残り僅かな調味料を買いに行こうと外に出た。管理人室にいる管理人さんに声を掛けエントランスを抜ける。少ない階段をおり終えたとき、マンション前の敷地から誰かの喋り声が聞こえた。ふと気になって其方に回り込んだ。
マンションの影から見える見慣れた姿に近付く足取りが軽快になる。特にこれといった用事は無い。でも、大家さんの姿を見た途端、声を掛けたくなる気持ちが浮かんでしまう。
「(誰かト話してル?)」
徐々に近付くにつれ、大家さんの向かい側に他の人の姿が見える。マンションの影からはっきり見えるその姿に見覚えは無い。だけど、身振り手振りを交え楽しそうに喋る大家さんを見るに彼女と親しい人物なんだと分かる。
大家さんより背の高い人間の男性。その者が大家さんを見詰める瞳の色に胸の奥から何かドロリとしたものが湧き上がり、それが何なのかと疑問を浮かべる前に大家さんがその者に向ける顔を見て一気に溢れ返った。
底なし沼の如くドロドロとした感情が胸の中を埋め尽くす。そうなってしまった原因は此方に気付く事無くその者に向けられ続けている。
「(知らナい知ラない、大家さンのそんな顔見た事ナイ)」
見た事のない表情で喋っている大家さん。溢れ続ける感情に突き動かされ小走りで駆け寄り、僕は大家さんの腕に抱き着きその者の視界から消えるところまで引っ張った。引っ張っている間、大家さんが少しばかり戸惑っているけど気にする余裕なんかない。マンションの影になるところまで引っ張り、あの目から大家さんが隠れたのを確認して僕は真正面から大家さんに抱き着いた。うまく説明できない感情が胸の中に渦巻いてどうしようもない。でも、こうしたら大家さんに抱き着いたらほんの少しばかり軽くなった気がした。大家さんの背中に回した手が彼女の上着をぎゅっと掴んで離れない離したくない。
「どうしたー?」
自分でも分かる。いつもと違う雰囲気に大家さんが察して、あえて普段通りに声を掛けてくれる。
顔を大家さんの胸に埋め上げず、僕は心の中から込み上がる澱を掬い上げ言葉に綴る。
「あの人帰ってもらッテ」
間近から伝わる大家さん鳩が豆鉄砲を食ったように目をぱちくりする気配に僕はまた澱を掬い上げる。
「オネガイ」
随分力なく消え入りそうな声だと我ながら思う。
あまり聞かない声色だったからか、大家さんは特に理由らしい理由を聞かないで。
「分かった、あの人には帰ってもらうから」
と言ってくれた。
僕の頭をひと撫でして、人間の男性のもとへ戻っていく大家さんの背中を見送った。
確かに懐かしさもあった。だけど、突き詰めればそれだけであり昔話に浸り懐かしむ気持ちを手放すなんてどうという事は無かった。
詳しい説明なんて必要ない。そもそも、私は復縁する気も無ければ、再会する気なんて更々なかったのだから。
それを伝えれば元彼が驚いたと云わんばかりに目を瞠り、次に縋るような顔つきになった。隠す気もない復縁できればという空気。だけど、此方がその気が無いというのを察するや否や残念がるものの、特に何かしらの捨て台詞を捨てることなく去って行った。
塀に隠れ見えなくなっていく元彼の背中を目で追っていれば、今度は自分の背中に軽い衝撃が走る。首だけ振り返り見下ろす。カミキリさんが私の背中に抱き着いていた。
「帰ってもらッタ?」
僅かばかり不安が入り混じる声色。その問いかけに対して肯定すれば、前に回されているカミキリさんの腕がぎゅっと抱き締める力が強くなり、背中に顔をすり寄せているであろう感覚に目を伏せた。
「あいつはもう来ないよ」
私が静かに語り掛ければ後方から小さく「ヨカッタ」と、カミキリさんの声が聞こえた。
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