秋の始まりを知らせる風でカーテンがひらりひらりとそよぐ。アストルはそんな心地の良い風で目を覚ました。まだカレンダーは八月のままだったが、季節は少しずつ移り変わっていくのだと感じた。自分を抱きしめているのは、誰よりも愛しい伴侶。まだ夢の中にいるのか、ガノンドロフは目を閉じて寝息を立てていた。いつもはガノンドロフが先に目を覚ます。彼の寝顔を見れるのは貴重だと、アストルはニマニマしながらその様子を観察した。高い鼻をそっと人差し指でなぞる。ムズムズしたのかガノンドロフは「うぅ……」と呻いて顔を横に振った。こんな姿を見ては、もっと悪戯をしたくなってしまう。アストルはもっとおどかしてやろうと、抱きすくめられている体を動かした。ふぅ、と耳元で息を吹きかけるとガノンドロフは肩をゾワァと震わせる。それが面白くて堪らない。起きたときに仕返しをされるかもしれないと考えたが、それはそれでされたいと思っていたのでアストルとしてはなんの問題もなかった。
名実共に彼のパートナーとなってから一週間が過ぎた。幸せな日々だ。ガノンドロフが一般人を伴侶として選んだことはエンタメニュースとしてハイラル中に知れ渡り、最初はどう思われることだろうとハラハラしていたが、街頭インタビューからは祝福の言葉が届いた。夕方のニュースでガノンドロフと共にそれを見ていたアストルはホッと胸をなでおろし、世間は自分が彼の側にいることを許していると知って思わず涙が溢れた。嬉し涙だとわかっていたが、ガノンドロフはそれを武骨な指で拭ってくれた。一日の間に数え切れないほどキスをして、風呂も一緒に入って、次の日が休みか遅出の時はベッドの上で体力が尽きるまで肌を重ね合わせた。惜しみなく注がれる愛に不満や不安などない。ただ、このままでは幸せすぎて溺れてしまうのではないかとだけアストルは思っていた。
「ん……おはよう、アストル」
悪戯を繰り返していると、ガノンドロフがぼんやりと呟いた。まだ目は半開きで、アストルがもぞもぞと動いているのを感じてアストルが起きていることを知ったようであった。おはようございます、とアストルが返事をすると、ガノンドロフはアストルの額に軽くキスをした。
「おはよう」
どうやらガノンドロフは寝ぼけているらしい。二度もおはようを言う必要など無いのに。そう思っているとガノンドロフはアストルを自分の体に強く押し付けるが如く抱きしめてきた。先程も十分くっついているのにどうしたのかと聞こうとしたが、苦しくて声を出すことすらできなかった。
「お前が生きてくれていて……本当によかった」
「……!」
「もう……もう二度と離しはせぬ……誰の手にも……」
あぁこの人は、とアストルは思った。恐れているのだ、自分を喪うのを。かつてを思い出したアストルは、自分が病で死んだことを知っていた。自分が死んだあとガノンドロフがどう生きたのかは知らないが、彼はアストルがいなくなってしまうことに対して恐怖心を抱いている。それは、アストルがガノンドロフに見捨てられるのではないかという恐ろしさと似ていた。決してそんなことはありえないと思いながらも、お互いそんなことがいつ襲ってくるのかと恐れているのだ。
「大丈夫、私は何処にもいきませんよ」
ガノンドロフを安心させたくてアストルはそう言った。そうだ、もうどこにもいかない。かつてのアストルの未練。それはガノンドロフを一人現世に遺してしまったこと。自分だけが苦しみから解放されたくて彼に『救い』を求めてしまった。遺されたガノンドロフがどんなに苦しむのか考えた瞬間、アストルは息絶えたのである。記憶を取り戻してからはそんな後悔が胸の中で渦巻いていた。
「……アストル」
「安心してくださいガノンさん。私は、ずっと貴方の側にいます」
「……ならば、もう少し共にここにいてくれぬか」
「はい、喜んで」
二人はしばらくベッドの上で誰にも邪魔されず、甘い時間を過ごした。
❋❋
アストルはガノンドロフと同じソファに座って、問題集とにらめっこしていた。いよいよ編入試験が明日に迫り、それに向けてのラストスパートといったところであった。絶対に特待生になり、ガノンドロフに経済的な面で迷惑はかけたくない。絶対に入学して博士号を取得し、いつか新しい星を見つけてガノンドロフの名前を付けるのだ。そんな意気込みを感じられていたが、前日までここまでの入れ込みようを見てガノンドロフは心配になっていた。一生懸命なのは伝わるが、少しはリラックスした方が良いのではないかと。
「……アストル」
「?なんですか?」
「根を詰め過ぎだ。今晩くらい少し休んだらどうだ?」
でも……とアストルは顔を曇らせた。どうしても彼は不安らしく、問題集を手放そうとしない。自分に頼らずに頑張りたいというのはわかる、自分の名前の意味を変えたいという気持ちは嬉しい。けれど無理をしすぎて当日倒れでもしたら……いや、当日でなくても倒れてしまったらと思うとガノンドロフは心配でならなかった。
「お前はよく頑張っている。それが数時間の休憩で全て消えて無くなるわけではない。だから少しは安心せよ」
ガノンドロフはソファから離れると、キッチンへ向かった。アストルはその様子を、背もたれに腹をくっつけて見つめる。何かの茶葉をポットに入れて、沸かした湯を注ぐ。そしてそれをティーカップに淹れれば良い香りのする金色の水面が小さなカップの中に生まれた。湯気が立ち上る温かな茶がアストルに差し出された。
「カモミールティーだ。落ち着くぞ」
「ありがとう、ございます……」
ふぅふぅとアストルは息を吹きかけて熱々のお茶を少しばかり冷ます。そして口にティーカップをつけ、こくんと一口飲んだ。すると不思議なことに、先程までアストルを追い詰めていた緊張感や不安が溶けるように消えてなくなっていった。数回に分けて、アストルはカモミールティーを飲み干した。ガノンドロフがもう一度アストルの側に座ると、アストルはガノンドロフの太ももに頭を預けて横になった。
「少しは落ち着いたか?」
「はい……なんか、不思議です。ずっと頭の中がぐるぐるしてたのに……それが、全部無くなったみたいで……」
「お前は少し自分を追い詰めすぎていたのだ。リラックスするのも大事だぞ」
「そう、ですね……わかり、ました……」
余程緊張の糸が張り詰めていたのか、それがゆるゆるになったアストルはガノンドロフの膝の上で頬を赤く染めながら穏やかな寝息を立ててスヤスヤと眠り始めた。家事の合間に勉強に打ち込んでいたアストル。その疲労は如何許かとガノンドロフは思った。
「明日に備えてゆっくり眠るがよい」
アストルの頭を優しく撫でながら、ガノンドロフはその低くも甘い声で子守唄を歌った。
翌朝、ガノンドロフはまだ眠っているアストルを起こさぬようこっそりとベッドから抜け出し、キッチンへ向かった。アストルの弁当を作るためである。共に暮らすようになってからそれなりの量を食べるようになったアストルのため、中くらいの二段弁当箱に手料理を詰めていく。下の段にはご飯と醤油に漬けた海苔を交互に重ねたのり弁を、上の段にはぷるぷるの卵焼きに、ピックで刺した手作りのミートボール。ちぎったレタスにミニトマトを添えて完成だ。出来たてなので蒸気が弁当箱の中で滞留しないよう少し置いておく。時計を見ればまだ時間に余裕があるので、余った材料で朝食を作っていくことにした。溶き卵をスクランブルエッグにし、ミートボールの材料は丸めてから平べったくしてフライパンで焼く。その間に買っておいたバンズをトースターで温め、それにスクランブルエッグとハンバーグ、レタスとカットしたミニトマトを挟めばハンバーガーの出来上がりだ。フライドポテトも揚げようかと思ったが、朝から揚げ物は腹に重い。ひとまず牛乳とハンバーガーが今日の朝食だ。
そろそろアストルを起こさねばと思って寝室に入ると、アストルは既に起きて着替えていた。
「おぉアストル、起きていたか」
「おはようございますガノンさん。昨日はありがとうございました」
「いや、頑張りすぎているお前を見るのは少々辛くてな……どうだ、少しは休めたか?」
「はい。お陰でぐっすりです」
アストルの顔をよく見てみると、目の下にあった隈が無くなっていた。質の良い睡眠が取れたのだろうとガノンドロフは安心した。
「朝食はできているぞ。それに弁当もな」
「ありがとうございます。朝から何だかすみません……」
「我とお前はパートナーなのだ。お前が大変なときは我がお前を支える。当然のことだ」
着替えたアストルはガノンドロフと共にリビングへ向かう。テーブルには大きめのハンバーガーが載った皿が一つずつとミルクがなみなみ入ったグラスが置かれていた。
「朝からハンバーガー……」
「気に食わんかったか?」
「い、いえ!朝から作るのは大変だっただろうな〜って思っただけです!」
「ふふ、そうか。案ずるな、そこまで手間とは思っておらんよ」
向かい合う形で椅子に座り、手を合わせていただきますと挨拶をしてから食事を始める。アストルは相変わらず小さく口を開いてちみちみ食べていて、ガノンドロフは豪快に食らいつく。出来立ての手作りハンバーガーは朝から元気になれる味で、今日の編入試験も何とか突破できそうな気がした。
「アストル、気を負うことはないぞ。いつも通りの自分でいるのだ。あまり緊張しすぎるとできることもできなくなるからな」
「はい、リラックスして頑張ります。……そうだ、カモミールティー持っていきたいんですけど、作っていただいてもいいですか?」
「あぁ、もちろんだ」
食事を終えて、アストルは試験会場に向かう準備を、ガノンドロフは保温機能のある水筒にカモミールティーをたっぷりと作った。緊張したまま試験に臨まないよう、アストルはあえて過去問題集を荷物に入れなかった。持っていくのはしっかりと削った鉛筆とシャーペン、消しゴムなどが入ったペンケース。財布やスマホ、外出に必要なもの。そこにガノンドロフが作ってくれた弁当とカモミールティーが入った水筒を追加すれば完璧だ。
「それじゃあ、行ってきますね」
「あぁ、頑張ってこい。道中何かあったらすぐに連絡してくれ。送るなり迎えに行くなりしよう」
「ありがとうございます。頑張ってきますね」
アストルが靴を履いて、玄関の扉を開けようとしたとき、ガノンドロフは待てと言ってアストルの腕を掴んだ。何事かとアストルはキョトンとして振り向く。その途端にガノンドロフの顔が迫り、アストルの薄い唇に己のそれを重ねた。口付けなど予想していなかったアストルは驚いたが、それがあまりにも心地よくてうっとりとした。
「……行ってこい」
「ん……行ってきます……」
頬を赤らめ、ドキドキと高鳴る鼓動を感じながらアストルは外へ出た。
❋❋
特に事件も事故もなく試験は終わり、帰ってきたアストルはとても満足そうな顔をしていた。自己採点の結果では余裕で合格。面接もうまくいったと豪語していた。それはよかったとガノンドロフは言ったが、ガノンドロフにとってアストルが何の被害にも遭わずに帰ってきてくれたことが何よりであった。試験は終わったが、合格してからが本番である。特待生として学費を免除してもらえるには、それ相応の成績を維持しなくてはならない。何がなんでも勉強して、首席で卒業できるほどの実力が必要だった。試験を終えてから入学までの間は、いわば短い休息の時間。アストルはソファに寝そべって、ガノンドロフは床に座ってそんなアストルの頬をそっと撫でる。
「よく頑張ったな、アストル」
「えへへ、ありがとうございます。ガノンさんが応援してくれなければ、こうしてまた天文学者を目指すことも無かったと思うので……本当に、貴方のお陰です」
「我は背中を押したまで。努力したのはお前だ、アストル」
「そのお言葉、しっかり受け取らせていただきます」
アストルは自己否定も己を卑下することも、もうしなくなった。ガノンドロフに愛され支えられた彼はすっかり自信をつけて、一人でも立っていられるようになったのである。ガノンドロフは時折、出会ったばかりの頃のアストルを懐かしく思う。オドオドびくびくしているアストルはまるで肉食動物と同じ檻に入れられた小さな草食動物のようであった。その様子に庇護欲を掻き立てられたが、アストルは一人の人間としての自立を望んでいた。ならばガノンドロフにできることはそんなアストルを辛抱強く見守り支えることだった。
アストルの根幹は何一つ変わらない。相変わらず彼は草食動物のままだ。それでも彼は変わった。数多の出来事に胸を痛めながらも、アストルは立派になったとガノンドロフは思っていた。
「アストル」
「はい、なんでしょう」
「……そろそろ、我のピアノに合わせて歌ってくれぬだろうか?」
「ピアノに、合わせて?」
「あぁ。……我はずっと、誰かを探してきたのだ。我がピアノを弾くとき、満足感と共に何かが足りないと、そう思っていた。我のピアノには歌声が必要だったのだ。しかし、その歌声は一体誰のものなのか、我にはわからずにいた。そんな折、お前に出会った。その時昔の記憶は戻っていなかったが、探していたのはお前だったのだと、確信した。だから、その、お前に気付かれぬよう跡をつけて……しまったわけだが」
初めて聞くことにアストルは目を見開いて驚いた。ガノンドロフは反省するかのように話を進めていく。
「あの時お前が扉を開けてくれねば、我はもう一度出直そうと思っていた。だがお前は扉を開けただけでなく、見知らぬはずの我を受け入れてくれた。そんなお前を、我は……」
言うことが憚られたのか、ガノンドロフは黙ってしまう。思えば二人の出会いは、とてもではないが人に言えたことではない。しかしアストルはガノンドロフの手を握り、優しく微笑んでみせた。
「確かに……最初はびっくりしました。けど言ったでしょう?運命のようなものを感じたって。でも、今は違う。出会いは必然だったと思うんです。必然的に、私たちは運命の再会を果たしたのです。きっと記憶が頭から失われていても心が覚えていたんです。だから私は貴方を受け入れることができたと、そう思うのです」
「アストル……」
「そうじゃなければ、怖くて何も感じなかった気がするんです。ただ怖いだけで、気持ちよさも、何も」
ガノンドロフは静かにアストルの言葉を聞いている。アストルはこれまでの想いを、丁寧に紡いでいく。
「貴方が私の声をほしいと言うなら、どうぞ捧げます。貴方のためだけに唄います。それが、私の望みでもあるので」
そしてアストルは歌い始める。小さな声で。その旋律にガノンドロフはハッとした。それはかつて、自分がまだ見ぬパートナーを探して作った歌だった。
『枯れ果てた砂漠を旅するように』
『望みのない虚無を歩き続けて』
『ようやく見つけた愛は泡沫』
ガノンドロフは急いでピアノの元へ駆け、アストルの歌声に合わせて鍵盤を叩き始める。これほどの情熱は、どんなコンサートでも湧き上がってこなかった。これが自分の望んでいた音楽の形なのだと、ガノンドロフはようやく掴んだ。
ゆったりとしたバラードでありながら、胸を揺さぶる低音と高音の交差。それは何度も何度もすれ違い、同じメロディを奏でない。
『これがさだめならば、何に祈ればいい』
『天からも地からも見放されたこの私は』
『こちらを覗く深淵はかつての私』
『もう戻らないと決めたのに魅了されてしまう』
サビに入る瞬間、異なるメロディを奏でていた低音と高音が重なる。悠久の如き時の流れの果てに、出会いを果たした二人のように。
『あぁ、そこにいたのか』
『見えていないだけだった』
『気が付いていないだけだった』
『星の君よ』
アストルの美しい声とピアノの音が溶け合い、一つになる。その一体感が響く室内はまるで天国のように荘厳で甘美な空気に包まれた。ガノンドロフはピアノを弾く手を止め、アストルに腕を伸ばす。
「……そうだ、そんな声だったな、アストル」
「また、歌ってもいいですか?」
「あぁ、もちろん」
その夜は甘く淫靡な声ではなく、天使の歌声が響き続けた。
続く
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