夢の中でいつか囁いてくれたような声が聞こえる。アストルは酩酊した意識の中で、そんなことを思った。心の底に優しく甘く、しかし重くのしかかるように反響するこの声は誰のものだったか。ずっと聞いていたはずなのに、誰の声だかわからない。掴みどころの無い、まるで霧のような、知っているはずなのに何一つわからない。謎という薄布で覆われた存在。
それが今、自分の隣にいる。
静かな水の音がした。暗い水面を彷徨うように小舟はゆらりゆらりと進む。櫂で小舟を漕ぐのは、黒い燕尾服に黒い外套を纏う男。その顔の左半分を仮面で隠しており、真っ暗なせいで右半分の様子はわからない。アストルは大男を見つめず、ぼんやりとした様子で小舟が行く方向へ顔を向けていた。
小舟が進んでいくと何とも不思議なことに、水の下から無数の蝋燭が現れる。そのことに二人は驚く様子も無い。揺らめく蝋燭の炎が黒い水面に映り、二人を陰鬱に照らしていた。蝋燭の道を通り過ぎ、やがて岸が見えてくる。低い岩盤の天井を抜け、一気に解放感のある場所に出た。広く高く、しかし暗闇に溢れた岸辺にたどり着くと男は櫂を小舟の上に置き、アストルの手を優しく取って陸へと導いた。アストルの表情は未だ魂が抜けたようになっていて、しかし体は動くのだから不思議なものである。
「こっちだ、アストル」
腕を引けばアストルは男の言うとおりに動いた。しかし様子はどこか不安定で、その挙動はぜんまい仕掛けの人形のようだ。足は地面を擦りながら動き、視線は真っ直ぐ前を見ているが景色を映しているようには感じられない。男がアストルを連れてきたのは、たくさんのクッションを敷き詰めた使い古された大きなベッドだった。国王の私室にあるベッドよりもさらに大きいが、つや出しのための塗料は剥がれてしまっている。クッションは幾つか布が破けて綿が飛び出していて、とてもではないが寝床と言うにはかなり厳しいものだ。しかし男はアストルの体を優しく抱きかかえると、そこに寝かせてやり、自分の羽織っていた黒い外套を胸からつま先を覆うようにふんわりとかけた。アストルの黄色い瞳はとろんとした様子で男を見つめる。ようやく、彼の瞳の焦点が合った。
「だ、れ……?」
薄い唇から紡がれる疑問に男は答えない。代わりに、白い手袋をした大きなあたたかい手でさらさらした髪に覆われた頭をそっと撫でて言う。
「今は眠るがよい。目が覚めれば、その内わかる」
意識がゆらゆらしているアストルがその言葉を理解したかどうかはわからない。だが、うんと頷いてそのまま瞳を閉じ、そのまま穏やかな寝息を立て始めた。
❋❋
アストルは目を覚ましたが、今が昼なのか夜なのか、区別がつかなかった。肌をチクチクと刺すような寒さにここは地下なのだと瞬時に理解する。目元を手で擦り、むくりと体を起こす。そこはクッションの海のようになっていて、少し力の入れ具合を間違えればその海に足を取られてしまいそうだった。なんとか底を見つけ、足をつけて立ち上がる。
不思議な空間だった。真っ暗な中に青白い無数の光が壁や天井に灯っている。それはさながら夜の闇に浮かぶ星々のよう。……とここで、この光の並びはあの星座と同じなのでは無いかと気がつく。あれもこれもそうだと、アストルは困惑した。ここは一体どこなのか。地下なのか、地上なのか。
「目が覚めたか」
背後から聞こえた声にドキリとする。嫌な高鳴りではない。むしろずっと焦がれていた、姿を見たいと願ってきた、あの人の声では無かろうか。
「天使様……?」
振り向き際にそう言う。完全に顔を向けたその時、アストルは息を呑んだ。
太陽の如き赤毛は長く、仮面で隠されていない右半分の顔は勇ましくも美しい。髪と同じ色の太い眉に、耳元まで広がる顎髭。妖艶さを感じる目元口元。そこに寄る若干の皺が彼が年齢を重ねていることを感じさせた。筋肉質な体はアストルの何倍も逞しく、根を張るようにどっしりと構えていながらもしかししなやかさを感じる。この体格のせいか燕尾服はパツパツで、特に肩の辺りがモリッと膨らんでいる。
この人が、ずっと会いたいと願っていた星の天使。
「天使様、なのですか?」
「そうだ、アストルよ。私の黄玉」
男はアストルに近づく。アストルは天使に近づく。触れ合える距離まで互いに来たところで、アストルの方から手を伸ばした。白い指先で天使にそっと触れると、ほのかにあたたかい。幻などではない。実体が無いわけでもない。彼は生きて、自分の目の前にいるのだ。そう思うと、アストルの瞳からは涙が溢れた。
「ずっと、ずっとお会いしたかったです」
「我もだ。長いこと姿を見せずにいてすまなかったな」
アストルの方からしがみつくように天使を抱きしめる。触れることが許されたと、男はその太い腕でアストルの細身を抱きすくめた。アストルはうっとりとその温度に酔いしれ、体重を相手に預ける。男はそれに動じることなくアストルの体を受け止めた。
「でも、どうして現れてくれたのですか?私は確か……陛下とお酒を飲みながら話をしていて……酔っ払って眠くなって……」
「知らぬ方が身のためだ。詮索は災いの元だからな」
「そうですか……」
教えてくれないのかと少し落ち込むアストルだったが、男はその様子を見てもそれについて話そうとはしてくれなかった。どうやら泣き落としは通用しないらしい。仕方が無いのでアストルは気分を変えて尋ねる。
「じ、じゃあここがどこなのかお伺いしても?」
「ここはハイラル城の地下深く。古代シーカー族が天体観測のために作り上げた場所だ」
「天体観測……ではこの光っているものはやはり星なのですね」
天井に輝く無数の光をアストルは見つめた。黄玉色の瞳に青白い光が映る。人工の明かりを好まないアストルであったが、これは違った。まるで本物の星あかりのように緩く明滅する光に、すっかり見とれていた。
「あっ!あれ、ハイリアの星ですね」
「よくわかったな。皆同じ色だというのに」
「あの星は他の星と違って動きませんから。場所が固定なのでわかりやすいんです」
「手塩にかけて育ててきた甲斐はありそうだ」
そっと男がアストルの肩を抱き寄せる。その腕の逞しさや、自分よりも鍛え上げられている胸筋を意識して胸が高鳴った。さっきは会えた喜びが勝っていたけれど今は違う。いけない、天使様相手にこんな不純な感情を抱いてしまうだなんて。けれど触れ合うところから体温を感じて、アストルは星を見ているはずなのにどれがどの星なのかもわからなくなってしまった。口をつぐんだアストルを見て男はほくそ笑んで声をかける。
「……どうした」
「天使様が……その……ちゃんとここにいらっしゃると思うと、とても気持ちがふわふわしてしまって」
「ふわふわ?ドキドキの間違いではないのか?」
見抜かれている、とアストルは顔を真っ赤にした。言い当てられて更に鼓動が加速するのだから恥ずかしいといったらありゃしない。今にも頭から湯気が立ち昇りそうな様子を見て男は笑みを深くする。
「我に会えて嬉しいのだろう?どうされたいのか、正直に言ってみよ」
「ぁ……あの……それでは……」
お名前を……とアストルはぽそりと口にした。それに男はポカンとする。しかしアストルはあぁとうとう言ってしまった!と顔を両手で覆っている。どうやらアストルにとって憧れの天使に名前を訊ねることはこれでもかと言うほど恥ずかしい事らしい。その初心さがまた可愛いものだと男は思わず笑う。
「名前……そうか、名前か。だが、我には名前と呼べるような立派な名は無いのだ」
「え……」
すまないな、と男は困った顔をして言った。名前が無い。そんな人がこの世にいるだなんてアストルには信じられなかった。いや、この方は天使。名前など必要ないのかもしれない。それに名前を知ったところで、自分はどうするつもりだったのだろうと思い返す。彼の名が何であろうと、天使様と呼ぶことに変わりは無いだろうに。けれど名前が無いというのは何とも……と思ってしまう。悲しそうな目に男は居た堪れなくなり、口ごもりながらも答える。
「あー……その……一応あることにはあるんだが……」
「あるのですか?」
「あることにはあるんだが……あまり良い名ではない。そもそもこれが本当の名前かもわからんしな」
「?」
「まあいい。我はファントムと呼ばれておる」
アストルはファントム……ファントム……と口の中で飴玉を転がすように名前を繰り返した。ファントムはアストルに名を呼ばれ、少し照れているようにも見える。
「ファントム様……うぅんなんだか慣れないです……」
「これまで通りの呼び方で良い。お前にとって我は天使なのだからな」
「私にとって……?」
それはどういう意味なのだろう。彼は天使。それは紛れもない事実のはずなのに何を言うのかと。
「さあ、この話は終わりだ。他になにか質問は?」
いえ、とアストルは首を横に振る。本当は聞きたいことが山積みだったが、いきなり迫ってはきっと引かれてしまう。どうしてこんな地下に住んでいるのか、母とはどんな関係なのか、そして何よりもその仮面の下はどうなっているのか……。出会って三年、顔を合わせたのは今さっき。けれど、彼自身に関する質問でなければ良いのではないだろうか。
「天使様……」
「どうした?」
「……やっぱり質問いいですか?」
「あぁ良いぞ」
アストルはきゅっと手を握る。何かを決意したように見えるが、しかしその頬は淡く赤い。
「貴方のことを考えていると、胸が痛くなるんです。こんなの、貴方が初めてなんです。他の誰にもこんな気持ちになれない。これは何なのですか?」
ファントムはアストルの思いがけない言葉に驚いた。自分の想いは決して一方通行などではなかったのだと、今にも叫びたいほどの喜びが全身を巡る。しかしアストルのこの想いはきっとまだ無垢で、穢れなど一つもない。自分の中にある欲望と同一視するにはあまりにも美しすぎる。
「アストル」
「はい」
「それは、恐らくだが」
ファントムが何か言いかけた時、天井の上や壁の外から物音が聞こえてきた。一つではない。複数人が走り回る足音だ。それらが上からも左右からも聞こえてくる。アストルは何事かと思ったが、ファントムは慣れたような顔をしていた。よくあることなのだろう。しかし足音や声が近くを通り過ぎる度にファントムの表情は険しくなる。
「あ、あの……」
「静かに。我の陰に隠れておれ。ここが割れては困るのでな」
「はい……」
ファントムは壁に両手をつけてアストルをその巨体で隠す。アストルは座り込んで体を小さく縮め、下から仰ぐようにファントムを見つめた。やはりこの人の側にいるだけで自分はおかしくなってしまう。どうしてこんなに胸が痛く苦しいのか、それが何故嫌ではないのか、理由がわからない。ずっとこうしていたい気もするし、けれどこれだけでは満足できない気持ちもある。アストルは戸惑いの中にいた。
「どこだ、怪人は!」
「陛下がお探しなのだ、手ぶらで帰るわけにもいかん」
「けどここのどこにも入り口なんて……」
「占星術師殿を攫ったのだ!見つけないと俺達の首が飛ぶ!」
ふと聞こえてきたのは、壁の外を歩いている者のものと思われる話し声だった。怪人。ゼルダ王女が言っていた多くの人々が恐れる都市伝説的存在。それを探しているらしい。しかし自分を攫ったとはどういうことだろう。もしかすると、怪人に攫われた自分をファントムが助けてくれたのかもしれない。だから先程詮索するなと言ったのだろう。やはり天使様はお優しい、とアストルは思った。
やがて足音や話し声は去り、静かな人工の夜空が広がる空間が帰ってきた。ファントムはため息をついて安堵する。だがファントムが安心する理由がアストルにはわからない。兵士たちに怪人を捕まえてもらった方が良いというのに。
「天使様……」
「ん?」
「その……天使様は私を怪人から助けてくださったのですよね?」
ファントムは何も答えない。ただアストルのことをじっと見つめてくるだけだ。そしてフッとアストルから顔を逸してしまった。
「天使様?」
「アストルよ……怪人とは、私だ」
続く
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.