組織内の何てことない一室。見慣れた廊下を歩き、目当ての部屋の扉を開け、部屋の中へ一歩踏み出した時点で風子は長年培った感からゾッとする名状し難い違和感に飛び退いた。
室内照明が点灯せず不気味な暗がりが続く部屋の奥は何も見えない。気配があるようでない、ないようである感覚は気持ち悪さを誘い風子を身構えさせ、扉を開け放った部屋の床から這い出てくる暗がりが飛び退いた風子を捉えるべく廊下を漆黒に染め上げていった。
視線を部屋から逸らさず足先が暗がりに捕まる前に後方へ飛び退き続ける風子の頭は今襲い掛かっている正体について思考を巡らせる。
自分の記憶、古代遺物からの記憶のどれにも当てはまらない。新手のUMAか、はたまたそれ以外の何かか。
「警報もなにも鳴っていない。外部からの侵入じゃない……? それともセキュリティーを掻い潜って?」
兎に角正体不明の何かに触れるのは悪手過ぎる。かと言って何時までも逃げ続けるわけにはいかない。軽快に飛びのき続けていた風子がリボルバーに手を掛けようとしたその時。
「──!!」
廊下の角から見えた若草色を映した風子の世界がゆっくり廻る。無重力化でなくとも古代遺物化した体のお陰かふわり浮遊できるらしくフィルは足で歩くより浮遊して移動することが多かった。
澄み切ったフィルの目と目が合う。そして、進行方向を自分から離れていく暗がりを見た風子は床に着地する足を彼の方へ蹴り出し浮遊する小さな体を庇うように抱き締めた。
「フィルくんッ!」
たとえ自分の身が如何なろうが絶対に護る強い意志を宿す風子の胸に抱かれたフィルは其の無垢すぎる眼差しを彼女に向け続けた。
「すぅーーーッ……はあぁ……」
瞳を瞼裏に隠し深く息を吸い、気と集中力を高めた風子の目がカっと開いたと同時に勢いよく飛びあがった。
「鉄山靠!!」
空中で高速回転させた勢いをそのままに組織内でよく見る無機質な壁に向かって背中から体当たりをぶちかます。結構な音を立てぶつかったあと、風子が壁から離れるよう飛び退いた。
「手応えは、ないか」
罅はおろか痕すら残っていない壁に近付きペタペタ触っていた風子が、同じく別の壁に向かってレーザー砲を照射を試みているフィルを見るため振り返る。
「そっちはどう?」
風子に声を掛けられ壁に向かって両手を向けていたフィルが首を横に振りつつ応えた。
「駄目みたい」
普段であればレーザー砲を照射するのにあたり手首が外れるというのにフィルの古代遺物はうんともすんとも反応しない。それどころか、普通に会話が出来ている状況にいよいよ風子はどうしようかと考えあぐねる。
二人揃って暗がりに飲み込まれ、次に意識が戻った時は何の変哲もない部屋の中だった。
フィルを抱き庇う風子はリボルバーを構え周囲を窺う。本当に組織に数ある内のひとつの部屋にしか見えない其処に満ちる名状しがたい違和感に警戒心を解かないでいれば、唯一の出口であろう扉の上がやたら喧しく回転パネルよろしく動き始めた。
困惑に口を引き締める風子と、無表情なフィルがドラムロールまで聞こえ出したパネルの動向を凝視する。
【相手への愛をドリンク化して相手に飲んで貰わないとこの部屋から出られません】
でかでかと書かれた文字に風子の頭上にクエスチョンマークが飛び交う。
【尚、この部屋はドリンク化した愛を飲み干す以外出る方法は御座いません】
【否定能力及び一部古代遺物の力は今この時この部屋にいる場合に限り無くなりますご了承ください】
そんな馬鹿な事があってたまるものか。風子が胸の内で絶叫している間、フィルは一先ず近くにある壁に向かってレーザー砲を照射するため腕を伸ばした。
「出ない」
メンテナンスを怠らずしてもらっている為、不具合が起きたとは考えにくい。馴染んできていた古代遺物の体を覆う説明し難い感覚にフィルが伸ばしていた腕を戻し手のひらを開閉していると、上から驚きに満ちた風子の声が降ってきた。
「フィルくん…声が……」
「ほんとだ」
風子に指摘され気付いたフィルは自身の発声器官を外側から擦り風子を見上げる。
「ボク、声出てるよ」
その後、二人揃って色々試した。結論から言えば本当に否定能力と一部古代遺物の力が消失している事、そして物理的に壁を破壊しようにも破壊できない事だけをまざまざ思い知らされたのだった。
「外と連絡も取れない」
通信機から終始ザーザーとノイズが走り続け、肩で溜息を吐いた風子の袖をいつの間にか傍に寄ったフィルの小さな手が引っ張る。
「やっぱり、アレ飲んだ方がいいのかも」
「アレ、ねえ……」
フィルが指さす先。あまりにも場違いすぎる緑青色のガーデンテーブルと二脚の同じ種類の椅子。花と蔓をモチーフにしている模様が描く天板にはフルボトルサイズのデカンタとコップがふたつずつ澄ました顔で鎮座している。
なめらかで潤い透明感あふれる硝子で出来たデカンタの腹の中にはたっぷりとオレンジ掛かった乳白色の液体が入っており、無言の圧ではやく誰かに飲まれたいなんて訴えかけているようだった。
「うーん……」
部屋に閉じ込められ、あの訳の分からないパネルを読んだ後に先のものが音も無く部屋に現れた。
一応安全確認のため風子が指先に少しだけ付け毒味兼味見をすれば舌先に広がる優しい味に顔が華やぐ。何処か懐かしい気分にさせてくれるミックスオレの味に、風子がほぅっと息を吐くもすぐさま振り払うべく頭を振るい、もう一つの方も毒味兼味見をしたが同じ味が舌先に広がった。
「これは最終手段。私達の力で部屋からの脱出が無理だったら飲む、しかないのかなぁ……」
フィルに言い聞かせている風子も首を傾げてしまうくらい信じていいのか分からない風子は唸り続けフィルは「うん分かった」と言い頷いた。
そして、腹を括らなければならない事態になってしまった。
幸い毒が無いのは分かった。あとは飲む量の多さだ。フィルと一緒に其々席に着き、双方相手の”愛”をドリンク化された物を見遣る。
「特に時間制限はないみたいだし、ゆっくり時間を掛ければ飲める量で良かった。フィルくん飲んで何か体調とか異変を感じたら飲むの止めるんだよ」
「お姉ちゃんも無理しないで」
気遣うフィルに風子が頷き、デカンタからコップへミックスオレを注ぐ。コップの底を叩いていたミックスオレが水位を上げるのに合わせ奏でる音が高くなる。体よく注ぎ終わり意を決して飲もうとした瞬間、同じくミックスオレをコップに注ぎ終わったフィルがコップを少しだけ彼女に向け掲げていた。
「乾杯」
「うん、乾杯」
硝子のコップ同士が当たる涼やかな音が風子の心を和らげさせる。
コップの縁に口を寄せ一口飲んだ瞬間、口の中に広がるミックスオレの味が風子の顔を綻ばせた。ちょぴっとだけ舐めた時の比ではない。優しくて幸せな味は幾らでも飲めるものだった。
「ぷはーっ、うんみゃい!」
あれだけ警戒していたのが嘘のように風子はコップに注がれていたミックスオレを飲み干し、とっくに二杯目に突入しているフィルが半分飲み終えたコップをテーブルに置いて今だけ話せる言葉を紡いだ。
「すごくおいしい」
フィルから同意の言葉に風子は何度も頷き、二杯目をこぽりとコップに注いでいればふと思った事を口にする。
「そっか、これは相手への愛をドリンク化したもの。──優しくて幸せな味。たくさん飲めちゃうのも分かる気がする」
慈しみに満ちた眼差しをまだまだ飲めるミックスオレに満たされたデカンタに向けていた風子がくすり笑い、澄み切ったフィルの目はその姿を逸らさず真っすぐ見つめていた。
「私とフィルくんの愛、同じお揃いだね」
大切にコップを両手で包み愛嬌のある目を眩しいものを見るように細め柔和な笑みを浮かべる風子の姿に古代遺物の体になったフィルの胸がトクンと鳴った。
前のループの記憶がフィルの頭の中で上映会をし始めた。
組織に属している期間が長い者ならば、フィルの体が古代遺物である事、その古代遺物の力を使用して組織内を浮遊移動する事は周知の事実だった。
ニコラボからの定期メンテナンス帰り。宇宙空間での無重力状態よろしくフィルは指を銜え自室に戻るまでの道を浮遊移動していた。何の変哲もない何の変わり映えの無い普段のルーティン。それが少しだけいつもと違った。
「あわわっ!? フィルくん大丈夫!?」
組織に加入してまだ日が浅い風子は浮遊移動しているフィルの姿を見るなり、とても慌てた様子で不運発動しないよう注意しつつ彼の手を引き小さな体を抱き寄せたのだった。
最小限の力で流れていた動きが無くなりフィルの体は風子の腕の中で止まる。心配しきりな風子の顔がホッとしたものに変わっていく光景を無垢すぎる新緑色の瞳が仰ぎ見る。
「どっかふよふよ流れていきそうだったから」
微笑む風子だったが、フィルからのリアクションが何もなく「あれ?」と俄かに焦り出した時、一緒に隣を歩いていたアンディからの助け舟が来た。
「そいつ、それで移動してたんじゃないのか」
アンディの言葉にフィルが無言で頷き、その様子を見た風子は眉尻を下げた。
「そっか私の早とちりだったんだ。ごめんねフィルくん」
大丈夫だよとの意味合いを込めてフィルが首を横に振えば、風子に伝わってくれたのかまた微笑んだ。
そして、風子は彼の体を下ろそうとした瞬間、何となく感じた気配に微笑みを深くして小さな体を抱き抱え直した。
「早とちりしちゃったお詫び?じゃないけど送るよ」
「おい、風子」
「いいじゃん。とくに急いでるわけじゃないし」
屈託のない風子の笑顔につられ呆れ気味だったアンディの顔が柔らかくなったのを見た彼女はそのまま自身の腕に抱いているフィルにも同じ笑顔を向ける。
「ね?」
年相応の少女らしい花が咲くような風子の顔が澄み切ったフィルの新緑色の瞳に映り込み、彼は口に銜えていた指を知らず離した。
「どっちに行く感じだった?」
風子の問いにフィルは少しばかり上半身を捻って自室がある方向を指差せば、とても楽し気に「行こっか」と風子が歩きだし、その彼女のやや後方をアンディがついて歩き出した。
浮遊移動ではない誰かに抱えられての移動でしか味わえない揺れに不安定感はない。だが、フィルの手は風子の肩に添えられ、じっと彼女の顔を見続ければ今この状態でも楽しいようで笑みを零し、風子の肩越しに後ろを歩くアンディをフィルが見ればこちらも今の状況を楽しんでいるのかニカっと笑いかけた。
「じゃあねフィルくん」
自室前まで送ってもらったフィルはバイバイと手を振る風子と、軽く手を上げるアンディに向かって手を振り返した。何度も何度も振り返り手を振るう風子の姿が見えなくなるまでフィルは手を振り続け、二人の姿が見えなくなり指をまた口に銜えたのだった。
ここで前ループの記憶が終わり現ループの記憶が引き続き上映会が続く。
似ているようで似ていない。されど、前ループより遥かに悲嘆の色が薄い現ループの組織内は常に賑やかで笑いに満ちていた。
このループでも古代遺物の体となり定期メンテナンスを受けた帰り道。指を銜える事が無くなったフィルが浮遊移動していれば、前ループと同じように風子と鉢合わせた。以前と違う事は風子はフィルの移動方法に驚かず、それどころか同じ目線の高さでふよふよ浮いている彼に向かって柔和な笑みを浮かべている。
「メンテナンス帰り?」
風子の問いにフィルが頷く。
すると、前のループの記憶を彼女も思い出したのか遠くを見るような視線で見遣ったあと「懐かしいな」と小さく呟いた。彼女の意識は隣にいない誰かに向けられており、そんな何処か物悲し気な眼差しを見詰める若草色の澄み切った瞳は波打つことはなかった。
だが、代わりにフィルは風子の手を取り自身の体を抱き抱えるよう誘導させた。
ある意味、素知らぬ顔して風子に抱き抱えられる状況を作り出したフィルに風子の目が数回瞬き、更にはフィルが自室の方向を指差した時点で思わず風子は笑うのを堪えきれず控えめに噴き出した。
「行こっか」
前と同じようにフィルを抱え歩く風子の足取りは楽し気で軽やかで。
ただ前と違うのはフィルの手は風子の両肩を掴んでいるだけではなく、その頭と体を完全に彼女に預けていた。近かった距離が更に近くなり、瞬きする睫毛の揺れや話し掛けてくれる唇の動き、ずっと微笑みかけてくれている風子の姿を特等席からフィルは見続けた。
「もうすぐ着くね」
その言葉に何故かフィルは風子の肩を掴んでいた力がやにわ強くなる。
そして、それは自室前に着き降ろしてもらう時に一段と増した。一向に降りようとしないフィルに風子は兎角迷惑がるでもなく、≪不運≫が発動しないよう細心の注意を払い彼をぎゅっと抱き締め背中を優しくトントンと撫でた。
そろり掴んでいた力を弱めたフィルは少しだけ風子の肩口に顔を埋めてから自ら降りた。
「じゃあね」
バイバイ。手を振るう風子を見送るフィルは彼女の姿が見えなくなるまで手を振り続け、彼女もまた彼の姿が見えなくなるまで何度も振り返り手を振ったのだった。
前ループ、現ループの記憶を見終わったフィルは両手で持っている飲みかけのミックスオレを飲んだ。
とても柔らかくて優しい美味しい味。甘酸っぱくて風子が言っていた通り幾らでも飲めてしまう。だが、飲めば飲んだ分だけ減ってしまっているデカンタの中身をフィルがふっと見詰めた瞬間──。真向いからとても驚いた声が響いた。
「あれ? 飲んだ分だけ増え……待って!? 私の飲む量増えてない!? デカンタのサイズがマグナムボトルサイズにサイズアップしてる!?!?」
狼狽に狼狽した風子だったが、その後何とか飲み終わりフィルを抱き抱えた状態で部屋から出たのだった。
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