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ナスカ
2021-05-01 21:02:20
11024文字
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それはパズルを組み上げるが如く⑤
転生ネタの続きです。
ちょっとアストル君が可哀想な目に。けど基本ラブラブだから大丈夫だと思います()
「こ、こんばんは
……
」
「おぉアストル、よく来たな。さぁ入れ」
「お邪魔します」
アストルとガノンドロフが知り合ってから一ヶ月半が過ぎた。土日はお互いがお互いの家に遊びに行くのがお決まりになっていた。今週はアストルがガノンドロフの住むマンションへ来る番だった。互いの家を行き来するのが普通になり、アストルはすっかり緊張しなくなっていた。ただ未だに照れることはあるらしく、頬を赤く染めて上目遣いでガノンドロフを見つめていた。
「仕事終わりで疲れてるだろう。風呂は沸かしてあるぞ」
「すみません、ありがとうございます」
アストルはガノンドロフの言葉に甘えて風呂場を使わせてもらうことにした。慣れた様子で風呂場へ向かい、服を脱いで浴室へと入っていく。しかし決して周囲の物を雑に扱うことはなく、「貸してもらっている」ということをアストルが忘れていない証拠であった。努力して胃の容量を増やしたアストルの体は少しずつ肉付きがよくなっていた。浮き出ていた骨は姿を潜め、ようやっと成人男性の平均的な体格へと近づき始めている。
シャワーで体の表面に付いた汚れを洗い流し、ボディソープを染み込まれたスポンジで体の隅から隅まで擦る。髪はトリートメントまでしっかりと。いつでも綺麗な自分を見てもらいたいから。アストルはガノンドロフと出会ってから、確実に美しく変わっていっていた。アストル本人はそれに気が付いていなかったが、明らかに周囲からの視線が違う。街中を歩いているとうら若い少女たちが色めき立つのはもちろん、男ですら振り向く。そのため変な集団に絡まれることも増えてしまったのがアストルの悩みだった。これまでこんなこと無かったのにとガノンドロフに打ち明ければ、「夜一人で出歩くのはやめよ。どうしても用があるなら我も共に行く」という答えが返ってきた。試しとして夜の繁華街を一緒に歩いていたが、悪い虫は一匹たりとも寄ってこなかった。誰もがアストルの隣にいるガノンドロフに勝てっこないと思ったのだろう。守ってもらえて嬉しい反面、自分のことを自分で守れない悔しさがアストルにはあった。
「私、どうすれば自衛できるのでしょうか
……
」
「我が守ってやるから気にするな。
……
というわけにもいかぬよな」
「そうなんです。自分の身くらい自分で守りたいんです」
それに対する答えをアストルもガノンドロフも未だに出せていなかった。時間をかけてゆっくりと出せばいい、それまでは我が守ろうとガノンドロフは言った。
たっぷりの湯に浸かり、アストルはこれからのことを考えていた。折角ガノンドロフが励ましてくれたのだから、もう一度天文学者になりたいと思っていた。しかし天文学者になるためには大学院で天文学を専攻し、博士号を手にする為には五年間研究をしなければならないのだ。大学院に行くのは決して楽ではない。アストルは優秀だが、学費が高い上にハイリア人である彼が研究職に就くのは非常に難しいことであった。どんなに功績を上げても、きっとハイリア人であることを理由に弾かれてしまう
……
そう考えると何もかもが無駄になってしまう気がして怖かった。けれど一歩踏み出す勇気を貰えたのだからそれに報いたい。だがしかし
……
と思考がループを描き続けていた。
大学院に通って研究をしながらプラネタリウムのスタッフを続けるのも難しい。アストルには誰かしらの経済的な支えが必要だった。身内を全て喪ったアストルに頼れる人などいなかった。
「
……
はぁ」
このことをガノンドロフに打ち明けたらどう思うだろうか。諦めた夢をもう一度目指しているということを知ったら、きっと喜んでくれるに違いない。けれど負担はかけられない。そもそも負担してくれるかも、などと思っている時点でこんなの傲慢だ。何度も会って言葉を交わして肌を重ねていても、たとえ
……
遠い昔から知り合っていたとしても、出会ってから一ヶ月半しか経っていないのだ。それも遠い昔から知り合っているなんて自分の思い過ごしかもしれないのに。
夢を叶えるためなら自分ひとりで努力しなければいけない。ガノンドロフもきっとそうして藻掻いてきたはずなのだから。自分だけが甘えるわけにはいかないのだ。
「
……
そろそろ出たほうがいいかな」
ザバリと湯船から立ち上がれば水面が波立った。長風呂をしていたらのぼせて動けなくなってしまったのではないかと思われてしまう。湯船に蓋をして、浴室の外に出しておいたバスタオルで体を拭く。キッチンの方からはいい匂いが漂っており、ちょうど良く出てこれたとアストルは思った。
お泊り用の部屋着を着て、髪にバスタオルを巻いてアストルはキッチンの方へと向かう。デミグラスの香りにワクワクしながらガノンドロフの手元を覗き込んだ。
「出たか」
「はい。お風呂ありがとうございました。
……
これは、ビーフシチューですか?それともハヤシライス?」
「惜しいな、ビーフストロガノフだ」
「ビーフストロガノフ
……
なんだかガノンさんに名前が似てますね!」
「ふ、よく言われる」
アストルは炊飯器からご飯を器に盛り、ガノンドロフに渡した。黒みがかった茶色く牛肉がたっぷりのテラテラした表面にアストルは思わずつばを飲む。ガノンドロフの手料理はいつだって美味しそうで、もうこの人料理人でも食べていけるんじゃないだろうかと思えるほどであった。ご飯とビーフストロガノフが盛られた二つの器を運ぶ。ダイニングに置いてあるテーブルには真っ白なクロスが敷かれており、これは間違ってもこぼせないなとアストルは思った。器を置いて振り返るとガノンドロフがサラダを持ってきていた。レタスやパプリカ、キュウリを使ったサラダにクルトンとシーザードレッシングをかけたものだ。
「あとスプーンとフォークですよね。持ってきます」
「ありがとう、頼んだぞ」
カトラリーを収納してある引き出しから二人分のスプーンとフォークを取り出し、ついでにとグラスに氷を入れたものを二つ持ってきた。すでにテーブルの上にはカットレモンと氷と水が入ったピッチャーが用意されており、あとはグラスだけだった。
「では、食事にするとしよう」
「はい!」
向き合う形で二人は椅子に座り、いただきますと手を合わせた。食事をしながらあれこれと会話する、楽しい時間。
「そういえばアストル」
「どうしました?」
「お前はまだ我のコンサートを見たことが無かったな」
「はい
……
どうしても仕事と被ってしまって
……
」
「今度の公演は日曜日なのだ。お前と過ごせないのは心苦しいが
……
どうか来てほしい」
ガノンドロフがそう言って懐から取り出したのは、一枚のチケットだった。しかも関係者用の、かなり舞台から近いところの席だ。こんなものを貰ってしまっていいのかと、アストルは驚いた顔でガノンドロフを見つめた。
「私、関係者じゃないですけど
……
いいんですか、いただいてしまって」
「もちろんだ。実は『最近どうもお前は調子が良さげだ』と言われ、ついお前のことを話してしまったのだ」
「えっ!?その
……
つ、付き合ってる
……
って
……
?」
「あぁ
……
かなり驚かれた。それで、まだ一度も我の舞台での演奏を聞いたことがないと話すと『お前のカノジョ、してることがもったいなさ過ぎる。チケット強請るくらいすればいいのに』と言いながらこれを差し出してきてな」
「彼女、ってことになってるんですか
……
」
「交際相手がいる、と言っただけで女とは話しておらんよ。向こうが勝手に女だと思っているだけだ」
呆れ半分にガノンドロフは言った。アストルはチケットを受け取り、それをしげしげと見つめた。日にちと時間、そして公演名が印字された長方形の品質の良い紙。
「じゃあ、この日絶対行きますね!ありがとうございます!」
「ようやっと、我の本気をお前に見せられる。楽しみで堪らんよ」
食事を終え、ガノンドロフが風呂に入る間にアストルは食器を洗った。眠るための身支度をして、寝室に入る。アストルは先にベッドへ潜り込み、布団に染み付いたガノンドロフの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。これだけで幸せになれるのだから、これ以上彼から幸せを与えられたら自分はどうなってしまうのだろう。もしかすると、幸せすぎてパンクしてしまうかもしれない。
風呂場から足音が聞こえてきて、アストルはハッとして布団から出てベッドの淵へと座った。匂いを嗅いでいるところを見られるのは、少々恥ずかしい。寝室に入ってきたガノンドロフは熱っぽい目をしていた。その射抜くように瞳にアストルは胸を高鳴らせる。
「アストル」
「
……
はい、ガノンさん」
「今夜も
……
良いか?」
「
……
えぇ、もちろん」
照明が落とされる。アストルとガノンドロフは、シーツの波にその身を隠した。
❋❋
クラシックコンサートなどアストルは行ったことがない。勢いで「絶対行く」と言ってしまったが、果たしてどんな服装で行けばいいのか、何か差し入れはあったほうがいいのかわからなかった。色々と調べてはみたところ、とりあえず男性はスーツなら大丈夫だということだ。流石にカジュアル過ぎる服装はしないつもりだったが、スーツを着るのは就活ぶりであった。差し入れは花束もいいらしいとのことだったが、ガノンドロフほどの人気ピアニストともなれば大量の花が差し入れられるに違いない。終演後に軽い打ち上げが行われることもあるという情報を得て、日持ちする焼き菓子かワインにでもしようかというところで考えがまとまった。
「折角関係者用のチケット貰ったんだし
……
高めのものがいいよな
……
」
仕事帰り。アストルは食料品の買い出しと一緒に、差し入れを何にしようかと店内をぐるぐるしていた。しかし一般庶民の寄るようなスーパーに求めるようなものは無く、仕方ないと少し高級志向の店が入っているビルへ立ち寄ることにした。スーパーのビニール袋をぶら下げて入るのは気恥ずかしく、仕事用のバックに野菜から肉魚までをギュウギュウに詰める。
普段寄らないような店ばかりだ。行き交う客はこの街のどこに住んでいるのかわからない小綺麗な人たちばかり。なんだかここにいることが居た堪れなくなり、早いところ何を買うか決めてすぐに帰ろうとアストルは思った。ここがいいな、と思ったのは幅広いクッキーを扱う店だった。打ち上げがどの程度の規模だかわからないが、量が多いものを選んでおいて損は無いだろう。一番大きめのアソーテッドクッキー缶は五千ルピー。チケットもだいたいそのくらいの価格だったこともあり、アストルはこれを買っていくことにした。
買ったのだから早く帰ろうと、歩調を早める。喜んでほしいなと考えて、できるだけ人通りの多い明るい道を選ぶ。腕っぷしの弱いアストルができる自衛手段はこれくらいしかなかった。それでもアパートの方に近づくにつれて街灯の数は減り、歩いている人数も疎らになる。アストルは時折後ろを振り返ったり、周囲を見回す。歩いているときに音楽を
……
もちろんガノンドロフの演奏したCD音源をイヤホンを着けて聴いていたがそれもやめた。誰が付けてきているかわからないからだ。
「
……
ふぅ」
何事もなく部屋の玄関までたどり着いた。あとは夕食を食べて風呂に入って、明日の支度をしてのんびりしよう。そう思っていた。
そう思っていたのに。
突然アストルは後ろから襲われた。暗くて顔はよく見えない。しかし間違いなく自分より体格の良い男だ。口を手で抑えられ、両腕は背中側で拘束される。仕事用のバックとクッキー缶の入った紙袋がアスファルトに落ちた。
「お帰り、待ってたぜ」
「んっ、んぅっ
……
!」
「死にたくなけりゃ抵抗しないこったな」
相手は誰だかわからない。聞いたことのない声だ。アストルは藻掻くが全く抵抗になっていない。男はアストルの口から手を離すと無理矢理キスをしてきた。驚きと恐怖でアストルは身動きができなかった。それをいいことに男は舌をアストルの口の中へ捩じ込む。
(やだ、嫌だ)
口を離されたアストルは全身から力が抜け落ち、ドアに背中をつけてガタガタと震えていた。早く、早く逃げないと。そう思っているのに体は動いてくれない。声を上げればきっとひどいことをされるに違いないと思うと声もでない。まるで声帯が凍りついてしまったようだ。
「男に抱かれてイイ声出してるの、知ってるんだぞ俺は。それなら俺の前でも出せるはずだよ、なぁ?」
「っ
……
!」
アストルは必死に首を横に振った。あれはガノンドロフの前でだけだ。誰にでも出すものではない。誰にでも見せるわけがない。
「男のくせにこんな綺麗な顔して、男を誘ってるんだろ?」
「ち、違うっ
……
!私は
……
あの人のためだけに
……
!」
そうだ、抵抗しなくては。自分で自分を守れるようになりたいと言ったのは、アストル自身。怖いけれど、動かない足に何とか言うことをきかせる。立ち上がろうとした時、ドンと体を叩かれてしまった。再びアスファルトに崩れ落ちる体。
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ。大人しく抱かれてろ」
「やっ
……
いやっ
……
!」
伸びた手で服をひん剥かれ、アストルは痛みと恐怖に耐え続けた。
「ぁ
……
」
「アストル!目が覚めたか
……
!」
「ガノン、さん
……
?」
アストルは目の前にいるガノンドロフが何故今にも泣きそうな顔をしているのかわからなかった。自分がどこにいるのかもわからなかった。周りを見回してみると、部屋の何もかもが白いという印象を受ける。ここは病因だった。
「どうして
……
私、は
……
」
「覚えておらんのか。
……
いや、覚えていないほうが良いかもしれん」
「何を
……
、おぼ、えて
……
?
……
あっ
……
!」
瞬間、アストルの脳裏に浮かんだ夜の記憶。アストルは体を震わせて、目に涙を浮かべている。思い出してしまったか、とガノンドロフは苦い顔をした。
「私
……
私、は
……
!あの時、汚され、てっ
……
!」
「大丈夫だアストル、心配はいらない。犯人は捕まった」
「やめてっ!触らないで!」
ガノンドロフはアストルの肩に触れようとしたが、まだ混乱しているのか、手を引っ叩かれてしまった。アストルはしてはいけなかったと気がついてハッとする。自己嫌悪が胸に湧き上がり、恐怖と綯い交ぜになって涙腺が決壊した。
「ごめ、なさっ
……
!心、配してくれ、たのにっ
……
!でも、どうしても、怖くて
……
!」
「わかっておるよアストル。我こそ軽率だった。すまなかった」
「うぇっ
……
うっ
……
うぁあああああっ!!」
アストルはガノンドロフに縋り付いて泣いたが、ガノンドロフからアストルに触れることはなかった。今の傷ついたアストルに必要なのは、ただ受け入れてもらえること。アストルが満足するまで、泣きはらすまで、ガノンドロフはアストルを受け入れた。
アストルが自宅アパートの部屋の前で倒れているのを発見したのは隣に住んでいる主婦だったという。服を剥がされて髪が乱れ、地面に散っている白い白濁で何が彼の身に起きたのかを察した主婦はすぐに救急車と警察を呼んだ。アストルはすぐに搬送されたが、所持していたスマホには連絡先が職場とガノンドロフの二つしか登録されていなかった。最初職場に連絡をしたが営業時間外。否応なくガノンドロフに連絡を取ることになった。連絡を聞いた時ガノンドロフは公演の打ち合わせの最中だったが、「身元引受人になったようだ」と言って打ち合わせ会場を飛び出した。嫌な汗が噴き出して、ホームに立っている間も、電車に乗っている間も、早くアストルの元へ行きたいと感情が逸った。搬送された病院に駆け込み、看護師に病室を尋ねて「院内では走らないでください」と言われたが走らずにはいられなかった。
眠っているアストルの白い顔には傷や痣が残り、犯人への憎しみが更に増した。直接殴ってやらなくては気が済まんと思っていたところに、警察がやって来た。たまたま監視カメラが現場を捉えていたようで、犯人はあっさり捕まったのだという。犯人の男はアストルの住むアパートの二階の住人だった。アストルをひどい目に遭わせたのも、アストルを助けたのも、同じアパートの住人と知ってガノンドロフは複雑な気持ちになった。
何もしてやれなかったとガノンドロフは後悔ばかりしていた。どんな時でも自分が守ってやればこんなことにはならなかった。むしろ、自分と出会わなければアストルは美しさに磨きがかかることもなく、こんな被害に遭うこともなかった。やはり自分はアストルを不幸にすることしかできないのか。いつか夢で言われた、もうひとりの自分からの言葉が突き刺さる。
「形は違っても、結果は同じ、か
……
」
いつか離れる方がいいのかもしれない。けれど今離れてはアストルの心はもっと傷ついてしまう。汚れてしまった人間など、貴方は嫌ですよね。そう悲しそうに言う姿が簡単に浮かんだ。今はまだ離れるべきでは無いのだろう。そう思った時、アストルの手がガノンドロフの服の袖を摘んだ。
「ガノンさん
……
」
「アストル!
……
我は
……
」
「離れないで、いなくならないで。
……
ごめんなさい、私から拒絶しておいて、こんなの身勝手だってわかってます。でも、怖くなってしまって」
「
……
怖い、だろうな」
「こんな汚れた私に触れるなんて、嫌かもしれません。でも、少しだけ、私に触れていてほしいんです。自分勝手で、本当、ごめんなさい
……
」
目を逸らしながらアストルは言った。小さくなりながら懸命に言葉を紡ぐアストルが健気で、憐れで、自分はこれを終生大切にしなければならないと、再度感じた。
「身勝手でも、自分勝手でもない。あんな目に遭ったのだ。さぞ辛かっただろう。我に甘えよ。何も後ろめたさを感じることはない」
「
……
ありがとう、ガノンさん」
❋❋
二日後、アストルは退院した。検査の結果陰性であることがわかったが、アストルの心の傷は癒えることはなく、ガノンドロフにひたすら甘えることで何とか心を保たせているように見えた。職場にも連絡を入れ、休みを貰うことになった。あのアパートに戻るのは危ないと思い、アストルはガノンドロフのマンションに居候することとなった。
「ここなら安心できます」
アストルは笑ってそう言った。その笑顔すら無理して作っているように見えたが、無理して笑わなくても良いとも言えず、ガノンドロフは「それならばよかった」と返すしかなかった。
これだけ深い関係になっているにも関わらず、二人は未だに戸籍上は他人である。このままでは互いに何かあっても、干渉することはできない。パートナーシップを結ぶべきかとアストルに話せば、「私は構いませんが、ガノンさんのご家族はなんと思うか
……
」と申し訳無さそうに俯く。まだ話していなかったか、我ももう家族はおらぬよ、と告白すれば顔を青くして「ごめんなさい
……
」とさらに下を向いて言った。
「我はもう誰にもとやかく言われることはないのだよ。我はお前と、良き間柄でいたい」
ガノンドロフの言葉にアストルは頷いて答えた。そうと決まれば役所へ申請をしに行き、その日の内に受理された。駆け足での関係進展ではあったがそれは書面での話であり、今においては何かあったときのための保険的な意味合いしか持たない。この出来事で一抹の安心は得たものの、アストルの精神状態は依然として不安定なまま。アストルはそんな自分を嫌悪した。事件のことがフラッシュバックするのかなかなか情事にも至れず、アストルの方から誘ってきたのに「やっぱり無理ですごめんなさい」と本番に至れずに終わってしまうこともあった。
「無理しなくても良い。お前の心が癒えるまで待てる」
二人で一台のベッドに横たわり、ガノンドロフは天井を見ながら言った。アストルは横を向いて、グスグスと泣いている。
「けど
……
やっぱり、したい、でしょう
……
?本当は、私もしたいんです。けど、怖くて、怖くて
……
!」
「
……
正直に言えば、お前をこの手で早く抱きたいとは思う。だが、お前の心を傷つけてまでするべきではない。アストル、我はお前を抱けぬくらいでお前から離れたりはせぬ」
きっと背を向けられているだろう、そう思ってガノンドロフはアストルの方を見た。だが、アストルはこちらを見ていた。涙で黄玉色の瞳が輝いている。泣き続けたせいか、目元は赤く腫れていた。白い紙に朱を染み込ませたかのように、美しい色だった。
「
……
明日、コンサートですよね」
「無理は不要だ。会場内は暗い。それに、途中退場もできぬ」
「いいえ、行きたいです。貴方に満足に触れらない今、貴方をしっかり感じれるのは、音、だと思うので
……
」
アストルはニコリと笑った。決して無理をしているわけではない、心からの微笑みだった。ここまで言われて拒むのはアストルに悪い。
「ふ、そうか。ありがとう」
「えへへ
……
あっ、でもあの時差し入れのクッキー落としちゃって
……
」
「お前が我のために来てくれるだけで十分だ。
……
ところで、どこの菓子だったのだ?」
「ロンロンブランドのクッキーでした」
「それは
……
食いたかったかもしれん」
ガノンドロフの正直な一言にアストルは思わず噴き出した。
翌日、二人は一度アストルのアパートに立ち寄ってからコンサートホールに向かうことにした。居候しているとは言え、アストルの荷物はまだほとんどアパートに置いてあり、着る予定だったスーツもまた然りだったからだ。アストルのスーツ姿を見たガノンドロフは「結構似合ってるじゃないか」とそのいで立ちを褒めた。普段は垂らしているだけの髪をサイドでまとめれば、いつもと違う雰囲気になった。
「なんだか照れますね、こういう恰好」
「お前は普段そういう服は着ぬだろうからな。我はもう慣れたものよ」
気が引き締まるのに変わりはないがな、とガノンドロフは笑った。アパートから出た二人は並んで歩き、会場のある区へと向かう。不特定多数と一緒に乗る電車はアストルにとって恐ろしいものでしかなく、二人はできるだけ歩き、最後はタクシーを利用した。アストルは歩くだけで疲れてしまったのかタクシーに乗ったときはガノンドロフの肩に頭を預けた。この状態でコンサートホールに果たして入れるかと不安になったが、それを察したアストルは「大丈夫ですよ」と気丈に振る舞ってみせた。
到着したコンサートホールは国内でも三番目の規模を誇り、既に客と思われる人々で入り口はごった返していた。皆ガノンドロフの音楽に魅了された者たちだと思うと、アストルは尊敬の念と同時に言葉にできないモヤモヤした感情が溢れた。自分はガノンドロフの事を知ったばかりで、客の中には彼のことを何十年も追いかけている人がいる。そう考えると彼の隣に自分がいるのは本当に良いことなのかと思ってしまう。
「アストル、あの中にいるのも苦行だろう。しばらく我と控え室にいよ」
「え
……
でも
……
」
「大丈夫だ。我とともにいれば問題ない」
「なんか、すみません。ありがとうございます」
ガノンドロフはファンに気が付かれないよう、関係者用の入り口からアストルと共に会場の建物へと入った。建物の中は空調が効いていて過ごしやすい。アストルはややおどおどしながらガノンドロフの隣を歩く。すると、向かいから歩いてきた光沢のある赤いドレスを着た女性が軽快に声をかけたきた。ガノンドロフと同じ褐色の肌に赤い髪、出るとこは出て締まるところは締まったいい体をしている。
「おっ、ガノンドロフじゃん!今来たとこ?」
「あぁ。お前こそ早いなナボール」
「ちょっと早く来すぎちまったよ。
……
で、隣の子は誰だい?可愛い顔してるじゃないか」
ナボールと呼ばれたその女性に見られ、アストルは軽く会釈をする。
「我の連れだ、詮索するな。今はまだ話す段階に無い」
「ふぅん
……
まぁ、突っ込んだ話はしないことにしてやるよ。んじゃ、今日の演奏楽しみにしてるわよ」
軽く手を振って、ナボールは二人の元から去っていった。ガノンドロフほどの者なら、そりゃ美人な知り合いがいてもおかしくはない。しかしアストルは少しだけムッと口を不機嫌そうに曲げた。
「誰なんですか、あの人」
「同じゲルド族のナボールといってな、女優をしておる。ここのホールで行われるコンサートの司会は大体あれがやってくれている。
……
そう睨むな、それ以上の付き合いなどない」
「疑った訳じゃありませんよ。ただ
……
私の知らない貴方を知っている人が、この世の中にはたくさんいるんだなって
……
そう、思っただけで
……
」
「だがお前は世の中の連中誰もが知らない我の素顔を知っておるだろう?」
得意げに言われ、アストルは顔を赤くしてコクンと頷く。今彼と深い関係にあるのは自分だけなのだ、とアストルは少しだけ優越感を覚えた。
「控え室はもうすぐだ。なに、周りの連中がとやかく言ってきてもああ言っておくさ」
控え室でしばらく待っていると、ガノンドロフさん時間です、とスタッフが声をかけてきた。ガノンドロフは見知ったスタッフにアストルをチケットに表記してある席に案内してほしいと頼み、舞台袖へと向かった。アストルは名残惜しそうにしていたが、開演時間になればすぐに姿を見れると気分を持ち直してスタッフについていった。
扉を開けてもらった先は二階まで吹き抜けの高い天井があるホールで、ベルベット生地で覆われた座席が整然と並んでいる。既に席にはたくさんの観客が座り始めており、パンフレットを開いている者もいればお喋りに花を探せている者もいた。
「Aの1の25はこちらになります」
「え
……
最前列のど真ん中
……
」
「そうですねぇ、いいチケット貰いましたねぇ」
スタッフは嬉しそうに笑った。アストルの目の前には舞台と、舞台の上には彼が弾くであろうグランドピアノが置かれている。もしかして、私に何かあってもわかるように?とアストルは勘ぐった。けれどチケットを寄越したのは他の関係者だったことを思い出し、これはたまたまなのだと言い聞かせた。
「ではごゆっくりお楽しみください」
「はい、ご案内ありがとうございました」
アストルはいつ照明が消えるのか、いつガノンドロフが舞台に上がるのか、ワクワクしながら待った。
そして静かにホール全体の明かりが消え始め、ざわついていた観客席も静まり返る。照明は舞台に射し込んでいるだけだ。
舞台袖から現れる、いつもと違うガノンドロフの姿にアストルはドキリとする。仕事をしているときの彼はこんなにも凛々しいのかと、ときめきが止まらなかった。周囲は拍手喝采だったが、アストルにそれは聞こえなかった。
ただ彼の姿だけを、その目に焼き付けていた。
続く
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