特に興味があるわけではない。単純にこの番組を見ていると週末が来た、そう思えるから流し見している程度にしか過ぎなかった。茶請けに煎餅を齧り、テレビに映る恋愛ドラマを眺めるカミキリの大きな瞳は常に凪いており、お涙頂戴シーンや、捧腹絶倒間違いなしのシーンでも変わる事は無かった。
職場先でよく話題に上がるドラマだったのもあって、共通の話題に丁度いいのとこれを見れば楽しい週末が来たと実感できる、そんな思いで見始めた。
期待の新人と謳われる女優が演じる周囲を巻き込みながらも皆を笑顔にしていく主人公、実力知名度共に高い俳優が演じる主人公に振り回されながらも徐々に主人公の人柄に惚れついには完全に彼女に対して好意を抱くというもの。
テレビから聞こえる音に合わせ煎餅を齧った。ばりぼり、満月からどんどん欠けていく煎餅の香ばしい匂いが部屋に漂う。
醤油味に染まった口の中をすっきりさせてくてお茶を啜った時、カミキリはふと思った。
女優が演じる主人公の性格が何となく東雲に似ている。見た目は似ても似つかない、何なら性格だって彼女と全く同じではない。結局”ぽい”止まり。だが、そう見えてしまったが最後、脳裏にチラつく東雲の影をカミキリは疎むことなく振り払いもしなかった。
そして、次に浮かぶ相手役の俳優は誰だろう。そんな何てことのない考えは無意識に抱いていた想いがひょっこり顔を覗かせ、もうカミキリの視界には東雲と自分の姿になった二人がテレビ画面ですったもんだをする光景に見えてしまっている。
……ドクン
「──?」
何故か心臓の音が高く打ち鳴らされた。疑問を抱き胸に手を当てる。如何して高鳴ったのか理解できない。
ただ、唯一分かるのは第一話からずっと見ていたドラマを今この時からはじめて興味を抱きドラマの内容を理解すべく集中力が増していっていること。テレビから聞こえる演じている女優と俳優の声は最早カミキリの耳には東雲と自分の声にしか聞こえない。
ドラマの中の二人は何やら言い合っているらしく、その場から逃げようとする女優の手を俳優ががっしり掴んでいた。
瞳が潤いを帯び、耳はおろか首元まで真っ赤に染めた女優が半ば叫ぶかたちで思いの丈を口から吐きだした。
『私だって女だ! 女が好きな男から優しくされたり、大事にされたり、や、やきもち妬かれたら嬉しくないわけないだろ! 私はずっと誰かを護る側で、誰かに護られたいなんて思った事なんてなかったのに……あんたに出会ってから変になって──護られたいって思っちまってる自分がいる』
振り解き逃げる気配のない女優の手を離した俳優が俯き顔を合わせようとしない女優に問い掛けた声色は澄み切った湖面の如き静けさだった。
『僕のこと、好きなの……?』
『……だと思う』
あまりにも頼りない女優の言葉に俳優は彼女の手を取り歩き出す。俳優に手を引かれ前のめりに体勢を崩し困惑しながらも女優は相手の手を振り解かないでいた。
『ど、どこ行く気!?』
『僕の家』
振り返らず言う俳優の言葉を聞いた女優が踏ん張って歩くのを止めた。それに漸く俳優が振り返れば、首を横に何回も振るう顔を赤らめたままの女優がおり、俳優は彼女と向かい合った。
『だ、だめ……ッ』
俳優の顔にありありと滲む捕食者染みた色。それでいて、はやく彼女を独り占めにしたいのと同時に彼女の気持ちを蔑ろにしてはならない、ちゃんと聞かなければならないと葛藤している。たっぷり待った女優の言葉に俳優は目を大きく見開いた。
『……この世で一番安心できる人の腕の中で眠ったら朝起きたくても起きれなくなる』
あうあうと本気で恥ずかしがっている女優に俳優は自身の腕の中に彼女を閉じ込める。
付き合いから彼女が素で言っているのは重々分かる。素だからこそ性質が悪い。そう俳優の心の声がテレビから流れた。
『たまの寝坊だっていいと思う』
『絶対寝坊ばっかする……』
『なら毎朝優しく起こしてあげる、だからずっと僕の腕の中で寝て?』
流れるテロップに合わせ俳優の優しい声色と指先が女優の顔を上げさせ、テーマ主題歌と共にどちらともなくキスをするシーンを閉めにドラマは終わった。
いつもであればCM明けの次回予告まで見てからテレビの電源を落とすところをカミキリは無意識に電源を落としていた。
真っ暗なテレビ画面に映る自分の顔つきが余計に混乱を引き起こす。
心臓が早鐘のように打ち続けられている。
耳と顔に熱が籠っているのが触らずとも分かる。
それより、なにより、カミキリは今の今まで何も感じていなかったドラマに対して此処まで意識してしまうのか理解できなかった。
否、違う。
主人公を演じる女優を東雲に、主人公を愛し演じる俳優を自分に置き換えてからおかしくなった。
女優が振舞い俳優に向けられる姿、言う台詞全て東雲の声色に変換されたものが脳内でずっと回り続ける。
見た事ない姿、聞いたことのない言葉、全部が全部見て聞いたように思える。
「僕は大家サんにドラマと同じコト言ってほシい……?」
相変わらず吐き気がしてしまいそうなくらい頭の中がぐるぐる回り続け、鼓動が五月蠅いくらい体中に響き渡っている時、真っ暗なテレビ画面に東雲と自分がキスをしている幻が映し出された。
「僕は大家サんとした、イ……?」
自身の唇を撫ぜる指先は震えど、口から放たれる言葉は揺れていない。
「僕は、大家サんが、スキ……?」
ばらばらだったパズルのピースが綺麗に嵌まるように、ずっと正体が分からなかったものの正体が分かるように、名前の無かった色が名前を持ち存在感を増すように、カミキリが往々にして東雲に対し抱く原因不明な胸の高鳴りが何なのかが明確になっていく。
意識してしまえばあとは残酷なまでに簡単で、更にカミキリを追い詰める。好きの意味合いが産まれてこの方抱いたことのないものであったが為、その解決方法が全く分からない。先程までのドラマを見る前の自分であれば好きならば攫い隠してしまえばいい。そう一蹴するが、どうにも勝手が違い過ぎる。神域に連れて行く際は、相手の事なぞお構いなし。相手が自分を恐れようが嫌おうが関係ない。自分が満足出来ればそれでいい。だが、東雲に対してはその限りではない。寧ろしてはいけないと、根拠も何もないがそう思ってしまっている。
「……寝ヨう」
これ以上考えても仕方ない。もとい体が頭が動きたくないと訴えかけてくる。
カミキリは珍しく飲みかけの湯飲みや食べかけの煎餅をそのままに布団を敷き潜り込んだ。いつ時かの眠れなかった日と違い、夜の手に足首を掴まれ沈んて行く感覚にカミキリは意識を静かに放る。
翌朝の目覚めは最悪だった。体が鉛のように重く、氷水にでも長時間浸したかの如く手足が寒い。思考は泥濘の如くはっきりしない。これまた産まれてこの方味わったことのない感覚に困惑しっぱなしだった。
カミキリが動き辛い体で体を起こそうにも案の定というべきか体がいう事を利かない。微かばかり上げた体が無情にも布団に沈む。見慣れた天井から視線を東雲が住んでいる部屋の方向へ向けた。
「(大家サん……)」
弱々しく放った心の声は誰にも届かず誰にも聞こえない。
力なく再び意識を手放すカミキリの耳には部屋の鍵が開錠される音は届かなかった。
次に目を覚ました時は幾分かマシになっていた。
熱っぽい瞼を開けて意識を外側に向ける。体全体を薄くやわい膜に包まれているようなぼんやりとした感覚。だが、額に乗せられた冷たく湿った心地よい感触にブレていた視線が徐々に定まっていく。
「お? 目、覚ました?」
カミキリの鼓膜を震わす一番聞きたかった声。明るいが彼を案じている声色にカミキリは今自分は夢を見ているのだろうと思わずにはいられない。ぼやけて見ていた天井から声がする方へ視線を投げれば、奇しくも其処に居たのは東雲薫本人だった。
「どう、シテ……?」
言葉足らずなカミキリの問いに東雲は実にあっけらかんと答えた。
「なんつーか虫の知らせってやつ? カーテン閉まってるわ呼び鈴鳴らしても出てこないわ。で、どっかに出かけてるなら、あとで謝ればいっかって大家特権使わせてもらった」
ズボンのポケットからカミキリの部屋の合鍵を取り出し見せてから東雲は再び鍵をポケットに入れた。
「ただのお寝坊さんには見えなかったから勝手に色々しちゃったけど、迷惑だった?」
ふるふる首を横に振うカミキリの額から濡れタオルがずり落ちたついでに東雲は自身の額を触れつつ、カミキリの額に手を乗せ熱の高さを計った。
「私が入ってきた時より熱下がって来たな。どう体起こせそう? 今お昼時だけど食欲ある?」
熱が下がった安堵感から東雲の顔が慈しみの色を纏う寸前、くぅと随分控えめで愛らしい腹の音に目を瞬かせた。
そして、腹の虫を鳴かせた当人は恥ずかしさから掛け布団を目元まで被っている。
「食欲があるってのは良いこった。待ってなツヅミが特製卵粥作ってくれてさ。それ温めてくるから」
馬鹿にするわけではない笑みを浮かべた東雲は、濡れタオルを一度氷水が入った盥に潜らせ絞り、カミキリの額に乗せつつ頭を優しく撫でたのち台所へ向かった。
ぼんやりとした意識の中、カミキリは頭を撫でてくれた東雲の背中を名残惜しく見送り、自分以外の気配がする部屋の雰囲気を感じながら確かに胸の奥から沸き立つ感情に目を眇めた。
東雲に手伝ってもらい体を起こしたカミキリの視界端にお椀に入った粥からのぼり立つ白い湯気がチラつく。
「たくさん作ってくれたから食べられる分だけちょっとずつ食べような」
レンゲとお椀を受け取るべく伸ばしそうなった手を抑えたカミキリは小さな口を東雲に向かって開けた。ただの甘えであり、自分で食べてと言われればそれまで。
だが、東雲はそんなカミキリを見てもきょとんとすることなく、レンゲに粥を掬い息を吹きかけカミキリの口に運んだ。
食べやすい温度にまで冷まされた粥を頬張る。何回か咀嚼し飲み込めば喉元を通り過ぎ胃の底に温かさが広がっていく。
「……優しい味がスル」
「ツヅミが作る料理はどれも優しくて美味いもんな」
まるで自分のように喜ぶ東雲はカミキリが食べ終わったのを見計らい、二口目をレンゲで掬い息を吹きかける。それを何回か繰り返し全部食べ終わったカミキリに買ってきたスポーツ飲料のペットボトルを渡し、東雲は食べ終わった食器を片付けに台所へ向かう。
カミキリがスポーツ飲料を半分近く飲み切った頃、東雲が着替えの甚平とほかほかに温められたバスタオルを持って戻ってきた。
「また勝手にしてごめんな。だけど、汗ぐっしょりのままだと気持ち悪いっしょ」
言われて気付く汗で濡れている体と甚平にカミキリはぼんやりとした頭で頷いた。カミキリから了承を得た東雲は一言ことわってから彼の甚平の紐を解き脱がした。汗で濡れた体を温かいタオルを押し当て拭いていく。
タオルの温かさと汗が拭かれていく気持ち良さは確かにある。だが、カミキリは自分の体を見ても顔色一つ変えない東雲に微かに唇を噛み締めた。カミキリを気遣い想っての行動、純粋なる善意から来る行為に東雲がそのような感情を抱くのは相応しくない。それでもカミキリは自分の裸体を見て意識してくれる東雲の反応を僅かばかり期待していた。
甚平の下を脱ぎ褌一枚となり、太腿の付け根から足先まで丁寧に汗を拭く東雲に揺らぎは一切ない。真新しい甚平に着替えさっぱりするも悶々としているカミキリであったが、東雲はそんな事など知る由もない。
だからか、熱に湯だったカミキリは自分でも普段絶対口にしない事を口走ってしまった。
「大家サんも脱いデ」
全くもって意味が分からない言葉に東雲が眉を顰める。何かの言い間違い又は聞き間違いか。そう東雲がカミキリの言葉を待てば言い間違いでも聞き間違えでもなかったのを思い知らされた。
「僕の裸、見たデショ。だから見セて」
「熱、上がってきたか?」
訝しげに東雲がカミキリの額と自分の額に其々手を置き熱を確かめる。若干、上がっていなくもなくはない。唸り目頭を揉む東雲にカミキリは続ける。
「見せテ」
カミキリ自身この発言で東雲が部屋から出て行ってしまうというのを分かっていた。実際、手で熱を測っていた東雲が腰を上げるのを止められないでいる。大きな後悔の波に飲み込まれ溺れる覚悟をしていたカミキリだったが杞憂に終わった。
東雲が立ち上がり向かった先は玄関ではなく、ベランダ側にある掃き出し窓だった。レールサッシを滑るカーテンが閉まる音に合わせ室内に差し込んでた昼間の日差しが出禁を食らう。
「私の体なんか見ても何もないんだけどなあ」
あ、うん、あー、まいっか。大きな独り言を呟いた東雲はカミキリの横に座りオフショルダーのセーターと一緒にインナーの裾を掴み、万歳をする要領でグッと上に引き上げ脱いだ。下着を一切付けておらずまろび出ている緩やかな稜線が女性の体なのだと如実に語る。
まさか何の躊躇なく上半身を晒すとは思っておらず、カミキリの心拍数が一気に上昇して頭は混乱を極めているが、体は頭の指令など無視して勝手に動き出してしまっていた。
左手をつき身を乗り出して右手を伸ばすカミキリに東雲が彼の手首を掴んだ。
「なにしようとしてんだ」
あからさまに警戒し低くなっている東雲の声色が、カミキリの口から彼自身思ってもいない言葉をぽろぽろ零させる。
「大家サん、僕の体触っタ。だカら、触る」
「触った? あれバスタオル越しじゃ……う~ん。はぁ、いいよ触っても」
諦めたというか呆れたというか。東雲はカミキリの手首を離し後頭部をガシガシ掻いてから両腕を横に伸ばした。まさにどうぞと言わんばかりの体勢にカミキリは更に距離を詰め右手を彼女の臍の上に掌を置いた。ゆっくり肌の感触を確かめつつ、脇腹、やんわり浮き出ているろっ骨の溝を撫でる。心臓が五月蠅いくらい鳴っているのと同じくらい胸の奥に居座る何かが満たされていく感覚に大きな目を細めた。流石に胸を直接触るのは憚れたため、カミキリは想いを舌先に乗せる。
「背中、触りたイ」
見詰めた先にいた東雲の顔は薄暗い中でも見えるほど赤く染まっており、沸き立つ羞恥心から必死に耐えているのが窺えた。
そして、カミキリの要求を聞くなり東雲はカミキリの手を引き抱き締めた。急だが然程強くない衝撃はカミキリと東雲の距離を無くし、ぐんと近くなったことで鼻を擽る東雲の匂い、素肌同士が触れ合い混じる熱にカミキリは目を閉じた。
東雲の背中を下から撫で上げ、最後には絡みついた。肩口に埋もれた頬に触れ伝わる肌の柔らかさと温もりにカミキリはどうしようもなく泣きたくなった。
「大家サん……」
「ん?」
「ありがとう……」
「……ん」
短い返事をした東雲はカミキリの普段より湿り気がある白髪の癖っ毛を撫でた。
それにまたカミキリは東雲が撫でてくれる手つきの優しさとあったかさが気持ち良くて肩口に顔を更に埋め抱き締める力を強めた。
暫く抱き合い頃合いを見計らっていた東雲がカミキリを布団に寝かせ、いそいそ脱いでいた上着を着直す光景を見てカミキリはいよいよ東雲が此処から出て行ってしまうのを覚悟する。
本当はまだいて欲しい。傍にずっといて欲しい。でも、先の事を思う度、これ以上わがままを言えないでいる。
「(──帰っちゃウ)」
現にカミキリは着替え終わり腰を上げ玄関先へ向かう東雲の背中を恨めしく見続けるしか出来ない。
だが、致し方ないことだとカミキリは自分に言い聞かせ目を閉じた。見舞いだけじゃなく看病、更には無理な要求をのんでくれただけで破格の対応以外の何ものでもない。体調を崩したから甘え倒していい、そんな免罪符はとっくに無くなっている。
鼻の奥がツンとなるのを誤魔化したくてカミキリは掛布団を頭まで被り、小さな小さな心の声を吐き出した。
「大家サん、行かなイで」
布団越しに籠った声はカミキリしかいない部屋に静かに溶け消え入る筈だった。
「いるぜ? ここに」
返って来ないと思っていた言葉が返ってきたことにカミキリは掛布団から顔を勢いよく出した。
「如何して? 帰ったんジャないノ?」
「? トイレ借りて戻ってきただけなんだけど」
思えば遠くから水が流れ終わる音が薄っすら聞こえた。嬉しさと困惑からカミキリが何も言わずにいれば、温くなった濡れタオルを氷水に浸し絞ったものをカミキリの額に乗せなおしながら殊更優しい声色で言葉を紡ぐ。
「カミキリさんだって同じことしてたでしょ。だから同じことをするってわけじゃなくて、私がしたいからってだけなんだけどさ」
その言葉にあれだけ泣き叫びそうになっていた心が一瞬で穏やかになっていき、また甘えたな気持ちがカミキリの手を動かした。
「手、握ってテほシい」
「いいよ」
掛布団の上に出されていたカミキリの腕を中に戻し、掛布団の端から東雲が手を中に差し込みカミキリの手を握った。
傍にいてくれる、手を握っていてくれる。大きな安心感はカミキリに心地よい睡魔を連れてきて、やおら微睡みの世界へと誘って行った。
どのくらい寝ていただろうか。締め切ったカーテン下の隙間から漏れる日の光は橙色に染まり、夕暮れ時なのだと教えてくれる。
握った手を離さず、握ってくれている東雲を見れば片膝を立てその上に腕と顔を乗せた状態で寝入っていた。
カミキリは彼女を起こさぬよう体を起こし、彼女の傍に近寄って改めて寝ているのを確認した。
「僕は大家サんがスキ」
顰められど、確たる意思が籠った言葉が静かな部屋に染み渡っていく。
「大家サんは僕がスキ?」
問われた言葉は誰も返さず消え溶け握った手の力を強めた。
「僕は大家サんがスキ、大スキ。大家サんも僕と同じくらい僕ヲ好きになっテ」
希う言葉は儚さを纏い、甘い香りを漂わせる。
「──本当は唇にしたかったケド、まだダメだと思うカラ」
東雲の前髪に隠れていた額に薄い唇を軽く押し付けたカミキリの耳は赤く染まり、彼女に背を向ける形で布団に身を横たえさせた。ただ繋いだ手を離さず握り続けた。
程なくして聞こえ始めた安らかな寝息に東雲は閉じていた瞼を開けた。
カミキリが身動ぎ体を起こした時点で東雲は目を覚ましていた。だが、寝たふりを続けてしまっていた。
「(………)」
東雲はカミキリの想いに対しての返事を持ち合わせていないでいる。これほどまでに難しい状況に陥ったのは彼女にとってはじめてだった。恋しさ愛おしさという綺麗であたたかな気持ちは昔に置いてきてしまった。
だったら、今尚掴んでいる手を離さないのは何故だ。カミキリとの約束からか、それとも──。
「(……わっかんねえな)」
同情とも違う何かが小さな灯火になって心に灯りつつあるのを東雲はまだ知らない。
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