物心がついたときから自分の側にはピアノがあったと魔王は回想する。誰が買ってきたのか或いは作ったのかは覚えていないし、もしかしたら知らなかったのかもしれない。ただピアノは自分にとても身近な存在で、ただ音を出すだけで楽しかった頃から、複雑な旋律に手を出すようになった頃までありありと思い出せる。
それもまあ最近の話であって、概念と化していた頃にはそんなことは忘れてしまっていた。自分が欲していたものを手にすることが叶わぬなら、丸々滅ぼしてしまえなどという狂気。我ながら恐ろしいものだったと、どこか第三者の目線でかつての自身を、ガノンドロフは見つめていた。
真に必要としていたのは、共に空いた穴を埋められる存在。足りないものを補い合える関係性。アストルはガノンドロフが奥深くで欲していたものを与えてくれた。ガノンドロフもまた、アストルの心に空いた穴を埋めた。互いに運命の相手だと、そう思った。
さて、話は移り、二人が暮らし始めたばかりのことである。家を建てたものの椅子やテーブル、ベッドなど、必要最低限のものしか置いておらず、これではとてもではないが文化的な最低限度の生活が送れるとは言えなかった。アストルはたくさんの書物や天体観測の道具を所有していたが、ガノンドロフは何一つとして持っていなかった。人間として生活していたわけではないから当たり前といえば当たり前なのだが、これではなんだかつまらないだろうとアストルは思った。
「なに?我の欲しい物だと?」
「はい。何かありませんか?家の中もまだじゅうぶんスペースがありますし、私のものばかりあるのもなんだか申し訳ないので」
「ふむ
……欲しい物か
……」
考え込むガノンドロフを見て、アストルは差し出がましいことを言ってしまったかと少し不安になった。しかしガノンドロフは折角アストルが言ってくれたのだからと、熟考しているだけである。
「
……楽器が良いな」
「楽器、ですか?」
「あぁ。喜びも悲しみも、怒りも楽しさも、全てを音で表現できる楽器は良い。
……あぁそうだ、ピアノだ。ピアノが欲しい」
「ガノンドロフ様はピアノが弾けるのですか?」
「餓鬼の頃によくやったものだ。少しは鈍ったかもしれぬが、また練習すれば弾けるようになるだろう」
タララッ、とガノンドロフは鍵盤を叩くフリをして見せた。その様子がおかしくてアストルは思わずフフッと笑った。
「では見に行きませんか?恐らく近くの町には楽器の専門店なんて無いと思うので
……城下町まで!」
アストルの提案にガノンドロフは賛成した。まだ昼前だったこともあり、二人はすぐに支度をするとガノンドロフの愛馬に乗って平原を駆けた。
❋❋
城下町にかつての厄災とその信奉者がいるなどと知られたら大騒ぎになる。二人は外套で頭から体をすっぽりと覆い、顔を隠して賑やかな町中を歩いた。長身の男二人が顔を隠して歩いている姿はやや異様であったが、復興のためにハイリア人だけでなく他の亜人たちも出入りしているため周囲はあまり気にしていないようであった。
店の窓に飾られたバイオリンやハープを見つけたアストルは「きっとここです!」とガノンドロフの腕を引いて店の中へと入った。
カランカランと呼び鈴が鳴り、少しだけ照明が落とされた店内からはどこからか「いらっしゃーい
……」とやや陰気な声が聞こえた。
店内には様々な楽器が十分な距離をおいて置かれていた。床には大きな弦楽器から金管楽器、木管楽器が種類ごとに置かれていて、棚にはオカリナやハーモニカなどの小さな楽器や楽譜の本が並べられている。木の匂いが充満する中で置かれた楽器たちはよく手入れがされているのか、金管楽器は金属光沢を保っていたし弦楽器はつややかに外の光を反射していた。
「こんなにたくさん、初めて見ました!」
「ふむ、我も同じだ。城下にこのような店があったとはな」
アストルは目に見えてはしゃぎ、ガノンドロフは落ち着いているように見えて瞳が輝いていた。
「おや、アンタたちお登りさんかい」
店のカウンターの方から、先程の陰気な声の主が姿を現した。声の主は以外にも女性で、もうかなりの年を重ねているようだった。お登りさん、ということは彼女は生粋の城下町生まれ城下町育ちなのだろう。
「は、はい。そんなところです」
「そうかいそうかい。今日は何をお探しで?」
「ピアノを探しているんです。えっと
……どんな種類でしたっけ?」
「アップライトではなく、グランドピアノを」
「だそうです」
楽器の知識がこれっぽっちも無いアストルはガノンドロフの言葉に合わせる。二人の話を聞いた店主の老女は、「ではこちらへ」とカウンターの入り口を開けると更に奥の部屋へと案内してくれた。ピアノはどうやらそちらに置いてあるらしい。二人は老女に導かれるがまま、奥の部屋へと向かった。
「こちらですよ、お二人さん」
老女が扉を開く。するとそこに置いてあるピアノを見て、ガノンドロフは思わず声を上げた。
「これは
……!」
「おや、もしかしてそちらの方は知っていらっしゃるのですか?」
「何を、です?」
アストルはよくわかっていないようで首を傾げる。
「これは私の家に長いこと伝わっているピアノで、どうも言い伝えによるとその昔、砂漠の王が所有していたとされております。まあ砂漠の王も一万年以上現れていないので、どのくらい前のものかは知りませんが
……」
老女のその説明を聞いてアストルはガノンドロフの様子がおかしいことと合点がいった。これはまさしく、彼が使っていたピアノそのものでは無いのだろうか。ガノンドロフの瞳は、まるで昔の共に再会したような喜びに溢れていた。
「店主よ、このピアノを見せてくれたということはいくらで売ってくれる?」
「そうですね
……随分と古い品ですがまだ使えますから、5000ルピーといったところでしょうか」
「買わせてくれ。
……アストルよ、これは我を待っていたのだと、そう思うか?」
ガノンドロフは懐から財布を取り出してルピーの数を数えながら問いかけた。アストルは「きっとそうです」と答えた。
「持ち主に出会えて、このピアノも喜んでいるようですねぇ」
老女は二人に聞こえないほど、小さな声で呟いた。
❋❋
後日、二人の家にピアノが届いた。とてもではないが玄関から入らなかったので、大きな窓のある寝室から入れることにした。寝室から居間に続く扉を通ることも出来なかったため、ピアノは必然的に寝室に置かれることになった。それでいいかとガノンドロフが尋ねれば、アストルはもちろんと答えた。
調律もしっかり行ってくれたということで、ガノンドロフは早速ピアノを弾いた。しかしやはり一万年以上のブランクは大きく、かつては楽々と弾いていた曲もどうやって弾いていたのか思い出せない。落胆するガノンドロフにアストルは微笑む。
「時間はたっぷりあります。少しずつ、弾けるようになればいいと思いますよ」
「む
……それもそうだな。我らには時間が有り余っておる」
体は覚えていると言ったところだろうか。ガノンドロフは一ヶ月と経たないうちに基本的な曲を弾けるまでに腕が回復した。その様子に、アストルは世が世なら彼はピアニストとして名を馳せただろうにと少し寂しい気持ちになった。ゲルド族に男として生まれたばっかりに、彼の運命は狂ってしまったのでは無いのだろうかと。ピアノを弾いているときの彼はまるで音との対話を楽しんでいるようで幸せそうで、これが本来の姿なのではないかと思ってしまう。
三ヶ月経つ頃にはかつて弾けていたという複雑な曲を見事に弾きこなし、アストルは思わず拍手を送った。
「そ、そんなに褒められると
……少々気恥ずかしいな
……」
「すごいですガノンドロフ様!私にはとてもではありませんが、弾けないですよ
……」
「ならば、唄ってみるか?」
「へ?」
「歌ならば唄えるだろう。我のピアノに合わせて唄え。お前の声は男にしては高めであるし、女声の譜面でも唄えるようになるだろう」
「ちょ、ちょ、なんで唄う前提で話を進めるんですか!?私はこれまで唄ったことなんて、一度も
……!」
「人生で?一度も無いのか?」
人生で、と聞かれるとアストルも迷ってしまった。確かに唄った記憶は一度ならず何度かある。それはもうとっくの昔の話、まだ母が生きていた頃の話だ。母のことを思い出せば涙が溢れる。楽しかった思い出ですらガラス片のように心に刺さり、透明な血が流れた。母の声は美しかったと記憶しているが、それももう曖昧。
「
……本格的に唄ったことは、ありません」
「一度でも唄ったことがあれば結構。大丈夫だ。我が教えてやる」
こちらへ来い、とガノンドロフがアストルをピアノの方へ招く。アストルは肩を縮めてコソコソとピアノの近くへ寄った。
「ではまず基本の音程から
……ドレミはわかるな?」
「どれ、み
……?」
「ドレミファソラシド。音階は基本この八つで成り立っている」
ガノンドロフは白鍵を八つ叩いて見せる。武骨な指が繊細に動くさまは本当に不思議だったが、アストルは別で不思議に思っていたことを尋ねる。
「ドが二つあるのはなぜですか?」
「低いドと高いドだ。これは
……まあドは二つあるものだと覚えておけば良い」
「はい」
「よし、では声を出してみよ」
ガノンドロフが鍵盤を叩くのに合わせて、アストルが歌声を出す。アストルが鍵盤の方を向いて声を出していたので、顔は下に向けてはいけない、少し上を向いて天井の一点に届けるように声を出しなさいとガノンドロフが指導をする。アストルははいと返事をして、言われた通り顔を上げて天井の一点を見つめ、そこに届けるように声を出した。良くなったぞ、とガノンドロフに褒められ、アストルは頬を赤く染めた。それを同じ音程で数回繰り返し、八つの音をアストルが出せることがわかった。
「次は違う音程を繋げて唄うぞ。案ずるな、ミやファがいきなりシやドに飛んだりはせぬ。順番通りに弾くから大丈夫だ」
「はい、お願いします」
アストルは緊張が少し解けたのか、声がのびのびとし始めた。ガノンドロフもアストルの声色が豊かになるにつれて、体を揺らしながらピアノを奏でる。少し固かった指の動きもアストルの歌声に合わせてしなやかに、踊るようなものに変わっていく。アストルは次第に気分が乗ってきたのか、唄いながら軽くステップを踏み始めた。その様子を見たガノンドロフはここが好機だと別の曲を弾き始めた。アストルは全く違和感なく、高らかに唄い上げる。ガノンドロフが言ったようにアストルの高い声は美しく、星の囁きのようだった。
『きらめく お星さまよ』
『知っているでしょ 胸の痛み』
『おしえて この愛の望みを』
『あの人なしには 生きられないの』
『星あかりは 愛のともしび』
『照らしておくれ お願い』
『おしえて あの人の気持ちを』
『この愛なしには 生きられないの』
アストルは歌い終えると、ふぅとため息を吐いてからハッとした。自分は今何をしていたのだろうか。夢中になっていてよく覚えていない。ガノンドロフの方を見ると、何故かニヤニヤと笑っている。思わず両手を頬に添える。
「ふふっ
……唄った経験が無い、だと?こんなに素晴らしい声をしていながらよくそんな事が言えたものだな
……」
「あっ
……いや、その、これは
……!ガノンドロフ様のピアノがお上手で、つい
……!」
「つい、で出てくる歌詞なのか?それは」
「
……母が、星を眺めながらよく歌ってくれたのです。昔はよく意味がわかりませんでしたが」
そうかそうかとガノンドロフはやはりニヤニヤしている。そんなに笑われるとどうしても恥ずかしくなってしまう。アストルはチラチラとガノンドロフを見やるが、ずっと同じ顔をしている。よほど歌を気にいられてしまったようだ。
「これからも我と共に歌を奏でてくれるか?可愛い小鳥よ」
「ぅ
……は、はい
……」
アストルは真っ赤になりながら答えた。そしてもう一度あれを唄えと言われ、二人は日が沈むまで音の対話を続けた。
※歌詞はメキシコの作曲家ポンセの作品「エストレリータ」より引用しました。訳はこちらから↓
https://www.nmmusic.co.jp/guitarra/article_20170804.html
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