡き王妃はファントムの命を救い、母は彼に知恵を与えた。それならば自分のできることは、彼をこの暗い地下から光の世界に連れ出すことでは無かろうか。もしファントムがその見目故に酷い目に遭わされても、今度は自分が彼を守らなければ。これまで自分を守ってくれたのは、彼なのだから。
……外に出たいと思わないのですか?」
「敵ばかりのところに行きたいとお前は思うか?」
ファントムの言葉にアストルは返事に詰まってしまう。何と答えれば良いのだろう。
『自分が守るから心配しないでほしい』?
『きっとどこかにわかってくれる人がいる』?
浮かぶ言葉は保証など無い上にどれも軽々しく言うべきでは無いものばかり。答えられないアストルにファントムは「気にするな」と言った。
「我を受け入れてくれる者が一人いれば我は充分なのだ。多くは望まぬよ。望んだところで手に入りはしないのだから」
……
「そんな目で我を見ないでくれ」
「すみません……ただ、私は……貴方のことを……
貴方のことを?自分はファントムをどう思っているのだろう。師として尊敬しているし、母の代わりとして頼りたくもなる。この人は何も悪くないのだと庇ってあげたいし、彼が糾弾されても自分だけは側にいようと思う。けれどそこまでして、自分がファントムの側にいたいと思う理由は何なのだろう。アストルはまだ、そこまで考えが至っていない。
……いえ、まだ私にはわかりません」
「そうか。わからないならそれで良い。大いに迷って、それから教えてくれ」
次はこっちだ、とファントムはアストルの手首を掴むと彼の普段過ごしている部屋とは違う方向へと連れて行かれた。いつも以上に有無を言わせない威圧感にアストルはファントムに軽く恐怖しながらも「いや、私はこの人について行くんだ」と言い聞かせて彼の後ろを歩く。
「ここは?」
……昨日王太子妃がお前の部屋を訪れただろう」
過去の出来事に関する件だ、とアストルは一気に緊張感が高まった。言わなくていいことを言ってしまったり、その反対をしてしまわないよう、アストルは「この部屋と王太子妃様のお話と、ご関係が?」とそこだけ訊ねることにした。
「恐らく、関係あるのだろうな。ここに残されていた書物には我のことばかり綴られておった」
どこからかマッチを取り出し、シュッと擦ればたちまち明るくなる部屋の中。燭台に置かれた蝋燭に火を移せば持ち運びができる。そのおかげで部屋の造りが確認できた。岩肌の抉れた部分を利用して作られたらしい小さな部屋は壁が岩盤になっている。簡素な木のテーブルや椅子、本棚がぽつんぽつんと置かれているだけで他に家具は無い。本棚の中には何冊かノートが仕舞われ、本棚の横の陰には赤子を寝かせるための籐籠が置いてある。
「天使様、私は……
「我も聞いていた。あの女の話を」
「っ……!」
「驚いた。憎み続けた男の妻に命を救われ、あまつさえ育てられていたとは!この顔が醜いのも全てあの男の仕業であり、我がここでしか生きられないのも、何もかも!あの悪逆の王が我から全てを奪った!」
ファントムは落ち着き払った様子から一変、声を荒らげてこの小さな部屋を震わせた。ただでさえ自分に知識や知恵を与えてくれたアストルの母を奪ったも同然の男であったのに、己の人生を歪めたのもそれだと知れば怒りや憎しみは何倍にも膨れ上がる。自分は生まれた時からここにいたのではなかった。自分は意図的にここに連れてこられ、人生の全てを塗り替えられてしまった。
……ごめんなさい」
「何故お前が謝る」
「私は陛下の子だから」
アストルの言葉にファントムはギラリと目を光らせる。そしてその小さな両肩を掴み、岩の壁に背中を押し付けた。アストルは頭にガツンとした痛みを覚えたが、それよりもファントムが視線でこちらを殺そうとしているのが一番苦しかった。
「そうだったな……お前はあの男の子だったな……
ファントムはアストルの細い首に手をかける。白い手袋の端から僅かに覗く褐色の素肌にアストルは少しだけドキリとした。彼は何になりたかったのだろう。どうしたかったのだろう。やはり彼は外で生きることを望んでいたはずなのだ。さっきの言動でアストルは確信する。
気道と血管を絞められ、アストルの顔は少しずつ青ざめていった。あぁこのままでは死んでしまうな、とアストルは特に何事とも思わず今に身を任せる。アストルですら自身に流れる血が憎くなった。手首を裂いてこの身から血を半分絞り出してしまいたいと思っていた。そんな覚悟もできない意気地なしだったが、こうしてファントムの怒りと憎しみを全身で負えるならばよかった。彼はいつも自分を守って、許してくれる。けれどそれだけでは駄目なのだと、アストルは思った。
「てんし、さま……
ファントムはアストルの小さな声にハッとする。アストルの体からは力が抜け、フラリとファントムの方に倒れ込んだ。自分のしていたことのおぞましさにファントムは寒気がした。
「アストル、おい、アストル!」
ファントムは腰を落とし、アストルを抱きかかえる。何度か揺さぶれば閉じていた瞼が震え、ゆっくり目を開く。しかしアストルは笑っていた。
「お前……何故拒まなかった……
「貴方の痛みを受け入れないとって、思ったので……
アストルはファントムの仮面に手を伸ばす。けれど外すことはせず、ただ愛しげに仮面を指先で撫でるだけだった。ファントムはそんなアストルの手を握る。
「危うくお前を殺すところだった。我は本当に全てを失うところだった。すまぬアストル。我はまだ全てを失ってなどおらぬ。お前がいる」
「ふふ、嬉しいお言葉です」
腕の中にすっぽりと収まる小さなアストルにファントムはそっと顔を近づける。どこまで行っても平気だろうか。どこまで行って拒絶されないだろうか。我ながら試しているようで嫌だなとは思ったが、ファントムはそれでも近づくのをやめられなかった。アストルは近づくのを促すように腕をファントムのうなじに回す。
「天使様、お慕いしております」
「どのような意味で?」
「こんな感情、これ以外に有り得ないな……と」
コツン、と二人の額がぶつかる。
「アストル、お前は我の全てだ。だが我はお前の全てではない」
「なら増やしていけばいいんです。私はずっと一緒にいますから……ねっ?」
アストルはファントムに笑いかける。どうしてもアストルは自分を外の世界へ連れ出したいらしい。そしてそこで共に生きたいと。
「天使様、貴方だけを、愛しております」
軽く顎を上げ、アストルはファントムに口付けた。かつて、アストルは自分の中に渦巻く感情の正体がわからず、それをファントムに問うた。これは一体何なのかと。今思えばあれは恋だったのだと、アストルは思う。しかしそんな生半可なものでは自分はファントムを守れない。アストルの恋は、それを恋だと自覚せぬ内に愛へと昇華した。
……アストル」
「どうか、いつか私と外で暮らしてください」
ファントムは、長い悪夢が終わったと思った。

❋❋

それから二人は冷静に話し合った。ファントムの過去について。それから、ファントムが起こした数々の事件について。言わば、アストルからのファントムへの質疑応答と言ったところである。
「なんでステンドグラスを割るなんてことしたんです?」
「あれはその……事故だったたのだ」
「事故?」
アストルは訝しげな顔をする。ファントムは申し訳無さそうに視線を逸らすが、アストルはそれを許さず「こっち見てください」とやや強気だ。
「お前がいつ登城してもいいようにと、我はお前のために花火を用意しておったのだ。それこそ、千発ほど。祝砲として」
「けどあの日はそんなもの見てなかったですけど……
「だから事故だったのだ。花火は上がらず、音も鳴らず、ただ千発分の衝撃だけが残って……
それで城のステンドグラスが割れてしまったと。本当に申し訳なかったとファントムは落胆している。こんな顔を見るのは初めてで、少しだけアストルはファントムに人間味を感じた。いつもは一面だけしか見せてくれない彼が、また違う姿を見せてくれるのが嬉しかった。
「ステンドグラスの件はそうだったのですね。わかりました。では私の前任者を殺したことについては、どういったお考えで……?」
「あれは、その、お前をすぐにでも宮廷付きに昇進させるにはあれしか無いな、と……
非常に言いにくそうにしている辺り、出過ぎた師匠心だったと今では省みているようである。ファントムは計算高くしたたかだが、衝動的に行動してしまうこともあるようだ。やはり距離を詰めなければわからないことが次々と出てくる。一歩踏み込んでよかったとアストルは後悔などしていなかった。
「天使様のご配慮は嬉しいですが……もう人殺しなどやめてください。そんなことしなくても、これからは生きていけるのですから」
「そうだな……お前の言うとおりだ」
ファントムは言い訳をしなかった。理由をただただ語り、そしてそれはいけないことだと指摘されればそれを受け入れた。アストルが愛を誓ったからだろうか。それまで自分のすることを全て受け入れてほしいと思っていたのは、自分をまるごと受け入れてもらえるはずがないと思っていたからだ。要は、感情の裏返し。アストルの想いに触れたことで裏返す必要の無くなったファントムは素直で落ち着きのある、どこにでもいる普通の人間だった。
彼を歪めてしまった王が憎いとアストルは思う。けれど彼がゲルドの中で育っていたら、こうして出会うことも無かった。全ては星が定めた運命なのだとアストルは思うしかなかった。
「城内の器物損壊等は……
「あれは何というか……腹いせだな。あの男への憎しみが抑えきれなくなる時がある。その度にやってしまう……と言ったところかもしれぬ」
腹いせで聖三角の像を倒すとはよくやるものだとアストルは思ったが追求しないことにした。それも今後落ち着いてくれるだろうと、「これからはモノに当たらないでくださいね」と軽く言うだけで済ませた。
道徳的なことを母は教え忘れたのかと思うほどファントムには道徳観の欠損があった。特に自分自身と、深く関わる人物以外にはそんなもの存在してすらいないと思えるほどの言いようなので、これを教えるのも私の役目だとアストルは思うことにした。外で暮らせるようになるには、まだ時間がかかりそうである。
ふと、アストルの口から大きな欠伸が出た。かなり遅い時間のはず、と思ったが生憎この地下に時計は無い。
「アストル、今日は泊まるといい。朝方には寝たままのお前を部屋に返す」
「ん……すみません天使様……お言葉に甘えさせていただ、きま、す……
アストルはうとうとすると、そのままこっくりと入眠してしまった。その日のエネルギーが尽きてしまったのだろう。椅子に座った状態で眠っている。
「明日は我々の大切な日だ……お前のために全力を尽くそう」
ファントムはアストルの額に軽くキスを贈る。これからはこんなことも惜しげなくできると思うと、それ以上に嬉しいことは無いと静かに笑った。


続く